なぜだかそこに猫がいた:短編集

春泥

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第三十一話 壺の中から2

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「お礼に、あんたの願いを九千九百九十九叶えてやろう」
 壺の中から出てきた魔人は、得意げにそう言った。

「いえ、あの、結構です。ただ蓋を開けただけなので」
 と女はこともなげに言って、立ち去ろうとする。魔人は慌てて

「ちょっと待て。冗談ではないぞ。本当に九千九百九十九の願いを叶えてやるんだぞ。どんな願いでもいい」
「およそ一万回、一日一つお願いをしたとして完了するまで約27年、一日二つでも約14年もかかってしまう。あなた、随分呑気ねえ」

 魔人はちょっとむっとして
「おれの生涯は人間のそれとは違う。欲深い人間を完全に満足させるための数だ」
「願いが九千九百九十九個叶ったら、人間は幸せになれるのかしら」
 魔人はにやりと笑って
「それは、やはりどういう風に願いを使うかによる。残り九千九百九十八だ」

 あら、と少し驚いた顔をして、女は考え込んだ。


「魔人さん、ちょっといいかしら」
 女に呼ばれて、約一ヵ月ぶりに魔人が現れた。
「残り九千九百九十だ」
 と彼はむっつりした顔で言う。
「今月も十万円お願い」

 魔人は一万円札十枚を虚空から取り出すと、女に渡した。

「ありがとう」
「残り九千九百八十九だ」

 女は札の数を数えると、財布にしまい、無言で魔人に頷いた。

「ちょっといいか」
 と魔人は真面目な顔で女に問う。

 女は、無言で魔人の顔を見つめる。頭のいい女だ、と魔人は思う。どんな些細な質問でも願い事としてカウントされてしまうと最初に学んでから、女はずっとこうだ。必要最小限の事しか口にしない。そのくせ、彼女が今まで口にした願いといえば、月一ペースで十万円というはした金を要求することだけ。

「これはおれからの質問だから、あんたが何を言っても願いにはカウントしないよ」
 と魔人が言うと、女はちょっと目を見開いた。
「あらそうなの」
「先月はおれを呼び出さなかったな。なぜだ?」
「ああ……仕事が忙しかったし、前にもらったお金がまだ半部以上残ってたから、臨時小遣いは必要なかったのよ」
「あのなあ、おれはATMじゃないんだぞ。ちまちま金を引き出すより、まとまった金額をどかーんと言ってみろよ。一億ぐらいなら瞬きするほどの労力も要らん」
「そうねえ。でもあなたの望みは、早く九千九百九十九の願いを叶えて自由になることなんでしょう? 一億ももらってしまったら、当分用事がなくなるわよ」
「大金を手にすると、他の物も欲しくなるだろう。一億ぽっちで買えるものには限度がある。さらなる大金を欲するか、金で買えない物に欲望をシフトするか。そうやって願いを消費するのが人間の性だ」
「そういうものかしら。わたしね、前から欲しかった時計があって、五十万円もするから、毎月五万円貯金して、今やっと四十五万まで溜まったところなの」
「よしきた、その時計はどんなやつだ」

 魔人は俄然張り切り出したが、女は

「待ってよ。来月には自分のお金で買えるのよ」
「来月まで待つ必要あるか?」
「わたし、営業職なの。結構優秀なのよ。新規の顧客をたくさん獲得すると、報奨金がもらえるの。今月は頑張ったから、今のところわたしがトップなの。他の男性営業陣を押さえてね」
「よし、じゃあお前がぶっちぎりでトップの座を守れるようにしてやろう」

「待ってってば! わたし、ずっと努力してきたの。そんなに愛想のいい方じゃないけど、どうしたらお客さんに信頼してもらえるかって研究して、努力して、やっとトップに立てたの。報奨金がもらえたら、予定していた時計よりワンランク上のプレミアム版にできるわ。ここまで頑張って来たんだもの。自分の力で手に入れたいわ」

 魔人はがっくりと肩を落とした。

「ちなみに、今月の十万円は何に使うんだ?」
「仕事が忙しくて外食ばかりして食費が嵩んだのと、そのせいで体重が増えちゃったのよ。だからジムに入会して痩せるわ。営業だから、容姿にも気を遣うわけ」
「おれなら瞬時に痩せさせられる」
「でしょうね。でも、少々時間がかかるけど、規則正しい食生活と運動でも痩せるのよ。わざわざ壺から出てきた魔人の力を借りなくてもね」

 魔人は唸り声を出した。

「もう一つ、この前に渡した十万は、何に使ったんだ? お前のような堅実な人間に臨時の小遣いが毎月毎月必要なのか?」
「週末に旅行に行ったり、豪華な食事を楽しんだりしたわ。お陰で気分がリフレッシュできた。何事も度が過ぎると害になるけど、月に一回か二回、ちょっと楽しむのは精神的にも肉体的にもいいものよ」
「でも……あんた、恋人は? 仕事が忙しくて、彼氏も旦那もいないんだろ?」

 穏やかだった女の顔がきりりと引き締まった。

「それ、アラジンの時代ならOKかもしれないけど、今の世ではセクハラ、パワハラっていうのよ。彼氏や結婚のことは、二度と口にしないで。これはカウントしてもらって結構よ」

 女はぴしゃりと言い放ち、それ以降は口をつぐんでもう話さないという強い意志を示した。魔人は溜息をついた。

「わかったよ。残り九千九百八十八だ。また来月な」
 そう言って、魔人は消えた。


 結局、女はその月の営業トップの座を守りきることができなかった。女に負けてなるものかと発奮した営業マンたちが盛り返したからだ。だが翌月魔人を呼び出した女は、当初予定した通りの時計を腕にはめ、満足そうだった。

「なんでおれを呼ばないんだ? そうすれば勝てたんだぞ。あんたが女だっていうだけで下に見ている上司や同僚どもに一泡吹かせてやれたのに」
 と魔人が言うと、女は悲しそうに溜息をついた。

「それこそが男性的物の考え方っていうのよ。ずるして男に勝てば、女が喜ぶと思ってるの? バカにしないで」
「男だ女だという以前に、あんたはつまらない人間だと思うがね。まあいい。今日は何の用だ。また十万か?」

 女はなぜかさっと顔を赤らめると「違うわよ」と言った。

「じゃあなんだ。男……げほげほげほげほげほ。いやなんでもない。急に車でも要りようになったか? それとも、病気で死にかかってる親御さんを救う?」
「そんなんじゃなくて、ちょっとあなたの意見を聞きたいのよ」
「なんだと?」
「あなたも、まあ一応、男性だから」

 女性はスマートフォンを取り出すと、ネクタイの画像を表示し

「この柄と、こっちの柄とでは、どちらがいいかしら?」
「なんだそれは。そうか! 彼……」射るような眼で女に睨まれ、魔人は口をつぐんだ。
「わたしが求めているのは、ちょっとしたアドバイスだけ。最終的には自分で決めるから。口うるさい女友達みたいにあれこれ詮索しないで」
「わかった。今のは『どっちがいいか』と『詮索しない』二つカウントして残り九千九百八十六だ。両方地味すぎる。もっと派手なのにしろ」
「わたしは、どちらがいいかと訊いたのよ。答えになってないから訊き直したんじゃないの。あなたが悪いんだから、カウントは一つよ」

 魔人は唸り声を出した。


 女はその後も、努力を惜しまない堅実な人生を送った。魔人と出会ってから約六十年、九十八歳で大往生するまでに消費した願いの数は九百六十三で、残り九千三十六の願いが無駄になった。魔人はまた自由になり損ねて壺の中に戻ることになった。
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