バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

02 元始、書物は万能であった

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「これからお前には、司書見習いとして、昼からの時間を修行に励んでもらう」

 長老の言葉がワタルの頭の中で何度も繰り返される。

 これまで朝のレクチャーを終えた後のワタルは、父の工房で煉瓦造りを手伝ったり、修復プランを図案化したり好きなことをしていられた。
 他の使徒候補生は、気の合う者同士でレクチャーのおさらいなどをしているようだが、ワタルにはそんなものは必要なかった。他の子供達より二年遅れてプログラムに参加したとはいえ、一度見たものや聞いたことは、ワタルの頭から決してなくならない。
 しかしその一方で、溜めこんだ情報を組み合わせたり応用したりする能力にいささか欠けているところがあった。自分の意見を述べることも苦手の一つで、そのためワタルはクラスでは常に劣等生扱いだったし、自分でもそう思っていた。

 その自分が、司書候補にと、長老直々に指名を受けた。

 司書という役職は、長老と使徒を含め一部の民しか知らない名であるという。事実、ワタルがその名を耳にしたのは、それが初めての事だった。一般に知られていないのは、彼らが書物を読み解き管理する役割を担っているからである。そう聞いた時、ワタルの心臓は大きく脈打ち、ものすごい速さで鼓動を始めた。
 書物を読み解くとはどういう意味か、とグループの中では一番物おじしないユッコが挙手して問うた。
  長老は垂れ下がった眉と瞼に埋もれた目でユッコを見据えたようで、その気配を感じただけでユッコは首をすくめた。長老はユッコを咎めなかったが、そこから始まった長い語りに口を挟む者はいなかった。

 長老曰く:

 元始、書物は万能であった。書物は病を治すこともできれば、食糧難を解決することもできた。空を飛ぶことさえ不可能ではなく、遠く離れたところに居る者に瞬時に伝言を届けることなど造作もなかった。
 しかし、現在の書物はどうであろうか。神の怒りで二度目の大洪水に世界が沈んだ後、我らが書物を用いるのは、主に移動手段、そう、舟としてのみ。

 少なくとも、民が目にする書物の使い道はそのように限定されている。皆も知っている通り、水に浮かべた本の舟は、一日経つと水が染みたページがふやけて使えなくなるため、そのふやけた頁を破り捨てなくてはならない。これを怠ると水の浸潤がまだ使えるページにまで及んでしまい、本自体が駄目になり、浮力を失ってしまう。

 これは我らの先達が何度も実験を繰り返し発見したことだ。舟を水から引きあげて濡れた頁をそのままに乾燥させたとしても効果はなく、次に水に浮かべようとした時、その舟は沈んでしまう。だから本の舟のメンテナンスには細心の注意が必要で、現在の舟大工は、頁への水の浸潤具合を見極め、最良のタイミングで頁をはぎ取る熟練の技を極めた者達である。
 さて、その破り取られた頁を間近に見たことがある者は少ないと思うが(舟大工の息子エルが挙手するのを見て頷きながら)、多くの場合、水に浸かった頁はインクが滲んでおり、読むことは叶わない。

 そう、今、「読む」と言った。

 読むというのは即ち、例えばそこに居るワタルは、絵を描く能力に長けていると聞く。ワタルが鳥を描くとする。それは誰が見ても鳥だとわかる、よくできた絵だ。残念ながら、わしには絵を描く才がない。鳥を描いても何やらよくわからないお化けのようなものができあがるだけだろう。
 
 だが文字というものがあれば、それで「鳥」と書き表すことができる。文字とは、組み合わせによって意味を伝達する記号、とでも言っておこうか。鳥の絵を描くよりもずっと簡単に「鳥」を意味することができる記号だ。書物には、そのような文字を使って、様々な情報が示されている。
  文字によって書き記された情報を理解することを読むと言い、書物を読み解くとは、記号を解読して情報を入手する、という意味だ。文字によって書物に記された情報は、保管方法を間違えなければ百年、二百年、いや、何千年もの時間にも耐えることができる。

 コミューン内で文字を読むことができるのは、長老と司書、それに一部の書物を読むことが許されている者――例えば医者等に限られており、使徒になったからといって自動的にその権利が授けられるわけではない。

  それは何故か。

  この世界が二度も大洪水に見舞われたのは、知識を求める人間の強欲さ故だからだ。知識というのは危険なものである。扱いを誤れば、新たな大洪水か、更に酷い厄災に見舞われよう。そこで先達は、情報に接することができる人間を厳しく限定した。それが現在の我らのコミューンを形成している掟だ。

 全ての情報に接する権限を持つのは、長老と図書館長のみ。図書館とは、この世のありとあらゆる書物、つまり情報を集めた知の結晶だ。図書館長の下に仕え書物の管理に携わる者を司書と呼ぶ。これは、情報というものの価値を考えれば、かなりの重責であることがわかろう。わしはこの司書候補生として、ワタルを指名しようと思う。


 長老は長い話を語り終えると、肩で大きく息をついた。

 皆から驚愕の目で見られているのを意識しながら、「しかし私は」とワタルは夢中で言った。
「空を飛ぶ方法を知れば、飛んでみたくなってしまう。そんな人間は、司書には最も向かない人間ではありませんか」
 長老は、ほ、ほ、と愉快そうに笑った。
「かもしれんが、お前が司書になれたところで、そこには長老がおり、使徒もいる。図書館長や、お前以外の司書もいる。そう易々と飛ばせてもらえると思うかね」
 長老は僅かに首を動かし、傍らに控えている使徒パウの方を見た、ようだったが、パウは腕組みをしてそっぽを向いていた。

 ワタルは己の傲慢さが恥ずかしくなり、下を向いた。

「お前のその愚直な誠実さが使徒の一人として相応しいと、わしやパウは思っている。現在の図書館長はパウで、彼は使徒であり司書でもある。お前を司書に推薦したのはパウだ。お前が何かしでかせば、自身も責を負う覚悟はあるのだろうて。パウを図書館長に指名したわしも、無論同罪になる。ゲンヤが長老になっておれば、当然ゲンヤにも害が及ぶ。そのことを肝に銘じておくといい」

 長老にそう言われて、ワタルは黙って頭を垂れるしかなかった。
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