バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

12 目覚め

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 痛みは全身に及び酷いものだったが、ワタルの回復は早かった。目覚めてから二日間は医者がひっきりなしに部屋に出入りしていたものの、三日目には、ベッドの上で体を起こせるようになった。

 パウは、ワタルが目を覚ました日以来、姿を見せない

 ワタルは激痛に身もだえながら、嘘をついたことを後悔した。あの場合、嘘をついたのが悪いことだとは、どうしても思えなかった。ただ、あのパウに対して、あのように底の浅い嘘をつき通せると思った己を呪った。結局、ユッコの父を救うことはできなかったし、自分はパウの信頼を失った。

 ユッコの父親の処遇について、ワタルがいくら尋ねても医者は教えてくれなかった。しかし、どうなったか――あるいは今後どうなるか――は予想がついた。
 今回のように残虐な暴力行為の発生はコミューン内では珍しく、間違いなく水没刑に値するだろう。コミューンは仲間に対する背信行為には特に厳しい。

 ワタルは軋む体に鞭打ってどうにかベッドを抜け出すと、病室を出た。
 塔の内部には目印になるようなものが著しく少ない。少し歩いてみたただけでは自分が今どの階層にいるのかすらわからない。

 民は通常自らに割り振られた居住区内で生活している。居住区は、仕事場を内包する形で区分けされているから、特別な事態が発生しない限り、そこを出ることなく生活することも可能だ。近隣居住区との交流はある。大体皆、自分の住む居住区のある階については、どこになにがあるのか精通している。
 だが、その範囲を越えて、例えば上階、あるいは下階にまで足を延ばすことは非常に稀だ。勿論、石工や煉瓦職人、ガラス職人といった、塔内の修復作業に従事する者達のように、例外はあるが。

 しかし子供は、いくら親から注意を受けても、居住区外に遊びに出てしまうため、塔内では迷子が頻出する。何しろ、ワンフロアがだだっ広く、未使用の区間も多い。それでもまだ同じ階に留まっていれば、大事に至ることはまずないのだが、子供のことであるから階段を発見すれば間違いなく上るか下りるかしてしまい、度々大事になる。大人が考えつかないような場所に入り込む子供もおり、救出の遅れから、最悪命を落とすこともある。
 ワタルは一度見たものは忘れない記憶力のお陰で迷子になったことはないが、入ってはいけないところに入り込み、危うく死にかけたことはあった。ワタルとゲンヤが、共に九歳の頃。

 ワタルは歯を食いしばりながら進んだ。巨大な塔の内部に無数に存在する部屋の壁には、必ず外側に印がついている。だから、塔の内部に入り込み方向感覚を失った時は、まず外を見渡せる窓のある場所、つまりその階の最も外側を目指すように、コミューンの子供たちは教え込まれる。
 外界に通じる窓がある、つまり日光が確保できる場所、あるいはその近くに居住区は集中している。どこかの居住区にたどり着きさえすれば、後は伝言ゲームの要領で、迷子が所属する居住区の捜索が始まる。時間はかかるが、必ずその子の所属する居住区が見つかる。
 問題は、そのような生活の知恵を身につける前に迷子になり、居住区とは反対の方向に進み続け、塔の深部に迷い込んでしまった子供だ。これは、遺体すら発見されないこともある。

 あるとき、隣のガラス職人の居住区で行方不明の子供が出たという連絡がワタルの暮らす煉瓦職人居住区に入った。すぐさま大人達はその日の仕事を切り上げ、捜索隊に加わるべく隣の居住区に出かけて行った。子供の安全を守ることは、コミューンの民の最優先事項であるから、厨房係以外は、あらゆる職業の者、使徒も例外なく加わって捜索をする。長老だって、足腰が丈夫な頃であれば、捜索に加わっていたはずだ。

 ワタルは九歳。もうじき義務教育を終えようというところだった。そして、幼くして親を亡くしたゲンヤは、当時煉瓦職人の居住区に預けられていた。

 自身の子供達の世話役兼連絡係(迷子が助けを求めてきた際に、発見・保護の連絡を他居住区にする)の数名の大人を除いて、居住区内が子供達だけになったことに、ワタルは意味もなく興奮していた。
 一方ゲンヤは、その当時からワタルと同い年でありながら年齢に見合わない落ち着きがあった。彼は、幼い弟達(実の兄弟ではなく、居住区の子供達)の世話を普段と変わらない調子で行っていた。

「どう思う?」と興奮したワタルが訊くと、
「見つからないよ」と赤子の尻を拭きながらゲンヤは言った。
「何故そう思う?」 
「大人たちの話を聞いていたろう。行方不明になっているのは、十三歳の選ばれし子の一人だ。その辺の(と奇声を上げながら走り回る幼児を顎で指しながら)幼子がうっかり迷子になったのとはわけが違う。きっと、覚悟の上だろう」
「しかし」と『覚悟』の意味を考えながらワタルは言った。
「道に迷ったわけではないのなら、お腹がすけば出て来るのではないか」

 ゲンヤは清潔なおしめを装着し終えた赤子をあやしながら言う。

「君の悩みは腹が減ることぐらいなのだろうが、十三歳の選ばれし子が自ら姿をくらました、あるいは、なんらかの事故か事件に巻き込まれたのだとしたら――見つからないだろうな」

 ゲンヤの言う通り、三日間に渡る必死の捜索にかかわらず、その子は遂に発見されなかった。 

「一体どこに雲隠れしたのだろう」ワタルがゲンヤに問うと、
「捜しに行くかい?」と彼は事もなげに言った。

 その日は六日毎に設けられたコミューンの休息日だった。スクールも仕事もない。
 ワタルは好奇心から大喜びで同意した。ゲンヤがそのような冒険に興味を示そうとは思いもしなかった。しかしその決定を、ワタルは酷く後悔することになった。それは――


「ワタルではないか。一体何をしている」

 ワタルは回想から引き戻されると同時に、戻って来た全身の苦痛に呻き声をあげた。
 壁にもたれるようにしてようやく歩いているワタルを発見したのは、選ばれし子の一人、リーヤであった。
 リーヤはワタルの顔をしげしげと見つめ、言った。

「噂通り酷いな。ユッコの親父さんは石工だから腕力が特に強い。運が悪かったな」

 リーヤに体を支えられて、ワタルは不本意ながら今来た道を戻る。

「親父さんは、どうなった」
「水没刑だ。ゲンヤが決定した。まあ、使徒全員が同じ評決だったから、長老代理殿はそれに同意しただけだが」
「ゲンヤが長老代理? 長老様に何が」
 リーヤは顔を曇らせ、
「そう言えばお前は知らなかったんだな」と呟いた。
「お体の調子が優れないのだ。何日も床についていらっしゃる。使徒パウによると、彼をしてももはや打つ手がないそうだ。時間の問題だと言われている」

 だから大急ぎで長老からゲンヤへ業務の引継ぎが行われているのだが……と語尾を濁したリーヤの言葉は、ワタルの耳から零れ落ちた。

「ゲンヤが、ユッコの親父さんの水没刑を決定したのか。長老代理として」
「ああ、そうだ。他にどうしようがある? 息子が選ばれし子から除名されたのはお前のせいであるという邪心から、子供のお前を粉々に砕いた残虐な犯罪だ。私でも水没刑に反対できないケースだよ。だがな」
 とリーヤは顔を曇らせる。
「ユッコの言葉を聞いたら、確かに胸が痛むよ。あいつ、泣きながら詫びを入れたんだ。ゲンヤに泣きすがって、全て自分が悪い。除名されたことに腹を立てて、父親にワタルを非難する言葉を吹き込んだ。父親の心を毒で満たしたのは自分であるから、代わりに自分を水没刑にしてほしい。それが無理なら、自分も同罪であるから父と同じ水没刑にしてほしい。そう長老代理に涙ながらに訴えたんだ」

「僕は、階段から落ちたと言い張ろうとしたが、使徒パウにすぐ見破られてしまった。被害者の僕が許すと言っているのだ。無料奉仕や食料を半減する――それでも十分重い罰だ。それで十分だろう。ベテランの石工の命を無駄にするなんて」

「ユッコは、お前にもすまないと泣いていた。私だって、許してやりたいよ。使徒ではない立場ならそう言えただろう。だが今は、私達――エルとキリヤと私も、ゲンヤが長老に正式に就任したら使徒になることが決まった。コミューンに対する責任が違う。可哀想だから、で許してやることはできない。残念ながら」

「では、見習いは僕一人か」

「いいや。君は正式に司書になるんだ。表向きは我々と一緒に使徒に就任するわけだが。その、今のそのボロ雑巾よりましな見た目に回復したら、君も使徒パウから直々に指導を受けることになる。君が目覚めたその日に、使徒パウがそのことを告げに行ったはずだが、何も聞いてないのか?」

 ワタルが明け放したままの病室のドアまで二人は到着した。

「さあ、ベッドに寝かせるぞ。頼むから勝手に動き回るなよ。お前は迷子になることがないかもしれないが、捜しに行くこちらはそこまで賢くないんだから、こっちの身になって考えてくれ。お前は、図書館長候補でもあるんだからな」

 パウが今でも自分を司書にする気があるのかどうかわからない、とワタルは思ったが、口には出さなかった。

「リーヤ、君は一体、何をしに来たんだ。君だって使徒になる準備で忙しいのでは」

「ユッコに頼まれたからだ。『父のしたことを許してほしい。全ては自分の愚かで醜い心が悪いのだ』そう言っていた。あいつは、私とは兄弟同然に育った。私の父も石工なんだ。あいつの親父さんのこともよく知っている。二人とも、悪い人間ではない。それを君にわかってほしかった」

 最後は鼻声になり、リーヤはワタルに背を向けた。

「使徒見習いなら水没刑に反対できて、使徒になったらできないというのは、おかしくないか? 善良な人が、ただ一度の過ちで水没刑になる。ユッコだって、好奇心が少々強すぎるところはあったが、優秀な使徒になれる素質があった。それを、たった一度の些細な過ちで、奪った。やり直す機会を与えないのは、公平ではない」

 今では体中の痛みが倍になり、肺に十分な空気が送り込まれていない気がしたが、ワタルは声を荒げずにはいられなかった。

「そうかもしれない。だが、君だって、正式に司書に任命されたら、変わるかもしれない。まずは体を回復させることだ。君の気のすむまで議論につきあって、なんなら取っ組み合いをしてやってもいいが、そのような状態では三歳の子供が相手でも勝てまい」

 リーヤは悲しそうな顔で微笑んだ。去って行こうとする彼を、ワタルは「待って」と引き止めた。

「頼みがある。ゲンヤに――長老代理に伝えてほしい」
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