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第五章 ヌガキヤ村の惨劇(フルバージョン)

エピローグ

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 闇のなかを、駆けている。
 金色に光る瞳は、闇の奥まで見通すことができる。
 彼女は、かつてないほどの力が全身に満ちているのを感じている。
 だがこの森は、彼女に敵意を抱いている。ドラゴンと敵対する魔女たちの棲む森だから。冬でも葉を落とすことがない大木が生い茂る森の奥は昼でも暗いが、夜はインクをぶちまけたような闇だ。その闇が、のしかかってくる、押し潰そうとする。毛穴の一つ一つから、彼女の中に侵入しようとする。
 だが、今の彼女にはそのような圧力は無意味というもの。
 スレイヤーから肩に受けた傷は、新たな鱗で塞がりかけていた。あのときは、慣れない形態のために不覚を取っただけ。

 あのとき

 洞窟の中で、親ドラゴンからの呼びかけに応じて不器用に羽をはばたかせ懸命に巣から飛び立とうとした仔ドラゴンを衝動的に、殺した。理由は彼女自身にもわからない。この醜い世界が、隅から隅までドラゴンに破壊され尽くすことを、幼い頃より夢見てきたのではなかったか。
 そのドラゴンの仔を、絶滅の危機に瀕している種の貴重な若いヒナを、殺した。
 老いたドラゴンが一族の未来を託した仔を。
 だが、ドラゴンの跡を継ぐのは自分だと、その時思ったのだ。そして、彼女の爪に屈して、無様に血を流しながら息絶える仔の姿を冷ややかに眺めていた彼女の体に異変が起きた。
 外部から呼びかける親の声はまだ聞こえていた。まるでその声に呼応するかのように、彼女の肉体は変化し、そして

 気が付けば彼女は、最古のドラゴン・ゴーガンの後について、大空を羽ばたいていた。

 それなのに

 卵を産んだ疲労のせいなのか、寿命が近づいていたからか、ゴーガンはあの卑しい魔女にあっさり屈してしまった。奇しくも「ドラゴンは、女が仕留めることになるだろう」と予言した老いぼれ魔法使いの言葉が的中したことになる。それも、二度。だがそんなことはただの偶然だ。男か女か、どちらかであるなら、確率は半々だ。
 そしてを失った彼女は、憎い男の姿を上空から捕え、森に逃げていくその男の後を追って森に攻め入った。そして

 腹立たしい。

 あの子供のような男はなんだ。あろうことか、素手でドラゴンを殴りつけるとは、頭がおかしいのか。そのうえ、ヒトにあるまじき怪力。
 そして、あの老いぼれスレイヤーと、それに付き添っていた女。誤算が続いて撤退を余儀なくされたが、一旦ヒトの姿に戻った彼女の体には、素肌の上に細かく繊細な鱗が生えかけていた。首から下は概ね体表面が鱗に覆われたため、底冷えのする夜の森でも寒さは感じなかった。
 先ほどは、愚鈍なトロールに遭遇したので、粉々に砕いてやった。大学の調査隊を襲ったウスノロのあいつだ。まだ本調子ではないから、余計な体力を消耗してしまったが、それも徐々に回復しつつある。
 ゴーガンのあとを継ぐのは自分だという自負が彼女にはある。彼女はさらに成長して、強大な力を得るだろう。そうすれば、王都に乗り込んで行ってあの多情な男を王宮から引きずり出し、ずたずたに引き裂いてやることだってできる。

 テキサは、足をとめ周囲を見回した。いまだ深い森の中で、月も星も見えないため、方角がつかめないでいる。ドラゴンの姿になれば手っ取り早いが、まだ肩の傷が完全に癒えていない。いやでも少し休むしかない。
 ここはかつて、彼女が父王から賜った指輪を捨てた森。そしてそれを、あの炭焼きの子供が見つけ出した。どうせ見つかるわけがないと、責任を取らせて首を斬ってやるつもりでいた彼女は立腹し、怒りを少年に向けた。だが、よく見ると、整った顔立ちで、平民にしては賢そうだった。だから情けをかけてやったというのに、あの子供ときたら。

 だが、それも済んだことだ。

 ドラゴンになりし彼女はこれから千年、いやもっと生きながらえるが、あちらは放っておいてもわずか百年もせず消える命だ。

「この、忌々しい森が」

 彼女は声に出して毒づいた。不快な記憶ばかり甦るのは、この森の悪意のせいだと彼女は感じている。

「貴様らなどには、屈せぬぞ」

 ざわざわと近くの茂みが音を発し、テキサは警戒して耳をそばだてた。この森は、動物が極端に少ない。フクロウの声もしなければ、秋の虫が鳴くこともない。夜行性の動物の一匹にもいまだ遭遇しない――先ほど仕留めたトロールを除いて。

 見れば、女が一人暗がりに立っていた。田舎者らしい野暮ったい姿をしている小柄な女だが、口元に笑みを浮かべ、近づいてくる。テキサの髪が、ざわざわと波打った。

「お前は、魔女か」

 淡い髪色、華奢な体つき、まるで少女のように見えるが、テキサはそのような外見には惑わされない。

「あなたはなんなの」女は不敵な笑みを浮かべて応える。
「わたしは」言葉に詰まって、テキサは憎々し気に吐き捨てる。
「お前には関係ない」
「あら、そうかしら」
 知らぬ間に間合いを詰めた女が、驚くほど近くに立っていた。テキサはわずかに怯んで女から離れようとしたが、左の手首を掴まれ、肩の傷に響いて顔をしかめた。

「なにをする!」
「おもしろいわねえ」女は、テキサの皮膚にびっしり生えている鱗に手をすべらせた。
「こんなのは、初めて見たわ」
 
 かさこそと、周囲のあちこちで音がした。木々の陰、茂みの中から、いくつもの人影が現れた。女だ。彼女たちは闇の中では空虚に見える暗い眼をテキサにひたとすえ、全員にたにたと笑っている。
 囲まれた。

 テキサの背筋を冷たいものが走った。

 テキサの手首を掴んだままの女は、他の女たちと同様ににたにたわらいながら、顔を寄せると、テキサの金の瞳を覗き込む。
「ねえ、あなた。あなたからは」
 形のよい唇の端から透明な液体が、つ、と流れ落ちる。周囲を囲んだ女たちの口からも、液体が溢れて滴り落ち、それが草や葉っぱを鳴らしている。
「うちの息子のにおいがするのよ。なぜかしら」女の整った顔から笑みがかき消えた。

 テキサが鋭い鉤爪を繰り出すのとほぼ同時に、ディオネアも歯を剥き出しにして襲いかった。周囲を囲っていた森の魔女たちも、一斉に。

(了)
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