3 / 82
第一章
02 元始、書物は万能であった
しおりを挟む
「これからお前には、司書見習いとして、昼からの時間を修行に励んでもらう」
長老の言葉がワタルの頭の中で何度も繰り返される。
これまで朝のレクチャーを終えた後のワタルは、父の工房で煉瓦造りを手伝ったり、修復プランを図案化したり好きなことをしていられた。
他の使徒候補生は、気の合う者同士でレクチャーのおさらいなどをしているようだが、ワタルにはそんなものは必要なかった。他の子供達より二年遅れてプログラムに参加したとはいえ、一度見たものや聞いたことは、ワタルの頭から決してなくならない。
しかしその一方で、溜めこんだ情報を組み合わせたり応用したりする能力にいささか欠けているところがあった。自分の意見を述べることも苦手の一つで、そのためワタルはクラスでは常に劣等生扱いだったし、自分でもそう思っていた。
その自分が、司書候補にと、長老直々に指名を受けた。
司書という役職は、長老と使徒を含め一部の民しか知らない名であるという。事実、ワタルがその名を耳にしたのは、それが初めての事だった。一般に知られていないのは、彼らが書物を読み解き管理する役割を担っているからである。そう聞いた時、ワタルの心臓は大きく脈打ち、ものすごい速さで鼓動を始めた。
書物を読み解くとはどういう意味か、とグループの中では一番物おじしないユッコが挙手して問うた。
長老は垂れ下がった眉と瞼に埋もれた目でユッコを見据えたようで、その気配を感じただけでユッコは首をすくめた。長老はユッコを咎めなかったが、そこから始まった長い語りに口を挟む者はいなかった。
長老曰く:
元始、書物は万能であった。書物は病を治すこともできれば、食糧難を解決することもできた。空を飛ぶことさえ不可能ではなく、遠く離れたところに居る者に瞬時に伝言を届けることなど造作もなかった。
しかし、現在の書物はどうであろうか。神の怒りで二度目の大洪水に世界が沈んだ後、我らが書物を用いるのは、主に移動手段、そう、舟としてのみ。
少なくとも、民が目にする書物の使い道はそのように限定されている。皆も知っている通り、水に浮かべた本の舟は、一日経つと水が染みた頁がふやけて使えなくなるため、そのふやけた頁を破り捨てなくてはならない。これを怠ると水の浸潤がまだ使えるページにまで及んでしまい、本自体が駄目になり、浮力を失ってしまう。
これは我らの先達が何度も実験を繰り返し発見したことだ。舟を水から引きあげて濡れた頁をそのままに乾燥させたとしても効果はなく、次に水に浮かべようとした時、その舟は沈んでしまう。だから本の舟のメンテナンスには細心の注意が必要で、現在の舟大工は、頁への水の浸潤具合を見極め、最良のタイミングで頁をはぎ取る熟練の技を極めた者達である。
さて、その破り取られた頁を間近に見たことがある者は少ないと思うが(舟大工の息子エルが挙手するのを見て頷きながら)、多くの場合、水に浸かった頁はインクが滲んでおり、読むことは叶わない。
そう、今、「読む」と言った。
読むというのは即ち、例えばそこに居るワタルは、絵を描く能力に長けていると聞く。ワタルが鳥を描くとする。それは誰が見ても鳥だとわかる、よくできた絵だ。残念ながら、わしには絵を描く才がない。鳥を描いても何やらよくわからないお化けのようなものができあがるだけだろう。
だが文字というものがあれば、それで「鳥」と書き表すことができる。文字とは、組み合わせによって意味を伝達する記号、とでも言っておこうか。鳥の絵を描くよりもずっと簡単に「鳥」を意味することができる記号だ。書物には、そのような文字を使って、様々な情報が示されている。
文字によって書き記された情報を理解することを読むと言い、書物を読み解くとは、記号を解読して情報を入手する、という意味だ。文字によって書物に記された情報は、保管方法を間違えなければ百年、二百年、いや、何千年もの時間にも耐えることができる。
コミューン内で文字を読むことができるのは、長老と司書、それに一部の書物を読むことが許されている者――例えば医者等に限られており、使徒になったからといって自動的にその権利が授けられるわけではない。
それは何故か。
この世界が二度も大洪水に見舞われたのは、知識を求める人間の強欲さ故だからだ。知識というのは危険なものである。扱いを誤れば、新たな大洪水か、更に酷い厄災に見舞われよう。そこで先達は、情報に接することができる人間を厳しく限定した。それが現在の我らのコミューンを形成している掟だ。
全ての情報に接する権限を持つのは、長老と図書館長のみ。図書館とは、この世のありとあらゆる書物、つまり情報を集めた知の結晶だ。図書館長の下に仕え書物の管理に携わる者を司書と呼ぶ。これは、情報というものの価値を考えれば、かなりの重責であることがわかろう。わしはこの司書候補生として、ワタルを指名しようと思う。
長老は長い話を語り終えると、肩で大きく息をついた。
皆から驚愕の目で見られているのを意識しながら、「しかし私は」とワタルは夢中で言った。
「空を飛ぶ方法を知れば、飛んでみたくなってしまう。そんな人間は、司書には最も向かない人間ではありませんか」
長老は、ほ、ほ、と愉快そうに笑った。
「かもしれんが、お前が司書になれたところで、そこには長老がおり、使徒もいる。図書館長や、お前以外の司書もいる。そう易々と飛ばせてもらえると思うかね」
長老は僅かに首を動かし、傍らに控えている使徒パウの方を見た、ようだったが、パウは腕組みをしてそっぽを向いていた。
ワタルは己の傲慢さが恥ずかしくなり、下を向いた。
「お前のその愚直な誠実さが使徒の一人として相応しいと、わしやパウは思っている。現在の図書館長はパウで、彼は使徒であり司書でもある。お前を司書に推薦したのはパウだ。お前が何かしでかせば、自身も責を負う覚悟はあるのだろうて。パウを図書館長に指名したわしも、無論同罪になる。ゲンヤが長老になっておれば、当然ゲンヤにも害が及ぶ。そのことを肝に銘じておくといい」
長老にそう言われて、ワタルは黙って頭を垂れるしかなかった。
長老の言葉がワタルの頭の中で何度も繰り返される。
これまで朝のレクチャーを終えた後のワタルは、父の工房で煉瓦造りを手伝ったり、修復プランを図案化したり好きなことをしていられた。
他の使徒候補生は、気の合う者同士でレクチャーのおさらいなどをしているようだが、ワタルにはそんなものは必要なかった。他の子供達より二年遅れてプログラムに参加したとはいえ、一度見たものや聞いたことは、ワタルの頭から決してなくならない。
しかしその一方で、溜めこんだ情報を組み合わせたり応用したりする能力にいささか欠けているところがあった。自分の意見を述べることも苦手の一つで、そのためワタルはクラスでは常に劣等生扱いだったし、自分でもそう思っていた。
その自分が、司書候補にと、長老直々に指名を受けた。
司書という役職は、長老と使徒を含め一部の民しか知らない名であるという。事実、ワタルがその名を耳にしたのは、それが初めての事だった。一般に知られていないのは、彼らが書物を読み解き管理する役割を担っているからである。そう聞いた時、ワタルの心臓は大きく脈打ち、ものすごい速さで鼓動を始めた。
書物を読み解くとはどういう意味か、とグループの中では一番物おじしないユッコが挙手して問うた。
長老は垂れ下がった眉と瞼に埋もれた目でユッコを見据えたようで、その気配を感じただけでユッコは首をすくめた。長老はユッコを咎めなかったが、そこから始まった長い語りに口を挟む者はいなかった。
長老曰く:
元始、書物は万能であった。書物は病を治すこともできれば、食糧難を解決することもできた。空を飛ぶことさえ不可能ではなく、遠く離れたところに居る者に瞬時に伝言を届けることなど造作もなかった。
しかし、現在の書物はどうであろうか。神の怒りで二度目の大洪水に世界が沈んだ後、我らが書物を用いるのは、主に移動手段、そう、舟としてのみ。
少なくとも、民が目にする書物の使い道はそのように限定されている。皆も知っている通り、水に浮かべた本の舟は、一日経つと水が染みた頁がふやけて使えなくなるため、そのふやけた頁を破り捨てなくてはならない。これを怠ると水の浸潤がまだ使えるページにまで及んでしまい、本自体が駄目になり、浮力を失ってしまう。
これは我らの先達が何度も実験を繰り返し発見したことだ。舟を水から引きあげて濡れた頁をそのままに乾燥させたとしても効果はなく、次に水に浮かべようとした時、その舟は沈んでしまう。だから本の舟のメンテナンスには細心の注意が必要で、現在の舟大工は、頁への水の浸潤具合を見極め、最良のタイミングで頁をはぎ取る熟練の技を極めた者達である。
さて、その破り取られた頁を間近に見たことがある者は少ないと思うが(舟大工の息子エルが挙手するのを見て頷きながら)、多くの場合、水に浸かった頁はインクが滲んでおり、読むことは叶わない。
そう、今、「読む」と言った。
読むというのは即ち、例えばそこに居るワタルは、絵を描く能力に長けていると聞く。ワタルが鳥を描くとする。それは誰が見ても鳥だとわかる、よくできた絵だ。残念ながら、わしには絵を描く才がない。鳥を描いても何やらよくわからないお化けのようなものができあがるだけだろう。
だが文字というものがあれば、それで「鳥」と書き表すことができる。文字とは、組み合わせによって意味を伝達する記号、とでも言っておこうか。鳥の絵を描くよりもずっと簡単に「鳥」を意味することができる記号だ。書物には、そのような文字を使って、様々な情報が示されている。
文字によって書き記された情報を理解することを読むと言い、書物を読み解くとは、記号を解読して情報を入手する、という意味だ。文字によって書物に記された情報は、保管方法を間違えなければ百年、二百年、いや、何千年もの時間にも耐えることができる。
コミューン内で文字を読むことができるのは、長老と司書、それに一部の書物を読むことが許されている者――例えば医者等に限られており、使徒になったからといって自動的にその権利が授けられるわけではない。
それは何故か。
この世界が二度も大洪水に見舞われたのは、知識を求める人間の強欲さ故だからだ。知識というのは危険なものである。扱いを誤れば、新たな大洪水か、更に酷い厄災に見舞われよう。そこで先達は、情報に接することができる人間を厳しく限定した。それが現在の我らのコミューンを形成している掟だ。
全ての情報に接する権限を持つのは、長老と図書館長のみ。図書館とは、この世のありとあらゆる書物、つまり情報を集めた知の結晶だ。図書館長の下に仕え書物の管理に携わる者を司書と呼ぶ。これは、情報というものの価値を考えれば、かなりの重責であることがわかろう。わしはこの司書候補生として、ワタルを指名しようと思う。
長老は長い話を語り終えると、肩で大きく息をついた。
皆から驚愕の目で見られているのを意識しながら、「しかし私は」とワタルは夢中で言った。
「空を飛ぶ方法を知れば、飛んでみたくなってしまう。そんな人間は、司書には最も向かない人間ではありませんか」
長老は、ほ、ほ、と愉快そうに笑った。
「かもしれんが、お前が司書になれたところで、そこには長老がおり、使徒もいる。図書館長や、お前以外の司書もいる。そう易々と飛ばせてもらえると思うかね」
長老は僅かに首を動かし、傍らに控えている使徒パウの方を見た、ようだったが、パウは腕組みをしてそっぽを向いていた。
ワタルは己の傲慢さが恥ずかしくなり、下を向いた。
「お前のその愚直な誠実さが使徒の一人として相応しいと、わしやパウは思っている。現在の図書館長はパウで、彼は使徒であり司書でもある。お前を司書に推薦したのはパウだ。お前が何かしでかせば、自身も責を負う覚悟はあるのだろうて。パウを図書館長に指名したわしも、無論同罪になる。ゲンヤが長老になっておれば、当然ゲンヤにも害が及ぶ。そのことを肝に銘じておくといい」
長老にそう言われて、ワタルは黙って頭を垂れるしかなかった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
なぜだかそこに猫がいた:短編集
春泥
現代文学
いくつもの名前を持つ野良猫が毎日通う場所、捨てられていた子猫を拾ってきた女性、事故で亡くなったはずの猫が帰って来た!? 等々。
猫にまつわる短い物語。どれでもお好きなタイトルからどうぞ。
*ときどき別の生き物も混じります。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
餅太郎の恐怖箱
坂本餅太郎
ホラー
坂本餅太郎が贈る、掌編ホラーの珠玉の詰め合わせ――。
不意に開かれた扉の向こうには、日常が反転する恐怖の世界が待っています。
見知らぬ町に迷い込んだ男が遭遇する不可解な住人たち。
古びた鏡に映る自分ではない“何か”。
誰もいないはずの家から聞こえる足音の正体……。
「餅太郎の恐怖箱」には、短いながらも心に深く爪痕を残す物語が詰め込まれています。
あなたの隣にも潜むかもしれない“日常の中の異界”を、ぜひその目で確かめてください。
一度開いたら、二度と元には戻れない――これは、あなたに向けた恐怖の招待状です。
---
読み切りホラー掌編集です。
毎晩21:00更新!(予定)
龍神の巫女の助手になる~大学生編~
ぽとりひょん
ホラー
大学生になった中野沙衣は、探偵事務所?を開くが雇う助手たちが長続きしない。 沙衣の仕事のお祓いの恐怖に耐えられないのだ。 そんな時、高校性のころから知り合いの中井祐二が仕事の依頼に来る。 祐二は依頼料を払う代わりに助手のバイトをすることになる。 しかし、祐二は霊に鈍感な男だった。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる