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第一章
01 図書館の幽霊
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珍しく不安げな猫の世話係が言うには、最近どうも猫の様子がおかしい。何かに怯えているようだ。
ワタルは世話係より更に心細げに「ええ……」と漏らす。あの猫を怯えさせるようなものがこの世に、いや、この図書館内に存在しているとしたら、それは由々しき一大事ではないのか、と。
「猫」と呼んではいるが、厳密には猫ではないというのがワタルの認識だ。三年前、弱冠十五歳で図書館長に就任したワタルだったが、噂の「猫」に遭遇したのは、それから一年ほども経過してからだった。
今からおよそ二年前、ワタルはエルに案内されて、子供達に会いに行ったのだった。パウの後を引き継いで猫の世話係をサポートし子供達の世話を担うようになったエルは、あの騒動の後、子供達にとって、かけがえのない存在となっていた。
一方、子供たちと初めて対面した時、ワタルは、人懐っこいシュウレンを除いたすべての子らに大泣きされた。理由は、子供達が極度の人見知りだったことに加え、あの騒動のために無数の傷跡が残るワタルの顔が子供たちを怯えさせたからだ。
そして、ワタルが噂に名高い「猫」、バスカヴィルに遭遇したのは、この時だった。たまたまそこで子供達相手に尻尾で遊んでやっていた猫は、先に先代の図書館長から予言された通り、ワタルに対し敵意と警戒心をむき出しにした。
緑を帯びた漆黒の体(エル曰く、暗闇で緑色に光る)の大きさ、耳まで裂けた大きな口から覗く鋭い牙――ネコ科の生き物ではあるのだろうが、猫ではないだろうとワタルは思う。
らんらんと輝く金色の眼に射すくめられ半ば死を覚悟した彼にグワラアッと鋭い威嚇音を発し、バスカヴィルは素早く去った。長い尻尾がするりと隣の部屋に消えていくのを見届けて、ワタルは眼を見開いたまま倒れた。
せっかく遊びに来てくれた気紛れな猫を逃がしたというので、子供達におけるワタルの評判は、これ以上無理というぐらい地に落ちた。
「そう落ち込むなよ。僕だって最初から信頼されたわけではないんだから」
エルにはそう慰められたが、「顔が恐ろしい」「猫に嫌われる」という当人にはいかんともし難い理由で敬遠されることは、ワタルを憂鬱にさせた。
子供達というのは、心身に何かしらの問題を抱えて生まれてきた者達で、図書館内でもかなりの高層にて、一般の民――いや、一般の司書からさえも身を隠すようにして暮らしている。
そして図書館は、天高く聳える塔内の中心部に隠されるようにして存在する「宇宙」、これから書かれるものと既に書かれたもの、書かれるはずだったものまで、ありとあらゆる書物が保管されている場所。ワタルはその「宇宙」こと図書館の新しい長なのであるが――
「図書館の幽霊?」
「猫が怯えて困るからどうにかしろ、と猫の世話係からせっつかれているのですが」
図書館長ワタルが相談に向かったのは、写本のエキスパート、贋作師の仕事部屋である。
「あの地獄からの使者みたいな猫がか? それはもう、か弱い人間の手には負えない怪物じゃないか。近寄らぬが花だぞ」
贋作師は書見台に固定された本と作業台の上の紙を見比べながら言った。
「私もそう思うのですが、猫が可哀想だからなんとかしろと、世話係にせっつかれるので」
「あいつにとっては、いつまで経っても毛糸玉の子猫ちゃんだからなあ」
「私は、腰を抜かしかけましたが」
「当たり前だ。お前はパウの後継者だから、パウ同様嫌われる。命が惜しかったら、猫には近寄らないことだ」
それは以前、パウからも聞かされた記憶があった。しかし、前の図書館長が猫に嫌われる理由は何となく察しがついたが、その後継者だからというただそれだけの理由で自分も嫌われるというのはワタルには納得がいかなかった。
右手でインク壺を取り上げた贋作師は、顔をしかめた。
「まだ、痛むのですか」
「ああ、右はまだ完全ではない。作業効率がガタ落ちだ」
贋作師は右の手首をさすりながら言う。三年前、ワタルの身代わりとなって悪党の人質となった贋作師は、大切な商売道具である右手を負傷した。幸い彼は両利きであったが、左手一本だけでは何かと都合が悪いそうで、ワタルは責任を感じていた。
「お前のせいではない。悪党どもが悪いんだ」と贋作師は病床に見舞いに行ったワタルにそう言ったのだが――
「世話係のことは気にするな。本当に猫に危機が迫っているなら、お前に相談などせず、あいつ自身でどうにかするだろう」
「あなたは、信じないのですか?」
「幽霊をか? 信じるも何も、この目で見た。まあ、特に害はなさそうだったから、放っておけばいい」
「見た、のですか。亡霊を?」
「ああ。首のない男の姿をしていた」贋作師は作業台の上に広げられた紙の上から目を離さずに言った。
ワタルは、うなじの毛がちりちりと逆立つのを感じた。
その「幽霊」の姿を目撃した者は図書館内に複数名存在したが、どうやら第一の目撃者は贋作師のようだった。
ワタルは世話係より更に心細げに「ええ……」と漏らす。あの猫を怯えさせるようなものがこの世に、いや、この図書館内に存在しているとしたら、それは由々しき一大事ではないのか、と。
「猫」と呼んではいるが、厳密には猫ではないというのがワタルの認識だ。三年前、弱冠十五歳で図書館長に就任したワタルだったが、噂の「猫」に遭遇したのは、それから一年ほども経過してからだった。
今からおよそ二年前、ワタルはエルに案内されて、子供達に会いに行ったのだった。パウの後を引き継いで猫の世話係をサポートし子供達の世話を担うようになったエルは、あの騒動の後、子供達にとって、かけがえのない存在となっていた。
一方、子供たちと初めて対面した時、ワタルは、人懐っこいシュウレンを除いたすべての子らに大泣きされた。理由は、子供達が極度の人見知りだったことに加え、あの騒動のために無数の傷跡が残るワタルの顔が子供たちを怯えさせたからだ。
そして、ワタルが噂に名高い「猫」、バスカヴィルに遭遇したのは、この時だった。たまたまそこで子供達相手に尻尾で遊んでやっていた猫は、先に先代の図書館長から予言された通り、ワタルに対し敵意と警戒心をむき出しにした。
緑を帯びた漆黒の体(エル曰く、暗闇で緑色に光る)の大きさ、耳まで裂けた大きな口から覗く鋭い牙――ネコ科の生き物ではあるのだろうが、猫ではないだろうとワタルは思う。
らんらんと輝く金色の眼に射すくめられ半ば死を覚悟した彼にグワラアッと鋭い威嚇音を発し、バスカヴィルは素早く去った。長い尻尾がするりと隣の部屋に消えていくのを見届けて、ワタルは眼を見開いたまま倒れた。
せっかく遊びに来てくれた気紛れな猫を逃がしたというので、子供達におけるワタルの評判は、これ以上無理というぐらい地に落ちた。
「そう落ち込むなよ。僕だって最初から信頼されたわけではないんだから」
エルにはそう慰められたが、「顔が恐ろしい」「猫に嫌われる」という当人にはいかんともし難い理由で敬遠されることは、ワタルを憂鬱にさせた。
子供達というのは、心身に何かしらの問題を抱えて生まれてきた者達で、図書館内でもかなりの高層にて、一般の民――いや、一般の司書からさえも身を隠すようにして暮らしている。
そして図書館は、天高く聳える塔内の中心部に隠されるようにして存在する「宇宙」、これから書かれるものと既に書かれたもの、書かれるはずだったものまで、ありとあらゆる書物が保管されている場所。ワタルはその「宇宙」こと図書館の新しい長なのであるが――
「図書館の幽霊?」
「猫が怯えて困るからどうにかしろ、と猫の世話係からせっつかれているのですが」
図書館長ワタルが相談に向かったのは、写本のエキスパート、贋作師の仕事部屋である。
「あの地獄からの使者みたいな猫がか? それはもう、か弱い人間の手には負えない怪物じゃないか。近寄らぬが花だぞ」
贋作師は書見台に固定された本と作業台の上の紙を見比べながら言った。
「私もそう思うのですが、猫が可哀想だからなんとかしろと、世話係にせっつかれるので」
「あいつにとっては、いつまで経っても毛糸玉の子猫ちゃんだからなあ」
「私は、腰を抜かしかけましたが」
「当たり前だ。お前はパウの後継者だから、パウ同様嫌われる。命が惜しかったら、猫には近寄らないことだ」
それは以前、パウからも聞かされた記憶があった。しかし、前の図書館長が猫に嫌われる理由は何となく察しがついたが、その後継者だからというただそれだけの理由で自分も嫌われるというのはワタルには納得がいかなかった。
右手でインク壺を取り上げた贋作師は、顔をしかめた。
「まだ、痛むのですか」
「ああ、右はまだ完全ではない。作業効率がガタ落ちだ」
贋作師は右の手首をさすりながら言う。三年前、ワタルの身代わりとなって悪党の人質となった贋作師は、大切な商売道具である右手を負傷した。幸い彼は両利きであったが、左手一本だけでは何かと都合が悪いそうで、ワタルは責任を感じていた。
「お前のせいではない。悪党どもが悪いんだ」と贋作師は病床に見舞いに行ったワタルにそう言ったのだが――
「世話係のことは気にするな。本当に猫に危機が迫っているなら、お前に相談などせず、あいつ自身でどうにかするだろう」
「あなたは、信じないのですか?」
「幽霊をか? 信じるも何も、この目で見た。まあ、特に害はなさそうだったから、放っておけばいい」
「見た、のですか。亡霊を?」
「ああ。首のない男の姿をしていた」贋作師は作業台の上に広げられた紙の上から目を離さずに言った。
ワタルは、うなじの毛がちりちりと逆立つのを感じた。
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