なぜだかそこに猫がいた:短編集

春泥

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第五話 祖母と漬物石

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 田舎で一人暮らしをしている九十八歳の祖母が最近ひどく落ち込んでいるらしい。夫に先立たれて三十年、ずっと一人だが未だ矍鑠かくしゃくとし、多くの趣味を持ち友達も多い。その友達が殆ど自分より年下になっても、祖母はエネルギッシュにアクティブ・ライフを送っていた、はずだった。

 その祖母を気落ちさせたのは、愛犬ペロの死だったという。祖母八十五歳の時に周囲の猛反対を押し切って飼い始めた、雑種の元捨て犬だ。周囲が反対した理由は勿論、高齢の祖母が途中で犬の面倒を見られなくなることを心配したからだが、祖母は聞く耳を持たなかった。

「どうせ私が拾わんかったら、この子は保健所に連れていかれて、処分されてしまうんよ」

 祖母の言う通り、拾われた当時のペロは、痩せ細り毛は抜け落ち、それはみすぼらしい様子だった。見た目が既に老犬で、余命いくばくもないようにも見えた。
 結局ペロは祖母宅で飼われるようになり、なんと十三年も生きたのだった。そして、ペロの最後を立派に看取った祖母は、日々その喪失感に打ちひしがれているらしい。祖父が亡くなった時よりも激しい落ち込みようだと専らの噂だった。

 私は、大勢の孫達の中でも特に祖母のお気に入りで、子供の頃はとにかくかわいがってもらった記憶がある。親戚中がペロを飼うことに反対しても、こっそり犬の世話の仕方をネットで調べたし、当時は今よりも祖母宅の近くに住んでいたこともあり、必要な予防接種を調べ獣医の予約から送迎まで担当し、裏でこっそり祖母に協力したものだ。

 だから、私は祖母が心配になった。
 当時は、祖母のやりたいようにやらせることが一番良いと思ったのだが、結果的に老齢の祖母には立ち直れないほどの精神的大打撃を与えてしまうことになったのでは、と責任を感じてもいた。
 祖母は、口さがない親戚が言うように祖父の死より犬の死を嘆いているわけではなく、より高齢になってからの喪失が本当にこたえているのだと思う。
 仕事を理由にここ数年はあまり顔を合わせる機会がなかったこともあり、私は週末にさっそく祖母の家を訪問することにした。

   *

 子供の頃は夏休み冬休みと欠かさず訪れていた祖母の家には、私が恐れていたような荒廃の気配は微塵もなかった。すっかり小さくなってしまった祖母だが、まだまだ元気そうで、掃除や洗濯、料理も自分でこなしていた。久しぶりに孫が来るというので、朝から張り切って料理を始め、夕餉の食卓にはとんでもない量のご馳走が並んだ。夜には、子供の時以来、祖母の部屋に布団を並べて寝た。暗闇の中でじっと横たわっていた私は、ずっと言いたかったことをようやく口にした。

「ペロは残念だったね」
 
 長いこと返事がなかったので、祖母は寝入ってしまったか回答したくなくて黙っているのだと思い、寝返りを打って眠りに入ろうとした時、祖母が口を開いた。

「寿命だったんよ。仕方ない。それで心配して来てくれたのかい?」
「落ち込んでるって聞いたから」
「まさか。忙しくて悲しんでいる暇もない」
 忙しいって、一体何をしているのか、と私が尋ねる前に
「お前が来てくれて丁度よかった。頼みたいことがあってさ。明日、手伝って」

 そう祖母は言い、それから間もなく静かな寝息が聞こえてきた。


 翌日、祖母は裏山に私を連れて行った。実際には山というほどの高さはないが、子供の頃に探検ごっこをするには十分な広さだった。祖母はこんなに歩いて大丈夫なのかという奥深いところまで私を案内し、鬱蒼と茂る木々が開けたところで、

「ほら、これ」と指さした。それは、くさむらの中に横たわる石だった。大きさは、漬物を漬けるのに丁度よさそうな、「よっこらしょ」と働き盛りの主婦なら両手でどうにか持ち上げられるぐらい。

「これを、どうするの?」
「家に連れて帰る。私の力じゃ、無理だからね」

 連れて帰って何に使うのか、漬物石にするなら、祖母には重すぎで、漬物樽の上に置くのもどけるのも、彼女一人の力では無理だろう。
 だが用途をいくら尋ねても、のらりくらりとはぐらかして教えてくれなかった。仕方なく、私は石を祖母の自宅まで抱えて運んだ。祖母に指定された石の置き場所は、庭の軒下の地面の上だった。どうやら用途は漬物石ではないようで、これなら祖母が腰を痛めたり怪我をしたりする心配もあるまいと思い、深く追及はしないことにして夜には自分の家に戻った。

     *

 祖母が呆けてしまったらしいと聞いたのはそれから数ヶ月後だ。やはり年のせいもあり、愛犬の死が耐えきれなかったのかと私は悲しくなったが、事情を聞いて驚いた。祖母は、漬物石ほどの大きさの石を、まるでペットのようにかわいがっているというのだ。
 どう考えても、その漬物石は私が裏山から運んだあの石に違いなく、私は、祖母に電話をかけた。

 祖母曰く、自分は別に呆けているわけではない。石は石であり、生きていないことはわかっているのだが、ペロのいない日常は寂しく無為に思え、また何か世話をしてやれるものがほしくなった。
 しかし、九十八という年齢を考えれば、新たな動物を飼う時間や体力はもはや自分には残されていない。そこで、裏山を散歩している時に見つけた手ごろな大きさの石に毎日話しかけたり撫でたりしていたところへ、屈強な孫が訪ねて来たから、これ幸いと家まで運んでもらったのだ。お陰で今では雨の日でも石と話をすることができる。

 祖母のしっかりとした話しっぷりに私は胸を撫で下ろしたものの、これはもしや、まだら呆けというやつではないのか、と一抹の不安も残った。そこで、また週末に祖母の所へ出かけて行った。

 石は、私が置いた軒下のに鎮座していた。お地蔵さんのように、真っ赤な帽子を被りよだれかけをかけているのは、祖母が編んだのだそうである。祖母は「夜は寒そうだからねえ」とにこにこしている。
 ペロが使っていたアルミのエサ皿や水飲み皿も置いてあることを指摘すると、仏壇のおじいさんにご飯をお供えするついでに石にも餌をあげているのだという。私はどういうリアクションをすればよいのかわからなかった。そこで、鞄の中から家電量販店の袋に入った箱を取り出した。

「これ、土産に買って来たんだ」

 祖母はにこにこしながら小首を傾げ、私が袋から取り出した箱を開封するのを眺めていた。箱の中から出てきたのは、小型犬ほどの大きさの犬のおもちゃだ。

「これは、AI搭載の人工ペット。ロボットだからもちろん水も餌もトイレの世話もいらないんだ」

 電源を入れると、ロボット犬は、うーんと伸びをして、キャン、と甲高い声で鳴いた。事前のセッティングで祖母の写真を読み込ませ、飼い主として認識するようにしてあった。ロボット犬は短い尻尾を振り振り、祖母に近づいていった。

「あれまあ、可愛いもんだねえ」

 祖母は犬の頭を撫でた。

「名前をつけてそれを呼び続ければ、じきにそれが自分の名前だって覚えるよ。学習能力があるんだ。お手とかお代わりとか、芸を教えることもできる」

 祖母はにこにこしながら聞いていた。わからないことがあったら電話して、と言い残して、私は自宅に戻った。

     *

 祖母は結局、百三歳の時に老人ホームに入り、百八歳で亡くなった。私が提供したロボット犬は、残念ながら早々にお払い箱になり、久々に私が尋ねた時は、納屋の隅っこで、毛布にグルグル巻きにされて上から新聞紙の束やヒビの入った土鍋(重しか?)などを乗せられ、放置されていた。

 祖母曰く、「子犬はせわしのうていかん。石っこならこっちの都合で世話ができるから気が楽だけんど」

 動かなくなっていたロボット犬は、何時間か日光に晒していたら充電されて起動できるようになったので、私が引き取って今も我が家にいる。

 祖母がロボット犬よりも大事に世話していた漬物石は、祖母と一緒に老人ホームに運ばれ、ずっと祖母の個室の片隅に置かれていたのだが、祖母が亡くなったどさくさに紛れて捨てられてしまったらしい。
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