バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第二章

01 若き長老の誕生

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 ゲンヤの長老就任式はシンプルなものであった。コミューンは贅沢や虚栄を嫌うので、これは当然のことと言える。

 重要な大規模集会を開く時に使う祈りの間に集まったのは、まず既存の使徒全員、といってもその数は僅か十名、パウの姿もその中に在ったが、贋作師や他の司書の姿はなく、彼らはあくまで表舞台には登場しない裏方に徹しているようだ。
 加えて、長老に就任するゲンヤと、使徒に就任するリーヤ、エル、キリヤ、ワタルの四名、残りは民の代表として各職人居住区から一名ずつ――ワタルの父も煉瓦職人代表でこの一団の中に混ざっているはずだった――合計数百の集団だ。これだけの人数で、祈りの間はほぼ満員となっている。 
 使徒見習いに戻ったユッコは、昨日の今日ということで、喪に服すことが許され、セレモニーを欠席している。

 代表の人数=職種の数であるという事実にワタルは驚いた。塔が広大で部屋数が無数にある、ということは漠然と知っていたが、実際どのぐらいの民がこの塔内に暮らしているのかということを意識したのは、今日が初めてのことだった。

 引退する長老の姿はなかった。パウが度々使者に耳打ちされて祈りの間を出て行くのは、長老の容体と関係があるのだろう。コミューン内で最も優れた医学の知識を持つのは、医者ではなくパウだという話だった。

 式はシンプルだが厳粛に執り行われた。まず長老に就任するゲンヤが、コミューンの民のために仕える従僕となることを誓い、集まった民の代表一人一人の前で跪き、深く頭を垂れる。新たに使徒になるリーヤ、エル、キリヤ、ワタルの四名も順に誓いの言葉を述べ、長老の後に続き、民の前に跪く。

 長老や使徒が仕えるのはコミューンの民であり、神ではない。コミューンの重要な儀式を行う際に使われる「祈りの間」は、総石造りで太い円柱に支えられた高い天井がアーチ状になった厳かな広間だが、ここにはいかなる神も祀られていない。
 神は、信ずる者の心の中に存在し、神を司るアイコン的なものは必要ないとされているからだ。どの神を信じ、祈りを捧げるのも自由だが、他者のそれに意見したり改宗を試みたりしてはならない、という厳しい教えがある。長老――引退する長老は、無神論者という噂であったが、長老の人となりを尊敬する民が、それを問題視したことはない。

 長老はコミューン内におけるあらゆる採決の決定権を持ち、必要ならば全使徒による満場一致の決断を覆せるほどの絶対的権限を持つ。コミューン内においては、神をも凌駕する存在、と言えなくもない。使徒はその長老に直接仕えて民と長老の間に立つ。当然コミューンの民との間には、否定し難い力関係が存在し、長老も使徒も民からは恐れ敬われる存在だ。

「それでも」
 とベッドから離れられないワタルを見舞った使徒ルキ――選ばれし子の講師でもある――は、ワタルにこう言った。
「長老と使徒が、民に仕えるのだ。その逆ではない。全ての行いは、民の幸福のためでなくてはならない。そこに私情や私腹を介入させてはならない。この先何十年経とうとも、それを決して忘れるな」

 外見上は、昨日までのゲンヤ、昨日までの使徒見習い達には何の変化もない。長老や使徒といえども、衣類の配給で特別扱いは受けないからだ。皆これまでと同じ、足首まで覆う、フード付きの粗末なローブを着ている。
 とはいえ、成長期の彼らの裾丈は微妙に異なる。最も顕著なのは、成長速度にローブの修繕が追い付かないらしいゲンヤである。更に、ワタルのローブだけおかしなまだら模様になっているのは、大怪我をした際に染み込んだ血が、洗っても完全には落ちなかったためだ。

 就任式を前に父親が自分のローブと交換することを申し出てくれたが、ワタルは断った。自分がもっとうまく立ち回っていたら、こんなことにはならなかったかもしれないという戒めにしようと考えたからだ。
 ユッコが使徒見習いに戻れたことは心から嬉しかったが、ユッコの父があのような目に遭ったこと(信じられないことだが、刑の執行は、つい昨日の出来事だ)、長老代理のゲンヤに厳しい決断をさせたことの責任は自分にもあるという気持ちは拭えなかった。自分だけに享受された特権を誰にも渡したくないという醜い気持ち。そんなものが自分に芽生えたことは恥ずかしく、許し難いことであった。曇りのない心で咄嗟に適切な判断をして行動することができなければ、そのとばっちりとして、また別の誰かが多大なる不利益を被ることになるかもしれない。

 数百人の代表一人一人の前に跪くのは、まだリハビリ中のワタルにはかなり辛い作業であったが、ワタルは最後の一人までやり遂げるつもりであった。それでも、前を行くキリヤから早くも数人分遅れをとっていた。膝をついたはいいが、杖を握った手が汗で滑り、立ち上がることができずワタルは内心焦った。

「ワタル」

 と代表団の中に紛れ込んでも頭半分飛び出しているゲンヤが少し先から見下ろしていた。

「コミューンの民よ、使徒ワタルは、先の大怪我よりまだ完全には回復しておりません。非礼は承知の上ですが、その者に限って膝をつくのはご容赦願いたい。武骨な面容ですが、その者は使徒パウの後継者と目されている者。この埋め合わせは、必ずや今後の働きで報いましょう」

 ワタルは頬が熱くなるのを感じた。皆、昨日の水没刑執行の様子――舟が桟橋から漕ぎ出すところ――を窓から眺めていたのだ。

 誰かの手がワタルの両腕に置かれて、乱暴にぐいと引き上げられた。
「無理すんな、小僧」
 ワタルより背が低いものの、がっしりとした体躯の男にワタルは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。このような無様な姿でお恥ずかしい限りです」
「おめえをぶちのめしたのは、うちの職人だ」
 ワタルははっとしてその石工代表の顔を見た。彼はワタルと目を合わせようとしなかったが「悪かったな、にいちゃん」と小声で言った。
 その顔に、ワタルは見覚えがあった。彼は、リーヤの父親だ。

 ワタルはもう一度石工代表に深々と頭を下げて、それから一人一人の前で同じように頭を下げ続けた。最後の一人に頭を下げ終えたワタルは、ひと固まりになって待っている新米使徒達、彼らから少し離れたところに立つゲンヤの傍らにパウが居ることに気付いた。

「たった今、長老が身罷みまかられたそうだ」
 ゲンヤが厳粛な面持ちで言った。
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