バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第五章

09 本当は何があったのか

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 民の避難は速やかに行われた。彼らは日頃からこのような事態に備え、二通りの経路による移動訓練を年に二回実施していた。二通りの経路とは即ち、現在地より上に逃げるか下へ逃げるかで、避難の理由と状況によって、どちらかが選ばれる。

 塔に暮らす民が最も恐れているのが、新たな水害である。

 民の居住区は少々の水位の上昇では困らない程度に上階に置かれている。それでも危機感を覚えるほどの危険な水位上昇が認められた場合には、速やかに上へ逃れる。そして、火災等被害が特定の階層から発生した場合には、可能であればその発生現場より下に避難することが望ましい。しかしこれは勿論、状況を見ながら判断しなければならない。

 今回の避難は、当初はややのんびりしたものだった。無用な混乱を避けるため、民には謀反の勃発を知らせていなかった。彼らは、いつもの臨時避難訓練だと理解した。いざという時のための備えであるから、大人も子供も真面目に参加するのだが、いささか緊張感に欠けていたことは否めない。だがそれも、水面に燃えた大量の本や火のついた舟が落下するのが目撃されたことによって、大きく乱されることになった。

「本が、舟が燃えている」
「どういうことだ」

 怯える民に、誘導係の使徒ルキが落ち着いた声で言った。
「避難訓練だと申したではないか。今回は実は、新しい長老殿の提案でな。全く、若いお方は、派手好みで困るよ」
「なんだ、そうなのか」
「しかし、貴重な本を燃やすなんて、もったいなくねえか?」
 不信な顔をする民に
「それはもっともな意見だ。しかしな、若い長老の提案にも一理ある。たまには、防火システムがちゃんと作動することを確かめでおかないと、いざという時に困るであろう」
「それは、確かに……」
 彼らはぶつぶつ言いながらもルキに肩を叩かれると大人しく「訓練」を続行した。彼らの子供達の多くは講師ルキから教育を受けている。子供達から慕われるルキへの親達の信頼は篤かった。

 ところが、それからしばらくして、どん、という微かな音に続いて塔が揺れた。それまで呑気そうにしていた民の顔も、さすがに険しくなった。

「何だ、今のは」
「揺れたぞ。かなり上の方だ」

 子供達が悲鳴を上げ、父親達にしがみついた。ルキを手伝って民の誘導をしていたユッコは内心舌打ちをしたが、
「慌てるな」
 と大きな声で、不安げな民の顔を見渡して言った。
「かなり上の方だ。心配いらない。今日は、警備団もかなり大規模な実演訓練を行っている。少々賑やかなのはそのせいだ。おっと、これは秘密にしておくんだった。緊張感をもって訓練してもらうために、黙っておけといわれたのに。皆の者、今のは聞かなかったことにしてくれ」
 怯え緊張した民の顔が、一斉に緩んだ。
「なんだ、びっくりさせないでくださいよ、人が悪いなあ」
「しっ。ばれたのが上に知れると困るんだ。頼むよ。協力してくれ」
 ユッコが大袈裟に顔をしかめてみせると、民の間から笑い声が漏れた。
「わかりましたよ。おい、みんな、真面目にやれ」
 これも「実演訓練」の一環であることはさざ波のように静かに民の間で共有された。彼らは大まじめな顔で「訓練」を続けた。彼らは避難所に到着すると、互いに身を寄せ合いながら、じっと耐えた。

「これから、本を配給する。一人一冊だ。説明するまでもないが、本は水に浮く。いよいよ塔内に留まっていられない、となった時を想定しての備えだ。無論、そこまで実践する予定はないがね。訓練が終わったら回収するので、大事に保管しておくように」
 ルキからそうお達しがあり、一人一冊、避難用に常備されている本が配られた。

「おいおい、本を配るのかい? 随分本格的だなあ」
 民は目を丸くした。
「こんな大規模な訓練は、そう頻繁にできるものではない。大変よい機会だ。皆も気を抜かずに対応してくれ」
 とルキは皆の顔を見まわして言った。

 どれぐらいの時間が経過したのだろう。我慢強い子供たちも、幼い者からお腹がすいたと泣き始めた。ひもじいことには慣れている大人も、身を寄せ合って息を殺して座っていることにくたびれてきた。

「昔々、あるところに、ドンクという名前の男の子がいました。ドンクは、大きな塔の中に住む小さな男の子です。ある日、ドンクは、大きな本の舟に乗って、旅に出ました……」
 
 穏やかな声の響きに、人々は知らずと聞き入った。首を捻ってみると、それはまだ大人になりきっていないような若い顔をした男で、腕に抱えた赤ん坊をあやしながら、胡坐をかいた膝の上に開いた本を指で押さえながら、語っていた。

「やいベニ、おめえは、それに何が書いてあるのかわかるのか?」

 ベニと呼ばれた若い男が広げている本を覗き込みながら、近くに座っている男が訊いた。

「わかるわけないじゃないか。俺は、あんたと同じ煉瓦職人だぜ」
 ベニは陽気に答える。
「だっておめえ今――」
「この絵を見ながら、適当にお話を作っただけさ。ドンクが腹を空かせてぐずりだしたから。こういうところで、赤子の泣き声は、癪に障るだろう」

「気にしねえよ」「元気で結構なことじゃねえか」「俺があやしてやってもいいぜ」等々、あちこちから声が飛び、ベニは「ありがとう」と笑顔になった。

「赤ん坊が泣いてても別に気にならねえが、さっきの話、続けてくれ。ここは退屈でかなわん」と少し離れたところに座っている男が言った。
「ドンクは、大きな舟に乗ってどこに行くんだ?」
「待て待て、『大きな舟』たあ、どれぐらい大きいんだ?」
「おい、話の腰を折るなよ、黙って聞け」

 周囲の人々が聞き耳を立てているらしいので、ベニは顔を赤らめて頭をかいた。
「まいったなあ。この子に聞かせるためだけの、即興の与太話だぜ」
「構わねえよ。聞かせてくれ」
「それじゃあ」とベニは膝の上の本の挿絵に描かれた、大きな帆船を見つめてから、口を開いた。

「大きな舟というのは、百人ほども乗れるぐらいの、とんでもなく大きい舟です」
「ひゃ百人!?」
 しーーーっとあちこちからたしなめられて、思わず声を上げた男は首を縮めた。
 ベニは微笑んで、ドンクが振り回す手を握り、先を続けた。
「それは、百人乗っても大丈夫な、大きな大きな本の舟でした。でも、乗組員は、たったの三人だけでした。その三人というのは、小さなドンクと、ワニの兄弟のユンとユラでした」

「おい、それはないだろう、食いしん坊のワニ二匹と一緒だなんて」という絶望的な呟きは、ベニのところまでは届かなかった。


 ランタンを掲げたユッコが再び姿を現したとき、彼のローブはかぎ裂きだらけで、ところどころ黒く焦げていた。あちこちで暴動を起こし暴れるケラの手下達を鎮圧する警備団員に手を貸していたのだが、そんなことはおくびにも出さない。

「もう戻っても大丈夫だ。順番に移動してもらうからもう少しだけ待ってほしい。もう夜だ。食事を済ませたら寝るように。みんな、よく我慢してくれた」
 とユッコが言ったときは、大人たちも安堵の表情をみせた。とりわけ、もっともっとといつの間にか周辺に集まってきた子供達や大人からせがまれて、即興の物語を語り続け喉を嗄らしたベニは、大きな溜息をついた。腕の中のドンクは、お話が始まってからすぐに、ぐっすり眠り込んでいた。

「それで、若い使徒殿」
 と職人の一人、腰が曲がった老人がユッコの肩に手を置いて耳元に口を寄せ、言った。
「本当は何があったのか、いつ教えてくださるのかな?」
 ユッコは老人の顔をじっと見つめ
「明日だ。皆疲れているだろうから、ゆっくり休んでくれ」
 と言って少し口元をほころばせた。
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