バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

10 ゲンヤとワタル

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 いち早く部屋を出て行くゲンヤにワタルは追い縋った。
「訊きたいことがある」とワタル。
「どうせ、大きな声では言えない話なのだろうな」
 と横目でワタルを見てから、ゲンヤは顎でついて来るように示した。

 大股で先を行くゲンヤに遅れをとらないために、ワタルは小走りしなければならなかった。かつて、肩を並べて歩いていたことが、はるか大昔に思われた。

 たどり着いた先は、ゲンヤの部屋であった。選ばれし者になってからは個室を与えられたということは聞き知っていたが、ワタルは初めての訪問であった。
 それは、粗末な小部屋だった。
 長身のゲンヤが立つと一層狭苦しい感じのする室内は、窓があり外の景色(といっても水と空しかない)が一望できるという以外は、家具調度品の類はほとんどなく、藁の上に毛布を敷いた簡易ベッドと洗面道具、それに水差しぐらいしかないのがいかにもゲンヤらしいと思われた。

 次期長老たる者ならば当然か。権力を自分の利益のために用いるような人間は望まれていないのだから。ワタルはそう思った。

「ユッコの事だろう」

 ドアが閉まるなりゲンヤは言う。目は窓の外に向けられている。

「彼がレクチャーに来なくなったのは、君が――」彼のことを長老か使徒に告げ口したからなのか、と言いかけて、言葉に詰まったワタルに
「違う。密告ではない。私が、彼は使徒には相応しくないと判断したんだ。長老見習いでもその程度のことは許されている」とゲンヤはこともなげに言う。
「その程度って、使徒見習いから除名されるなんて、彼やその家族にとっては酷い不名誉だと――」

「それがそもそも間違いだ。使徒になるのが名誉で、水差し職人は不名誉だなんて考え方は、子供の頃からの教えを何も理解していない証拠だ。使徒見習いの中で、最も除名される危険が高そうな言動をとるうっかり者の君の口から名誉だなんて言葉が出るとは驚きだ。君は使徒――いや、司書になりたくないのではないかと、時々本気で思うことがあるよ」

「自分のような者が、そのような大役を果たせるかどうか自信がないからだ」

「それでいい。自信に満ち溢れた人間ばかりじゃ困る。君のように疑い深い人間もいなくてはね」
 そう言ってゲンヤは笑った。
「君は、あまり笑わなくなったな」
 ワタルは感慨深げに言う。
 ゲンヤの表情に影がさした。
「もう子供ではないから、楽しいことなんてそうそうありはしないだろう」
「本を読むのは楽しいよ。新しい知識がどんどん増えていく。昼になるのが待ち遠しいし、次の日の朝など来なければいいのにと思う。眠らなくても済む方法という本があったら、とても助かるんだけど」
「残念ながら、人間は眠らなければ生きていけないことになっている。しかし」とゲンヤはワタルをまっすぐ見据え、言う。
「書物には、嘘や正しくないことも書いてあるってことはパウから聞いたかな?」

 ぽかんと口を開けたままのワタルに、ゲンヤはため息をついた。

「『ユンとユラ』が子供向けの作り話であることは、誰だってすぐわかるだろう。問題は、まことしやかに真実ではないことを事実のように語ったり、あるいは民にとって有害でしかないことを声高に主張する書物があるってことなんだが。勿論、パウがそんなことを手とり足取り説明するわけがないか」

「そんな大事なことをどうして教えてくれないんだろう?」と心細げなワタルに
「あの人は、案外うっかりしているから」とゲンヤは平気な顔で言う。
「その点、君には良識や常識というものが備わっているので助かる」

 ワタルが部屋を去る時に、ゲンヤは彼の後頭部に向かってこう言った。

「あの図書館には、これから書かれるものと既に書かれたもの、書かれるはずだったもの、ありとあらゆる書物が保管されている。それも覚えておくといい」


 しばらく一人で瞑想するというゲンヤを残して、ワタルは図書館へと向かう。
 全く、誰も彼もが謎のようなことを言う。とワタルは永久に続くかと思われる螺旋階段を上りながら苦々しく思う。

 これから書かれるもの・書かれるはずだったもの云々については、パウに図書館へと連れていかれた初日に聞かされたことを覚えていたが、それがどういう意味なのか訊き返す余裕がなかった。訊き返すべきなのかどうかも、よくわからない。それが自分の無知からくることは十分自覚していたが、司書見習いになってまだひと月も経たない新参者に対し、もう少し手加減してくれてもよいのではないか。

 こんな効率の悪いやり方は、自分が司書になった暁には、絶対に変えてやる。ワタルは密かにそう誓った。
 まずあの図書館の本の並べ方がでたらめなのがいけない。司書の記憶力でのみ成立しているようなところが多分にあり、それでは、司書の身に何かあった場合にどうなるのかという心配を誰もしないのだろうかと不安になる。もう少し論理的かつ機能的に蔵書を分類すれば、皆の利益になるのに。

 それは、贋作師から譲り受けた『辞書』から得たアイデアであった。
 この世界には、パウのようにいちいちひとを煙にまくようなことをせずに、機能的かつ効率的に相手の疑問にいち早く答えを提示できるよう腐心する人間もいるのだと知り、ワタルは自分もこの辞書のようにありたいと心より願った。

 辞書は、凡庸な人間の疑問に答えてくれる。つまり、ワタルやゲンヤ(恐らくパウも)のように一度で何でも記憶してしまうような技能のない相手にも、知識を伝授し、学ばせることが可能だということだ。であるならば、現状のように書物を手にすることができる人間を制限する正当性は、失われてしまうのではないか。

 誰もが好きなように図書館の本を手にできるようになったら、この世界は一体どうなるのだろう。
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