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第一章 正直者は馬鹿を見る?
第五話 しばしの別れ
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「父さん」
シロの何度目かの呼びかけに、うつむいたままだった父親がゆっくりと顔をあげた。
白濁した目は、シロに向けられているようで、その実何も見ていないのではないかと思われた。頭のてっぺんに斧が深々と刺さって、柄が顔の前に垂れている。血は、驚くほどちょっぴりしか流れておらず、斧の刃がめり込んだ皮膚の周辺に僅かにこびりついている程度。髪も皮膚も、そしてなぜか着ている物まで色が抜け落ちたかのように白く、それは光を発しているわけでもないのに暗い森の中でも仄白く浮かび上がって見える。
「父さん、あー、元気そうだね」シロは咳ばらいをしながら、言った。
これは嘘ではない。頭に斧が刺さっているにしては、という意味においてではあるが、嘘ではない。
父は無言でシロを見つめていたが、やがてそっぽを向いてゆっくりと歩き出した。シロはその後ろ姿を見送ってから、無理に笑顔を作って少し後ろで待っていたトロちゃんのところに戻った。
「あー、おやじさんは、あー、変わりないみたいでよかった」
トロちゃんは地面を爪先でほじくりながら言った。
「うん。久しぶりに会ったけど――全然、なんにも変わってなかったな」
シロは溜息をついた。
再びトロちゃんの肩に乗せてもらって移動を再開したが、もはや眠気に襲われることはなかった。
父親があんな風になる前、シロはまだ子供で、父母は連日喧嘩ばかりしていた。父は腕のいい炭焼きだったが大酒のみで、女好きだった。シロの記憶の中の母は、寂しそうな笑みを浮かべ、かつては美しい人だったのだろうが、疲れ切った顔をしていた。
そして、あの日がやってきた。
子供は勿論、大人だって夜の森の中をうろつきまわったりしないものだが、あの日子供のシロは、怒鳴り合う両親の声に耐えられなくなり、真夜中に家を飛び出した。何度もつまづき、枝に体のあちこちを傷つけられながら、辿りついた崖の縁に立ち、暗い谷底を見下ろした時に、崖から転落して困っているトロールの子供を見つけた。
――なんでそんなところに落っこちたんだ。トロールってバカだな!
誰でもいいから、怒りをぶつけたい気分だったのだ。トロールは獰猛で危険な怪物だが、動きも頭の働きも鈍いと聞いていた。旅人を襲う恐ろしい化け物だと両親から聞かされていた。
――きれいな花が咲いていて、見とれていたら落ちたんだ。
トロールの子供は言った。シロが投げかけた酷い言葉も意に介さないようだった。
丸い月が出ていた。
岩のようにごつごつした醜い顔をしているくせに、何を言っているのかとシロは周囲を見た。
トロールの子が足を滑らせた思しき痕跡を残す崖の上から少し下の絶壁に、白い花が咲いていた。それは、取り立てて美しいということもない平凡な花のようにシロには思えた。
――こんなつまらない花を摘もうとして落ちるなんて間抜けだな。お前はもう朝までそこから動けないだろうから、石になって死んじゃうんだぞ!
心の中にどす黒い物が渦巻いていて、それがシロにそんな言葉を吐かせていたのだが、幼い彼にはどうしようもなかった。
しかし、トロールの子の返答に、シロは言葉を失った。
――摘もうとしたんじゃない。摘んだら、すぐ枯れてしまうじゃないか。もっと近くで見たかっただけだよ。
シロはその子を助けることにした。
「ほーら、着いたよー」
森を抜けて、後はなだらかな山の斜面を下って行けばよかった。裾野にはナガミ村が見える。辺りはまだ暗かったが、夜明けが間近に迫っている気配が感じられた。トロちゃんは、太陽が顔を出す前にねぐらの洞窟に帰らなくてはならない。
「気をつけてね。シロはしっかり者だけど、ちょっとお人好しなところがあるから心配だなあ。オレがついて行ってやれたらいいんだけど」
「ありがとう」
手を振って森の中に戻っていくトロちゃんの背中を見つめていたシロが「トロちゃん」と呼び止めた。
「んー?」
「俺さあ」
「うん」
「トロちゃんのこと大好きだよ」
トロちゃんはしばらく無言でシロを見つめていたが、やがて恐ろしい勢いで駆け寄ると、シロを突き飛ばした。シロの体は吹き飛ばされて山の斜面をごろごろと転がり落ちた。
「もーっ、何言ってんの? バカじゃない?」
ぐるんぐるん視界が回る中、トロちゃんの怒ったような声を聞きながら、シロは叫んだ。
「今言っとかなきゃと思ったんだよ!」
「もー、二度と会えないようなこと言わないでよ! ちゃんと戻って来なかったらヌガキヤ村を襲って村人全員食っちゃうからね!」
「やめてよ、トロちゃんにそんなことできっこないでしょ」
ようやく回転が止まってくらくらする頭でどうにか立ち上がりながらシロは言った。
「俺は必ず戻って来るから、待ってて」
シロの何度目かの呼びかけに、うつむいたままだった父親がゆっくりと顔をあげた。
白濁した目は、シロに向けられているようで、その実何も見ていないのではないかと思われた。頭のてっぺんに斧が深々と刺さって、柄が顔の前に垂れている。血は、驚くほどちょっぴりしか流れておらず、斧の刃がめり込んだ皮膚の周辺に僅かにこびりついている程度。髪も皮膚も、そしてなぜか着ている物まで色が抜け落ちたかのように白く、それは光を発しているわけでもないのに暗い森の中でも仄白く浮かび上がって見える。
「父さん、あー、元気そうだね」シロは咳ばらいをしながら、言った。
これは嘘ではない。頭に斧が刺さっているにしては、という意味においてではあるが、嘘ではない。
父は無言でシロを見つめていたが、やがてそっぽを向いてゆっくりと歩き出した。シロはその後ろ姿を見送ってから、無理に笑顔を作って少し後ろで待っていたトロちゃんのところに戻った。
「あー、おやじさんは、あー、変わりないみたいでよかった」
トロちゃんは地面を爪先でほじくりながら言った。
「うん。久しぶりに会ったけど――全然、なんにも変わってなかったな」
シロは溜息をついた。
再びトロちゃんの肩に乗せてもらって移動を再開したが、もはや眠気に襲われることはなかった。
父親があんな風になる前、シロはまだ子供で、父母は連日喧嘩ばかりしていた。父は腕のいい炭焼きだったが大酒のみで、女好きだった。シロの記憶の中の母は、寂しそうな笑みを浮かべ、かつては美しい人だったのだろうが、疲れ切った顔をしていた。
そして、あの日がやってきた。
子供は勿論、大人だって夜の森の中をうろつきまわったりしないものだが、あの日子供のシロは、怒鳴り合う両親の声に耐えられなくなり、真夜中に家を飛び出した。何度もつまづき、枝に体のあちこちを傷つけられながら、辿りついた崖の縁に立ち、暗い谷底を見下ろした時に、崖から転落して困っているトロールの子供を見つけた。
――なんでそんなところに落っこちたんだ。トロールってバカだな!
誰でもいいから、怒りをぶつけたい気分だったのだ。トロールは獰猛で危険な怪物だが、動きも頭の働きも鈍いと聞いていた。旅人を襲う恐ろしい化け物だと両親から聞かされていた。
――きれいな花が咲いていて、見とれていたら落ちたんだ。
トロールの子供は言った。シロが投げかけた酷い言葉も意に介さないようだった。
丸い月が出ていた。
岩のようにごつごつした醜い顔をしているくせに、何を言っているのかとシロは周囲を見た。
トロールの子が足を滑らせた思しき痕跡を残す崖の上から少し下の絶壁に、白い花が咲いていた。それは、取り立てて美しいということもない平凡な花のようにシロには思えた。
――こんなつまらない花を摘もうとして落ちるなんて間抜けだな。お前はもう朝までそこから動けないだろうから、石になって死んじゃうんだぞ!
心の中にどす黒い物が渦巻いていて、それがシロにそんな言葉を吐かせていたのだが、幼い彼にはどうしようもなかった。
しかし、トロールの子の返答に、シロは言葉を失った。
――摘もうとしたんじゃない。摘んだら、すぐ枯れてしまうじゃないか。もっと近くで見たかっただけだよ。
シロはその子を助けることにした。
「ほーら、着いたよー」
森を抜けて、後はなだらかな山の斜面を下って行けばよかった。裾野にはナガミ村が見える。辺りはまだ暗かったが、夜明けが間近に迫っている気配が感じられた。トロちゃんは、太陽が顔を出す前にねぐらの洞窟に帰らなくてはならない。
「気をつけてね。シロはしっかり者だけど、ちょっとお人好しなところがあるから心配だなあ。オレがついて行ってやれたらいいんだけど」
「ありがとう」
手を振って森の中に戻っていくトロちゃんの背中を見つめていたシロが「トロちゃん」と呼び止めた。
「んー?」
「俺さあ」
「うん」
「トロちゃんのこと大好きだよ」
トロちゃんはしばらく無言でシロを見つめていたが、やがて恐ろしい勢いで駆け寄ると、シロを突き飛ばした。シロの体は吹き飛ばされて山の斜面をごろごろと転がり落ちた。
「もーっ、何言ってんの? バカじゃない?」
ぐるんぐるん視界が回る中、トロちゃんの怒ったような声を聞きながら、シロは叫んだ。
「今言っとかなきゃと思ったんだよ!」
「もー、二度と会えないようなこと言わないでよ! ちゃんと戻って来なかったらヌガキヤ村を襲って村人全員食っちゃうからね!」
「やめてよ、トロちゃんにそんなことできっこないでしょ」
ようやく回転が止まってくらくらする頭でどうにか立ち上がりながらシロは言った。
「俺は必ず戻って来るから、待ってて」
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