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第二章 魔都キンシャチで正直者は女に溺れる?

第十四話 聖人を笑う者は聖人に泣かされる(2)

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 肉に食い込んでいた指をシロの胸から離し、テキサは血に濡れた指先をうっとりと眺めた。彼のシャツは破れ、流れ落ちた血がシーツに染みを広げている。
「快楽と苦痛は紙一重なんですって。このまま死んでもいいっていう思いをさせてあげるから感謝しなさい」
「俺は、そんな、変態、じゃ、ない」
「まったく、つまらない男ねえ」
 テキサは苦しそうに喘いでいるシロの口に指を突っ込むと、舌を掴んで引っぱった。そのまま引きちぎられるのではないかと恐怖するシロの目から涙が流れた。顎も外れそうだったし、耐え難い痛みだった。
「今度余計なことを言ったら、引っこ抜いてやるから」
 テキサは屈みこんでシロの顔を覗き込んだ。爬虫類を思わせる彼女の瞳を正視できず、シロは固く瞼を閉じた。
「純然たる恐怖。いい匂いだわ」
 テキサは深く息を吸い込んで、満足げに呟いた。それから、流れ落ちた涙を舐め取り、呻き声をあげ大きな体を精一杯縮めるシロの胸についた無残な傷跡に指を這わせた。
 十年以上前も、この男は――その時はまだ十代の少年だったが――仮にも一国の王女からのに、さも迷惑そうな顔をして、早く済めばいいのにと一心に願っている様子だった。
 苦い記憶と共に新たな怒りが湧き上がって来て、このまま傷で開いた皮膚に指をかけて全身の皮をひんむいてやりたい衝動に駆られたが、それでは見た目の美しさが損なわれると思いなんとか自制した。道徳や常識などといったつまらないものに囚われているつまらない男のくせに、見た目は大層美しかった。十年ほど前は子供らしく無邪気だった顔も、今は精悍に引き締まり、体は逞しく成長している。破壊してしまうのは、惜しい気がした。
 だが、王の四番目の妻の子であっても、王女は王女、テキサは我儘で、欲しいものは手に入れなければ気が済まない性分だった。大学で彼女の本当の身分を知る者は少ないが、そんなものを振りかざさずとも、美しく聡明な彼女は、男でも女でも望めば簡単に手に入れることができたのに、この男ときたら。農村出身で炭焼きになったつまらない男が、二度まで彼女を拒絶しようとしている。少女時代のまだ力の弱かった彼女ならともかく、今の彼女に許せるはずがなかった。
 結局、この男を、殺すことになるのか
 無駄に頑固で村人を救うという大義に酔っている馬鹿者であれば、そうせざるを得ないだろうと彼女は思う。彼女は別に拷問マニアではないから、殉教者の類はただひたすら面倒で、わざわざ手間暇をかける値打ちもないと思っている。
 せめて、あまり苦しまない方法で息の根を止めてやろう。
 テキサは静かに胸の前で結んであった紐をほどき、ボタンを外した。するすると衣の擦れる静かな音に薄目を開いたシロは、薄闇の中に露わになった彼女の上半身が仄白く輝いているのを見た。それは、恐らく美しいと断じてもよかった。怪しく光る金の瞳と無数に蠢く蛇の髪を差し引いても。
 形の良い唇の両端がにゅっと持ち上げられ、鋭い牙を覗かせた顔が近づいてくるのを、シロは成す術もなく見つめている。胸の傷から流れ落ちる血がシーツに染み込んでいるのが体の下で冷たく感じられる。彼の唇に重ねられた彼女のそれは柔らかかったが、牙が当たって裂かれた皮膚から流れた血が口に入り込み、彼はむせた。それでも女は彼を離そうとせず、彼の口の中を這い回る彼女の舌が、ありえないほど喉の奥へと入り込んでいく。
 視界が段々暗くなっていくのを彼は喜んで受け入れる。
 流れ出ているのは彼の血液だけではないようだった。
 彼女の蛇が彼の頭や肩にその牙をくい込ませていたが、彼は殆ど感じることができなかった。体は華奢な割に豊満な彼女の胸が自分の胸に押し当てられている柔らかな感触も、どこか遠くの他人事のようであった。呼吸器を彼女の舌で塞がれているため、酸素不足で意識が朦朧としていた。
 彼女が長い舌を引っ込め、唇を離しても、シロは呼吸を再開しなかった。
 ほとんど光が消えかけている彼の瞳を見て、女は艶然と微笑んだ。優しく頬を撫でても男は反応を示さない。
「まだ、死んでもらっちゃ困るのよ」
 女は体をずらして、頬を撫でていた手を下に滑らせていく。血塗れのシャツは、すっかり破れてはだけてしまっている。剥き出しになった彼の胸には無残な傷が何本も走り、じくじくと血を流していた。彼女の白い胸も朱に染まっている。彼のズボンの中に滑り込ませた女の手がはたと止まった。何か固いモノが指先に当たっていた。
「なんだ、これは」
 引っ張り出してみるとそれは、薄く丈夫な革の包みで、広げてみると、金貨が三枚入っていた。
「こんなを後生大事に身に着けているとは……」
 女は革の財布ごと金貨を放り投げた。床に落下した金貨はちゃりんちゃりんと音を立ててあちこちに転がった。
 シロの体が、ピクリと動いた。
「まだ何かある。これは――一体なんだ?」
 呆れ顔の女が引っ張り出したのは、コルク栓でしっかり蓋をされた小瓶。女の小さなてのひらにもすっぽり収まるぐらいの、ごく小さなものだ。
 女の額や眉間に醜い皺が刻まれ、血塗れの牙が剥き出しになった。コルク栓には破損箇所もなくしっかり瓶を密閉しており、匂いも何も感じられなかったが、何かとても嫌な感じだった。
 女は狭い室内を見回し、カーテンが固く閉ざされた窓に目を止めた。先ほど感じた「嫌な予感」が刻一刻と大きさを増し、その小瓶を手に持っているのが危険に感じられた。

 バン!

 大きな音を立てて、窓が開いた。彼女はその窓から小瓶を投げ捨てるつもりだった。しかし、最後の力を振り絞ったシロが大きな拳で女が自らの顔の前に掲げている小瓶を殴った。室内を明るい光で満たした窓に気を取られていた女の防御が遅れ、シロの拳は小瓶ごと女の顔に叩きつけられた。シロの拳と女の顔の間で瓶が割れ、破片が二人の肉を切り裂いた。
 だがそんな切り傷などは、ものの内に入らなかった。
 女はけたたましい悲鳴を上げて、両手で顔を覆った。瓶の中身の液体が顔にかかり、その部分が白い煙を発しながら焼けただれていた。シロにもいくらか液体がかかったが、瓶の破片による切り傷以外の損傷は与えなかった。
「くそっ、忌々しい老いぼれ魔法使いめ!」
 凄まじい怒気を孕んだ女の叫び声を最後に、シロの意識は完全に暗闇に包み込まれた。
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