バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第三章

05 蔵書目録と格闘する

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 パウが呼んでいる、と司書の一人――できるだけ他の司書と話をし、名前や専門を覚えようと努めているワタルだが、初対面であった――に案内されてレベル33の北側の端の部屋へ赴くと、やつれた顔のパウが、背もたれのない椅子に腰かけて右手に持った巻物に目を落とていた。ペンを持った左手は指先がインクで汚れている。

「ワタルか」
 と巻物から顔を上げもしないで言うと、パウは
「すぐ終わるから待っててくれ」
 と言うので、ワタルは部屋の中の書物を一つ一つ手に取って眺め始めた。タイトルを読んでいくうち、胸の鼓動が激しくなっていった。

 医学書

 中央のテーブルに積み上げてある本も、周囲を囲む書架に収められた本も、医学に関するもののようであった。
「よし、これでいいだろう」
 とパウが言って、大きな溜息をついた。
「まったく、お前という奴は」
「なんでしょう? 何かお叱りをうけるようなことをしましたか?」
 と恐々尋ねるワタルにパウは眉を吊り上げた。

「蔵書目録が欲しいと贋作師に言ったそうだな。まず、そのようなリクエストは、私に直接頼むべきだろう。次期図書館長としては当然の要求ではあるが、私は目が回るほど忙しかったんだ。知っているだろう? 赤子は地中から生えて来るわけではない、残念ながら。
 長年目録の更新を怠っていたのは私の怠慢だがね。いやなに、新たに追加された分はちまちま記録していたよ。ただね、勝手に移動する本について目録を修正する気力はなかったんだ。そんなものは私の脳内に記録されていればよいだろうと、つい放っておいた。
 しかしそれも、君に完全な目録を渡すために修正した。まあ、記憶にある分は、ということだが。勝手に移動したことに私が気付いていないことだってあり得るからね。後は、鼠に齧られて廃棄処分になったものや、紛失したもの……可能な限りは更新したが、その辺はまあ、今後この目録を受け継ぐ君が、きちんとすればいい。ほら」

 とパウは巻物の端をワタルに渡した。

「余白がなくなったら紙を継ぎ足していくんだ。方法は贋作師に教えてもらうといい。君は図書館の蔵書を並べ替えるという無謀な計画を立てているらしいが……まったく、若さってやつは恐れることを知らないね。
 しかしまあ、もう私の時代ではないのだから、好きにするさ。正直、その蔵書目録にはうんざりしていたんだ。私自身は、そんなもの必要ないからね。といって、いつかは必ずやってくる引き継ぎの時に備えておかないわけにはいかないからね。
 ワタル、お前もじきに――少なくともあと数年もすれば、そんな物は不要になるだろうから、私がどれほどそれに煩わされてきたか、お前も身をもって理解するようになるだろう」

 パウはニヤリと笑った。
 呆然と巻物の端を握りしめながら、その先にあるものをワタルは見つめた。ところどころパウによる修正が施されたリストが記された長い長い紙の帯――幅はワタルの肩幅より狭いが、その長さは、パウの腕ほども太い棒に巻かれてワタルの両腕を広げても抱えきれない太さに達し、巨大な糸車のように台の上に置かれていた。

「これを、私が……どう……」
「まあ、見ての通り、を移動させようと思ったら一人では無理だから、保管場所はここということになるだろうね。その方が便利だと思うのなら、途中でちょん切って巻物をいくつも作ってもいい。君に託すのだから、その辺は君の好きにすればいい」

 そう言ってパウは、その部屋の鍵をワタルに渡した。

「鍵をかける必要があるのですか」
「そうさなあ。とりあえず、鼠を侵入させたくなかったらかけておくべきだろうね。この部屋はドアを閉めてしまえば密閉されるようになっていて、それこそ鼠一匹侵入できない造りになっている。もう気付いているだろうけど、ここにあるのは、医学書の中でも閲覧禁止になっている類のものばかりだ」
「閲覧禁止、というと」
「医者にも見せられないってことさ」
「医者が見ることができない医学書など――なぜ、どうして」
「それはまあ、読んでみればわかる」
「医学書を医者が読まずに司書が読んでどうするのですか!」

 ワタルは怒りのために大声で言った。すっかり体調を崩した父のために、パウと医学書を探して図書館を彷徨っていた苦い記憶が甦って来た。

「読めばわかると言っているのに、読みもしないで文句を言うとは。そういう短絡的なところは、経験を積めば少しはましになるかな。私は前の長老より年を取っていると言っただろう。私を疲れさせないでくれ」

 ワタルははっと息を呑んだ。
 パウの顔が、老人のように皺くちゃで年老いて見えた。それは一瞬で過ぎ去ったが、ワタルを怯えさせるには十分だった。

「申し訳ありません」
 ワタルは深々と頭を下げた。
「君が他の新米使徒達と忙しくしていることは知っている。だが、次期図書館長としては、そのような些末な問題にかまけてもらっていては困るな」
「長らく放置された腐敗を正すのが、些末な問題でしょうか」あなたや前の長老が放置していたことを、と内心でワタルは付け加えた。
「言い方を変えたら満足するかね? つまり、他の新米使徒達で足りることなら、彼らに任せておけばよい。お前にはお前にしかできない役割というものがある」
「それは一体」
「現状の無知なお前には教えられない。教えたところで無駄だからね。もどかしいかもしれないが、お前は礎となる基礎的知識をまだ習得していない。時間は無限ではない。私は司書になってから三年はひたすら書物を読んで過ごした。だが、お前は私ではない。お前にはお前のやり方があるのだろう。しかし、私の時間は限られている。私を有効に使うことができないとしたら、それはお前の問題だ」
「しかし」あなたはいつも居所が知れないではないか、と言いかけたワタルを制してパウが言った。
「私は大概高いところにいる。ナントカは高いところが好きというだろう」

 またしても煙に巻かれた体でワタルは一人図書目録と禁書と共に置き去りにされた。部屋を出て行く時にパウは

「施錠を忘れるな。鼠を侮ると痛い目に遭うぞ」

 と念を押していった。
 それほどまでに鼠――確かアルトゥールという名前であった――が恐ろしいのかとワタルは訝しがる。度々話題に上るものの、バスカヴィルと同じで、未だにその姿を目撃したことがなかった。猫も鼠も、果たして実在しているのかどうか。

 ワタルは軽く頭を振って、先ほどまでパウが腰かけていた粗末な椅子に座った。とりあえず、蔵書目録に目を通しておくべきだと思った。万が一何らかの理由で目録が失われた場合、せめてパウの他にもう一人、頭の中にリストを持っている人間がいた方がよいと考えたからだ。しかし

 到底、一晩二晩では無理な話

 ワタルは再度、握りしめている目録の端に目を落とした。書籍名と著者名、それに続くいくつかの記号は、所蔵場所を示していると思われたが、この複雑怪奇な設計の図書館において、位置情報をどのように示しているのか。まずそれを解読しなければならない。

 またパズルか

 パウを捕まえて尋ねれば、あっさり教えてくれるのかもしれなかった。
「私を有効に使うことができないとしたら、それはお前の問題だ」とパウは言った。だが、捕まえられる気がしないのだ。
 ワタルは溜息をついた。
 パウを探し回って図書館内を右往左往するよりは、自分で法則を見つける方が早い気がする。しかし、高いところを探せとパウは言っていなかったか。
 図書館内の探索はついつい後回しにしていたが、上の階に行くほど遭遇する司書の数が少なくなることには気付いていた。パウが上層階に常駐しているというのであれば、そこには何かがあるのだろう。

 ワタルは素早く目録の巨大な巻物を引き出し、そこに書かれている文字――未だワタルの理解の範疇を超えるものも少なくなかった――に目を走らせ記憶の書庫にしまい込みながら考えた。
 遅かれ早かれ、図書館内の探索も進めなければならない、と。
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