怪奇幻想恐怖短編集

春泥

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堕人間(2)

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 都心部での不穏は、やがて農村の暮らしも圧迫するようになる。
 町からやってきた自警団が神父のところに押しかけたという情報は、狭い村のなかをたちまち駆け抜けた。気は良くても日頃から肉体労働に勤しんでいる屈強な農家や酪農家、それに村の商店街の人々までが教会にはせ参じたが、既に神父の姿はなかった。
「町の奴ら、神父さんを拷問して鳥人間の秘密を吐かせるんだってよ」
「無茶苦茶だ。神との約束があるんだから、吐けないだろう」
「そうはいっても、神父だって人間だ。痛い目にあわされたら口を割るかもしれん」
「めちゃくちゃだ!」
「なんだ、お前のところには神父にばらされたら困る秘密でもあるのか?」
「なんだと、そういうお前こそ」
 シェイとニニィの父は、青ざめた顔で教会から戻ってきた。
「お前とニニィは、母さんと一緒におばあちゃんのところへ行きなさい」
 若い父親だった彼も、長男のシェイが十三歳、それなりに老成した男になっていた。彼はシェイの秘密が露見することを恐れ、この狂気の沙汰が収まるまで、妻の実家のある隣村へと三人を避難させる決意をしていた。
「でも、あなた一人でどうするんです」
「おれ一人なら、例え捕まったところで疑いはすぐ晴れる」彼は自分の背中を撫でて、笑顔を作って見せた。
「でも、お父さん。みんな、ぼくのせいなのに」
「お前は何も悪くない。おかしいのは、この世界の方だ。わたしのかわりに、妹と母さんのことを頼んだぞ」
 眼に涙をためた息子の頭を、父はごつごつした手でなでた。学校から帰ればまっすぐに畑に直行し、父母の手助けを厭わない息子だというのに、見た目は華奢で、色は白く(いつもつば広の帽子と長袖で皮膚を炎症から守っているから)、はかなげだった。頭はよくても、まだまだ子供で、しかも心が優しいときている。父の不安はいかばかりか。

 月のない晩を選んで、母と二人の子は、静かに家を出た。山道を行くのに必要な食料、水、それから、祖母へのささやかな贈り物の、母が編んだ暖かなショール。事情を理解できない妹は、出発前にはしゃぎ疲れて今は父におぶられ眠っている。村のはずれまでは父が同行することになっていた。
 だが、村はずれまでやって来た時、一行は藪の中から飛び出してきた人影に行く手を遮られてしまう。
「どこへ行くのだ」
「な、何だ、お前、鍛冶屋のせがれじゃないか」一家の父親は知り合いの顔を見つけて胸を撫で下ろしたが、すぐにそれは間違いだと気付く。一家をとりまく男たちは、どれも見知った村人の顔だったが、一様に暗く沈んでおり、それは月がない夜のせいばかりではないはずだった。
「あんたら、どこに行くんだ」
「姑の具合が悪いという連絡を受けて、嫁が面倒を見に行くんだ」
「ガキ二人も連れてか」
「おれ一人ならどうとでもなろうが、カカアなしで子供二人の面倒は大変だからな」
「ま、そうだろうな。特にそのヒキガエルみたいなメスガキは」
「なんだと」
 表情を険しくした夫の背後から、妻はそっと袖を引いていさめた。今は、小競り合いをしているときではない。
「とにかく、先を急いでいるので、失礼する」
 と通り抜けようとする一家の前に、男たちが立ちはだかった。
「おっと、その前に背中を検めさせてもらうぜ」
 抵抗する間もなく、男たちの手が伸びてきて一家の体を押さえ付けた。
「何をする」
「この村からおかしな病を流出させるわけにはいかないからな。こっそり発症していないことを確認させてもらう」
「お前たちにそんな権限はない」
「いいや、神父が連れて行かれる時に、お役人から仰せつかったのさ」
 妻が悲鳴をあげ、父の背から乱暴に降ろされた娘が泣きだした。
「やめてください」
 青ざめた顔で抗議するシェイに、鍛冶屋の息子は平手打ちを食らわせた。少年のか細い体は吹き飛んで地面を転がった。
「よせ」と叫んだ父親も、横から飛んできたこん棒に顎を砕かれた。母親は叫びながら必死に抵抗している。寝ぼけ眼の妹は、よだれをたらしたまま座り込んでいた。
「女みたいな顔して、農民のくせにお高く留まりやがって」鍛冶屋の息子の手が乱暴にシェイの上着を剥ぎ取り、シャツを乱暴に引き裂いた。
「見ろ、翼だ! やっぱりだ。こいつは、ビョーキ持ちだ」
 シェイの華奢で滑らかな背中に生えているのは、ひよこのそれのような、小さくはかなげな羽だった。
「まってくれ、そんな小さな翼、なんの役にも立ちはしないし、誰の害にもならない。見逃してくれれば、息子は二度とこの村には」口から血の泡を飛ばしながら懸命に叫んだ父親だが、腹を蹴り上げられて倒れた。
「やめて! 羽が生えているのは、ぼくだけだ。他の家族は関係ない」
 声変わり前の甲高い声は、動かない父の体に蹴りを加える人々の動きを止める効果はなかった。上半身を裸に剝かれた母に馬乗りになった男は、彼女が必死で振り回す両腕をなんとか抑え込もうとしている。
「役人に突き出す前に、こんな羽、ちょん切ってやろう」
 鍛冶屋の息子の声も、ささやかな背中の羽に触れた刃物のひんやりとした感触も、シェイにはどうでもよかった。ただ暴漢相手に成す術もない父と母に、彼の瞳はしっかりすえられていた。
「やめろ!」
 シェイの悲痛な叫びとともに、背中の翼が勢いよく飛び出して、大鷲の羽ほどになった。そのせいで羽のつけ根の背中の肉が裂け、血が飛び散った。月のない夜に、それは薄く発光して見えた。
 ギャッと叫んで、シェイの背中に覆い被さっていた鍛冶屋の息子が後ろに飛びのいた。彼の右腕は、手首の少し上のところで切断されていた。
「殺せ、あいつは、化物だ。殺せ!」
「逃げて、シェイ、逃げるのよ!」
 母親の声で我に返ったシェイは素早く起き上がって駆けだした。一瞬遅れて、男達も駆けだした。ニニィは、彼らの背中を見つめていたが、きゃーっと歓声をあげてあとを追い始めた。

 体は細くても、農作業の手伝いに日頃から熱心だったシェイには見かけによらぬ体力があった。それでも、背中で一気に成長した翼が重く、羽のつけ根の裂傷から流れ出る血によって、刻々と体力を消耗していた。それでも彼は、どうにか教会にたどり着き、誰もいない礼拝堂を抜けて、尖塔への階段を上り始めた。その間にも、数度背中の羽が軋みながら成長し、彼の滑らかな背中を裂き、重量を増した。大きな翼があったところでそれを意のままに操ることはできず、無用の長物かつ重荷を背負わされているだけだったが、羽毛の一枚一枚が鋭利な刃物のようで、鍛冶屋の息子のように身体の一部を失いたくない追っ手の男達を一時的に突き放す効果はあった。
 体がずんぐりしていて足の遅い妹は、一行を追ってどうにか教会まではたどり着いたものの、息をきらして天を仰いだ。
 兄は今、教会の瓦屋根の急斜面を、危なっかし気にバランスを取りながら逃げていた。背中の羽は今や、少年の身の丈よりも大きくなっており、今にも大空に向かって飛び立ちそうだった。
「ジャンプ、シェイ、じゃーんぷ!」地上の妹は、手を叩いて喜んでいる。
 シェイは横目で妹の無邪気な姿を、そしてじりじりと近づいてくる男達を絶望的な目で見つめていた。彼はすでに屋根の端に到達し、それ以上の移動は落下を意味した。彼の細い体から生えてきた大きく重い羽は、彼の身体に耐え難い苦痛を与えていたし、体内の血液が流出するにつれ、体の力が抜けていくように思えた。
 ぱちぱちと手を叩いて喜んでいたニニィだが、突然側頭部を張り倒されて地面に転がった。腕を切り落とされた断面に布をぐるぐる巻きつけた男が遅れて到着したのだ。
 妹が昏倒するのを目撃した兄は、叫び声をあげて屋根から身を躍らせた。
 そして
 背中の大きな羽は二三度力なく羽ばたいたものの、シェイの体は落下し続けて地面に激突した。
 ニニィは片方の耳から血を流しながら起き上がった。地面に横たわる兄の元に駆け寄ると、頭がい骨が砕け、あばら骨が脂肪の薄い皮膚を破って外に突き出ているのを見て、悲鳴をあげた。
 その凄まじい叫び声は、村中の眠りを覚ますのに十分だった。教会のステンドグラスがびりびりと振動して、砕け散った。シェイを追い詰めた数名の追っ手は屋根の上で思わず耳を押さえたが、堪えきれずに屋根から転げ落ち、シェイと同様に体のあちこちが砕け、骨が突き出した死骸となった。
 ニニィの側にいた鍛冶屋の息子も耳を押さえようとしたが、片方の手は使い物にならず、鼓膜が破れ、耳と鼻、目からも血を流し、大量に喀血して倒れた。
 それでもニニィは、まだ叫び続けていた。叫び続ける彼女の背中から、バリバリと衣服を破って、翼が飛び出てきた。これまでそんな兆候は一切なかったというのに。ニニィの翼は、コウモリを思わせる骨と皮だけのものだったが、大きくて力強かった。その羽が叫び続けるニニィの背中で二三度羽ばたきを繰り返すと、砂埃が舞い上がった。ニニィは無惨に壊れた兄の骸を抱き抱えると、飛び立った。地面がたちまち遠くなり、羽ばたき続ける彼女の眼に、すっかり小さくなった両親が、身を寄せ合って見上げているのが見えた。
 ニニィはまだ叫び声をあげていたが、すでに両親を傷つけないぐらい上空に舞い上がっていた。
 幼い少女の慟哭は、国中に響き渡った。
 その後も、奇病の流行が治まることはなかった。
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