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第三十四話 ハインリヒの行方
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その大きなお屋敷には、偏屈な老人がたった一人で住んでいるという噂だった。戦争で一人息子を亡くしてから、老人は村人との付き合いをやめ、屋敷に閉じこもるようになった。戦前から彼に仕えていた執事が亡くなってからは、召使いとシェフが一日おきに通ってくるのだという。
まだ十にもなっていなさそうな小さい女の子は、泣きそうな顔でお屋敷のドアを叩いた。長い間待ってようやくドアが開くと、背の高い痩せた老人が彼女を見下ろしていた。
「村の子供が、何の用かね」
老人の声はよそよそしく冷ややかだったが、村で噂されているように「子供を見るや頭からバリバリと食ってしまう」ようには見えなかった。
「旦那様、お願いです」と女の子は震えながら切り出した。
「あたし、弟のハインリヒの後を追いかけてここまで来ました。あの子、小さいのに、とてもすばしこくて、この近くで見失ってしまいました。お屋敷の周りを探していたら、窓が少し開いている部屋がありました。あたし、その窓の隙間にハインリヒの白い靴が吸い込まれるのを、確かに見たんです」
「では、お前の弟がこの屋敷に勝手に入り込んだというのかね」
老人の声は苛立っていた。女の子は泣き出した。
「ごめんなさい、旦那様。あの子を見つけたら、二度とこんなことはしないようにきつく言い聞かせます。あたしが代わりにぶたれても構いません。お願いです、ハインリヒを捜させてください」
「泣くんじゃない。わしは子供の泣き声が大嫌いなんだ」
老人はぴしゃりと言い放った。
「二度と泣かないと約束するのなら、家の中を一緒に探してやろう。生憎今日は召使いが来ない日でね。わし以外誰もおらんのだ」
女の子は涙を拭いて、頷いた。
昼間だというのに、屋敷の中は薄暗く、ひんやりとしていた。玄関ホールだけで彼女の住む平屋建ての藁ぶき小屋より広いぐらいで、大きな柱時計や、剥製の鹿の頭が彼女を冷ややかに見下ろしていた。
窓が開いていたのはどこの部屋かと訊かれ、本が沢山ある部屋だと彼女が答えたので、老人はまず書斎へと向かった。天井まで届く高い本棚に囲まれた部屋の窓の一つが、確かに十センチほど開いていた。
「お前の弟は随分痩せているんだな」
と窓を閉めながら老人は言った。女の子は
「ええ。だからどこにでも入り込んでしまうの」
と下を向いた。彼女自身、明らかに栄養不足で、ガリガリに痩せ細っていた。
老人は、自身の息子が幼かった頃を思い出した。彼の息子も、ハインリヒという名前だったが、少年の頃は、ふっくらとした頬をして、健康的にまるまると太っていた。この貧しい少女の弟とは、似ても似つかないだろう。
書斎のデスクの下や書棚の陰など、女の子は熱心に探し回り弟の名を呼んだが、見つからなかった。
屋敷内の部屋のドアは殆ど施錠されており幼い男の子が迷い込んだとは思えなかったが、何しろ広大だった。老人は女の子が屋敷の二階三階も含め、隅々まで探し回るのについて歩くだけでくたびれてしまった。
「どこかの隙間から抜け出して、先に家に帰ったのではないかな」
老人は提案し、女の子も半べそをかきながら渋々その可能性を認めた。
「もしも家に戻っていなければ、また明日おいで。明日になれば、通いの召使い達が来る。今夜は、小さな男の子がどこかに隠れていないか気を付けていることにしよう」
使用人用の裏口から外に送り出された女の子は、暮れかかった薄闇の中におかしなものを見つけて「あらっ」と声をあげた。
「旦那様、あれは何でしょうか」
少女の指さす先には、古い井戸があった。丸く煉瓦で囲われた上は板で塞がれていたが、経年変化でところどころ朽ちていた。駆け寄る女の子に老人は「危ない」と叫んでその腕を掴み、乱暴に引っ張った。
女の子は恐怖と苦痛の混じった顔で老人を見つめた。老人は表情を和らげると、井戸の手前まで行き、女の子の体を抱き上げた。
「いいかい、絶対に近くに寄っては駄目だ。これは、今は使っていない古い井戸だが、埋め立ててはいないから底に水が残っているはずだ。この通り板で塞いであるが、ご覧、ところどころ腐って、隙間もできている。お前のような小さい子でも上に乗ったら板が割れて落っこちてしまうかもしれん。わしのような老人一人では、とても助けてやれないからな」
女の子は恐怖に顔を引きつらせて、叫んだ。
「では、もしや、ハインリヒは」
老人は溜息をついて
「馬鹿だなあ、お前は。よく見てごらん。板が腐って隙間ができているとはいえ、あんな細い隙間をすり抜けられる人間はいないよ。いくらお前の弟が小さくて痩せっぽちだとしてもな」
「でも、ハインリヒは、子猫なんです!」
女の子はそう言って、わっと泣き出した。
老人はくたびれ果てていたので、下におろした女の子の腕を掴むと、井戸からかなり離れたところまで引きずっていってからようやく解放した。女の子はしくしくと泣き続けたが、老人は振り返りもしないで屋敷に戻り、扉は重々しい音を立て閉ざされた。
まだ十にもなっていなさそうな小さい女の子は、泣きそうな顔でお屋敷のドアを叩いた。長い間待ってようやくドアが開くと、背の高い痩せた老人が彼女を見下ろしていた。
「村の子供が、何の用かね」
老人の声はよそよそしく冷ややかだったが、村で噂されているように「子供を見るや頭からバリバリと食ってしまう」ようには見えなかった。
「旦那様、お願いです」と女の子は震えながら切り出した。
「あたし、弟のハインリヒの後を追いかけてここまで来ました。あの子、小さいのに、とてもすばしこくて、この近くで見失ってしまいました。お屋敷の周りを探していたら、窓が少し開いている部屋がありました。あたし、その窓の隙間にハインリヒの白い靴が吸い込まれるのを、確かに見たんです」
「では、お前の弟がこの屋敷に勝手に入り込んだというのかね」
老人の声は苛立っていた。女の子は泣き出した。
「ごめんなさい、旦那様。あの子を見つけたら、二度とこんなことはしないようにきつく言い聞かせます。あたしが代わりにぶたれても構いません。お願いです、ハインリヒを捜させてください」
「泣くんじゃない。わしは子供の泣き声が大嫌いなんだ」
老人はぴしゃりと言い放った。
「二度と泣かないと約束するのなら、家の中を一緒に探してやろう。生憎今日は召使いが来ない日でね。わし以外誰もおらんのだ」
女の子は涙を拭いて、頷いた。
昼間だというのに、屋敷の中は薄暗く、ひんやりとしていた。玄関ホールだけで彼女の住む平屋建ての藁ぶき小屋より広いぐらいで、大きな柱時計や、剥製の鹿の頭が彼女を冷ややかに見下ろしていた。
窓が開いていたのはどこの部屋かと訊かれ、本が沢山ある部屋だと彼女が答えたので、老人はまず書斎へと向かった。天井まで届く高い本棚に囲まれた部屋の窓の一つが、確かに十センチほど開いていた。
「お前の弟は随分痩せているんだな」
と窓を閉めながら老人は言った。女の子は
「ええ。だからどこにでも入り込んでしまうの」
と下を向いた。彼女自身、明らかに栄養不足で、ガリガリに痩せ細っていた。
老人は、自身の息子が幼かった頃を思い出した。彼の息子も、ハインリヒという名前だったが、少年の頃は、ふっくらとした頬をして、健康的にまるまると太っていた。この貧しい少女の弟とは、似ても似つかないだろう。
書斎のデスクの下や書棚の陰など、女の子は熱心に探し回り弟の名を呼んだが、見つからなかった。
屋敷内の部屋のドアは殆ど施錠されており幼い男の子が迷い込んだとは思えなかったが、何しろ広大だった。老人は女の子が屋敷の二階三階も含め、隅々まで探し回るのについて歩くだけでくたびれてしまった。
「どこかの隙間から抜け出して、先に家に帰ったのではないかな」
老人は提案し、女の子も半べそをかきながら渋々その可能性を認めた。
「もしも家に戻っていなければ、また明日おいで。明日になれば、通いの召使い達が来る。今夜は、小さな男の子がどこかに隠れていないか気を付けていることにしよう」
使用人用の裏口から外に送り出された女の子は、暮れかかった薄闇の中におかしなものを見つけて「あらっ」と声をあげた。
「旦那様、あれは何でしょうか」
少女の指さす先には、古い井戸があった。丸く煉瓦で囲われた上は板で塞がれていたが、経年変化でところどころ朽ちていた。駆け寄る女の子に老人は「危ない」と叫んでその腕を掴み、乱暴に引っ張った。
女の子は恐怖と苦痛の混じった顔で老人を見つめた。老人は表情を和らげると、井戸の手前まで行き、女の子の体を抱き上げた。
「いいかい、絶対に近くに寄っては駄目だ。これは、今は使っていない古い井戸だが、埋め立ててはいないから底に水が残っているはずだ。この通り板で塞いであるが、ご覧、ところどころ腐って、隙間もできている。お前のような小さい子でも上に乗ったら板が割れて落っこちてしまうかもしれん。わしのような老人一人では、とても助けてやれないからな」
女の子は恐怖に顔を引きつらせて、叫んだ。
「では、もしや、ハインリヒは」
老人は溜息をついて
「馬鹿だなあ、お前は。よく見てごらん。板が腐って隙間ができているとはいえ、あんな細い隙間をすり抜けられる人間はいないよ。いくらお前の弟が小さくて痩せっぽちだとしてもな」
「でも、ハインリヒは、子猫なんです!」
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老人はくたびれ果てていたので、下におろした女の子の腕を掴むと、井戸からかなり離れたところまで引きずっていってからようやく解放した。女の子はしくしくと泣き続けたが、老人は振り返りもしないで屋敷に戻り、扉は重々しい音を立て閉ざされた。
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