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いつまでもどこまでも(2)
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タマミは鞄の中から封筒を取り出し、中の便箋を抜き取って俺に差し出した。
「読んで。指紋が付かないようにハンカチか何かで持ってね」
俺は言われた通りにした。便箋は一枚。短い文面だった。
『すべて嫌になりました。もう終わりにします。 西川珠美』
「なんだ、これは」
「遺書よ。見ればわかるでしょう」
俺から受け取った便箋を封筒の中に戻すと、フラップ部分を舐めて糊付けし、スカートのポケットに入れた。
「まさかお前、俺を道連れに」
「そんなことしないわ。だってあなたを愛しているんですもの」
痺れるような恐怖に身を固くした俺に対し、タマミはこともなげに言い、鞄の中からPTPシートに包まれた錠剤の束を取り出した。それには見覚えがあった。眠れないからと彼女が服用していた睡眠薬だ。それを一錠一錠ぷちぷちと取り出し、まとめて口に放り込むと、鞄の中から取り出したペットボトルの水で飲み下し、また錠剤をぷちぷちと……それを五六回繰り返し、空になったシートの束とペットボトルを鞄に戻した。
「ここで眠るから、あとは上から土をかぶせてくれればいいの。絶命するまで待つ必要はないわ。ちゃんと埋めないと、死に損なうかもしれないわよ。そうしたら、またあなたのところに戻るから」
タマミはすたすた歩いて大きな木の後ろに回り込んだ。そこには少し開けたスペースがあり、深く大きな穴が掘ってあった。人間一人なら十分に入れる穴で、掘り返された土が傍らにうず高く積まれ、シャベルが立てかけてあった。
「生き埋めにしろっていうのか? バカな」
「それもそうねえ。じゃあ、やり易いようにしてあげるわ」
タマミはそう言うと、鞄の中からナイフを取り出し、自らの首に刃をあてた。
俺は這う這うの体でマンションに戻った。シャワーを浴び入念に体を洗い、車の中を隅から隅まで掃除した。冷静さを取り戻し、あれでよかったのだと自分に言い聞かせた。
首から血を噴きながら、タマミの体は、自らが掘った(としか思えない)穴の中に落ちた。俺は咄嗟に穴に飛び込んで止血しようと思い、やめた。思い直して救急車を呼ぼうとスマホを取り出したが、圏外だった。電波が届くところまで移動しようと車まで戻りハンドルを握り現場から遠ざかるうちに、通報する気もなくなった。
あれは本人の強い意思だったのだし、自分には何一つやましいところはない。ただ、俺はタマミとのことで警察に相談に行っている。ストーカー被害に悩む俺に何もしてくれなかった警察が、今度はタマミの死について俺にあらぬ疑いを持つかもしれない。
俺は少々やましい気分を味わったが、すぐにタマミの居ない人生を満喫するようになった。時間が経つうちに、例えタマミの死体が発見されたとしても、あれは自殺で、自ら掘った穴に入って死んでいる(俺は上から土を被せたりしなかった)のだから、俺が疑われるいわれはないと自信が持てるようになった。ところが。
ある日ふと窓の外を覗くと、そこにあいつが立っていた。いつものように、電灯の陰に隠れるように。俺は思わず悲鳴をあげた。
「なんなの?」
ベッドでまどろんでいた女が素っ裸のまんま俺の側に来て、窓の外を覗いた。
「なによ。何もないじゃない」
俺は震える手で街灯を指さした。
「えっ、どこ? 誰もいないわよ。ちょっと、ふざけてるの?」
俺は狐につままれたような気持だった。タマミはこちらの騒ぎに気付いたように顔を上げた。気のせいではなく目が合った、と俺は思った。裸の女が裸の俺の肩に抱きついているところを、はっきり見たはずだ。だがタマミは悲しそうな寂しそうな笑みを口元に浮かべただけだった。
不思議なことに、それが見えるのは俺だけのようだった。タマミは常に街灯の所に立っているわけではなく、何週間も姿を見せない時もあった。しかし、ようやく成仏したのかと安心しきっているところへまた出現したりする。ひょっとして全ては質の悪い悪戯で、タマミは実は生きていて、俺の気を引くためにあんな大芝居をうったのではないかと疑ったこともあるが、俺が部屋に連れ込む女たちの誰にも、彼女の姿は見えないようだった。
薄気味が悪いという以外に害はなく、今度は警察に相談に行くわけにもいかず、俺はタマミの幽霊にストーカーされることに慣れてしまった。それから何度か引っ越したが、生きていた頃と同じように、タマミはしばらくすると新居の前に佇むようになる。こちらに話しかけてきたりはしないので、無視するより仕方なかった。
そんな俺でも、いよいよ年貢を納める時が来て、結婚し、子供もできた。タマミは相変わらずストーカーを続けていたが、俺にしか見えないのだから、そのせいで家庭に波風が立つことはなかった。結婚した時四十近かった俺は、もう浮気をしようなどという気力はなく、子供を可愛がる普通の親父になった。長女も可愛かったが、やはり二人目が男だった時は嬉しかった。同胞ができたような気がしたのだ。
娘と一緒に昼寝を始めた妻を休ませようと、俺は元気な息子をベビーカーに乗せ公園に出かけることにした。エレベーターに乗り込む時に、隣の奥さんと一緒になった。息子は機嫌よく奥さんに手を振った。
「まあ、お利口さんね」
「こいつ、女性には愛想がいいんですよ。男性は無視するのに」
「まあ、お父さんに似たのかしら」
一階まで降りると、意味ありげな目配せと微笑みを残し、隣の奥さんは自転車に乗って行ってしまった。
「やれやれ、女ってやつは」
俺は息子に話しかけた。一歩マンションの外に踏み出すと、天気の良い穏やかな散歩日和だった。電柱の傍らにタマミが立っていたが、俺はさして注意を払わなかった。ところが、驚いたことに、タマミはこちらに気付くと、にこやかに手を振ってきた。俺は驚愕して思わず足を止めた。
しかし、タマミは俺を見ているのではなかった。はっとして息子を見ると、息子はにこにこしながら、タマミに向かって手を振り返していた。タマミはゆるゆると片手を左右に振りながら、俺の方を見て、にやりと笑った。
「読んで。指紋が付かないようにハンカチか何かで持ってね」
俺は言われた通りにした。便箋は一枚。短い文面だった。
『すべて嫌になりました。もう終わりにします。 西川珠美』
「なんだ、これは」
「遺書よ。見ればわかるでしょう」
俺から受け取った便箋を封筒の中に戻すと、フラップ部分を舐めて糊付けし、スカートのポケットに入れた。
「まさかお前、俺を道連れに」
「そんなことしないわ。だってあなたを愛しているんですもの」
痺れるような恐怖に身を固くした俺に対し、タマミはこともなげに言い、鞄の中からPTPシートに包まれた錠剤の束を取り出した。それには見覚えがあった。眠れないからと彼女が服用していた睡眠薬だ。それを一錠一錠ぷちぷちと取り出し、まとめて口に放り込むと、鞄の中から取り出したペットボトルの水で飲み下し、また錠剤をぷちぷちと……それを五六回繰り返し、空になったシートの束とペットボトルを鞄に戻した。
「ここで眠るから、あとは上から土をかぶせてくれればいいの。絶命するまで待つ必要はないわ。ちゃんと埋めないと、死に損なうかもしれないわよ。そうしたら、またあなたのところに戻るから」
タマミはすたすた歩いて大きな木の後ろに回り込んだ。そこには少し開けたスペースがあり、深く大きな穴が掘ってあった。人間一人なら十分に入れる穴で、掘り返された土が傍らにうず高く積まれ、シャベルが立てかけてあった。
「生き埋めにしろっていうのか? バカな」
「それもそうねえ。じゃあ、やり易いようにしてあげるわ」
タマミはそう言うと、鞄の中からナイフを取り出し、自らの首に刃をあてた。
俺は這う這うの体でマンションに戻った。シャワーを浴び入念に体を洗い、車の中を隅から隅まで掃除した。冷静さを取り戻し、あれでよかったのだと自分に言い聞かせた。
首から血を噴きながら、タマミの体は、自らが掘った(としか思えない)穴の中に落ちた。俺は咄嗟に穴に飛び込んで止血しようと思い、やめた。思い直して救急車を呼ぼうとスマホを取り出したが、圏外だった。電波が届くところまで移動しようと車まで戻りハンドルを握り現場から遠ざかるうちに、通報する気もなくなった。
あれは本人の強い意思だったのだし、自分には何一つやましいところはない。ただ、俺はタマミとのことで警察に相談に行っている。ストーカー被害に悩む俺に何もしてくれなかった警察が、今度はタマミの死について俺にあらぬ疑いを持つかもしれない。
俺は少々やましい気分を味わったが、すぐにタマミの居ない人生を満喫するようになった。時間が経つうちに、例えタマミの死体が発見されたとしても、あれは自殺で、自ら掘った穴に入って死んでいる(俺は上から土を被せたりしなかった)のだから、俺が疑われるいわれはないと自信が持てるようになった。ところが。
ある日ふと窓の外を覗くと、そこにあいつが立っていた。いつものように、電灯の陰に隠れるように。俺は思わず悲鳴をあげた。
「なんなの?」
ベッドでまどろんでいた女が素っ裸のまんま俺の側に来て、窓の外を覗いた。
「なによ。何もないじゃない」
俺は震える手で街灯を指さした。
「えっ、どこ? 誰もいないわよ。ちょっと、ふざけてるの?」
俺は狐につままれたような気持だった。タマミはこちらの騒ぎに気付いたように顔を上げた。気のせいではなく目が合った、と俺は思った。裸の女が裸の俺の肩に抱きついているところを、はっきり見たはずだ。だがタマミは悲しそうな寂しそうな笑みを口元に浮かべただけだった。
不思議なことに、それが見えるのは俺だけのようだった。タマミは常に街灯の所に立っているわけではなく、何週間も姿を見せない時もあった。しかし、ようやく成仏したのかと安心しきっているところへまた出現したりする。ひょっとして全ては質の悪い悪戯で、タマミは実は生きていて、俺の気を引くためにあんな大芝居をうったのではないかと疑ったこともあるが、俺が部屋に連れ込む女たちの誰にも、彼女の姿は見えないようだった。
薄気味が悪いという以外に害はなく、今度は警察に相談に行くわけにもいかず、俺はタマミの幽霊にストーカーされることに慣れてしまった。それから何度か引っ越したが、生きていた頃と同じように、タマミはしばらくすると新居の前に佇むようになる。こちらに話しかけてきたりはしないので、無視するより仕方なかった。
そんな俺でも、いよいよ年貢を納める時が来て、結婚し、子供もできた。タマミは相変わらずストーカーを続けていたが、俺にしか見えないのだから、そのせいで家庭に波風が立つことはなかった。結婚した時四十近かった俺は、もう浮気をしようなどという気力はなく、子供を可愛がる普通の親父になった。長女も可愛かったが、やはり二人目が男だった時は嬉しかった。同胞ができたような気がしたのだ。
娘と一緒に昼寝を始めた妻を休ませようと、俺は元気な息子をベビーカーに乗せ公園に出かけることにした。エレベーターに乗り込む時に、隣の奥さんと一緒になった。息子は機嫌よく奥さんに手を振った。
「まあ、お利口さんね」
「こいつ、女性には愛想がいいんですよ。男性は無視するのに」
「まあ、お父さんに似たのかしら」
一階まで降りると、意味ありげな目配せと微笑みを残し、隣の奥さんは自転車に乗って行ってしまった。
「やれやれ、女ってやつは」
俺は息子に話しかけた。一歩マンションの外に踏み出すと、天気の良い穏やかな散歩日和だった。電柱の傍らにタマミが立っていたが、俺はさして注意を払わなかった。ところが、驚いたことに、タマミはこちらに気付くと、にこやかに手を振ってきた。俺は驚愕して思わず足を止めた。
しかし、タマミは俺を見ているのではなかった。はっとして息子を見ると、息子はにこにこしながら、タマミに向かって手を振り返していた。タマミはゆるゆると片手を左右に振りながら、俺の方を見て、にやりと笑った。
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