なぜだかそこに猫がいた:短編集

春泥

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第一話 猫と老人

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 彼は野良猫である。名前は、あったりなかったりする。
 花屋のお姉さんは彼を「ぶうちゃん」と呼ぶ。それは、彼の毛皮がまだら模様であることに由来しており、彼の体形とは何の関係もない。ぶうちゃんは、花屋では人気者だ。お客さんからは

「まあ、なんてかわいい猫ちゃんかしら」と頭や背中を撫でられる。

 先輩猫のヤマさんに言わせると、彼は人間に心を許し過ぎているということだった。

「おれなら、通りすがりの人間になんか絶対に触らせないね。特に、あの四角いやつをかざして気安く寄って来る連中は、威嚇して追っ払うに限る。隣町で、猫の変死体がいくつも見つかっているのを忘れるな」

 彼だとて、見ず知らずの人間、特に彼の姿を見つけるや否や「きゃああ可愛い!」と金切り声をあげて突進して来る人間は苦手である。しかし、花屋のお客に愛想よくするのは、あくまでも時々彼に食べ物をくれる花屋のお姉さんに対するサービスだ。ヤマさんのような家持ちの猫と違い、野良猫の彼が生きていくためには、人間に対し甘い声ですり寄っていかなければならない時だってある。

 とはいえ、なかにはむき出しの敵意を向けてくる人間もいて、これはむしろわかりやすくてよい。
 例えば、ガーデニングが趣味で庭に色とりどりの花を咲かせている奥さんは、大事な花壇をトイレ代わりにするからと、猫という猫を毛嫌いしている。彼女の家の塀を歩いているところを見つかろうものなら、目を三角にした奥さんから「このドラ猫!」と箒で追い立てられることになる。彼自身は奥さんの庭を拝借して用を足したことはないのだが、そんなことはお構いなしだ。この奥さんが殺鼠剤を庭に撒いて「猫が食べればいいと期待している」とお嫁さんに話していたことを鴉から聞いたとき、猫仲間一同ゾーッとしたものだ。

 しかし、その殺鼠剤は、その家のお嫁さんが密かに回収し捨ててしまったことを彼は知っている。お嫁さんは実は猫好きだが、猫を憎悪している姑の前ではそれを出さないようにしている。なぜ彼がそんなことを知っているかというと、お嫁さんは時々彼がねぐらにしている寂れた神社にやって来るからだ。陽が当たらないため常にじめじめし、参拝人などめったに訪れないその無人神社にやって来ると、お嫁さんは膝を抱えてしゃがみ込み、蟻の行列を眺めながら長いため息をついたりする。猫の無差別殺戮を阻止した偉大な人物であっても、人生というのはままならぬものらしい。彼が横に座って

「ニャア」と鳴くと
「あら、猫ちゃん」と少し笑顔になる。

 明らかに彼に好意を抱いていながら、決して彼に触れようとしないところも彼は気に入っているのだが、もう少ししたら彼女の足に体をこすりつけてみようかと彼は思い始めている。彼女は明らかに良い人間なので、そのぐらいの名誉を授けても誰も文句は言わないはずだ。


 ヤマさんの家は、庭に鯉が泳ぐ池があるような大きなお屋敷だ。彼はそこでは「ベン」と呼ばれている。しかつめらしい顔つきがベートーベンを彷彿とさせるからだそうだ。そろって猫好きなヤマさんの家族は、ベンの訪問をいつも歓迎し、他では見たこともないようなご馳走でもてなしてくれる。彼らはどうやら、野良猫のベンを新しい家族の一員として迎えいれる計画を立てているらしいのだが、それを知って以来、彼の肢はヤマさんの家から遠のきがちだ。

「この家の一体何が不満なんだよ、ベン」

 ガラス戸の内側からヤマさんは言う。物心ついたころから野良だった彼には、立派な毛皮が汚れるからと外出を許してもらえないような家猫になるのがそれほど素晴らしいこととは思えなかった。毎日決まった時間にご飯がもらえたり、真冬に凍えたりする必要がないというのは確かに魅力的ではあろうが。

「お前のような世間知らずは、そのうち痛い目に遭うぞ」

 ヤマさんは呆れていたが、ペットショップから現在の家に引っ越して依頼、箱入り息子としてあげ善据え膳生活を送るヤマさんに比べれば、自分の方が余程世間の浮き沈みというものをよく知っている、と彼は自負している。


 何事にも拘束されない彼が、ほぼ毎日足を向ける場所があった。それは、町はずれの小さな一軒家である。その家は周囲をぐるりと高いコンクリートの塀で囲まれていた。彼は塀の上に飛び乗ってうんと伸びをすると、そこで丸くなる。そこからは、線香の煙が漂うなか、仏壇に手を合わせる老人の横顔が見えた。

 彼の記憶は、この家の縁の下から始まる。もう何年も前のことである。暗闇の中でミューミュー鳴いているのは彼だ。体は痩せさらばえて、目やにでほとんど塞がった瞳は、もう二度と光を見ることもないかと思われた。

 目を覚ました時には、軟らかいものにくるまれていた。

「暴れないでちょうだい。お薬をのまないとだめなのよ。苦くても我慢してちょうだいね」

 その人の手はガサガサしていたが、とても暖かかった。

 その家の床下が彼の寝床になった。彼の頭上――人間が暮らしているスペース――からは時々あの優しい人が誰かと言い争う声が聞こえてきた。

「猫なんて汚らしい生き物を家で飼うことは許さん。家中傷だらけにされてしまうぞ」
「いいじゃありませんか、今更家が傷ついたところで、子供たちはそれぞれ自分の家庭を持っているんですし、こんな古い家、誰もほしがりませんよ」

 彼はこの家の縁の下で餌を食べ、眠り、大きくなった。もう一人の人間に見つかるとひどい目に遭わされるため、あの優しい声に呼ばれるまでは辛抱強く縁の下で待っていた。

 しかし、毎日欠かさずご飯をくれたあの優しい人が、ある日ふっつりと姿を消してしまった。時々庭に落ちているりんごの芯や鮭の切り身の皮といった残飯をしゃぶりながら、彼は辛抱強く待った。遂に空腹に耐えかねて、それまで知っていたその家の縁の下と小さな庭という狭い世界から飛び出すことになるのはさらに数ヶ月経ってからだった。

 仏壇に向かって手を合わせていた老人は今、仏間の座卓に移って湯呑を片手に持っている。彼は塀の上から庭に飛び降りた。あの優しい人がいた頃とは違って、雑草がぼうぼうに伸びてまるでジャングルのようだ。
 ニャアと一声鳴くと、老人が彼の方を見た。

「お前か」

 老人は忌々しそうに言って手の中の湯呑に視線を戻し、それを座卓の上に置いた。昔は彼の姿を見つけようものなら裸足で庭に飛び降りてきて追いかけまわしたものだが。

 彼は縁側に飛び乗った。肌寒い日であったが、雨戸も障子も開いていたので、仏間に侵入することができた。

 彼が入って行っても老人は動かなかった。彼と老人の間にはまだ二メートルほどの距離がある。彼はもう少し老人に近づいた。老人の横顔は動かない。座卓の上には汚れた食器が積み上げられているが、明日「ヘルパー」と呼ばれる人が来れば片付けられるはずだった。

「ニャア」

 彼はもう少し老人に近づいた。老人は湯呑の中身をぐっと飲みほした。中身がお茶ではないことを彼は知っている。

「ニャア」
「うるさい、この泥棒猫が」

 老人が投げつけた湯呑は彼の頭をかすめただけだったが、壁に当たって飛び散った破片に気を取られている隙に、彼の体は老人の骨ばった手に捕らえられていた。肢をばたつかせ老人の手に咬みつこうとしたが、四本とも肢をがっちり掴まれたうえに頭の後ろを押さえこまれて、身動きできなかった。

「この馬鹿猫が」

 そのやせ細った体からは想像もつかない力で掴まれた彼の肢はミシミシと音を立てた。隣町――町はずれにあるこの家からはすぐそこ――で見つかった猫の死骸は、ことごとく肢を折られていたとヤマさん宅の庭で開かれた猫会議で聞いたことを彼は思い出した(ヤマさんはガラス越しの参加であった)。

 あの人、本当はいい人なのだけど

 あの優しい人の声が遠くから聞こえた。あの優しい人が嘘をつくわけがない。そう思ったが、老人の指に込められた力が徐々に強くなり、彼はギャーッと悲鳴を上げた。

「易々と捕まりおって、この馬鹿猫が」

 老人はもう一度呟いて、彼の体を放り投げた。彼は畳の上に背中で着地して身を翻すと、素早く庭に駆け下りた。

「隣町でおかしな輩が猫に悪さをしているということを知らんのか。それでなくとも、お前のような野良猫は用心するべきなんだ。親切面した人間がみな善人だとは限らないからな。おれは何度もあいつにそう言ったのに、あいつはお前を猫かわいがりするだけだった」

 老人は座卓の上の小鉢を取って縁側まで来ると、中身を庭にぶちまけた。

「おれはもうじき老人ホームに入れられる。そうなったら、もう餌をやることはできんからな」

 そう言って老人は障子をぴしゃりと閉めた。障子が閉まる前に小さな声で「じゃあな、ミケ」と聞こえた気がした。ミケというのは、あの優しい人が彼を呼ぶときの名前だ。

 彼は庭の上にちらばった煮物を平らげてから、いつものように家の周りを巡回し、数匹のゴキブリとネズミ、それに蛇を一匹仕留めると、ひらりと塀の上に飛び乗った。障子は閉じられたままだった。またお酒をのんでいるのだろう。まったく、仕方のない老人だ。

 ミケは明日もまたここに戻って来るつもりだ。
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