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第二十九話 可愛くないお人形
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それは、非常に可愛げのない人形だと、誰からも思われていた。
座った状態で座高が三十センチぐらい。自立はできない。濃い緑の髪に、青白い顔、白目がちな三白眼、痩せてそばかすの目立つ頬、への字に曲がった薄い唇――なんだか気の毒になって目を逸らしたくなるような姿をしてる。
まったく、一体誰がこしらえたのか、よく見れば、フェルトやビーズをあしらった顔のパーツ一つ一つ、髪の毛やドレスのレースの仕上げも併せて、丹念にこしらえられていることがわかる。作り手が全く愛情を持たずにこの人形を制作したとは、到底思えなかった。それなのに――
ちっとも、可愛くないのである。その顔つきはいやらしく、ひね媚びており、意地悪そうで、品がなかった。子供の内面のいやらしさを、悪意を持って余すところなく可視化したらこうなるだろうか、といった風貌。
亡くなった叔母の形見としてその愛敬のない人形をもらったマニは、自分の部屋にそれを置くことを嫌がった。
「あの子、棚から私を睨みつけるの。怖くて眠れない!」
マニはそう言ってお母さんに泣きついた。仕方ないので、お母さんはその人形を夫婦の寝室に置くことにした。お人形は、お母さんの妹が手縫いでこしらえたものであった。妹の家に遊びに行くたびに、居間のソファにその可愛げのない人形が座っているのを見て
「ねえ、どうしてこんな可愛くない人形を飾っておくの?」
と訊いてみたことがある。妹の答は
「でも、私はこの子が好きなの」
妹は、変わり者だったが、お母さんはその妹を愛していたので、妹がまだ若いのに病気で亡くなった後、彼女が大層気に入って大切にしていた人形を捨てるに忍びなかったのだ。だから形見として娘のマニにあげたのだが、マニは叔母を愛していたから叔母の死は非常に悲しんだものの、叔母が遺した人形は愛せなかった。
「だって、ちっとも可愛くないんだもの。あの子も私のことが嫌いなんだと思う」
とマニは言った。そして、その人形は今、夫婦の寝室にある本棚の上に座っている。
「なあ、あの人形に見下ろされていると、なんだか落ち着かないんだが」
マニのお父さんも、ほどなくそんなことを言い出すようになった。お母さんは、ほとほと困ってしまった。
「ごめんなさいね。ミアはあなたのことが本当に好きだったから、あの子の形見としてこの家に来てもらったのに。こんなことなら、ミアの棺に一緒に入れてあげればよかった」
物置の段ボール箱に人形を納める前に、お母さんはその丁寧に作られた人形の顔を撫でながらそう言った。よく見れば愛敬が……いや、愛敬はないかもしれないが、個性的でユニークな魅力が……いややっぱりこの人形はどこかが、何かが間違っているとしかお母さんには思えなかった。
妹のミアは服装も音楽も、常人とは異なる好みを示していた。ミアは他人からどのように思われようと意に介さなかったが、姉である自分はごく平凡な人間なのだから仕方がない、とお母さんは溜息をついて、人形を箱の中に入れた。
「――に気を付けて」
「えっ」
お母さんはびっくりして聞き返した。確かに、声がした。か細い女性の。
「車に気を付けて」
声は箱の中からだった。他のガラクタの上に寝かされた可愛くない人形が、お母さんの目をまっすぐ見つめながら、言った。「マニに、車に気を付けてって」
お母さんは悲鳴を上げると、慌てて段ボールの蓋を閉じて物置から逃げ出した。
*
マニが友達の家に遊びに行く途中で轢き逃げに遭ったのは、それから二日後のことだった。一命はとりとめたものの、後遺症が残るのは避けられないだろうとのことだった。
お母さんは、燃えるゴミの日に満杯のゴミ袋を片手に物置に行くと、段ボールの蓋を開けた。人形は、あの日と同じようにお母さんを見つめ返してきた。しかしお母さんは、体が震えるほどの怒りを胸に秘めていたので、恐怖は感じなかった。
お母さんは、人形を掴んでゴミ袋に放り込むと、ゴミの収集場所に袋を置いた。そして、ゴミ収集車がやってきて袋を持ち去るのを見届けてから家に帰った。
家に戻ったお母さんは、病院に持って行く着替えや本をとりにマニの部屋に入った。マニのベッドカバーの上に、あの人形が座っていた。お母さんは激しい恐怖と同時に怒りを感じた。
「どうしてこんなことをするの。マニに嫌われたのがそんなに腹が立ったの。呪うなら私にしなさいよ。あの子は子供なの。可愛くないお人形を無理に好きになることなんて、できないのよ!」
お母さんは人形に向かってそう叫んだ。
「自転車に気を付けて、お母さん」と人形は言った。
その気味の悪い顔がニタニタ笑っているように思えて、お母さんは悲鳴をあげたが、娘のことを思い、勇気を振り絞った。
「怖がらせようったって無駄よ。あんたなんかに何ができるっていうの」
お母さんは、人形を掴んで庭に駆け出ると、不要な新聞紙と一緒に火を点けて燃やしてしまった。新聞と一緒に人形が灰になるのを見届けてから、念のため灰の上にザブザブと水をかけて、お母さんは病院へと急いだ。普段なら自転車で行くところだが、人形の脅迫めいた言葉が気になるので、タクシーを拾った。
マニの容体は安定していた。ギプスや様々な管に繋がれているので、体を動かしたり言葉を発することはできないが、お母さんが本を読むのを目を輝かせて聞いていた。もちろん、人形のことはマニには黙っていた。
面会時間が終わり、病院を出たお母さんは、帰りはバスにしようと、近くのバス停に向かった。正面から結構なスピードを出してやってきた自転車にはっとして、お母さんは右側に避けた。彼女の体をかすめるように自転車は通過して行った。
まったく、今時の若い人は
お母さんが胸を撫で下ろしながら一歩踏み出したところへ、後方からやってきた自転車が衝突した。
* *
幸い、お母さんの怪我は軽症で、打撲と擦り傷だけで済んだ。ショックだったのは、病院で手当てを受けすっかり帰りが遅くなったことをお父さんに詫びながら(彼は晩御飯を食べずお母さんの帰りを待っていた)、帰路の途中で買ってきたお弁当の包みを渡し、寝室のドアを開けた途端、ベッドの上に座っているあの人形の姿を発見したことだった。
お母さんはキッチンでお弁当を食べているお父さんのところへ行って、人形について尋ねた。
「ああ、あれ。お前が置いたんじゃないのか。やめてくれって言っただろう。寝るまでに片付けといてくれよ」とお父さんは口をもぐもぐさせながら言った。
お母さんは疲れ切っていたので、無言でキッチンを出ると、マニの部屋に直行し、娘のベッドで寝た。
* *
人形は、激しい怒りに身を焦がしていた。表面上は、普段と同じ、可愛げのない顔をしていたが、内心は怒りに燃え狂っていた。彼女は、どうして誰も自分のアドバイスをちゃんと聞き入れてくれないのか、と叫び出したい気持ちだった。
可愛いマニが事故に遭うことも、お母さんが自転車に轢かれることもわかっていたのに、防げなかった。それが腹立たしかった。
だが、人形である彼女にできることは限られていた。言葉だって自由に喋ることはできない。好きなだけ動き回れる訳でもない。何より、自分が「可愛くない」と言われ、愛されないのが彼女には悲しかった。
もっと誰からも愛される可愛らしい容姿であれば、彼女の渾身の忠告も真剣にきいてもらえたのだろうか。人形はそう考え、そっと心の中で涙を流した。
お弁当を食べ終え、お風呂が沸いていなかったのでシャワーを浴びて、ビールを飲んでいい気持になったお父さんが寝室にやって来た。明かりをつけると、あのいやらしい顔の人形がまだベッドの上に座っていたので、彼は怒って、言った。
「おい、片付けとけって言ったろう!」
その言葉は、二階のマニのベッドで寝ているお母さんの耳には届かなかった。
お父さんは、腹立ちまぎれに人形の足を掴むと、床に叩きつけた。そして、布団の中に潜り込むと、すぐにいびきをかき始めた。
座った状態で座高が三十センチぐらい。自立はできない。濃い緑の髪に、青白い顔、白目がちな三白眼、痩せてそばかすの目立つ頬、への字に曲がった薄い唇――なんだか気の毒になって目を逸らしたくなるような姿をしてる。
まったく、一体誰がこしらえたのか、よく見れば、フェルトやビーズをあしらった顔のパーツ一つ一つ、髪の毛やドレスのレースの仕上げも併せて、丹念にこしらえられていることがわかる。作り手が全く愛情を持たずにこの人形を制作したとは、到底思えなかった。それなのに――
ちっとも、可愛くないのである。その顔つきはいやらしく、ひね媚びており、意地悪そうで、品がなかった。子供の内面のいやらしさを、悪意を持って余すところなく可視化したらこうなるだろうか、といった風貌。
亡くなった叔母の形見としてその愛敬のない人形をもらったマニは、自分の部屋にそれを置くことを嫌がった。
「あの子、棚から私を睨みつけるの。怖くて眠れない!」
マニはそう言ってお母さんに泣きついた。仕方ないので、お母さんはその人形を夫婦の寝室に置くことにした。お人形は、お母さんの妹が手縫いでこしらえたものであった。妹の家に遊びに行くたびに、居間のソファにその可愛げのない人形が座っているのを見て
「ねえ、どうしてこんな可愛くない人形を飾っておくの?」
と訊いてみたことがある。妹の答は
「でも、私はこの子が好きなの」
妹は、変わり者だったが、お母さんはその妹を愛していたので、妹がまだ若いのに病気で亡くなった後、彼女が大層気に入って大切にしていた人形を捨てるに忍びなかったのだ。だから形見として娘のマニにあげたのだが、マニは叔母を愛していたから叔母の死は非常に悲しんだものの、叔母が遺した人形は愛せなかった。
「だって、ちっとも可愛くないんだもの。あの子も私のことが嫌いなんだと思う」
とマニは言った。そして、その人形は今、夫婦の寝室にある本棚の上に座っている。
「なあ、あの人形に見下ろされていると、なんだか落ち着かないんだが」
マニのお父さんも、ほどなくそんなことを言い出すようになった。お母さんは、ほとほと困ってしまった。
「ごめんなさいね。ミアはあなたのことが本当に好きだったから、あの子の形見としてこの家に来てもらったのに。こんなことなら、ミアの棺に一緒に入れてあげればよかった」
物置の段ボール箱に人形を納める前に、お母さんはその丁寧に作られた人形の顔を撫でながらそう言った。よく見れば愛敬が……いや、愛敬はないかもしれないが、個性的でユニークな魅力が……いややっぱりこの人形はどこかが、何かが間違っているとしかお母さんには思えなかった。
妹のミアは服装も音楽も、常人とは異なる好みを示していた。ミアは他人からどのように思われようと意に介さなかったが、姉である自分はごく平凡な人間なのだから仕方がない、とお母さんは溜息をついて、人形を箱の中に入れた。
「――に気を付けて」
「えっ」
お母さんはびっくりして聞き返した。確かに、声がした。か細い女性の。
「車に気を付けて」
声は箱の中からだった。他のガラクタの上に寝かされた可愛くない人形が、お母さんの目をまっすぐ見つめながら、言った。「マニに、車に気を付けてって」
お母さんは悲鳴を上げると、慌てて段ボールの蓋を閉じて物置から逃げ出した。
*
マニが友達の家に遊びに行く途中で轢き逃げに遭ったのは、それから二日後のことだった。一命はとりとめたものの、後遺症が残るのは避けられないだろうとのことだった。
お母さんは、燃えるゴミの日に満杯のゴミ袋を片手に物置に行くと、段ボールの蓋を開けた。人形は、あの日と同じようにお母さんを見つめ返してきた。しかしお母さんは、体が震えるほどの怒りを胸に秘めていたので、恐怖は感じなかった。
お母さんは、人形を掴んでゴミ袋に放り込むと、ゴミの収集場所に袋を置いた。そして、ゴミ収集車がやってきて袋を持ち去るのを見届けてから家に帰った。
家に戻ったお母さんは、病院に持って行く着替えや本をとりにマニの部屋に入った。マニのベッドカバーの上に、あの人形が座っていた。お母さんは激しい恐怖と同時に怒りを感じた。
「どうしてこんなことをするの。マニに嫌われたのがそんなに腹が立ったの。呪うなら私にしなさいよ。あの子は子供なの。可愛くないお人形を無理に好きになることなんて、できないのよ!」
お母さんは人形に向かってそう叫んだ。
「自転車に気を付けて、お母さん」と人形は言った。
その気味の悪い顔がニタニタ笑っているように思えて、お母さんは悲鳴をあげたが、娘のことを思い、勇気を振り絞った。
「怖がらせようったって無駄よ。あんたなんかに何ができるっていうの」
お母さんは、人形を掴んで庭に駆け出ると、不要な新聞紙と一緒に火を点けて燃やしてしまった。新聞と一緒に人形が灰になるのを見届けてから、念のため灰の上にザブザブと水をかけて、お母さんは病院へと急いだ。普段なら自転車で行くところだが、人形の脅迫めいた言葉が気になるので、タクシーを拾った。
マニの容体は安定していた。ギプスや様々な管に繋がれているので、体を動かしたり言葉を発することはできないが、お母さんが本を読むのを目を輝かせて聞いていた。もちろん、人形のことはマニには黙っていた。
面会時間が終わり、病院を出たお母さんは、帰りはバスにしようと、近くのバス停に向かった。正面から結構なスピードを出してやってきた自転車にはっとして、お母さんは右側に避けた。彼女の体をかすめるように自転車は通過して行った。
まったく、今時の若い人は
お母さんが胸を撫で下ろしながら一歩踏み出したところへ、後方からやってきた自転車が衝突した。
* *
幸い、お母さんの怪我は軽症で、打撲と擦り傷だけで済んだ。ショックだったのは、病院で手当てを受けすっかり帰りが遅くなったことをお父さんに詫びながら(彼は晩御飯を食べずお母さんの帰りを待っていた)、帰路の途中で買ってきたお弁当の包みを渡し、寝室のドアを開けた途端、ベッドの上に座っているあの人形の姿を発見したことだった。
お母さんはキッチンでお弁当を食べているお父さんのところへ行って、人形について尋ねた。
「ああ、あれ。お前が置いたんじゃないのか。やめてくれって言っただろう。寝るまでに片付けといてくれよ」とお父さんは口をもぐもぐさせながら言った。
お母さんは疲れ切っていたので、無言でキッチンを出ると、マニの部屋に直行し、娘のベッドで寝た。
* *
人形は、激しい怒りに身を焦がしていた。表面上は、普段と同じ、可愛げのない顔をしていたが、内心は怒りに燃え狂っていた。彼女は、どうして誰も自分のアドバイスをちゃんと聞き入れてくれないのか、と叫び出したい気持ちだった。
可愛いマニが事故に遭うことも、お母さんが自転車に轢かれることもわかっていたのに、防げなかった。それが腹立たしかった。
だが、人形である彼女にできることは限られていた。言葉だって自由に喋ることはできない。好きなだけ動き回れる訳でもない。何より、自分が「可愛くない」と言われ、愛されないのが彼女には悲しかった。
もっと誰からも愛される可愛らしい容姿であれば、彼女の渾身の忠告も真剣にきいてもらえたのだろうか。人形はそう考え、そっと心の中で涙を流した。
お弁当を食べ終え、お風呂が沸いていなかったのでシャワーを浴びて、ビールを飲んでいい気持になったお父さんが寝室にやって来た。明かりをつけると、あのいやらしい顔の人形がまだベッドの上に座っていたので、彼は怒って、言った。
「おい、片付けとけって言ったろう!」
その言葉は、二階のマニのベッドで寝ているお母さんの耳には届かなかった。
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