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第二話 Pet Lovers(ペット・ラバーズ)
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房江が拾ってきた痩せっぽちの汚らしい子猫を見て、文彦は露骨に顔をしかめた。房江は彼の表情を見て、言った。
「そんな顔しないで」
それでも、文彦は表情を変えなかった。
「だって、こんな冷たい雨の中、か細い声で鳴いているんだもの。放っておけないでしょう?」
自分に一言の相談もなく、房江が既に子猫を飼うつもりでいるらしいことに文彦は慄然とする。数年前、十二年来のよき相棒だったジョンが死んだ時、「もう二度と動物は飼わない」と言っていたのに。当時の房江の落ち込みようを思い出し、文彦の心は沈んだ。房江のあんな姿を再び見るのは、耐え難かった。それに、文彦は猫があまり好きではない。房江はテレビであらゆる動物を見て「可愛い」と言うのだが、文彦は犬以外の動物と共に暮らしたいとは思わなかった。
「わかってるわ」と、口を開きかけた文彦よりも先に、房江は言った。
「私は今五十三歳で、この子は多分十年以上生きる。当然、最期は責任を持って私が看取るわ」
やせ細って力なく房江の手に包まれている子猫が果たして明日まで生きていられるかどうか、と文彦は思ったが、一度こうと決めた房江に何を言っても無駄なことはわかっていた。文彦と房江は、もう二十年も一緒にいるのだから。
自宅で翻訳の請負業を営む房江は、好きな時に休憩をとれるという在宅仕事の利点を生かし、甲斐甲斐しく衰弱した子猫の世話を始めた。温めたミルクを飲ませ、体を洗い、塞がってしまった目ヤニだらけの目を丁寧に拭いてやった。医者嫌いの文彦は同行を拒否したのだが、子猫を獣医に連れて行ったり、トイレ用の砂を買ってきたり、あれこれ忙しくしていた。一方、文彦は、子猫を撫でてやろうとさえしなかった。
「ねえ文彦さん。この先しばらく一緒に暮らしていくんだから、仲良くしてあげて」
文彦は日当たりのよいリビングでフローリングの床に寝そべり、広げた新聞を眺めていたのだが、顔を上げて、鼻の上に皺を寄せた。猫が嫌いなことを知っているくせに……憮然とする文彦に、房江は悪戯っぽい笑顔をみせた。
「もしかして、焼いてるの? あなたは私の夫で恋人、そして一番の親友なのに。この子は、そうね、私達の子供でいいじゃない」
房江は子猫をミーちゃんと呼んだ。抗生物質が効いて、目ヤニで塞がっていた目が開くようになると、猫は家中を元気に走り回るようになり、毛並にも艶が出て来た。こうしてみると、なかなかの美人である。子猫は、文彦にじゃれついて邪険に押しのけられても、まったく意に介さないようだった。無骨な彼が、いつの間にか足元に来ていた彼女を踏んでしまったことが何度かあったが、それでも懲りずにすり寄っていく。
「ミーちゃんはあなたのことが好きなのよ」
文彦がどんなにつれない態度を取っても、気が付くと猫はソファーでくつろぐ文彦の傍らに小さな体を寄せて眠っている。夜も房江ではなく文彦の傍らで寝たがった。その無邪気な姿に、遂に文彦の方が根負けした。文彦は軽く開いた口から舌の先をのぞかせた子猫の体を不器用に抱き寄せると、自分の体温で温めてやった。子猫は気持ちよさそうにミュウと息を漏らした。
ある日の午後、仕事を一つ仕上げた房江は、文彦を散歩に誘った。子猫――今では拾われてきた時の倍ほどの大きさになっていた――もついて来たがったが、彼女は留守番となった。隙あらばドアの隙間から外に出ようとするので、猫を脱走させないように外に出るのに一苦労だった。
日差しは暖かかったが、風はまだ冷たかった。文彦は寒い方が好きだった。
「文彦さんもすっかり年をとったわね」
並んでゆっくりと歩きながら、房江は言った。行く先は近所の公園で、ドッグランが併設されている。文彦は片脚を引きずっていた。
「あなたは、見た目は若い頃のままだけど。私の方は、めっきり老けたわ」
「そんなことはない。君は今でも美しいよ」
房江の方を眩しそうに見ながら、文彦はそう言った。
それは文彦の本心だった。出会った当初、房江は外資系企業で翻訳・通訳業務に携わっていた。給料はいいものの仕事は激務で、文彦とのデートもままならなかった。
房江が会社を辞めて在宅ワーカーになる道を選んだのは、ウェルシュ・コーギーのジョンが変性性脊髄症という病にかかり、後ろ脚から始まった麻痺が全身に広がり、遂に動くことができなくなってからだった。文彦は、彼女がペットのためにキャリアを投げ出すことには反対だった。
しかし
「あの子にできるだけのことをしてあげたいの」
房江は頑として譲らず、その言葉通り、ジョンが息を引き取るまで、ほとんど付きっきりで世話をした。
「ジョンはフリスビーが得意だったわね」
公園に到着した房江は、がらんとしたドッグランを見渡して、目を細めて言った。
文彦は、今でも時々ジョンの夢を見る。晩年の動けなくなってしまった姿ではなく、投げられたフリスビーの軌道を追って矢の如く走り、ジャンプして見事口でキャッチする精悍な姿だ。文彦にとって、ジョンは弟みたいなものだった。彼の死は、文彦にとっても大打撃だった。
「私を置いて行かないで」
そう言った房江の声が震えていたので、文彦は驚いて彼女を見上げた。
「老いぼれてはいるが、僕はまだまだ元気だよ。まるで二十歳の若者みたいにね」
「だって、どんなに若く見えても、あなた、人間ならもう百歳近いのよ」
房江は顔を両手で覆いしゃがみ込んだ。肩を震わせる彼女の膝に前脚をついて、文彦は彼女の頬をペロペロ舐めた。房江が瞳から生温かい液体を流した時は、文彦が舐めとってやらなければならないのだ。もうジョンはいないのだし、子猫はこういう時、あまり役に立たない。
「そんな顔しないで」
それでも、文彦は表情を変えなかった。
「だって、こんな冷たい雨の中、か細い声で鳴いているんだもの。放っておけないでしょう?」
自分に一言の相談もなく、房江が既に子猫を飼うつもりでいるらしいことに文彦は慄然とする。数年前、十二年来のよき相棒だったジョンが死んだ時、「もう二度と動物は飼わない」と言っていたのに。当時の房江の落ち込みようを思い出し、文彦の心は沈んだ。房江のあんな姿を再び見るのは、耐え難かった。それに、文彦は猫があまり好きではない。房江はテレビであらゆる動物を見て「可愛い」と言うのだが、文彦は犬以外の動物と共に暮らしたいとは思わなかった。
「わかってるわ」と、口を開きかけた文彦よりも先に、房江は言った。
「私は今五十三歳で、この子は多分十年以上生きる。当然、最期は責任を持って私が看取るわ」
やせ細って力なく房江の手に包まれている子猫が果たして明日まで生きていられるかどうか、と文彦は思ったが、一度こうと決めた房江に何を言っても無駄なことはわかっていた。文彦と房江は、もう二十年も一緒にいるのだから。
自宅で翻訳の請負業を営む房江は、好きな時に休憩をとれるという在宅仕事の利点を生かし、甲斐甲斐しく衰弱した子猫の世話を始めた。温めたミルクを飲ませ、体を洗い、塞がってしまった目ヤニだらけの目を丁寧に拭いてやった。医者嫌いの文彦は同行を拒否したのだが、子猫を獣医に連れて行ったり、トイレ用の砂を買ってきたり、あれこれ忙しくしていた。一方、文彦は、子猫を撫でてやろうとさえしなかった。
「ねえ文彦さん。この先しばらく一緒に暮らしていくんだから、仲良くしてあげて」
文彦は日当たりのよいリビングでフローリングの床に寝そべり、広げた新聞を眺めていたのだが、顔を上げて、鼻の上に皺を寄せた。猫が嫌いなことを知っているくせに……憮然とする文彦に、房江は悪戯っぽい笑顔をみせた。
「もしかして、焼いてるの? あなたは私の夫で恋人、そして一番の親友なのに。この子は、そうね、私達の子供でいいじゃない」
房江は子猫をミーちゃんと呼んだ。抗生物質が効いて、目ヤニで塞がっていた目が開くようになると、猫は家中を元気に走り回るようになり、毛並にも艶が出て来た。こうしてみると、なかなかの美人である。子猫は、文彦にじゃれついて邪険に押しのけられても、まったく意に介さないようだった。無骨な彼が、いつの間にか足元に来ていた彼女を踏んでしまったことが何度かあったが、それでも懲りずにすり寄っていく。
「ミーちゃんはあなたのことが好きなのよ」
文彦がどんなにつれない態度を取っても、気が付くと猫はソファーでくつろぐ文彦の傍らに小さな体を寄せて眠っている。夜も房江ではなく文彦の傍らで寝たがった。その無邪気な姿に、遂に文彦の方が根負けした。文彦は軽く開いた口から舌の先をのぞかせた子猫の体を不器用に抱き寄せると、自分の体温で温めてやった。子猫は気持ちよさそうにミュウと息を漏らした。
ある日の午後、仕事を一つ仕上げた房江は、文彦を散歩に誘った。子猫――今では拾われてきた時の倍ほどの大きさになっていた――もついて来たがったが、彼女は留守番となった。隙あらばドアの隙間から外に出ようとするので、猫を脱走させないように外に出るのに一苦労だった。
日差しは暖かかったが、風はまだ冷たかった。文彦は寒い方が好きだった。
「文彦さんもすっかり年をとったわね」
並んでゆっくりと歩きながら、房江は言った。行く先は近所の公園で、ドッグランが併設されている。文彦は片脚を引きずっていた。
「あなたは、見た目は若い頃のままだけど。私の方は、めっきり老けたわ」
「そんなことはない。君は今でも美しいよ」
房江の方を眩しそうに見ながら、文彦はそう言った。
それは文彦の本心だった。出会った当初、房江は外資系企業で翻訳・通訳業務に携わっていた。給料はいいものの仕事は激務で、文彦とのデートもままならなかった。
房江が会社を辞めて在宅ワーカーになる道を選んだのは、ウェルシュ・コーギーのジョンが変性性脊髄症という病にかかり、後ろ脚から始まった麻痺が全身に広がり、遂に動くことができなくなってからだった。文彦は、彼女がペットのためにキャリアを投げ出すことには反対だった。
しかし
「あの子にできるだけのことをしてあげたいの」
房江は頑として譲らず、その言葉通り、ジョンが息を引き取るまで、ほとんど付きっきりで世話をした。
「ジョンはフリスビーが得意だったわね」
公園に到着した房江は、がらんとしたドッグランを見渡して、目を細めて言った。
文彦は、今でも時々ジョンの夢を見る。晩年の動けなくなってしまった姿ではなく、投げられたフリスビーの軌道を追って矢の如く走り、ジャンプして見事口でキャッチする精悍な姿だ。文彦にとって、ジョンは弟みたいなものだった。彼の死は、文彦にとっても大打撃だった。
「私を置いて行かないで」
そう言った房江の声が震えていたので、文彦は驚いて彼女を見上げた。
「老いぼれてはいるが、僕はまだまだ元気だよ。まるで二十歳の若者みたいにね」
「だって、どんなに若く見えても、あなた、人間ならもう百歳近いのよ」
房江は顔を両手で覆いしゃがみ込んだ。肩を震わせる彼女の膝に前脚をついて、文彦は彼女の頬をペロペロ舐めた。房江が瞳から生温かい液体を流した時は、文彦が舐めとってやらなければならないのだ。もうジョンはいないのだし、子猫はこういう時、あまり役に立たない。
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