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第七話 ロマンス

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 大家の婆さんの持って来る「仕事」は大抵ろくなもんじゃない。だが、「先月の家賃をちゃらにしたるから」と言われたら、断りようがない。

 サカイ探偵事務所は、俺が先代から受け継いだもので、浮気調査が専門だ。専門といっても、舞い込んでくる仕事が浮気調査ばかり、というのが正解で、こちらが選り好みしてそうなっているわけではない。

 稀に浮気調査以外の依頼が来たと思えば、今回のように、大家の婆さんがらみの、金にならない案件ばかり。それでも閑古鳥が鳴いている経済状況では、それでも有難いと思うべきなのだろうが。

「で、今度はなんです?」と俺の事務所の給湯室で勝手にお茶をいれている婆さんに声をかけると、お盆に湯呑を二つ載せて、ヒトよりはサルに似ている皺くちゃの婆さんがよちよちと出てきた。俺は婆さんの手からお盆を受け取り、来客用ソファの前のローテーブルに湯呑を置いた。

 ソファーに身を沈めた齢百二十歳を超えているという噂の婆さんは、慌てた素振りもなく皺だらけの口をすぼめて茶を啜ると、「いつものあれ」と言った。

「またいなくなったのか。いつ」

 俺が溜息混じりに言うと、婆さんは

「五日前」と事もなげに言う。

 おいおい、呆けた婆さん――俺の目の前にいる大家の婆さんではなく、大家の婆さんの姪の知人の母親、つまり大家の婆さんにとって赤の他人の知り合いの婆さん――が行方不明になったのに五日間も放っておいたのか。

 唸り声をあげて立ち上がった俺に、大家の婆さんが言った。

「別に慌てることはないんよ。今回はさすがに、先方も諦めてるから」


 姿を消したのは、ヤスカワトシエ九十六歳。俺のところに捜索依頼が持ち込まれるのは今回で四回目だ。トシエ婆さんは七十二歳を過ぎた辺りからもはや「物忘れ」では済まされない認知症の症状が顕著になった。つまりもう二十年以上という年季の入った呆け老人ということになる。自宅で息子夫婦に世話をされていたが、足腰は比較的丈夫なのと、日中主に世話をしている息子の嫁というがそもそもいい歳(六十過ぎ)という老々介護のため、トシエ婆さんは割と頻繁に家を抜け出して、迷子になる。大抵は当日中に近所で発見されるのだが、稀に翌日以降に何キロも離れた場所で「救出」されることもあった。それでも、老人ホームに入れるような金はない、ということで、野放しにされていた。残念なことに、この界隈では、そう珍しいケースではない。最近はさすがに足腰も弱くなり、遠出はしなくなっていたのだが、今回は姿を消した初日に近所を探し回ったが見つからず、警察に届けも出したが、五日経った現在も見つかっていないという。

「トシエはんとこの嫁がな、もうほとほと疲れ果てたちゅうんや。せやから、慌てて捜す必要はない。とはいえ、何もせんというのも世間体が悪いやろ。そんで、あんたにな」

 茶を啜りながら大家の婆さんは言った。

「あんた……発見した時にトシエはんがまだ生きとったら、ほれ、あんた昔警察やったんやろ? 適当にあれしてくれんか、てお嫁はんが言うんや。バレんように、うまいこと、な」

 警察をどのような腐敗組織と思っているのか知らないが、マーシーキリングに手を貸すつもりはない、ときっぱり断ると、婆さんは暗い目をして、あんたは真面目すぎるから駄目なんや、と言った。俺には裏社会でのしあがろうなどという意欲はない。

 そうわけで、俺はトシエ婆さんの四度目の捜索に出た。


 俺はまず、先の捜索でトシエ婆さんを発見した場所を回ってみることにした。当然家族によって捜索済みだろうと思ったのだが、大家の婆さん曰く

「いやそれがな、今回は、あれやから。嫁はんが泣いて頼むんや。『もうアカン。無理や』てな。だから、あんまりはよからアレしたらな、ほれ。早すぎやったってなるやんか」

 何がほれ、か。もうそろそろ死んだ頃合いかと探偵に依頼しにくるとは。トシエ婆さんが生きていた場合はそのまま連れ帰るからな、と大家の婆さんに宣言をしてきたが、正直、五日も経っているので、生存は微妙なところだと思っていた。犬猫なら親切な動物好きから餌を貰ったり盗んだりしてやり過ごせるだろうが、呆けた老婆を発見した親切な人がいれば、今頃は警察に通報されているはずだ。

 意外にも、トシエ婆さんは、三回目の捜索で発見した場所で見つかった。彼女は廃屋となった町工場の裏、朽ちたドラム缶置き場にいた。そこは、野良猫達のたまり場になっている場所だった。トシエ婆さんの自宅からは約七キロ、百歳近い年齢で、よくもここまで歩いてきたものだと思う。

 野良猫と変わらぬほど薄汚れ、髪はぼうぼう、ゆっくりと近づいていく俺を見る目つきも、野良猫と大差なかった。

「ヤスカワトシエさん、迎えに来ましたよ」

 俺は、適度な距離を保ったところで停止して、静かに声をかけた。野良猫と違い、彼女が逃げたとしても捕まえられる自信はあったが、手荒な真似は避けたかった。

 トシエ婆さんは、今にも泣きそうな顔で首を横に振った。自分の死を願う家族の待つ家には帰りたくないだろうなあ、と俺は思う。しかし、大家に示唆されたような仕事は俺にはできないし、ここでボランティが提供する野良猫の餌をかすめて生きていくことが幸せとも思えなかった。

「お爺さんが待ってますよ。帰りましょう」
「お爺さん?」

 トシエ婆さんの顔が急に明るくなった。

「ええ、そう。トクゾウさん。随分心配していましたよ、早く帰りましょう」

 トシエ婆さんは膝に乗っていた二匹の猫が吃驚して飛び降りる勢いで立ち上がった。俺は折れそうな細い腕を支え、表に停めた車まで婆さんを連れて行った。

 前回もこの手を使ったことを忘れていてくれて助かった、と俺は内心胸を撫で下ろした。良心の呵責を覚えないわけではないが、他にどうすればよいのだ。彼女の伴侶、トクゾウ爺さんは二十年ほど前に亡くなっていた。最愛の夫に先立たれたこと、恐らくそれが、彼女の認知症の引き金となった出来事だ。

 そして野良猫のたまり場になっているこの工場は、廃屋になる前はトシエ婆さんの父親が経営しており、銀行勤めだったトクゾウ氏が融資の件で訪れたのが二人の馴れ初めだった、とまだ幾分意識がはっきりしていた頃のトシエ婆さんから聞いたことがあったが、大家の婆さんによれば、トクゾウ氏は全国を飛び回る車のセールスマンだったそうだ。
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