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彼の著作など恐らく一冊も読んだことのない自称ファンに笑顔で対応できるほどもう若くないのだ、と思う。こちらの名前も正確に覚えていないくせに妙に馴れ馴れしく、とにかく有名人と握手し、一緒に写真を撮り、SNSにアップしたがる輩。
ハッシュタグ(#)サーモン・ラッシュ
誰なんだそれは。
彼のことではない。彼の名前はサーモンではないから。だが、彼のことを「サーモン・ラッシュ」と認識している人間は確実にいるのだから、位置情報付きで「彼」の写真をアップされるのは非常に困る。二十五年の苦労が、彼が誰だかわかっていない名前も碌に覚えちゃいない粗忽で無礼な若者のせいで、瞬時に崩れるのは。それならなにも、離婚することはなかったし、更にもう一回懲りずに結婚し、また離婚することもなかった。
いや、離婚はどの道発生した。
いや、しなかった。
彼は浮気者だったし、妻だって――彼が「妻」と呼ぶのは大抵最初の妻だ――彼の知らぬところでは何かしらあったのではないか。女は男よりも隠し事がうまい。だったら、彼は妻の浮気には気付かないが、彼女がお互い様だと彼の不貞を黙認すれば、夫婦生活は今も続いていた可能性が。
いや、ない。
いやいやいやいや――
今一つ実感の湧かない死刑宣告よりも、より大きなダメージを彼に与えた妻からの絶縁状。
サリー(と彼女は彼を呼んでいた)、私、いよいよもう駄目みたい。彼の妻はそう言った。
あの時彼は、感傷的な言い方をすれば、彼の一部は、確実に死んだ。離婚を宣告されるならば、あのサーモンピンクの唇をしたウェイトレスのような、クリエイティブ・ライティング・コースの大学院生の若い肉体にのめり込んで、散々楽しんだせいとか、そういういかにもありふれた理由であろうと彼は思っていた。
それなのに、刺客の襲撃を恐れ二十四時間武装警官に警護される生活に疲れ果てたからなんて、そんな非現実的な理由で妻は去っていった。まるで質の悪い冗談みたいではないか。
サーモン・ラッシュさんですよね。
彼が自転車に轢かれるのを防いだあのウェイトレスも、彼のファーストネームをサーモンだと思っているのだろうか(だからサーモンを勧めたのか?)。いや、そもそもファーストネームなど知らず、ただミスター・ラッシュ(ラッシュさん)と認識しているのか。そういえば、そもそもなぜ彼の名前を知っていたのか。
ミーナです。よい一日を、ラッシュさん。と彼女は彼にウインクをした。
ミーナ。彼女はいつ・なぜ・どこで彼の名を?
何を飲んでるの。同じものをいただいていいかしら。ミーナはカウンターで飲んでいた彼の隣に座って言った。
いや、言わない。
いや、言った。
君はいくらなの、と彼は訊いた。
いや、訊かない。
いや、訊いた。
こんなにも眩しい太陽の下で喉首をかき切られて派手に血をまき散らしながら死ぬのだとしたら、最後に思い出すのは下から見上げたぶるぶる震える下っ腹や弛んだ乳房ではなく、引き締まった弾力のある腰と、重力に逆らう活力を持つ若い女の方がいい。
ハッシュタグ(#)サーモン・ラッシュ
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彼のことではない。彼の名前はサーモンではないから。だが、彼のことを「サーモン・ラッシュ」と認識している人間は確実にいるのだから、位置情報付きで「彼」の写真をアップされるのは非常に困る。二十五年の苦労が、彼が誰だかわかっていない名前も碌に覚えちゃいない粗忽で無礼な若者のせいで、瞬時に崩れるのは。それならなにも、離婚することはなかったし、更にもう一回懲りずに結婚し、また離婚することもなかった。
いや、離婚はどの道発生した。
いや、しなかった。
彼は浮気者だったし、妻だって――彼が「妻」と呼ぶのは大抵最初の妻だ――彼の知らぬところでは何かしらあったのではないか。女は男よりも隠し事がうまい。だったら、彼は妻の浮気には気付かないが、彼女がお互い様だと彼の不貞を黙認すれば、夫婦生活は今も続いていた可能性が。
いや、ない。
いやいやいやいや――
今一つ実感の湧かない死刑宣告よりも、より大きなダメージを彼に与えた妻からの絶縁状。
サリー(と彼女は彼を呼んでいた)、私、いよいよもう駄目みたい。彼の妻はそう言った。
あの時彼は、感傷的な言い方をすれば、彼の一部は、確実に死んだ。離婚を宣告されるならば、あのサーモンピンクの唇をしたウェイトレスのような、クリエイティブ・ライティング・コースの大学院生の若い肉体にのめり込んで、散々楽しんだせいとか、そういういかにもありふれた理由であろうと彼は思っていた。
それなのに、刺客の襲撃を恐れ二十四時間武装警官に警護される生活に疲れ果てたからなんて、そんな非現実的な理由で妻は去っていった。まるで質の悪い冗談みたいではないか。
サーモン・ラッシュさんですよね。
彼が自転車に轢かれるのを防いだあのウェイトレスも、彼のファーストネームをサーモンだと思っているのだろうか(だからサーモンを勧めたのか?)。いや、そもそもファーストネームなど知らず、ただミスター・ラッシュ(ラッシュさん)と認識しているのか。そういえば、そもそもなぜ彼の名前を知っていたのか。
ミーナです。よい一日を、ラッシュさん。と彼女は彼にウインクをした。
ミーナ。彼女はいつ・なぜ・どこで彼の名を?
何を飲んでるの。同じものをいただいていいかしら。ミーナはカウンターで飲んでいた彼の隣に座って言った。
いや、言わない。
いや、言った。
君はいくらなの、と彼は訊いた。
いや、訊かない。
いや、訊いた。
こんなにも眩しい太陽の下で喉首をかき切られて派手に血をまき散らしながら死ぬのだとしたら、最後に思い出すのは下から見上げたぶるぶる震える下っ腹や弛んだ乳房ではなく、引き締まった弾力のある腰と、重力に逆らう活力を持つ若い女の方がいい。
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