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第四十話 影の声(2)
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目が覚めると、そこはまだ公園内で、ランプポストの下に横たわっていた。体中砂だらけで、髪の毛をわしゃわしゃすると、葉っぱや木の枝、それに大きな鱗がいくつかこぼれ落ちた。
「あいててて」
まだ生きているのが不思議な気がした。半袖半ズボンから覗く手足に擦り傷だらけだけど、大きなけがはしていない。
「やっと目が覚めた? さて、続きをしようよ。ぼくは、だ~れだ」
あの声だった。ソータは思わず首をすくめた。
「無理だよ。もっとヒントをくれなきゃ。お願いだから姿を見せてよ。そしたら、きっと思い出すから」
「残念だけど、それは無理。君が思い出さないから、ぼくには実態がないんだ。ぼくは、ずっと君の目の前にいるんだよ」
そう言われて、ソータは目を凝らして何もない空間を凝視してみた。そして蛍光灯に照らされた地面に、ぼんやりとした影があることに気が付いた。
「これは、君かい? 君、影なの?」
「今のところはね」
その影は、丸い形をしていたが、ソータが見つめていると、もやもやと動き出した。
「あ、なんか、形が変わって来たな。これは、ええーと、なんだか、いもむしみたいだなあ。でもこの公園でいもむしなんて見た覚えは」
そこでソータははたと気づいた。名城公園は、桜の名所でもある。公園内の木の多くは桜だ。今は葉っぱになってしまっているが、春にはずらりと咲き誇る桜が圧巻だ。そして桜といえば――
「毛虫だ! そうか、毛虫だね、君は。あっ」
桜の木があれば、当然そこには大量の毛虫が発生する。ソータと友人たちは、嫌がる女子の背中に毛虫を入れて先生からこっぴどく叱られたり(実行犯は山田君だったが)、大量に集めて、上から石を――
「ぶっぶー。ハズレです。とはいえ、オビカレハの幼虫に毒がないのをいいことに、君たちはずいぶんひどいことをしたよね」
「ごめん、悪かった。もう二度としないよ」と謝りながら、ソータは心の中で、今はもう毛虫の季節ではなくてよかった、と胸を撫で下ろしていた。
「甘いよ、君」と声、いや、影は言う。「飛ばない魚が飛ぶのなら、季節外れの毛虫の大発生だってあるかもよ?」
「うそだ……やめて、お願い」
「毛虫も心の中ではそう思ってたかもね」
ぱたぱたと葉を叩く音がした。雨かと空を見上げたソータは、青ざめた。毛虫だった。花びらが散った後の木の幹にうじゃうじゃいるあれが、空から降って来ていた。
たちまち、土砂降りになった。
頭を抱えて、その場にうずくまった。地面はあっというまに降り積もった毛虫に覆われ、踏みつぶさないことには逃げられない。
こんな状況で、一体どこに逃げろというのか。
口の中に毛虫が侵入するのが恐ろしくて、ソータは口をぎゅっと閉じて、両手で顔を覆った。心の中で、ごめんなさい、ごめんなさいと唱えながら……
首筋から侵入した毛虫が、シャツやズボン、靴の中にまで入り込んでいるのが感じられたが、成す術がない。
* * *
「さて、二回不正解だったから、これが最後のチャンスだよ。ぼくは、だ~れだ」
ソータが目を開けると、そこは相変わらず夜の公園で、ランプポストの下に彼は立っていた。彼のすぐ前には、誰もいないが、声を発する影の姿がある。それは先刻よりすこし濃くなったような気がするものの、あいかわらず実態がなんなのかはわからない、ぼやっとした黒い染みだ。
「今度間違えたら、どうなる?」恐る恐る尋ねるソータに影は
「うーん、初めから負ける気まんまんっていうのはどうだろう。でもまあ最後だから、ヒントをあげるワン」
「えっ?」
「ワンワンワン」
実態のない影は、地面をピョンピョン飛び跳ねているように見えた。
「キャンキャンキャン」
「あ……」
ソータの目が大きく見開かれた。その瞳は、目の前に広がる夜のわびしい公園ではなく、真昼のにぎやかな公園を見ていた。
「あれっ、こんなところに子犬がいるよ」
茂みに転がっていったボールを探していたソータは、小さくもこもこしたものが、じっとこちらを見ていることに気付いて、声を上げた。
小さいながらいっちょまえに唸り声を上げ始めた子犬に、ソータは足を止めた。
きっとお腹が空いているんだ。
この頃のソータを悩ませることといえば、お腹がすいた、それぐらいだった。
「ちょっと、待ってて。お母さんがお弁当を作ってくれたんだ」
この日は、父の車で家族四人でピクニックに来ていた。
大急ぎで、野球のグラブをはめたまま手持無沙汰にしている父を置いて、妹とともにピクニックシートを広げ、お弁当の準備をしている母の元に走ると、おにぎりを一つ掴んで、「これっ」と叱られるのも無視して、先ほどの茂みに急いだ。
「ぼく、あの子犬に、家に連れて帰るって約束したんだった。でも、お父さんとお母さんに反対されて、妹といっしょに、頑張ったけど……」
「君は、『絶対に戻ってくる』って言ったね。家に帰って、お父さんたちを説得して迎えに来るって」
だけど、説得は失敗した。ソータの家はマンションで、ペットは禁止だった。
「クラスの皆に、犬を飼わないかって聞いてみたけど……」
それも徒労に終わった。引き取り手は見つからなかった。
「君は、一回だけ戻ってきた」
泣きながら、家から持ってきた食料を、茂みに置いて、走って追いかけてくる子犬を振り切って、一目散に自転車をこいで家に帰った。
「君は、君はペロなの?」
虚ろだったソータの瞳の焦点が戻り、影を見据えた。それはもはやただの影ではなく、汚れた子犬の姿になっていた。
「やっと、思い出してくれたね」
「どうして、子犬のままの姿をしているの。あれから――ずいぶん経ったのに」
「カラスや、猫、野生化したフェレットまでいて、子犬が生きていくには、なかなか厳しい世界だったのさ、公園ていうのは」と子犬は首を振った。
「ごめん」ソータはしゃがみこんで、うなだれた。ぽたぽたと、涙が滴り落ちた。
子犬はソータのところまでよちよち歩いてくると、彼の頬をぺろりと舐めた。
「しょっぱいね」
「ぼくを、食べるんだろ?」
「なんで?」
「だって、ぼく、君にひどいことをした。それも、ずっと、ずうっと、忘れていた」
「仕方ないよ、君は、大人になったんだし」
「ええっ」
「久しぶりに会えて、嬉しかったんだ。ぼくだって、最初は君が誰だか気付かなかった。だけど、君の子は、君にそっくりだからさ」
子犬は、笑った、ように見えた。
ソータは立ち上がった。チノパンツから覗くサンダル履きの足はごつごつした大人のものだ。
あたりを見回すと、夏の夜を彩る屋台が、公園内に所狭しと並んで賑わっていた。夏祭りなのだ。
「パパ、どうしたの?」
ぱたぱたと軽やかな足音を立てて駆け寄ってきたのは、息子のユータだ。父親によく似た、元気な子だ。
「うん、今ね、パパ、ペロに会ったんだ」
「ペロに? 何言ってるの、ペロはおうちで、お婆ちゃんとお留守番じゃない」
「ああ、そうだっけ。そうだったな」
ソータは束の間、少年みたいな笑顔になった。
「あいててて」
まだ生きているのが不思議な気がした。半袖半ズボンから覗く手足に擦り傷だらけだけど、大きなけがはしていない。
「やっと目が覚めた? さて、続きをしようよ。ぼくは、だ~れだ」
あの声だった。ソータは思わず首をすくめた。
「無理だよ。もっとヒントをくれなきゃ。お願いだから姿を見せてよ。そしたら、きっと思い出すから」
「残念だけど、それは無理。君が思い出さないから、ぼくには実態がないんだ。ぼくは、ずっと君の目の前にいるんだよ」
そう言われて、ソータは目を凝らして何もない空間を凝視してみた。そして蛍光灯に照らされた地面に、ぼんやりとした影があることに気が付いた。
「これは、君かい? 君、影なの?」
「今のところはね」
その影は、丸い形をしていたが、ソータが見つめていると、もやもやと動き出した。
「あ、なんか、形が変わって来たな。これは、ええーと、なんだか、いもむしみたいだなあ。でもこの公園でいもむしなんて見た覚えは」
そこでソータははたと気づいた。名城公園は、桜の名所でもある。公園内の木の多くは桜だ。今は葉っぱになってしまっているが、春にはずらりと咲き誇る桜が圧巻だ。そして桜といえば――
「毛虫だ! そうか、毛虫だね、君は。あっ」
桜の木があれば、当然そこには大量の毛虫が発生する。ソータと友人たちは、嫌がる女子の背中に毛虫を入れて先生からこっぴどく叱られたり(実行犯は山田君だったが)、大量に集めて、上から石を――
「ぶっぶー。ハズレです。とはいえ、オビカレハの幼虫に毒がないのをいいことに、君たちはずいぶんひどいことをしたよね」
「ごめん、悪かった。もう二度としないよ」と謝りながら、ソータは心の中で、今はもう毛虫の季節ではなくてよかった、と胸を撫で下ろしていた。
「甘いよ、君」と声、いや、影は言う。「飛ばない魚が飛ぶのなら、季節外れの毛虫の大発生だってあるかもよ?」
「うそだ……やめて、お願い」
「毛虫も心の中ではそう思ってたかもね」
ぱたぱたと葉を叩く音がした。雨かと空を見上げたソータは、青ざめた。毛虫だった。花びらが散った後の木の幹にうじゃうじゃいるあれが、空から降って来ていた。
たちまち、土砂降りになった。
頭を抱えて、その場にうずくまった。地面はあっというまに降り積もった毛虫に覆われ、踏みつぶさないことには逃げられない。
こんな状況で、一体どこに逃げろというのか。
口の中に毛虫が侵入するのが恐ろしくて、ソータは口をぎゅっと閉じて、両手で顔を覆った。心の中で、ごめんなさい、ごめんなさいと唱えながら……
首筋から侵入した毛虫が、シャツやズボン、靴の中にまで入り込んでいるのが感じられたが、成す術がない。
* * *
「さて、二回不正解だったから、これが最後のチャンスだよ。ぼくは、だ~れだ」
ソータが目を開けると、そこは相変わらず夜の公園で、ランプポストの下に彼は立っていた。彼のすぐ前には、誰もいないが、声を発する影の姿がある。それは先刻よりすこし濃くなったような気がするものの、あいかわらず実態がなんなのかはわからない、ぼやっとした黒い染みだ。
「今度間違えたら、どうなる?」恐る恐る尋ねるソータに影は
「うーん、初めから負ける気まんまんっていうのはどうだろう。でもまあ最後だから、ヒントをあげるワン」
「えっ?」
「ワンワンワン」
実態のない影は、地面をピョンピョン飛び跳ねているように見えた。
「キャンキャンキャン」
「あ……」
ソータの目が大きく見開かれた。その瞳は、目の前に広がる夜のわびしい公園ではなく、真昼のにぎやかな公園を見ていた。
「あれっ、こんなところに子犬がいるよ」
茂みに転がっていったボールを探していたソータは、小さくもこもこしたものが、じっとこちらを見ていることに気付いて、声を上げた。
小さいながらいっちょまえに唸り声を上げ始めた子犬に、ソータは足を止めた。
きっとお腹が空いているんだ。
この頃のソータを悩ませることといえば、お腹がすいた、それぐらいだった。
「ちょっと、待ってて。お母さんがお弁当を作ってくれたんだ」
この日は、父の車で家族四人でピクニックに来ていた。
大急ぎで、野球のグラブをはめたまま手持無沙汰にしている父を置いて、妹とともにピクニックシートを広げ、お弁当の準備をしている母の元に走ると、おにぎりを一つ掴んで、「これっ」と叱られるのも無視して、先ほどの茂みに急いだ。
「ぼく、あの子犬に、家に連れて帰るって約束したんだった。でも、お父さんとお母さんに反対されて、妹といっしょに、頑張ったけど……」
「君は、『絶対に戻ってくる』って言ったね。家に帰って、お父さんたちを説得して迎えに来るって」
だけど、説得は失敗した。ソータの家はマンションで、ペットは禁止だった。
「クラスの皆に、犬を飼わないかって聞いてみたけど……」
それも徒労に終わった。引き取り手は見つからなかった。
「君は、一回だけ戻ってきた」
泣きながら、家から持ってきた食料を、茂みに置いて、走って追いかけてくる子犬を振り切って、一目散に自転車をこいで家に帰った。
「君は、君はペロなの?」
虚ろだったソータの瞳の焦点が戻り、影を見据えた。それはもはやただの影ではなく、汚れた子犬の姿になっていた。
「やっと、思い出してくれたね」
「どうして、子犬のままの姿をしているの。あれから――ずいぶん経ったのに」
「カラスや、猫、野生化したフェレットまでいて、子犬が生きていくには、なかなか厳しい世界だったのさ、公園ていうのは」と子犬は首を振った。
「ごめん」ソータはしゃがみこんで、うなだれた。ぽたぽたと、涙が滴り落ちた。
子犬はソータのところまでよちよち歩いてくると、彼の頬をぺろりと舐めた。
「しょっぱいね」
「ぼくを、食べるんだろ?」
「なんで?」
「だって、ぼく、君にひどいことをした。それも、ずっと、ずうっと、忘れていた」
「仕方ないよ、君は、大人になったんだし」
「ええっ」
「久しぶりに会えて、嬉しかったんだ。ぼくだって、最初は君が誰だか気付かなかった。だけど、君の子は、君にそっくりだからさ」
子犬は、笑った、ように見えた。
ソータは立ち上がった。チノパンツから覗くサンダル履きの足はごつごつした大人のものだ。
あたりを見回すと、夏の夜を彩る屋台が、公園内に所狭しと並んで賑わっていた。夏祭りなのだ。
「パパ、どうしたの?」
ぱたぱたと軽やかな足音を立てて駆け寄ってきたのは、息子のユータだ。父親によく似た、元気な子だ。
「うん、今ね、パパ、ペロに会ったんだ」
「ペロに? 何言ってるの、ペロはおうちで、お婆ちゃんとお留守番じゃない」
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