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十四 サーモン・ピンク・サーモン

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 コートの男がこちらへ近づいて来る。眉の濃いニット帽の男。彼は一目散に逃げだしたい衝動に駆られるが、足が動かない。
 ここからは全てがスローモーションだ。
 沈んだ色合いの水中を蠢く大きな魚の進行方向は川上、つまり彼に向かってゆっくりと近づいて来る男の方へ向かって騒々しく水飛沫を上げながら、遡上していく。それはなんだかおかしなことだと彼は思う。魚は川を上るのに、彼の刺客は下って来るのだ。それは理に適わないことだと。
 遡上する魚の数や勢いが増すほど、時間はスローダウンしていく。男がほんの十数メートルの距離を縮めて彼にたどり着くまでには、永遠にも匹敵する時間が必要だった。
 ミーナは彼のシャツの前をはだけさせると、舌を突き出した顔を埋め、カタツムリのように粘着質な跡を残しながら下へ下へと沈んでいく。彼のベルトを外しながら、まっ白な歯の間にファスナーの金具を挟んで、上目遣いで下していく。口に咥えられた時彼は微かに呻き声を上げるが、コマ送りのようにぎくしゃくした動きで通り過ぎていくジョガーも携帯電話を耳に押し当てている会社員にもそれは届かない。
 ニット帽の男はもどかしくなるぐらいゆっくりと近づいて来る。そのせいで彼の快楽と苦痛・恐怖は通常の何倍にも引き伸ばされることになる。
 サーモンピンクの唇が、根元まで近づいては、離れ、近づいては、離れ、彼女が彼の尻を両手で掴んでいるため、彼は動くことができない。目を瞑り頭をのけぞらせた彼は、これではまるで斬り裂いてくださいと言っているようなものだと体制を立て直そうとする反面、こんな死に方なら悪くないのではないか、とも考えている。
 昨日の娼婦が最後の晩餐ではなくて済むのなら。
 いや、最後の晩餐――ランチだが――はサーモンだった。バターの海に浸かった、魚臭くない魚。
 川の水がいつしか溶けたバターに変わっている。薄く黄味がかっているが割合サラサラした液体の中を、サーモンピンクの魚の大群が遡上していく。男はその流れに逆らい、川上からこちらへ下りてくる。
 ああ、サリー。とミーナは口がふさがっているため不明瞭な発音で言った。

 いや、言うわけがない。
 いや、言った。

 ああ、ああ。と呻き声を押し殺しながら彼も彼女の名前を呼ぼうとするのだが、どうしたことか、それは一時的にどこかへ姿を隠してしまい、彼は途方に暮れる。妻の名前が、離婚した最初の妻の名前が、どうしても思い出せなかった。
 彼女はミーナと同じ金髪で、化粧っ気のない肌は艶やかで、唇はピンク色だった。
 いや、そうじゃない。それは、ウェイトレスだ。
 いや、実際二人はよく似ていた。ほぼ同一人物と言っていい。

 そんなはずはない。
 ある。

 鮭の大群が水を跳ねる音だけが響いていた。
 男はとうとう彼のすぐ傍らまで到着した。もう逃れられないと思う。彼の尻を掴んでいたウェイトレスの片手が彼の毛深い胸をまさぐっていた。吸い上げる頬に一層力が籠められ、頭部の反復運動が激しくなった。
 男の右手がコートの内側に滑り込んだ。濃い髭に埋もれたぶ厚い唇が開く。男の目は真っ黒で、瞳孔が開いている。コートの中の右手が全てがスローモーな世界では信じられないスピードで引き抜かれた。男の手に握られているそれが、光を反射し彼は眩しさに目を閉じ、食いしばった歯の間から嗚咽が漏れた。
「すみません。ライターをお借りできませんか」
 男は外国訛りのないネイティブ・アクセントでそう言った。
 彼が目を開くと、人差し指と中指の間に煙草を挟んだ男が立っていた。うっすらと礼儀正しい笑みを浮かべている。
 彼は震える手で上着のポケットをまさぐり、ライターを取り出した。
「顔色が悪いですよ。気分が優れないのですか」
 男は眉をしかめ、汗が光る彼の顔を覗き込んだ。親切そうな男は、純粋に彼のことを気遣っているようだった。
 彼は大丈夫だと無理に笑顔を作り、どうにかライターのふたを開けて火を点けた。男は頭をかがめて煙草に火を点けると、丁寧にお礼を言って去っていった。
 彼はその背中を見送って、堪えきれずに、柵から身を乗り出すようにして嘔吐した。黄色っぽい液体の中にピンク色の断片が混ざっており、彼は正視することができず目を背けた。
 川の水面は静かで暗い色をしており、何かが潜んでいたとしてもその姿を見ることはできない。

 (了)
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