バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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昔々の話をしよう

愚者と賢者(3)

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 男が向かった先は、青天の折には水面と空の境目を一望できるバルコニー。雨季ではないから当然晴天で、風もない。てっぺんよりは傾いた太陽の光は日中ほど強烈ではない。

「君は、目はいいほうかな」
「目がいいとは?」
「遠方までよく見ることができるか」
「ええ、まあ」
 少年は眼を細めて水平線を左から右へと見渡してみた。
「たぶん」
「よろしい。では、あれを見よ」

 男がバルコニーから身を乗り出すようにして指さしたのは、何もない水面。傾いた陽光を浴びてキラキラと輝いている。

「別に、なにも」
 あるはずがないのだ。陸地も他の建物も何もない。この塔は完全に孤立した状態ではや数百年――
「ん」
 なにかが、ちらちらと
「あれは」
 ぷかぷかと、細波に弄ばれて見え隠れするが、あれは
「――本?」
「本だね」
「なぜ、あんなところに。あれは、浮いている?」
「最初の質問への答えは、俺が投げ入れたからで、二つ目のは、知らん。本が浮くなんて、誰も教えてくれなかった」
「誰も浮かべてみようと思わなかったからではないですか?」
「ああ、そうか」
 男はぴしゃりと自分の額を叩いた。
「なるほどねえ。それは思いつかなかった。やはり君は頭がいいね」
 馬鹿にしている様子はなく、心底感心したといった口ぶりだったが、それが余計に腹立たしかった。
「あなたはなぜ本を浮かべてみようと思ったんですか?」
「思うわけがないさ、浮くとは思ってないんだから。ただ」
「ただ?」
「ここから本を投げたら、どうなるかと思ったんだよ」
 あははははと男は快活に笑った。
「一体、どうなると思ったんですか」
「さあ。わからないからやってみたんだよ。知っていたらやる必要はない。でもまあ、沈むんじゃないかと予測していたんだがね」
「沈むと思っていながらなぜ塔の貴重な資源を、み、み、水、みみみ水」

 水に流したのだ、この男は。節制を重んじるコミューンの民ともあろうものが。いやそもそも、この塔の歴史を鑑みれば、本を水浸しにしないこと、それがこのコミューンの民が担う使命ではないのか。

「だから――予想はしてたけど、やってみなければわからないじゃないか」
 男は顎をさすりながら首を振る。
「まさか、ねえ。夕べもしばらく見守っていたが、一向に沈む気配なく浮いていたんだよ。驚くじゃないか。そのうち眠気に襲われて寝に戻り、それからすっかり忘れていたんだが。まだ浮いていたとはねえ」
「なんで浮くんですか」

 水を恐れて生きているコミューンの民でも、水に浮く物質と沈む物質があることは知っている。浮く物質の代表は木であろう。だが木材は貴重で、舟を造るのに十分な量を確保するのは困難だ。
 コミューンの民が使用する舟は、木製だ。だが、資源に乏しいこの塔では、そう頻繁に船を出すわけにはいかない。代わりの舟は簡単には造れないからだ。そもそも、舟を出したところで、出かけていくところもない。漁をして魚がたくさん捕れれば食糧難が少しは改善されようというものだが、とてもそんな大漁が望める環境ではない。

「これがどういうことか、わかりますか」
「さあ」
「舟を造る、新たな材料になるかもしれないってことです。大発見ですよ」
「そうか、おめでとう。じゃあ、あとは任せた」
「は?」
「とりあえず一晩浮いていたんだ、あの本は。まあそれはいいよ。でも、本って、様々な材質からできているんじゃないか。それらは、全部浮くのかなあ? 本だから浮くのかな。本に使われている材料が浮いているのかな。浮くなら浮くで、耐久性はどのくらいか、とか。君が頭に思い描いていることを実現させるためには、それはそれは」
 
 面倒くさい手続きが必要で、自分はそんなことは御免だ、と男は踵を返した。

「そんな、無責任な。発見者は、あなたですよ」
「違うね。俺は本を、ああーと……落っことしただけだよ。その、まあ、アクシデントで、偶発的にね」
 眉を吊り上げる少年に、男は悲し気な顔をしてみせた。

「それとも、正直に上の連中に報告して、俺を水没刑にするつもりか? 言っておくが、俺は他の罪人たちと同じで、水に入れたら沈むと思う。泳げないからね」

 少年はしばらく眉間に皺を寄せて男を睨みつけていたが、ふいと顔をそむけると、ローブを脱ぎ始めた。眉をひそめる男の前で、肌着まで脱いだ少年は、

「まず、あの本を回収しましょう。思い付きで次々と本を水に投げ入れるわけにはいきませんから」
「回収って。まさか」
「いざとなったら、助けを呼んでくださいね。僕も多分、泳げない」

 そう言うと、少年はバルコニーの手すりを乗り越えて、身を躍らせた。そこから水面までは、まだ四階分の高さがあった。手足をばたばたさせながら足から着水した少年は、大きな波を立てた。しばらくの間、水面下からごぼごぼと泡が噴き出していたが、彼は浮かんでこなかった。

「勘弁してくれよ、おい」
 男は悲しそうに呟いたが、口元にはいつもの薄笑いが浮かんでいた。

  *

 少年が目を覚ましたとき、怠け者の男は獄中にいた。
 体のあちこちの骨が折れ、満足に口が利けるようになるまでふた月を要した。男が警備団によってとらえられた経緯を聞いたのは、その時だった。
 少年が水に飛び込んだのち、男が大声で騒いで助けを呼んだため、塔の貴重な舟が担ぎ出され、泳ぎの達者な者が捜索に当たり、水中で意識を失って漂っていた少年が引き上げられた。水面に叩きつけられた衝撃で気を失い、水を飲まなかったことが幸いし、溺れてはいなかった。
 そして、男の指示によって、水面に浮かんでいた本も回収された。

「その、選ばれし子が、偶然発見したんだよ。本が水に浮くってね。大変興奮して、水に飛び込んでしまった。止める間もなかった」

 男はそう証言したのだそうだが、誰も信じなかった。水に浮かぶ本というだけでも眉唾なのに、それを回収するために、神童と名高い選ばれし子が、バルコニーから水に飛び込む愚行を演じたなどとは。

「お前が背中を押したんだろう」
「なんのために」
「サボっているところを見られ、親方に言いつけられると思い」
「俺はいつも堂々とサボっているんだよ。こんな子供に見られたからといって」

 怠け者の弁明は、一つもよい結果を生まなかった。殴られ蹴られ、牢に放り込まれた男は、以後は諦めて黙秘を続けていたという。少年がそのまま目覚めなければ、男は水没刑になっていたことだろう。
 
 事情を知った少年は、全身の痛みを堪えながら、言った。

「僕が自分から飛び込んだんですよ。ローブや肌着もみんな事前に脱いでいたでしょう。それに、本が水に浮くことを発見したのは、牢の中に居るあの人です。すごい発見じゃないですか」

 大人達は当初、少年が腐れ縁(偶然同じ大工の居住区の出だった)で男を庇っているのだと思った。
 しかし、少年の衣類は確かにバルコニーに遺されていた。彼のような聡明な子供が、無抵抗に衣類をはぎ取られ、水に突き落とされるとは考えにくかったし、突き落とすのであれば、衣類を着せたままの方が、証拠も残さず黙って水に沈んでいくから男には都合がよかったはずだ。
 それになにより、同じ大工の居住区に暮らしているとはいえ、獄中の男は仲間内の鼻つまみ者で、少年とは特に接点がなかった。少年には男を庇う理由がない、と結論付けられた。

 疑惑は残されたが、男は無罪放免となった。いや、仕事を堂々サボっているなどと間抜けな宣言をしたのだから、それは償うべきだったが、既にやってもいない罪のために殴られ蹴られ、自供を迫られ鞭打たれてひどい有様だった。これ以上どうするべきなのか、皆が彼を持て余した。

 少年が回復途中にある間に、回収された本や、その他の本を使って、水中における浮力の実験が行われていた。驚いたことに、たいていの本が水に浮くことが分かった。そして、小ぶりな本一冊でも、大人一人の重さに耐えて浮かび続けることも。紙の本ならほぼ一日で浮力を失うことほどなく発見された。
 そこから本の舟を造る技術を実用可能なまでに高めるまでには、まだ長い試行錯誤の道のりがあったが、兎にも角にも、こうして本の舟は生まれ、大工達は舟大工を兼ねるようになり、やがて舟を扱う大工と、そうでない大工が分離された。

 そして、怠け者で仕事が杜撰だからとどちらの工房からも追い出された男は、少年が選ばれし子から選ばれし者になり、若き長老となった暁には、直々に使徒に任命されることになる。
 周囲の者が大反対をしたことは言うまでもないし、当の怠け者の男自身がそんな責任の重い仕事は嫌だとさんざん駄々をこねて抵抗したことを付記しておこう。
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