バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第二章

07 返却

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 祈りの間に会するのは、長老ゲンヤを筆頭に、最古参の使徒フーラ、図書館長兼任のワタル、ワタルとともに三年前に就任した若き使徒キリヤ、リーヤ、ユッコ、そして医師見習いとしての修行中でもあるエル。彼らが少し距離を置いて半円に囲む椅子に一人座しているのは、未だ正体不明のメッセンジャー。彼を取り巻く塔の人々からさらに離れたところに、不機嫌そうな獣が左右に振り回す尻尾でびたびたと顔を打たれて嬉しそうな猫の世話係が控えている。

「それでは、聞かせてもらおう。そなたがここに居る理由を」ゲンヤが重苦しく張りつめた空気の中で尋問の口火を切った。
「まず、何者か、ではないのか? 何百年、我らはこの塔に孤立して生きてきた? もはやここ以外にヒトが生きている可能性などないと俺は諦めてしまっていた。それが、突然、降って湧いたみたいに、こやつが現れた」
「そうだ。それに、メッセンジャーと申したな。ならば、伝言があるのだろう。誰から、何を申しつかって来たのだ」
 キリヤが早口でまくし立てると、リーヤもたまらずそれに続いた。
 しかし老いたフーラは落ち着いた声でそれを制した。
「それは、おいおいわかること。ここは長老にお任せしよう」
 ゲンヤは使徒達には一瞥もくれずにメッセンジャーを見下ろしていた。蝋燭の光が、その瘦せこけた顔に濃い陰影を浮かび上がらせている。

 すう、と大きく息を吸い込む音がした。顔から頭部まで覆い隠す面の下で、メッセンジャーが深呼吸をしたのだ。

「何からお話ししたものか。ここに来るまでに、いく度も考えてはみたのですが、何しろ、長い物語です。一つ一つそちらからの問いにお答えする方が、案外簡単かもしれません。先ほどの長老殿からのご質問ですが」
 メッセンジャーは膝の上に置いていた四角く平べったい包みを両手でそっと持ちあげて、長老に差し出した。
「これを、お納めいただきたく存じます」

「中身がなんなのか、先に教えてはもらえないだろうか。あなたを疑って申し訳ないが」
 ワタルの言葉に、メッセンジャーはわずかに首を振った。
「当然にございましょう。皆様からの信頼を得られるようなことを、私は何もしていないのですから。とはいえ、お尋ねにお答えすることもできません。私は、これの中身を知らないのです」
「何かわからぬものを、ただ言われた通りに運んできたというのか。お前自身にも危険が及ぶものかもしれぬのに」とキリヤ。
「わたくしは、メッセンジャーです。疑問を抱くことは任務には含まれません。伝言を伝えることさえ叶わず弓で射られたり、お伝えした内容次第で拷問の末に果てるかもしれない者に対し、必要以上のことなど、敢えて教えますまい」
「我らを、そのような残酷極まりない蛮族と思っておるのか、そなたの――あるじは」といきり立つリーヤ。

「我らも、この者の信頼を得るようなことを、まだしておらぬ」ゲンヤは少し苛立ちを滲ませた声で一同を制した。
「先に何度か、塔内に侵入をしていたのは」
「こちらの皆さま方が、どのようなコミューンを形成されているのか、少しばかり調べさせていただきました。無礼は承知の上ですが、こちらとしても、相手のことが何もわからない状態では、不安でしたので」
「では、先にこちらと交渉を持つ意思があり、それ故に調査を行った、と」
「はい。こちらの方々となら、交渉が可能であろうと、この私が報告いたしました」

「それはありがたいことだ」キリヤが小声で呟いたが誰も注意を払わなかった。

「そして、その包みを委ねられ、再訪した、と」
「左様にございます。そして、先に申しあげた通り、この包みの中身は存じませぬ。ただ」
 メッセンジャーが言葉を切った。しかしゲンヤも他の誰も先を促さず、根気強く待っている。メッセンジャーは両手に恭しく掲げている包みから顔を上げて、マスク越しにゲンヤの眼をまっすぐ見返した。
「これを、してくるように、と命を受けております」

「返却う?」たまらず声をあげたエルだが、慌てて口をつぐんだ。ワタルは自身の顔から血の気が引いていくのを感じたが、横目で見たゲンヤの横顔に動揺は認められなかった。
 わずかに蝋燭の炎が揺らいだ。
 いつの間に移動したのか、猫の世話係が椅子に座した仮面の人物の右手側に立っていた。わずかな衣擦れの音さえ轟々と響く静寂の中で、足音も気配もなく。
「危険物の恐れがあるのであれば、私が受け取ろう」
 誰かが口を挟む間もなく、猫の世話係は、呆気にとられるメッセンジャーの手から包みを取った。
「心配なら、息を止めて後ろに下がっていろ」

 キリヤとリーヤは顔を引きつらせて唇をぎゅっと結んだが、誰も動かなかった。がさがさと音を立てて包み紙を剥がしていく。これを防水性の紙で包んで背中にくくり付けて運んできたメッセンジャー自身ですら、一体何が出てくるのかと食い入るように見つめていた。
 幾重にも重ねられた油紙を剥いで、ようやくその中身が姿を現した。
「これは」
 猫の世話係は、普段より幾分低めの平坦な声で呟く。それは、一冊の小ぶりな本だった。
「『富と貧困について』だ」
「なんだと?」
 危険物である可能性をすっかり忘れて、リーヤが駆け寄った。
「なんだ、それは」キリヤがいぶかしげな顔でワタルを見る。
 それは、小麦の生産所で司書達が日々活版印刷に励んでいる本のタイトルだった。三年前の騒動のあと、食料生産量の増加のために司書達と協力しているリーヤには馴染み深い、本。
 しかし
 興奮して詰め寄ったリーヤを、猫の世話係が本を持っていない方の手で押しとどめた。
 幾重にも重ねられた紙の最後に巻かれていたものは、薄く柔らかそうな布。その中に横たわる本を、猫の世話係は直接手が触れないよう布の上から掴んでいた。

「これが、『富と貧困について』? 確かにタイトルはそうだが、こんな本はみたことがないぞ」リーヤは興奮気味に言う。
「落ち着け」
 猫の世話係は、布の下に手を添えて紙のレイヤーの中から本を取り出すと、恭しくゲンヤに見せた。
「写本か」日頃から悲壮感漂うゲンヤの顔の翳が一層濃くなったように見えた。
「印刷されたのではなく、写字工が書き写したものだというのか。なぜ」
 リーヤの問いに、ゲンヤも世話係も答えなかった。

「返却すると申したな」世話係は、メッセンジャーの方は向かずに、手元の本を見つめたまま問うた。
「はい」
「これが何か、そなたは知らぬと」
「はい。ただ、返却せよというからには、こちらの持ち物だったのでしょう。確かにお返しいたしました故」
 メッセンジャーは深々と頭を垂れた。
「ゲンヤ殿」猫の世話係は、変わらぬ平坦な声で言う。「この本について、今ここで私の見解を述べてもよいか」
 傍若無人な世話係にしては珍しく殊勝な態度である。今この正体不明の賊の前で考えを口にしてもよいかと、長老に許可を求めているのだ。ゲンヤが頷いたので、猫の世話係は、手にした本を自身の仮面の近くに掲げて凝視してから、下げた。まだ一度も頁をめくっていない。

「詳しく調べてみないことには、確かなことは言えない。だがこれは、当方で所蔵していた『富と貧困について』の写本であろうと思う。そしてその本は、百年以上前から行方知れずになっていた」
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