バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

05 消えた怪人

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 エルが怪人物に遅れを取ったのはせいぜい数秒といったところであったが、バルコニーから塔内に駆け込み、逃げていく後ろ姿を捉え追跡を始めた時、その背中は小さく、かなり遠ざかっていた。その日の疲労も、病気の子供の心配も一時的にエルの脳内から吹き飛んでいた。
 しかし、それでも前を行く人物とは距離が開いていくばかり。遠目にも、それほど体格がよいとはおもえず、子供ではないが、せいぜいエルと同程度の中背痩せ形の人物であろうと思われた。

「待って、僕は、使徒だ。話を聞きたいだけなんだ。止まって!」

 民が寝静まった夜中である。エルの遠慮気味の呼びかけが聞こえないはずはなかったが、逃亡者は足を止めようとしない。
 その人物は、ローブを着ていなかった。塔の民がローブの下に着こむ襟のないシャツやズボンを身に着けているようだった。そして、床に点々と残る染み。
 これは、水だろう、とエルは走りながら思う。怪人物は、窓から月光の差すバルコニー沿いの廊下をひた走っている。夜間、液体は大体黒々として見えるが、仮に血液であればそれとわかる程度の明るさはある。

 

 エルはそれが意味することに思い至り、ぞっとした。
 塔内ではありとあらゆる物資が不足している。水もそのうちの一つだ。滅多に降らないスコールがあれば一斉に甕や樽をバルコニーに並べ水を溜めて備蓄しているが、それだけでは十分でない。塔を囲む大量の水はそのまま飲料することはできないので、ろ過する必要がある。たとえただの水といえども、不用意に廊下に点々とこぼしていくのが幼い頃から節約の精神を叩き込まれたコミューンの民の所業とは思えなかった。

 コミューンの民でないなら、一体あれは、なんだ。まさか――

 ほどなく息があがって足が動かなくなってきたが、懸命に走り続けるエルの前をゆうゆう駆けていた怪人物が、ふいに足をとめた。
 エルは止まらず、気力を振り絞って足を運んだ。
 怪人物がエルの方を向いた。
「あっ」
 エルは思わず声をあげ、足を止めた。怪人物は、身を翻して、月明かりの差す窓に足をかけると、姿を消した。
 気を取り直したエルが駆けつけると、そこは塔の外壁、バルコニーはなく、窓の外は、何もない空間、はるか下方には水があるだけだった。
 ここから、飛び降りたのか?
 エルは窓から身を乗り出して上下左右を見回した。怪人物の姿はなく、黒々とした水面にも、それらしき姿はない。
 体を起こし、物思いに耽るエルが振り返ると、そこにフードを頭からすっぽりかぶったローブ姿がぼんやり浮かび上がっていた。その人物は、目深に被ったフードの下に仮面をつけていた。

「きゃああああ!」
「騒々しい。何をしている」

 エルは口から飛び出そうな心臓を押さえ、喘ぎながら仮面の人物をまじまじと見た。
「なんだ、猫の世話係か」
「当たり前だ。他に面を被った者がいるか」と世話係は仮面の下から露出している口を動かして言い、歩み寄って来た。猫の世話係は、足音を立てずに歩くということに、エルは今更ながら気が付いた。
「いたんだ」とエルは大きく目を見開いて言う。
「最初は、君かと思った。でも、違うんだ。その人物も仮面を被っていたが、そいつは、この窓から飛び降りて、消えてしまった」
 窓の下には水たまりができており、窓枠も濡れていた。
「つまり」と猫の世話係は、床や窓の外を一通り目視確認したり床に溜まった水に指を浸して匂いを嗅いだりしてから口を開いた。
「お前は、最近噂の塔の怪人とやらを見たのだな。そいつはどうやら、塔の外からやって来て、そして、塔の外に消えた、と」
「そういう、ことになるのかな、やっぱり」エルは頭をかいた。

 猫の世話係は、三年前の謀反の際に通常の人間であれば死んでいたであろう重傷を負った。いや、実際に一度死んだのかもしれない。その傷は概ね癒えたのだが、当人もかつて経験のない肉体の損傷を負い、その治癒にはかなりの時間を要した。なかでも、顔の傷がなかなか癒えず、恐ろしいと異形の子供達に泣かれるのに当人が辟易して仮面を被り始めて既に相当立つ。今では、白くのっぺりとして目の部分をくりぬいた異様な仮面姿に皆慣れてしまっていた。元々、猫の世話係は抜きんでて色が白かったのだし、面をつけていてもいなくても、大差ないと言えなくもなかった。彼は通常図書館を出ないから、その異様な出で立ちが一般の民の目に触れることもなく、これまでは特に問題にならなかったのであるが。

「まさか、塔内のあちこちで目撃されている怪人は、君じゃないよね?」
 エルが恐々尋ねると、猫の世話係は僅かに首を傾げる動作で器用にも仮面の向こうで明らかな怒りを発していることを表現して見せた。
「なぜ私がお前から逃げねばならんのだ」
「そうだよね、逆ならあり得るけど」と口走ってしまってからエルは仮面の向こうの赤い瞳に睨まれて首をすくめた。
「つ、つまり、君だったならば、そんなこそこそと行動することはないだろうってことさ」
「当たり前だ」

 世話係はそう言って、ローブの裾を翻して立ち去った。その後ろ姿を見ながら、平生図書館を出る用事など特になさそうな猫の世話係が、職人居住区で一体何をしていたのだろうか、という疑問がエルの頭をよぎったが、長時間にわたる子供の看病で体がくたびれ果てていたこともあり、それ以上考えることができなかった。
 仮に猫が図書館を脱走したとでもいうのなら、世話係といえどもあれほど落ち着いていられまい(猫の身の安全はともかく、罪もない職人が危険に晒されるのだから)。
 とにかく、陽が昇るまでに、睡眠をとっておかなければならないと思い、エルは重い体をひきずって、自室へと向かった。
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