なぜだかそこに猫がいた:短編集

春泥

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第三十二話 笑う赤ちゃん

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 夫婦にとって待望の第一子だった。小さく生まれてきたが、すぐに丸々と太った可愛らしい赤ちゃんになった。最近はよく笑うようになって尚更可愛らしい。初めての子育ては勿論大変で、妻ユキエは常に寝不足だったが、夫マモルも仕事の合間に可能な限り育児を手伝った。二人は幸せであった。

 赤ちゃんが何もない空間をじっと見つめたり笑いかけたりするというのは、割とよくあることだという。夫婦の赤ん坊も、その例にもれず、一人じっと虚空をじっと見つめて微笑んでいることが度々あった。
 初めは虫でも飛んでいるのではないか、一見真っ白な天井に染みでもできているのではないかと注意を払ってみたのだが、それらしい何かは見つからなかった。やはり、大人には見えない何かを見ているのではないか、と夫婦は話し合った。子供と二人家に残される時間が多いユキエは少々気味悪く感じているようであった。

「もう少し大きくなれば、自然にしなくなるよ。あまり気にしないことだ」

 マモルにそう言われて、ユキエも渋々頷いたのだが……


「ねえ、お母さん。私も赤ん坊の頃はあんな風だったの?」

 ユキエは久しぶりに田舎から出てきた母親にそう尋ねた。

「あんな風って?」と母は怪訝そうに訊き返す。

「ほら、あの子、何もないところを、さっきからじっと見てるでしょ。あっ、ほら、笑った。彼は気にするなって言うんだけど、やっぱり気になって。私も赤ちゃんの頃は、ああだった?」

 とユキエはカーペットの上に敷いたタオルケットの上に仰向けに寝ている我が子の視線の先を追いながら言った。ユキエの様子を注意深く見守りながら、ユキエの母は込み上げてくる涙を呑み込んだ。

 ユキエの視線の先には、赤ん坊などいなかった。
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