なぜだかそこに猫がいた:短編集

春泥

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第三十六話 ラヴクラフト・カントリー

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 カーナビによれば、出発地点(自宅)から約620㎞、高速をフル活用して約10時間だという。本州の北の端まで走った時は900㎞を超えていたはずで、それに比べれば大したことではないと自分に言い聞かせる。
 不安だった。

 N県の海岸沿いを走っている。
 前日の晩に自宅を出発してから途中仮眠を取り走り続けている。目的地のY県文化ホールまで約620㎞の往路、まだ残り140㎞ある時点で、ナビは高速をおりよと指示してきた。

 え、マジ? 別の高速に乗り換えるの? まさかこのまま下道で残り100キロ以上を走らせるとかないよね?

 そのまさかであることは、残りの道程のほとんどを消化してみて、わかる。
 11月の快晴の日本海を左に、対面通行の狭い道路をひた走る。小山程もある岩、そのごつごつした中腹にぽつねんと建つ朱が鮮やかな鳥居。平日だからか、その「バエる」風景を写真に収めようとする人々の姿はなく、潮が引いた海岸で、釣竿を操る人がぽつりぽつりと見えるだけ。右手側に立ち並ぶ民家に交じって「長期滞在歓迎」の看板を掲げる民宿がある。

 どこまで車を走らせても村人の姿はない。

 昼時だから、皆自宅で昼食をとっているのか。埠頭に停泊する小型漁船も無人。

「ゼッケイかな、ゼッケイかな」いつかの旅行で、見晴らしのいいサービスエリアで小さな男の子が何度も繰り返していた。

 こんな絶景を(ほぼ)独り占めできるなら悪くない。だが、夜間に通ることは避けたい。最近観た『ダゴン』という映画が頭をよぎる。閑散とした漁村、悪い予感しかしないだろう。

 三十分前から腹が減っているが、ようやく現れた海鮮ののぼりを揚げたお食事処の前を通過してしまう。対面道路は狭いが、車の往来は少ない。適当に停車して方向転換して引き返せばよい。このような田舎では、次の休憩場所が何十キロ先かわからないのだから。
 だが、停まらない。停まれないのだ。私は今ドライバーズハイの状態にある。一人で長距離運転は辛い。夜中に高速道路を走っている時、まだ400㎞以上残っている、なぜこんな辛い旅に出たのか、いっそ引き返そうかと何度も思ったものだ。
 しかし今、走行距離500㎞を超え、絶好調だ。身体は疲労しているだろうから制限速度を守りゆっくり走っているが、気分は高揚している。この先何百キロでも運転できそうだ。この気分を味わうために軽自動車で長距離ドライブをするのだ。
 しばらくみちなりですと言ったきりナビも沈黙している。11月とは思えない暖かな日射し。車を停めて海岸に下りていけるスポットもあるが、通過。道の駅も、通過。結局そのままY県まで走り続けてしまう。

 何十年も昔に熱狂していたバンドの再結成ライブは最高だった。

 帰路は夜、タールに塗りこめられた海沿いをひたすら走る。ナビの右側半分は海ということになっているのだが、車の走行音で波の音は聞こえず(高級車と違ってやかましいのだ軽自動車は)、不安になって窓を少し開けてみるが、潮の香りすら微塵も感じ取れない。
 夜だから村落の人の姿が見えないのは当然として、家々の窓がどれも暗いのは腑に落ちない。昼間に危惧した通り、廃墟なのかもしれなかった。
 いや、廃墟ならばまだいい。甦るラヴクラフト(なぜあんな映画を観てしまったのか)。半分魚と化したおぞましい成れの果てが暗闇からこちらの様子を窺っているのかもしれない。
 こんなところでガス欠にはなりたくないと昼間に思い、早めに給油を済ませておいたのでガソリンはほぼ満タンであることが心強い。

 窓を閉め、CDの音量をめいっぱいあげた。
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