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第14話 南千尋
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勤務先のカフェに裏口から入り、慣れた動作で休憩室にあるロッカーを開ける。休憩室には私以外誰もいなかった。黒いシャツの襟を正し、店の名前が印字されたエプロンを首からかける。きゅっと後ろで紐を結んで、店内へと入った。
「あ、千尋さんおはようございます」
店内では、バイトの柳くんが店の床をモップ掛けしていた。
「柳くんおはよう。今日天気悪いね」
ガタン、とモップ掛けの終わったらしい場所から机の配置を直していく。
「まあ、梅雨ですからね。変わりますよ、千尋さんモップしてください」
「ありがとう」
柳くんからモップを受け取り、床の掃除を交代する。店にはまだいつもの音楽はかかっておらず、静かな空間に柳くんがガタガタと机を動かす音が響いていた。
あの配信から、1週間が経った。「月島ヨナ」の活動を停止して、私、南千尋は仕事をして家に帰って眠るだけの生活を送っている。というより、今までがイレギュラーだった。ただ、元の生活に戻っただけだ。
とはいえ、今まで1年半ほど活動していたから、その習慣は身に沁みついて離れない。朝はSNSで呟こうとしてしまうし、相互フォロワーのVTuberの配信も見に行ってしまう。今まで自分が自由な時間に何をしていたのか、思い出せなかった。
「月島ヨナ」の活動をやめたら、私が私でなくなるような気がした。月島ヨナを作っていたのは私だったのに、気が付けばそれに縋り付いていて、1人じゃ立てなくなっている。一人ではどうしようもないのは、「月島ヨナ」のはずなのに。
心にぽっかりと穴が開いていた。けれど私には生活があり、仕事がある。忙しい毎日を送っているうちに、そういえばこれが当たり前だったな、と思えるようになってきた。
「……あ、降ってきた。今日お客さん少ないといいですね」
柳くんの言葉につられるように、窓の外を見る。家を出たときは降っていなかったが、窓ガラスにぽつぽつと水滴がついていた。
「本当だ。最近ずっと忙しいもんね」
私の働く「ライラック」は個人経営のカフェだ。路地裏にひっそりと建っているはずなのに、お客さんはそれなりに多い。確か去年のクリスマスキャンペーンで、誰かがSNSでうちのケーキを投稿したのがバズったらしい。そのせいで、クリスマスは大忙しだった。
あれから半年経っても、クリスマス程はいかないが、客足が衰えることはなくなった。おかげで給料も増えたけれど、少しくらい暇な時間があってもいいだろう。
「そういえば、千尋さんちゃんと考えてきました?新メニューの案」
「うわ、嫌なこと思い出させないでよ……」
3日前、店長から突然新メニューを考えてほしいと宿題を出されたのだ。私だけじゃなく、ほかの社員やバイトたち全員に。店長曰く、梅雨だけの特別メニューを考えてほしいのだという。
正直私はこういうのが苦手だった。新しい何かを作るとか、スローガンを考える、とか。学生時代から散々苦労してきた。だから私はVTuberなんてものをしていながら、創作活動は全く行っていない。
「梅雨のメニューって難しいよね……。しかも1人1案は絶対出せとかさあ……」
「マジでバイトに考えさせることじゃないですよ」
柳くんはそう言って、けらけらと笑っている。この紙に書いて、と言われて渡されたものに一応案は描いてきたけれど、自信がない。
「柳くんはこういうの得意なんじゃないの?」
柳くんは近所の美大に通う大学生だ。きっと良いメニュー案を考えてきているんだろうと彼の方へ顔を向けると、柳くんは大げさにぶんぶんと首を振った。
「絵に描いたものが食べ物とかになるんなら苦労しないですよ……」
「まあ……それがちゃんと料理になるかは別だもんね……」
そう言うと、柳くんはそうなんですよ、と笑った。そのとき奥でガタンと音がして、休憩室の扉から店長が顔を出した。
「柳くん、南さんおはよう! メニュー考えてきたかな?」
店長はにかっという効果音が付きそうなほど爽やかな笑顔でこちらに歩いてくる。店長は30代後半の男性で、人も良いし優しいけれど、その背の高さと角刈りのせいでよくお客さんにビビられている。この店に勤め始めて2年が経つ私でさえ、後ろから店長が突然現れたらびっくりして情けない声が出てしまう。
「あと2人と……相沢さんからももらってないんだよね。相沢さんまだ来てない?」
「来てないですね」
メニュー案取ってきます、という柳くんと一緒にロッカーに置いてあるカバンにメニュー案を取りに行く。クリアファイルに仕舞ったメニュー案を取り出したとき、ちょうど裏口の扉が開いて相沢さんが入ってきた。
「おはようございます」
バイトの相沢さんはいつも、勤務時間のちょうど10分前に来る。後ろで1つにまとめた黒髪と、黒縁のメガネは彼女の真面目さを表しているようだ。高校生なのにきちんと働いている相沢さんはえらい、素直に尊敬してしまう。
「相沢さんおはよう。店長がこの間のメニュー案出してくれって」
「ああ……。はい、わかりました」
そう言って、店長にメニュー案を渡しに行く。恥ずかしくて、自分のメニュー案を改めて見ることはできなかった。
「はい、確かに。使うことになったらまた言うね」
そう言って店長はキッチンへ入っていった。
「店長、店開けますよ」
「いいよー、開けちゃってー」
気が付けば開店時間になっていた。今日も、いつも通りの1日が始まる。
「あ、千尋さんおはようございます」
店内では、バイトの柳くんが店の床をモップ掛けしていた。
「柳くんおはよう。今日天気悪いね」
ガタン、とモップ掛けの終わったらしい場所から机の配置を直していく。
「まあ、梅雨ですからね。変わりますよ、千尋さんモップしてください」
「ありがとう」
柳くんからモップを受け取り、床の掃除を交代する。店にはまだいつもの音楽はかかっておらず、静かな空間に柳くんがガタガタと机を動かす音が響いていた。
あの配信から、1週間が経った。「月島ヨナ」の活動を停止して、私、南千尋は仕事をして家に帰って眠るだけの生活を送っている。というより、今までがイレギュラーだった。ただ、元の生活に戻っただけだ。
とはいえ、今まで1年半ほど活動していたから、その習慣は身に沁みついて離れない。朝はSNSで呟こうとしてしまうし、相互フォロワーのVTuberの配信も見に行ってしまう。今まで自分が自由な時間に何をしていたのか、思い出せなかった。
「月島ヨナ」の活動をやめたら、私が私でなくなるような気がした。月島ヨナを作っていたのは私だったのに、気が付けばそれに縋り付いていて、1人じゃ立てなくなっている。一人ではどうしようもないのは、「月島ヨナ」のはずなのに。
心にぽっかりと穴が開いていた。けれど私には生活があり、仕事がある。忙しい毎日を送っているうちに、そういえばこれが当たり前だったな、と思えるようになってきた。
「……あ、降ってきた。今日お客さん少ないといいですね」
柳くんの言葉につられるように、窓の外を見る。家を出たときは降っていなかったが、窓ガラスにぽつぽつと水滴がついていた。
「本当だ。最近ずっと忙しいもんね」
私の働く「ライラック」は個人経営のカフェだ。路地裏にひっそりと建っているはずなのに、お客さんはそれなりに多い。確か去年のクリスマスキャンペーンで、誰かがSNSでうちのケーキを投稿したのがバズったらしい。そのせいで、クリスマスは大忙しだった。
あれから半年経っても、クリスマス程はいかないが、客足が衰えることはなくなった。おかげで給料も増えたけれど、少しくらい暇な時間があってもいいだろう。
「そういえば、千尋さんちゃんと考えてきました?新メニューの案」
「うわ、嫌なこと思い出させないでよ……」
3日前、店長から突然新メニューを考えてほしいと宿題を出されたのだ。私だけじゃなく、ほかの社員やバイトたち全員に。店長曰く、梅雨だけの特別メニューを考えてほしいのだという。
正直私はこういうのが苦手だった。新しい何かを作るとか、スローガンを考える、とか。学生時代から散々苦労してきた。だから私はVTuberなんてものをしていながら、創作活動は全く行っていない。
「梅雨のメニューって難しいよね……。しかも1人1案は絶対出せとかさあ……」
「マジでバイトに考えさせることじゃないですよ」
柳くんはそう言って、けらけらと笑っている。この紙に書いて、と言われて渡されたものに一応案は描いてきたけれど、自信がない。
「柳くんはこういうの得意なんじゃないの?」
柳くんは近所の美大に通う大学生だ。きっと良いメニュー案を考えてきているんだろうと彼の方へ顔を向けると、柳くんは大げさにぶんぶんと首を振った。
「絵に描いたものが食べ物とかになるんなら苦労しないですよ……」
「まあ……それがちゃんと料理になるかは別だもんね……」
そう言うと、柳くんはそうなんですよ、と笑った。そのとき奥でガタンと音がして、休憩室の扉から店長が顔を出した。
「柳くん、南さんおはよう! メニュー考えてきたかな?」
店長はにかっという効果音が付きそうなほど爽やかな笑顔でこちらに歩いてくる。店長は30代後半の男性で、人も良いし優しいけれど、その背の高さと角刈りのせいでよくお客さんにビビられている。この店に勤め始めて2年が経つ私でさえ、後ろから店長が突然現れたらびっくりして情けない声が出てしまう。
「あと2人と……相沢さんからももらってないんだよね。相沢さんまだ来てない?」
「来てないですね」
メニュー案取ってきます、という柳くんと一緒にロッカーに置いてあるカバンにメニュー案を取りに行く。クリアファイルに仕舞ったメニュー案を取り出したとき、ちょうど裏口の扉が開いて相沢さんが入ってきた。
「おはようございます」
バイトの相沢さんはいつも、勤務時間のちょうど10分前に来る。後ろで1つにまとめた黒髪と、黒縁のメガネは彼女の真面目さを表しているようだ。高校生なのにきちんと働いている相沢さんはえらい、素直に尊敬してしまう。
「相沢さんおはよう。店長がこの間のメニュー案出してくれって」
「ああ……。はい、わかりました」
そう言って、店長にメニュー案を渡しに行く。恥ずかしくて、自分のメニュー案を改めて見ることはできなかった。
「はい、確かに。使うことになったらまた言うね」
そう言って店長はキッチンへ入っていった。
「店長、店開けますよ」
「いいよー、開けちゃってー」
気が付けば開店時間になっていた。今日も、いつも通りの1日が始まる。
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