バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第三章

04 約束

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 ユッコはワタルの横に立つと、目を凝らして水平線の向こうを見ようとした。

「舟乗りになるのが夢だったんだ。だが、泳ぎが苦手で漁師にも舟乗りにもなれなかった」とユッコは前方に目を向けたまま言った。

「僕もだ。子供の頃は、一冊の本に跨って冒険の旅に出ることばかり考えて、しばしば夢に見たけど、一枚、また一枚と頁を破り捨てるのに、ちっとも陸地が見えなくて、ものすごく心細くなって目が覚める。夢の中ですら陸地にたどり着けないんだから、ひどいよ」
 ワタルも水平線を見つめながら言う。

「陸地などというものが、本当に存在するのだろうか」ユッコは眩しそうに目を細めている。

「世界は広いのだから、まさか『ない』なんてことはないだろう。ここから見える範囲にはないというだけだ。塔の一番上まで登れば、あるいは見えるかもしれない。ユッコ、君は使徒だ。正式にね。今までは許されなかった高いところまで上ることだって可能だ。図書館にだって入出が許可されて、読み書きを学ぶことができる。君は誰よりも書物に魅入られていたのではなかったか。それなのに何故」

「何故と君が問うのか」ユッコはワタルに向き直り、言う。
「君は以前とは随分形相が変わってしまっている。パウの知識を持ってしても元通りの顔に戻すことはできなかったわけだ。杖は必要なくなったようだが、未だに足を少しひきずっているだろう。恐らくそれも、一生治らない。そのようなことが全て」

「これは誰のせいでもない」
 ワタルはユッコの言葉を遮って言う。
「僕が責めるとしたら自分自身だ。自分は選ばれた特別な人間だなどという愚かな思い上がりのせいで、適切な行動をとれなかった。実際、僕は使徒になってからも碌な働きをしていない。君や君の親父さんが腹を立てるのは当然のことだ。君の親父さんは、不幸にもやり場のない怒りを暴力で表してしまった。どうすればあのようなことを防げたのかと、僕はあれ以来ずっと考えている」

「君が使徒失格なら、僕もそうなる。いや、それ以下だ。僕には君に備わっている司書になる資質もない。自分の愚かさや無能さを呪っても、やはり、つい他人を恨みたくなる。このような邪な思いを抱いた者が、図書館の書物から得た知識で一体何を始めるか――お前は恐ろしくならないのか?」

「君が邪な思いを抱いて行動したとしても、僕が止めてやる。僕以外にも、ゲンヤやリーヤ、エル、キリヤやパウがいる。君がこれから会うことになる猫の世話係という司書だって、一筋縄ではいかないぞ。悪事に手を染めた君などは、たちまち猫の餌だ」

「なんと」ユッコは愕然として言った。
「猫がいるのか? 本物の、あの、猫が?」

「そうとも! と言ってもまだ一度もその姿を拝んだことはないけどね。猫の世話係は余程大事に世話をしているらしい。でも、いるんだ。必ず。エルはあの手強い猫の世話係を出し抜いて猫の居所を突き止めようと躍起になっている。それから、僕達――リーヤとキリヤとエルと僕は、今この塔の地図を基にケラの――」

 ワタルは唐突に言葉を切った。当のケラの息子とユッコが額を突き合わせているところに、つい最近遭遇したばかりであることを思い出したからだ。

「とにかく、僕は猫の世話係に委任されて、君を図書館に連れて行く任務を仰せつかっている。使徒会議で、新米使徒には読み書きの習得が課せられることになったんだ。長老ゲンヤが自ら決断されたことだ。君も使徒である以上、長老の命令には従ってもらわなければ困る」

 ユッコは水平線に視線を戻し、しばらく思案していたが、ゆっくりとワタルの方を向き、言った。

「わかった。しかし、先程の言葉を忘れないでくれ。俺がもし、使徒にあるまじき行動に走った場合は、お前が止めると。例えそれで俺が水没刑になるのだとしても、必ず止めると」
「約束しよう。だが、君が僕にそんなことをさせる日は来ないと信じている」
「信じている、などと軽々しく言うな。もうお互い子供ではないのだぞ」

 ユッコはそう言ってまた目を逸らした。
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