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第四章 正直者の帰還

第六話 リヴァイアさん(2)

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「リヴィ」
 樽を背負った女の背中を睨みながらシロはその名を呼んだ。
「なによ、馴れ馴れしいわね。『リヴァイアさん』って呼びなさいよ」
 憮然とするシロにリヴァイアは振り返った肩越しに言う。
「あなたはねえ、一晩共に過ごした女に名前すら訊かなかったじゃないの。失礼だったらありゃしないわ」
「……」女の言葉に一理ないわけではなかったが、共に過ごした時間の大半をシロは気絶していた。正直、女に名を尋ねる余裕などなかった。
「それより、お腹が空いたんだけど。森に入る前に腹ごしらえをしたいわ。あなた、お金持ってる?」
 金貨の入った財布はどんまい食堂のどんまいシスターに渡してしまったが、幸い路銀の方はほぼ手付かずで残っていた(キンシャチのナカさんが宿と食事を提供してくれたおかげである)。シロはリヴァイアを海猫とタニシ亭に案内した。

 全身緑色の猫と黄色に黒の水玉模様のザリガニが色鮮やかに描かれた入口の看板を眉間に皺を寄せながら眺め「海猫……タニシ……」と呟く女を置いて先に店内に入ったシロは、女店主のニコミンに笑顔で迎えられた。
「ミラクル聖人!」
「その呼び方はやめてください」
 シロは大股で店主の居るカウンターまで行き腰かけると、早口で「連れに食事をさせたいんだが、予算はこれだけだ。これで足りるだけの食事をだしてやってほしい」と路銀の入った財布の中身を全てカウンターにぶちまけた。
「何言ってるの。聖人様からお代はいただけないわ」
「連れは見かけによらず大食いなんだ。受け取ってもらわないと困る」
「ええ? お連れさんって、何十人もいるの?」カウンターの上に散らばる銀貨や銅貨をざっと勘定しただけでも、団体でふんだんに飲み食いできる結構な金額だった。
「いや、一人なんだが」
 カランコロンとドアが開いて、リヴァイアが入ってきた。それを見たニコミンが目を細めてシロを見た。
「あなた、ドラゴン・スレイヤーを捜しに行ったんだと思ったけど」
「色々事情があってね。とにかく、見かけで判断しないでくれ」
 ふん、と鼻息荒く、女店主はカウンターまでやってきたリヴァイアに向き合った。
「いらっしゃいませ、お嬢さん。何になさいます?」
 リヴァイアは猫なで声の中に明白な棘を含む女店主の口調には気付かない様子で、にっこりほほ笑んだ。
「本場の赤煮込みを食べさせてくれるお店だって聞いてきたのよ」
「あらあら、まあまあ」女店主の相好が崩れた。
 なんてやつだ。ナガミ村の住民の心をたちまち掴んでしまったぞ。シロは顔をしかめた。
「じゃんじゃん持ってきてくださらない。私、とてもお腹が空いているの」リヴァイアは背負子を降ろして席につくと、舌なめずりをした。

 リヴァイアがぐらぐら煮え立った赤煮込みの鍋の内容物を冷製スープか何かのように豪快に啜り呑みこんでいくのを横目に、シロはニコミンから村の情勢を聞いた。女教授はこの酒場にもやって来て、ちょっと人には言い辛いような仕事を頼める連中を紹介してくれと言ったそうだ。
「一目で、ヤな感じだと思ったのよ。お高くとまっちゃってさ。『赤スープはいかが』って言ったら『いらない』って。『いらない』って言ったのよ、信じられる? コーヒーに無料でつくサービスだって言ったのによ? いけ好かない女。だからさ、知り合いのごろつきの中でも、とにかく使えない連中を紹介してやったわ」
「あの、おかわりまだかしら?」リヴァイアが赤カツレツの最後の一切れで皿についた赤ソースをきれいにぬぐいとってから口に放り込んで言う。
「ちょっと、次々持って来てっていってるだろう。お客さんがお待ちなんだよ!」と店主ニコミンは奥の調理場に向かって怒鳴り、リヴァイアに向かって愛想よく言う。
「すみませんねえ、お待たせしちゃって。お客さんみたいな食べっぷりの人は初めてで」
「こちらもとってもおいしいわ。甘く煮た豆をバタートーストの上に載せるなんてよく思いついたわね」と厚切りのトーストを三口で食べ終えたリヴァイアが指を舐めながら感嘆の息を漏らす。
 ニコミンの目がさらに細くなった。シロは食欲がなくなるのでリヴァイアに背を向けて赤スープを機械的に口に運んでいる。
「女将さん、お料理お持ちしました」カウンターの奥から、両手に盆を載せた少女が出てきた。
「あっ」
 少女は、シロを見て目を丸くした。
「シロ聖人!」
「聖人はやめて……あ、なんだ。デイジーじゃないか」
 ヌガキヤ村のヌー村長の三女デイジーだった。長い髪を三つ編みにして、前掛けをしている。
「ヌガキヤ村の避難民をうちの店でも何人か受け入れてるの。別にいいって言ってるのに、手伝うって聞かなくって」とニコミン。
「だって、お姉ちゃん二人と私、お姉ちゃんの子供三人もお世話になってるんですもの。一番上のお姉ちゃんは子供の世話で忙しいし、二番目のお姉ちゃんはお腹が大きくて、働けるのは私だけ。それに、ただじっとしてると不安で仕方ないから」
 デイジーはスミレ色の瞳を伏せて言う。
「ちょっと、それ、はやくもらえる?」
「あっ、すみません」リヴァイアの前に盆の上の料理を並べたデイジーは、女の豪快かつスピーディーな食べっぷりに口を開けてしばし見とれた後、シロに向き直った。
「シロ聖人がキンシャチから戻られたってことは、ドラゴン・スレイヤーが見つかったってことですよね」
 キラキラ輝く瞳は、デイジーの一番上の姉カイリーとよく似ていた。シロはどぎまぎしながら
「厳密にいうと、スレイヤー本人ではなくて……」
「私よ」
「えっ」
「私がドラゴンを仕留めに来たの」
 そう言ってリヴァイアはまだ火傷しそうに熱いであろう土鍋を両手で掴んで上を向くと、スープを喉に流し込んだ。
「ええっ」とデイジーとニコミンが同時に口にして、シロの方を見た。
「これには、事情が……」
「シロ聖人! 私というものがありながら」デイジーのスミレ色の瞳にみるみる涙が膨れあがる。
「はあっ? こんな子供にあなたなにをしたの」ニコミンの表情が険しくなる。
「俺は何も」
「いやだ、あなたロリコンなの。いやあだあ」女が付け合わせのボウル一杯のライスを二口で平らげて言う。
「おい」
「私はもうじき十三ですから。そうしたら、正式に結婚だってできるんですからね」とデイジーが敵対心を剥き出しにリヴァイアを睨みつける。
 マダ十二、モウジキ十三、と店内にいるまばらな客がざわついた。
「ちょっと、俺は何も」
「私、村に残した父のことが心配で心配で……でもシロ聖人のこと、信じて待ってたのに。もう、知らない」
 いや、知らないと言われても。シロはニコミンやリヴァイアだけでなく、店中の客から睨まれていることに狼狽えた。
「断じて、俺は何もしてない!」

 結局、海猫とタニシ亭の朝の仕込み分の食料を全て平らげ店じまいさせたリヴァイアは、「まだちょっとものたりないわねえ」と呟きながら外套のポケットから金の壺を取り出して中身を指ですくって舐めて、ポケットに戻した。背中にはハッチョの樽を背負っているが、その足取りは軽やかだ。背負子には樽の上にニコミンからもらった弁当の包みが載せてあった(調理場の残りの食材をかき集めたらしい)。
「これから森に入るのねえ。楽しみだわ」
 なだらかな草の生えた斜面を登り森の入口が近づいてくるにつれ、リヴァイアの機嫌はよくなっていった。
 シロは、店を出る際に女店主が暗い顔で言いかけてやめた言葉を思い出していた。
「ねえ、彼女、あの食べっぷり、もしかしてドラゴン・イー……」ニコミンはそこで言葉を切ると、かぶりを振って「いいえ、そんなはずないわね。だってはただの言い伝えだもの」と無理に笑顔を作った。
 先を急いで気持がはやっていたため問いたださなかったが、あれは何を言うつもりだったのか。
 ドラゴンイー?
 説明できない嫌な感じがするのを無理に振り払ってシロは女の後を追った。
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