なぜだかそこに猫がいた:短編集

春泥

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第二十三話 人食い絵本

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 彼は泣きながら、暗い夜道を歩いている。
 彼はまだ随分小さいのだが、一人だ。

 街灯の下、やわらかい光に丸く照らされた中央に、一冊の本が落ちていた。小さな、絵本だ。

 彼はきょろきょろと辺りを見回した。

 誰もいない。

 おずおずと手を延ばして、本を拾い上げた。心臓がどきどきした。お巡りさんが彼を捕まえに来るかもしれない、と思った。
 彼は震える手で本の表紙を撫でた。随分古い本で、硬い表紙の色が褪せてしまっている。タイトルは――

『タイガのだいぼうけん』

 先ほどとは違った理由で、彼の心臓は激しく高鳴った。主人公の名前が、彼と同じだったからだ。

――読んでごらんよ。面白いから。

 どこからともなく聞こえた声に励まされ、彼は最初のページをめくった。
 すぐに罪悪感も、心細くて寒さに震えていることも、お腹が空いていることも忘れた。彼は夢中になって絵本を読んだ。

 その本は、人食い絵本だった。拾った子供の欲望に合わせたストーリーの本に姿を変え、子供が夢中になって本を読み終えたところで、その子を食べてしまう。被害者の子供は頭のてっぺんからつま先まで残さず食べられてしまうので、後には何も残らない。そうして、本は次の獲物を捜す。

 今回捕まえた子は、随分やせ細ってみすぼらしかった。それでも久々の獲物だ。今時の子は、絵本なんかに見向きもしない。さっさと読了させて、食べてしまおう。本はそう考え、そっと微笑んだ。


――どうして続きを読まないんだ。

 と絵本に訊かれて、タイガは答えた。

「だって、読んだら、すぐに終わってしまうじゃないか」

 タイガにとって、その本は、長い長い一日における唯一の楽しみだった。散らかり放題の部屋にはママの漫画が何冊か転がっていたが、タイガには難しすぎたし、レンアイものを好きになれるとは思えなかった。

 道に落ちていた本を拾ってきたタイガは、最初こそ夢中で一気に半分ほど読んでしまったものの、その後は、大切に毎日五ページずつ読むと決めていた。

 絵本の主人公のタイガは、皆から頼られるヒーローで、魔法のマントで空を飛ぶことができ、電車の事故を防いだり、悪者を退治したりして、お礼にご馳走を食べさせてもらう。ママはタイガのことをとても誇りに思っている。タイガが一番好きなのは、ママの作ったパンケーキだ。

 一日中お腹を空かせているタイガだが、不思議なことに絵本の中の食べ物を眺めていると、現実の空腹を少しだけ忘れることができた。その日の分の五ページを読んでしまうと、タイガはそれより前の部分を読み返して過ごした。

 絵本がタイガの手の間から滑り落ちた。慌てて拾い上げようとするが、なかなかうまくいかない。お腹がすきすぎて、手に力が入らなかった。

――なあ、そんなもの食ったって、うまくないだろう。

 本に言われて、タイガははっとした。無意識のうちに、近くに落ちていたティッシュペーパーの箱を齧っていた。箱の中身は、随分前に食べてしまっていた。カーペットの上には、他にもタイガが齧ったゴミ袋やバスタオルなどが散乱していた。

――なあ、お前はどうして一人なんだ。お前みたいな子供がずっと一人で放っておかれるなんて、おかしいだろう。

「ママがもうじき帰って来て、ご飯を食べさせてくれるよ」

 タイガは弱々しくそう言った。せめて水を飲んでお腹を膨らまそうと思うのだが、体が動かなかった。


 絵本を拾った日、タイガは夜に家を追い出されたのだった。

 彼と大事なお話があるから、しばらく帰って来ないで、とママは言った。怖い顔をしたおじさんがママの後ろに居たので、彼は何も言うことができなかった。

 寒い夜だった。十一月だったが、震えながら歩く彼の服装は、冬の夜の外出には適さない薄着だった。

 彼は震えていた。お腹もすいていたし、暗闇に怯えていた。

 彼は人通りのない通りで街灯の下に落ちている絵本を見つけてから、二時間程夜の町を彷徨った後、ようやく家に入れてもらえた。


 そして今、ママは、男の人と遊びに行っている。それがどの男の人なのか、二人がどこへ行ったのかタイガにはわからない。出かける前に、怖い顔で大人しくし待っていること、言うことを聞かなかったら、またおじさんに酷い目に遭わせてもらうから。そう言ってママは出て行った。とびっきりのおしゃれをして。

 絵本『タイガのだいぼうけん』は、残すところあと四分の一ぐらいだ。タイガは震える手を絵本に伸ばした。本を読んでいる時だけは、空腹や寂しさを忘れられる。

 今日は寒くて仕方がないから、明日の分の五ページも読んでしまおうか。タイガはそう思った。

――なあ、お前。俺を食えよ。と本が言った。

「君を食べたら、続きを読めなくなるよ」タイガは力なく微笑んで言った。

――なあ、俺は今まで、何百人ものこど……いや、沢山のご馳走をたらふく食べてきたから、見た目はともかく、食べたら案外うまいんじゃないかと思うんだ。なあ、俺を食えよ。お前、そのままでは餓死しちまうぞ。

 ガシってなんだろう、とタイガは思った。ママが帰ってきたら訊いてみよう。そう思いながら、彼は視界が暗くなってきたことを喜んだ。眠っている間は空腹を忘れていられることを、まだ幼い彼は、よく知っていた。


 ママがタイガの待つアパートに帰って来たのは、それから二週間後のことだった。
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