29 / 41
第三十話 猫には向かない職業
しおりを挟む
その日は、異常に忙しかった。
世の人々が「古本屋」ときいて思い浮かべるカウンターに座ってひねもす売り物の本に読み耽るイメージは幻想だとしても、忙しいのは主に出張買い付けやら値付けやらの裏方仕事であって、お客でごった返した店内でレジ打ちにあけくれる、というのは滅多にないことだ。
いつもは昼休みに一時間店を閉めて近所のラーメン屋に足を運んだりできるのに、今日はたまたま持参していた握り飯をバックヤードでぱくつく暇さえないありさま。
猫の手も借りたいというのは、こういう状況のことであろう。
「へい、まいどありっ」
突然元気な声がして、驚くと同時に金額を打ち間違えたレシートがじじじじと吐き出されてしまった。
「猫の手貸しますサービスです。夕方引き取りに来ますんで、じゃ」
「は、え、ああ?」
どうするんだ、これ。金額を訂正し、正しく打ち直すには、と慣れない機械操作に四苦八苦しているわたしに、その癪に障る元気な声が告げて、去っていく後ろ姿が視界の端にとらえていたが、気にしている場合ではなかった。お客さんがレジの前に行列を作って待っているのだ。エキセントリックな不思議ちゃんなど相手にしている暇はない。
「にゃー」
「!?」
ふと見ると、ホルスタイン柄の猫が、レジのドロワーの上に、ごろんと横になっていた。
「ふんげえ」
おかしな声が出て、レジ待ちしていたお客さんにどっと笑いが起きた。笑い事ではない。硬貨も札もたぷたぷした白い腹の下敷きになっており、これでは取り出すことができない。
「あらあーかわいい」
安部公房『カンガルー・ノート』の初版本を手にした女性は、猫の頭をなでて、千円札を二枚財布から抜き出すと「お釣りは結構です」と笑いながら出ていった。
帯が破れて小口に染みがあるので千五百円にしていた商品だ。
「ちょっ。まっ。あの」
慌てて猫をどけようとしたが、腹も背中も柔らかく、まるで液体のように流動して抱き上げることができない。「にゃー」と不機嫌な声を出し、尻尾で顔をはたかれた。
レジの前には行列ができているので、仕方なく次のお客の対応をする。大江健三郎『同時代ゲーム』初版。函付き。二千円。これはお釣りなく千円札を二枚もらえた。
「レシート、結構です」とこの女性も猫を撫でて去っていった。
貰ったお金をレジに入れることもできず、仕方なくカウンターの下に突っ込む。次はいかつい顔の男性。一冊二百円均一の文庫三冊。手に一万円札を持っている。
どうしよう。
「細かいのがないんだ」と男性はむっつりした顔で言う。
「すみません、少々お待ちください」焦って猫をレジからどけようとするが、てこでも動かないつもりなのか、「しゃー」と威嚇音を出した。
「君!」男性から厳しい声。「猫をいじめるんじゃない! そこにある横溝正史『犬神家の一族』はいくらかね?」カウンターの奥に置いてあったやつを指さしている。
「あ、これはまだ値付けしてなくて」
「いくらだね」
「あの、状態もいいし、人気の作品なので、よ、四千円で」
「そうか。なら、釣りはいらん。ねこちゃんにチュールでも買ってあげなさい」
ねこちゃん? チュール?
横溝単行本と文庫三冊を手に去りかけた男性に、慌てて先客二人から受け取った千円札四枚を渡した。いくらなんでも、五千四百円ものチップを受け取るわけにはいかない。
そうして、猫がレジの引き出しの上であくびをしたり顔を洗ったりする横で、わたしは冷や汗をかきながら接客を続けた。レジ待ちして並んでいる間に、どうやらお釣りはもらえないらしいと悟った客たちが、一斉に財布や鞄の中をごそごそし、客同士で両替の交渉などを始めた。
お陰で、その後はほとんど「チップ」を受け取らずに済んだ。
日が暮れて、あれだけ混雑していたのが嘘のように静かになった店内で、わたしは一人ぐったりしていた。猫が大あくびとともに伸びをして、ようやくレジの引き出しの上からどいた。
「あー……」
売り上げは上々で、カウンターの下に突っ込んだお金は大量、そうだ、レジ打ちしないと帳簿が……ええと、安部公房大江横溝文庫三冊(西村京太郎、森村誠一、栗本薫)、遠藤周作クリスティチャンドラー乱歩乱歩乱歩……
店にある古本はどれも自分の子供のようなもので、巣立っていった面々を思い出せないことはなかった。しかし、今日のうちにやってしまわないと、明日には忘れてしまうだろう。
「もぉー、お前のせいだからね」
重そうな体の割に軽い身のこなしでひらりと床に飛び降りた猫は、呑気にわたしの足に体をすりつけてくる。
「ん?」
カウンターの端っこに、白い紙が載っていた。それには、万年筆だろうか、達筆な手でこう書かれていた。
「夕方、猫を引き取りにうかがいましたが、お忙しそうなので、また別の日に参ります。その子の好きなものは、煮干しを混ぜたおかゆです」
その後、猫を引き取りに来る者はなかった。
世の人々が「古本屋」ときいて思い浮かべるカウンターに座ってひねもす売り物の本に読み耽るイメージは幻想だとしても、忙しいのは主に出張買い付けやら値付けやらの裏方仕事であって、お客でごった返した店内でレジ打ちにあけくれる、というのは滅多にないことだ。
いつもは昼休みに一時間店を閉めて近所のラーメン屋に足を運んだりできるのに、今日はたまたま持参していた握り飯をバックヤードでぱくつく暇さえないありさま。
猫の手も借りたいというのは、こういう状況のことであろう。
「へい、まいどありっ」
突然元気な声がして、驚くと同時に金額を打ち間違えたレシートがじじじじと吐き出されてしまった。
「猫の手貸しますサービスです。夕方引き取りに来ますんで、じゃ」
「は、え、ああ?」
どうするんだ、これ。金額を訂正し、正しく打ち直すには、と慣れない機械操作に四苦八苦しているわたしに、その癪に障る元気な声が告げて、去っていく後ろ姿が視界の端にとらえていたが、気にしている場合ではなかった。お客さんがレジの前に行列を作って待っているのだ。エキセントリックな不思議ちゃんなど相手にしている暇はない。
「にゃー」
「!?」
ふと見ると、ホルスタイン柄の猫が、レジのドロワーの上に、ごろんと横になっていた。
「ふんげえ」
おかしな声が出て、レジ待ちしていたお客さんにどっと笑いが起きた。笑い事ではない。硬貨も札もたぷたぷした白い腹の下敷きになっており、これでは取り出すことができない。
「あらあーかわいい」
安部公房『カンガルー・ノート』の初版本を手にした女性は、猫の頭をなでて、千円札を二枚財布から抜き出すと「お釣りは結構です」と笑いながら出ていった。
帯が破れて小口に染みがあるので千五百円にしていた商品だ。
「ちょっ。まっ。あの」
慌てて猫をどけようとしたが、腹も背中も柔らかく、まるで液体のように流動して抱き上げることができない。「にゃー」と不機嫌な声を出し、尻尾で顔をはたかれた。
レジの前には行列ができているので、仕方なく次のお客の対応をする。大江健三郎『同時代ゲーム』初版。函付き。二千円。これはお釣りなく千円札を二枚もらえた。
「レシート、結構です」とこの女性も猫を撫でて去っていった。
貰ったお金をレジに入れることもできず、仕方なくカウンターの下に突っ込む。次はいかつい顔の男性。一冊二百円均一の文庫三冊。手に一万円札を持っている。
どうしよう。
「細かいのがないんだ」と男性はむっつりした顔で言う。
「すみません、少々お待ちください」焦って猫をレジからどけようとするが、てこでも動かないつもりなのか、「しゃー」と威嚇音を出した。
「君!」男性から厳しい声。「猫をいじめるんじゃない! そこにある横溝正史『犬神家の一族』はいくらかね?」カウンターの奥に置いてあったやつを指さしている。
「あ、これはまだ値付けしてなくて」
「いくらだね」
「あの、状態もいいし、人気の作品なので、よ、四千円で」
「そうか。なら、釣りはいらん。ねこちゃんにチュールでも買ってあげなさい」
ねこちゃん? チュール?
横溝単行本と文庫三冊を手に去りかけた男性に、慌てて先客二人から受け取った千円札四枚を渡した。いくらなんでも、五千四百円ものチップを受け取るわけにはいかない。
そうして、猫がレジの引き出しの上であくびをしたり顔を洗ったりする横で、わたしは冷や汗をかきながら接客を続けた。レジ待ちして並んでいる間に、どうやらお釣りはもらえないらしいと悟った客たちが、一斉に財布や鞄の中をごそごそし、客同士で両替の交渉などを始めた。
お陰で、その後はほとんど「チップ」を受け取らずに済んだ。
日が暮れて、あれだけ混雑していたのが嘘のように静かになった店内で、わたしは一人ぐったりしていた。猫が大あくびとともに伸びをして、ようやくレジの引き出しの上からどいた。
「あー……」
売り上げは上々で、カウンターの下に突っ込んだお金は大量、そうだ、レジ打ちしないと帳簿が……ええと、安部公房大江横溝文庫三冊(西村京太郎、森村誠一、栗本薫)、遠藤周作クリスティチャンドラー乱歩乱歩乱歩……
店にある古本はどれも自分の子供のようなもので、巣立っていった面々を思い出せないことはなかった。しかし、今日のうちにやってしまわないと、明日には忘れてしまうだろう。
「もぉー、お前のせいだからね」
重そうな体の割に軽い身のこなしでひらりと床に飛び降りた猫は、呑気にわたしの足に体をすりつけてくる。
「ん?」
カウンターの端っこに、白い紙が載っていた。それには、万年筆だろうか、達筆な手でこう書かれていた。
「夕方、猫を引き取りにうかがいましたが、お忙しそうなので、また別の日に参ります。その子の好きなものは、煮干しを混ぜたおかゆです」
その後、猫を引き取りに来る者はなかった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる