バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

文字の大きさ
上 下
11 / 82
第一章

10 ゲンヤとワタル

しおりを挟む
 いち早く部屋を出て行くゲンヤにワタルは追い縋った。
「訊きたいことがある」とワタル。
「どうせ、大きな声では言えない話なのだろうな」
 と横目でワタルを見てから、ゲンヤは顎でついて来るように示した。

 大股で先を行くゲンヤに遅れをとらないために、ワタルは小走りしなければならなかった。かつて、肩を並べて歩いていたことが、はるか大昔に思われた。

 たどり着いた先は、ゲンヤの部屋であった。選ばれし者になってからは個室を与えられたということは聞き知っていたが、ワタルは初めての訪問であった。
 それは、粗末な小部屋だった。
 長身のゲンヤが立つと一層狭苦しい感じのする室内は、窓があり外の景色(といっても水と空しかない)が一望できるという以外は、家具調度品の類はほとんどなく、藁の上に毛布を敷いた簡易ベッドと洗面道具、それに水差しぐらいしかないのがいかにもゲンヤらしいと思われた。

 次期長老たる者ならば当然か。権力を自分の利益のために用いるような人間は望まれていないのだから。ワタルはそう思った。

「ユッコの事だろう」

 ドアが閉まるなりゲンヤは言う。目は窓の外に向けられている。

「彼がレクチャーに来なくなったのは、君が――」彼のことを長老か使徒に告げ口したからなのか、と言いかけて、言葉に詰まったワタルに
「違う。密告ではない。私が、彼は使徒には相応しくないと判断したんだ。長老見習いでもその程度のことは許されている」とゲンヤはこともなげに言う。
「その程度って、使徒見習いから除名されるなんて、彼やその家族にとっては酷い不名誉だと――」

「それがそもそも間違いだ。使徒になるのが名誉で、水差し職人は不名誉だなんて考え方は、子供の頃からの教えを何も理解していない証拠だ。使徒見習いの中で、最も除名される危険が高そうな言動をとるうっかり者の君の口から名誉だなんて言葉が出るとは驚きだ。君は使徒――いや、司書になりたくないのではないかと、時々本気で思うことがあるよ」

「自分のような者が、そのような大役を果たせるかどうか自信がないからだ」

「それでいい。自信に満ち溢れた人間ばかりじゃ困る。君のように疑い深い人間もいなくてはね」
 そう言ってゲンヤは笑った。
「君は、あまり笑わなくなったな」
 ワタルは感慨深げに言う。
 ゲンヤの表情に影がさした。
「もう子供ではないから、楽しいことなんてそうそうありはしないだろう」
「本を読むのは楽しいよ。新しい知識がどんどん増えていく。昼になるのが待ち遠しいし、次の日の朝など来なければいいのにと思う。眠らなくても済む方法という本があったら、とても助かるんだけど」
「残念ながら、人間は眠らなければ生きていけないことになっている。しかし」とゲンヤはワタルをまっすぐ見据え、言う。
「書物には、嘘や正しくないことも書いてあるってことはパウから聞いたかな?」

 ぽかんと口を開けたままのワタルに、ゲンヤはため息をついた。

「『ユンとユラ』が子供向けの作り話であることは、誰だってすぐわかるだろう。問題は、まことしやかに真実ではないことを事実のように語ったり、あるいは民にとって有害でしかないことを声高に主張する書物があるってことなんだが。勿論、パウがそんなことを手とり足取り説明するわけがないか」

「そんな大事なことをどうして教えてくれないんだろう?」と心細げなワタルに
「あの人は、案外うっかりしているから」とゲンヤは平気な顔で言う。
「その点、君には良識や常識というものが備わっているので助かる」

 ワタルが部屋を去る時に、ゲンヤは彼の後頭部に向かってこう言った。

「あの図書館には、これから書かれるものと既に書かれたもの、書かれるはずだったもの、ありとあらゆる書物が保管されている。それも覚えておくといい」


 しばらく一人で瞑想するというゲンヤを残して、ワタルは図書館へと向かう。
 全く、誰も彼もが謎のようなことを言う。とワタルは永久に続くかと思われる螺旋階段を上りながら苦々しく思う。

 これから書かれるもの・書かれるはずだったもの云々については、パウに図書館へと連れていかれた初日に聞かされたことを覚えていたが、それがどういう意味なのか訊き返す余裕がなかった。訊き返すべきなのかどうかも、よくわからない。それが自分の無知からくることは十分自覚していたが、司書見習いになってまだひと月も経たない新参者に対し、もう少し手加減してくれてもよいのではないか。

 こんな効率の悪いやり方は、自分が司書になった暁には、絶対に変えてやる。ワタルは密かにそう誓った。
 まずあの図書館の本の並べ方がでたらめなのがいけない。司書の記憶力でのみ成立しているようなところが多分にあり、それでは、司書の身に何かあった場合にどうなるのかという心配を誰もしないのだろうかと不安になる。もう少し論理的かつ機能的に蔵書を分類すれば、皆の利益になるのに。

 それは、贋作師から譲り受けた『辞書』から得たアイデアであった。
 この世界には、パウのようにいちいちひとを煙にまくようなことをせずに、機能的かつ効率的に相手の疑問にいち早く答えを提示できるよう腐心する人間もいるのだと知り、ワタルは自分もこの辞書のようにありたいと心より願った。

 辞書は、凡庸な人間の疑問に答えてくれる。つまり、ワタルやゲンヤ(恐らくパウも)のように一度で何でも記憶してしまうような技能のない相手にも、知識を伝授し、学ばせることが可能だということだ。であるならば、現状のように書物を手にすることができる人間を制限する正当性は、失われてしまうのではないか。

 誰もが好きなように図書館の本を手にできるようになったら、この世界は一体どうなるのだろう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

赤い部屋

山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。 真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。 東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。 そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。 が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。 だが、「呪い」は実在した。 「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。 凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。 そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。 「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか? 誰がこの「呪い」を生み出したのか? そして彼らはなぜ、呪われたのか? 徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。 その先にふたりが見たものは——。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

File■■ 【厳選■ch怖い話】むしごさまをよぶ  

雨音
ホラー
むしごさま。 それは■■の■■。 蟲にくわれないように ※ちゃんねる知識は曖昧あやふやなものです。ご容赦くださいませ。

熾ーおこりー

ようさん
ホラー
【第8回ホラー・ミステリー小説大賞参加予定作品(リライト)】  幕末一の剣客集団、新撰組。  疾風怒濤の時代、徳川幕府への忠誠を頑なに貫き時に鉄の掟の下同志の粛清も辞さない戦闘派治安組織として、倒幕派から庶民にまで恐れられた。  組織の転機となった初代局長・芹澤鴨暗殺事件を、原田左之助の視点で描く。  志と名誉のためなら死をも厭わず、やがて新政府軍との絶望的な戦争に飲み込まれていった彼らを蝕む闇とはーー ※史実をヒントにしたフィクション(心理ホラー)です 【登場人物】(ネタバレを含みます) 原田左之助(二三歳) 伊代松山藩出身で槍の名手。新撰組隊士(試衛館派) 芹澤鴨(三七歳) 新撰組筆頭局長。文武両道の北辰一刀流師範。刀を抜くまでもない戦闘の際には鉄製の軍扇を武器とする。水戸派のリーダー。 沖田総司(二一歳) 江戸出身。新撰組隊士の中では最年少だが剣の腕前は五本の指に入る(試衛館派) 山南敬助(二七歳) 仙台藩出身。土方と共に新撰組副長を務める。温厚な調整役(試衛館派) 土方歳三(二八歳)武州出身。新撰組副長。冷静沈着で自分にも他人にも厳しい。試衛館の弟子筆頭で一本気な男だが、策士の一面も(試衛館派) 近藤勇(二九歳) 新撰組局長。土方とは同郷。江戸に上り天然理心流の名門道場・試衛館を継ぐ。 井上源三郎(三四歳) 新撰組では一番年長の隊士。近藤とは先代の兄弟弟子にあたり、唯一の相談役でもある。 新見錦 芹沢の腹心。頭脳派で水戸派のブレインでもある 平山五郎 芹澤の腹心。直情的な男(水戸派) 平間(水戸派) 野口(水戸派) (画像・速水御舟「炎舞」部分)

なぜだかそこに猫がいた:短編集

春泥
現代文学
いくつもの名前を持つ野良猫が毎日通う場所、捨てられていた子猫を拾ってきた女性、事故で亡くなったはずの猫が帰って来た!? 等々。 猫にまつわる短い物語。どれでもお好きなタイトルからどうぞ。 *ときどき別の生き物も混じります。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

処理中です...