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第九話 聞き上手な友
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息子のお嫁さんは料理が下手でね。もう何十年、口を酸っぱくして言ってるのに一向にわが家の味を覚えないの。可愛くもないのにすぐにふくれっ面になって、まったく恥ずかしくないのかって。あたしの年金が振り込まれる時だけ愛想よくなってさ、今日はすき焼きにしましょうか、だって。まるで息子の稼ぎだけでは牛肉すら満足に食べられないみたいじゃないの。馬鹿にしてるったら。孫達だって可哀想に二人ともお嫁さんそっくり。上が男の子で下が女の子なんだけどね、勉強があまり得意じゃないのも母親に似たせいだよ。息子にはちゃあんと大学まで行かせたんだからね、あたしは。それをあんな、安い酒場で働いていたような年増女と。最初に会った時は、そりゃあびっくりしたよ。あたしと同い年ぐらいかと思ってさ。暮らしぶりの荒廃具合が外見に表れてたんだね、あれは。息子が大人しいのをいいことに、全く、つまらない女にひっかかったもんだよ。
今日だってさ、あたしが散歩に出かけようとしたら、お義母さん、ふらふらほっつきあるいてまた迷子にならないでくださいね、だって。ほんとに憎ったらしいったらないよ。たった一回、ちょっと遠くまで行きすぎて、疲れて動けなくなった、それだけのことを、鬼の首をとったみたいにねちねちねちねちと。最近はね、何を言っても無駄だと思って無視してやるのさ。全く、息子はあんな女のどこがよかったのかねえ。気の弱い子だから、図々しい女に言い寄られて断れなかったんだろうね。あの子は優しいんだよ。頼むからあいつと喧嘩しないでくれ、なんて泣いて頼むから仕方なく同居してやってるけど、あれは、あたしの家だからね。息子と娘二人育てながら、死んだお父さんと汗水たらして必死にローンを返済してさ。あんな女に大きな顔させるのはまっぴらごめんだね。
ハツはそこで息をついて、友人の方を見た。無表情で起きているのかいないのかわからないが、頭を微かに動かして、聞いていると合図を送って寄越した。友人の膝には茶虎の猫が丸くなって目を閉じている。ハツは安心して話を続けることにした。嫁の悪口ならネタが尽きることはない。
ここにあんたに会いに来るのも嫁は嫌なんだよ。洗いざらい何でも暴露されて、バツがわるいんだろう。いい気味だよ。昨日も言ってやったのさ。あんた、あたしにこんな塩分の高い物ばかり食べさせて、ぽっくり死ねばいいと思っているんだろうって。その時の嫁の顔を見せてやりたかったよ。うふふふふ……
⚘
サカイはスマホのGPS追跡アプリを頼りにこの空き地にたどり着いた。彼は浮気調査専門の探偵だが、いつも資金繰りに困っているため、探偵事務所の入っているビルの大家の婆さんに依頼され、滞納している家賃をちゃらにする条件で様々な雑事を引き受ける。今回は、家出した猫の捜索だったが、首輪につけてあるGPSを追跡すればよいので、かなり楽だった。飼い主が八十歳を超える婆さんでなければ、スマホのアプリを使ってGPSを追跡する方法を教えて自分で捜してもらいたいと思うのだが、その小型GPSだって、実は既に三回同じ猫の捜索を依頼されていたサカイが、こっそり首輪代わりに巻き付けているリボンに縫い付けたのだ。案の定、猫はまた家出をし、大家の婆さんから捜索依頼を押し付けられたが、今回の任務はただ、GPSが指定する場所に行き、猫を回収すればよい。楽勝だ。
うふふふふ、と高く生い茂った雑草の向こうから笑い声が聞こえてきて、サカイはおや、と構えていた捕獲網を下ろした。聞き覚えのある声だったが、明らかに猫ではない。彼はできるだけ音を立てないように、ゆっくり進んで行った。
たき火の跡だろうか、黒く焦げた地面が露出したところに、人影があった。一人は、これまた家賃未払いを盾にした大家からの強引な依頼で過去に保護したことのある、ヤワタのハツ婆さんだ。
「やあ、こんちは、ハツさん。いい天気だね」とサカイは老女を驚かせないように、静かに声をかけた。
そういえば、老人がふらふらと外に彷徨い出たくなるような季節になったのだな、とサカイは全く風流ではない方法で春の訪れを実感する。とはいえ、日向に居ればじんわり暖かいが、風はまだ冷たく、老人が長居するのに適した気候ではない。ハツ婆さんのように、老人の割に肉付きの良い体をしていても、薄手のパジャマを着ているだけではすっかり体が冷えてしまっただろう。
「あんた、だれでしたかいな」とハツは訝し気に尋ねる。
「サカイ探偵事務所のサカイです。前に何度かお会いしましたよね」
「ああ、あのつるっ禿げの探偵。キャバレーの用心棒とか、怪しげな仕事をしてはった」
それは先代のサカイ、血縁関係はなく、たまたま名字が同じサカイだという縁で跡を継ぐことになったのだが、そんなことを説明しても無駄なことはわかっていたので、サカイは黙っていた。帽子を被っているのでまだつるつるという域には達していないという事実は隠されていた。
「なんね、その虫取り網は?」
ハツに訊かれて、サカイは本来の目的を思い出した。本日は猫を捕獲しに来たのであった。婆さんではなく。
「猫を捜してましてね。タナベのお婆ちゃんとこの、トラタ」
「トラタなら、そこで昼寝しとるがな」
ハツに指さされた先を見ると、ハツと向かい合う位置、小柄な婆さんよりもさらに小さい、子供のような人物が胡坐をかいて座っているその膝の上に、茶虎の猫がいた。首に赤いリボンをつけているから間違いない。トラタだ。
「ああ、助かった」とサカイは眠っている猫を抱き抱えて肩から下げていたバッグに入れた。「これで俺の仕事は完了だ。お礼にハツさん、家まで送っていこうか」
「そうかい、そんな遠くでもないんだけど、悪いねえ」
婆さんはサカイの手を借りて、腰を下ろしていたコンクリートブロックから立ち上がった。
「それじゃあ、キヨさん。また来るからね」
ハツの言葉に、キヨは少し頷いたように見えた。
「あの人、キヨさんて言うのかい?」
「いやだねえ、あんた、呆けちまったのかい、サカイの爺さん。家の三軒隣に住んでたおキヨさんじゃないか。若い頃はそりゃあ綺麗な人だったから、あんたものぼせ上がってたろ」
ああ、そうだったと呟いて、サカイは振り向いた肩越しに、胡坐をかいて座っている人物を見た。服装からして男性のようだが、長いこと雨ざらしになっていたのだろう、ぼろきれを身に纏っているに等しく、正直性別の判断は難しい。まっ白い頭部がゆれて、どさりと地面に落ち、空っぽの眼窩から蜥蜴《トカゲ》が這い出して来た。幸いハツには聞こえなかったようで、サカイは彼女の背中に手をまわし、少し離れた所に停めてある彼の車まで導いた。
本日の任務は、猫を捕獲することである。まだ生きている婆さんを自宅から何キロも離れた場所に放置しておけないからついでに回収するが、身元不明の白骨死体は俺の管轄じゃない。サカイはそう思い、肩をすくめた。
今日だってさ、あたしが散歩に出かけようとしたら、お義母さん、ふらふらほっつきあるいてまた迷子にならないでくださいね、だって。ほんとに憎ったらしいったらないよ。たった一回、ちょっと遠くまで行きすぎて、疲れて動けなくなった、それだけのことを、鬼の首をとったみたいにねちねちねちねちと。最近はね、何を言っても無駄だと思って無視してやるのさ。全く、息子はあんな女のどこがよかったのかねえ。気の弱い子だから、図々しい女に言い寄られて断れなかったんだろうね。あの子は優しいんだよ。頼むからあいつと喧嘩しないでくれ、なんて泣いて頼むから仕方なく同居してやってるけど、あれは、あたしの家だからね。息子と娘二人育てながら、死んだお父さんと汗水たらして必死にローンを返済してさ。あんな女に大きな顔させるのはまっぴらごめんだね。
ハツはそこで息をついて、友人の方を見た。無表情で起きているのかいないのかわからないが、頭を微かに動かして、聞いていると合図を送って寄越した。友人の膝には茶虎の猫が丸くなって目を閉じている。ハツは安心して話を続けることにした。嫁の悪口ならネタが尽きることはない。
ここにあんたに会いに来るのも嫁は嫌なんだよ。洗いざらい何でも暴露されて、バツがわるいんだろう。いい気味だよ。昨日も言ってやったのさ。あんた、あたしにこんな塩分の高い物ばかり食べさせて、ぽっくり死ねばいいと思っているんだろうって。その時の嫁の顔を見せてやりたかったよ。うふふふふ……
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サカイはスマホのGPS追跡アプリを頼りにこの空き地にたどり着いた。彼は浮気調査専門の探偵だが、いつも資金繰りに困っているため、探偵事務所の入っているビルの大家の婆さんに依頼され、滞納している家賃をちゃらにする条件で様々な雑事を引き受ける。今回は、家出した猫の捜索だったが、首輪につけてあるGPSを追跡すればよいので、かなり楽だった。飼い主が八十歳を超える婆さんでなければ、スマホのアプリを使ってGPSを追跡する方法を教えて自分で捜してもらいたいと思うのだが、その小型GPSだって、実は既に三回同じ猫の捜索を依頼されていたサカイが、こっそり首輪代わりに巻き付けているリボンに縫い付けたのだ。案の定、猫はまた家出をし、大家の婆さんから捜索依頼を押し付けられたが、今回の任務はただ、GPSが指定する場所に行き、猫を回収すればよい。楽勝だ。
うふふふふ、と高く生い茂った雑草の向こうから笑い声が聞こえてきて、サカイはおや、と構えていた捕獲網を下ろした。聞き覚えのある声だったが、明らかに猫ではない。彼はできるだけ音を立てないように、ゆっくり進んで行った。
たき火の跡だろうか、黒く焦げた地面が露出したところに、人影があった。一人は、これまた家賃未払いを盾にした大家からの強引な依頼で過去に保護したことのある、ヤワタのハツ婆さんだ。
「やあ、こんちは、ハツさん。いい天気だね」とサカイは老女を驚かせないように、静かに声をかけた。
そういえば、老人がふらふらと外に彷徨い出たくなるような季節になったのだな、とサカイは全く風流ではない方法で春の訪れを実感する。とはいえ、日向に居ればじんわり暖かいが、風はまだ冷たく、老人が長居するのに適した気候ではない。ハツ婆さんのように、老人の割に肉付きの良い体をしていても、薄手のパジャマを着ているだけではすっかり体が冷えてしまっただろう。
「あんた、だれでしたかいな」とハツは訝し気に尋ねる。
「サカイ探偵事務所のサカイです。前に何度かお会いしましたよね」
「ああ、あのつるっ禿げの探偵。キャバレーの用心棒とか、怪しげな仕事をしてはった」
それは先代のサカイ、血縁関係はなく、たまたま名字が同じサカイだという縁で跡を継ぐことになったのだが、そんなことを説明しても無駄なことはわかっていたので、サカイは黙っていた。帽子を被っているのでまだつるつるという域には達していないという事実は隠されていた。
「なんね、その虫取り網は?」
ハツに訊かれて、サカイは本来の目的を思い出した。本日は猫を捕獲しに来たのであった。婆さんではなく。
「猫を捜してましてね。タナベのお婆ちゃんとこの、トラタ」
「トラタなら、そこで昼寝しとるがな」
ハツに指さされた先を見ると、ハツと向かい合う位置、小柄な婆さんよりもさらに小さい、子供のような人物が胡坐をかいて座っているその膝の上に、茶虎の猫がいた。首に赤いリボンをつけているから間違いない。トラタだ。
「ああ、助かった」とサカイは眠っている猫を抱き抱えて肩から下げていたバッグに入れた。「これで俺の仕事は完了だ。お礼にハツさん、家まで送っていこうか」
「そうかい、そんな遠くでもないんだけど、悪いねえ」
婆さんはサカイの手を借りて、腰を下ろしていたコンクリートブロックから立ち上がった。
「それじゃあ、キヨさん。また来るからね」
ハツの言葉に、キヨは少し頷いたように見えた。
「あの人、キヨさんて言うのかい?」
「いやだねえ、あんた、呆けちまったのかい、サカイの爺さん。家の三軒隣に住んでたおキヨさんじゃないか。若い頃はそりゃあ綺麗な人だったから、あんたものぼせ上がってたろ」
ああ、そうだったと呟いて、サカイは振り向いた肩越しに、胡坐をかいて座っている人物を見た。服装からして男性のようだが、長いこと雨ざらしになっていたのだろう、ぼろきれを身に纏っているに等しく、正直性別の判断は難しい。まっ白い頭部がゆれて、どさりと地面に落ち、空っぽの眼窩から蜥蜴《トカゲ》が這い出して来た。幸いハツには聞こえなかったようで、サカイは彼女の背中に手をまわし、少し離れた所に停めてある彼の車まで導いた。
本日の任務は、猫を捕獲することである。まだ生きている婆さんを自宅から何キロも離れた場所に放置しておけないからついでに回収するが、身元不明の白骨死体は俺の管轄じゃない。サカイはそう思い、肩をすくめた。
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