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Episode1 動き出すパズルのピース

Episode1−2

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 森羅珮杜の定期観察を終えた星宮冥美はA-1へと向かっていた。彼女以外に薄暗い廊下を歩く者の姿は見当たらず、彼女もまたフラフラと亡霊のように歩くのであった。

 星宮冥美は心身共に疲労していた。
 彼女の今置かれている状況を語るには彼女の境遇を知る必要があるだろう。

 それは彼女がまだ5歳という、下手に触れれば壊れてしまいそうなくらいに繊細で幼い時であった。彼女は自らの家から逃げるようにしてこの研究施設「𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫」(サイファー)にやってきた。何故彼女が此処へ逃げてきたのか明確な理由は分からなかったが、土砂降りの雨の中、施設の裏門の前に佇む少女を見捨てる訳にはいかなかった。彼女を研究施設の中に入れた研究員のレイはずぶ濡れの幼子を大切に抱え、所長の元へと連れて行った。所長は幼子を見た途端に目を輝かせ、こう言ったのだった。
「良かろう。ここで育てて行こうじゃないか。ただし、子供にはここで働いてもらう。それが条件だ」
 その日から星宮冥美はこの研究施設、𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫で人生を送る事になったのだ。レイは母親のように冥美を育ててくれた。そして彼女が20歳となった現在までに至る。彼女は何不自由無い生活を送っていたと言えよう。自由を除いては。

 フラフラと歩く彼女の視界は、既にぼんやりとしていた。薄暗いコンクリートの壁に囲まれた監獄なような場所で、毎日同じ事を繰り返し行う。変化の無い日々に感覚が麻痺していた。

 その時だった。冥美の右肩に強い衝撃が走る。どうやらぼぅっとしている間に誰かにぶつかっていたらしい。薄暗い研究施設で大人数の研究員たちが忙しく動いているのだからぶつかるなんて日常茶飯事だ。冥美はぶつかった相手の方をまともに見ず軽く会釈をして通り過ぎようとした。

「ごめっ…って…?!」

 彼女の視界のはしに、美しい銀色の髪が映りこんだ。ここの研究員でそんな髪の者は居なかったはずだ。まさかと思いつつも冥美はゆっくりと顔をぶつかった相手の方へとゆっくり向けた。

「嘘…なんで…」

 そこに居たのは何を隠そう検査室N―174で眠っていたはずの森羅珮杜であった。






《星宮冥美side》

「嘘…なんで…」


 そこには何故か森羅珮杜が居た。今まで眠っている姿しか見た事の無い私には動いている森羅が極めて奇妙に映った。森羅は無表情ながらも少し驚いている事が分かった。

「ちょっとアンタどうやって検査室N-174から抜け出したの?!」

 あの検査室から抜け出すなんて壁を爆破する以外に無いはずなのに…。
 私がそう言うと森羅は口を開いた。それは私が初めて聴く森羅の声であった。

「答えは意外と近くにあるもんなんだね」

 私はまたもや違和感を覚えた。その声は見た目と同様、女性なのか男性なのか分からなかったが、とても心地の良い声だった。多分森羅の声は「1/fゆらぎ」なのだろう。
 「1/fゆらぎ」とはパワー(スペクトル密度)が周波数 f に反比例するゆらぎのことで(ただし f は0より大きい、有限な範囲をとるものとする)例をあげるとするならば人の心拍の間隔、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ、小川のせせらぐ音、目の動き方、木漏れ日、蛍の光り方、扇風機の設定、スカートの揺れ、髪の揺れなどがある。

「君は敵なのかい?」

 森羅は私を真っ直ぐ見ながらそう聴いてきた。まるで心に直接話しかけられているような感覚だった。

「別に私はアンタの事をどうしてやろうかなんて全く興味が無い。ただ私がここで生きていく為にはアンタを監視しておかなきゃいけないの。だから逃げようとしたのかも知んないけど、また検査室に戻ってもらう」

 本当は使いたく無かったけど、森羅を止めるにはこれしか無い…。もし森羅が検査室の外に出た事がバレれば…。

 私は少し後ろへ下がり、森羅との距離をつくった。森羅はキョトンとしたまま、立ち尽くしている。まだ目覚めたばかりで危険察知能が低下しているんだろう。普通このような状況の場合、人間は「逃げる」という選択肢しか持たないものである。

 私は右手を後ろに下げ、身体で隠すようにすると小さな声でこう言った。


 「μοβ・mono(モブ・モノ)」







《星宮冥美のopus》

 「μοβ・mono」

 
 彼女は真っ直ぐ森羅を見つめたままそう言った。
 すると彼女は後ろに隠していた右手の親指と人差し指と中指の指先3点で正三角形をつくった。その途端三角形の中に青色の小さな光が生まれた。その光は徐々に大きくなっていき、気がつけばバレーボールくらいの大きさになっていた。それは彗星の如く中心から美しいながらにも強烈な光を放っていた。その紫色の彗星はさらに大きくなっていき、ついにはスイカくらいの大きさになった。そして冥美はその彗星を森羅に向かって投げつける。投げつけると言うよりは彗星が自ら森羅に向かって飛んで行ったと言う方があっているだろうか。確かに冥美は腕を振っていたが、そこから先は彗星が地球に墜落するかのように、自ら飛んでいたのだ。

 あまりに急で衝撃的な出来事に森羅の身体は硬直した。







《森羅珮杜side》
 
 彼女が何をするのか私には全く分からなかった。彼女が自ら彗星のような物体を創ったのにも驚いていたが、まさか私に向かって投げてくるとは。しかし私が固まっているのは恐れをなしたからでは無い。その彗星があまりにも美しいのだ。正確な球体でありながらも表面は彗星の中心から放たれる紫色の光によって揺らぎ、周りの空気抵抗によって姿を少しずつ変えていく。そしてその彗星が私の元へ一目散に飛んでくる。これ程美しい事があるだろうか。思わず見惚れてしまった私はその場に立ちすくんでしまった。

 その時だった。

「アンタ、何してんだよっっ!!」

 横から大きな声が聞こえて来て、声の主を確かめようと自然とその声がする方を向くと同時に、私の身体は吹き飛んでいた。






《星宮冥美side》
 
 私のopusを森羅は避けなかった。
 誤算だ。
 森羅なら避けると思っていたのに。
 だって1番『神』に近い存在なんでしょ?
 なんで?
 被験者を傷付けたなんて研究員失格だ…。

 目の前は煙でいっぱいだった。自分でも力を抑えたつもりが焦ったあまりに上手く力を制御出来ていなかったみたいだ。廊下ももうボロボロに崩れ落ち、原型をとどめていない。森羅を威嚇するつもりで放ったopusだったのに、まさかこんな事になるなんて…。しかも森羅の声も、息の音も、動く音すら聴こえない。私は自分の犯してしまった事に怯えながら煙の中へと入っていった。
 
 煙はいつまでも治まることを知らずに何処からか湧いてくる。恐らく彗星が地面を破壊したと同時にあらゆる配管を壊してしまったのだろう。
 とりあえず森羅を見つけなければ。今すぐ見つけて処置を行えばまだなんとかなるかもしれない。もしこのまま死なせてしまったら全てが私のせいになる。そしたら私も『地獄』行きだ。

「ちょっと森羅!!いるんでしょ?!いるなら返事してよ!!」

 
 しかしそれから暫く辺りを探しても森羅から返事が返って来ることはなかった。








《森羅珮杜side》
 
 後頭部が痛い…。一体何があったというんだ?
 私の目の前にはコンクリートの天井が広がっていた。どうやら爆発の拍子に身体が吹っ飛ばされたらしい。それも爆発の力によるものではなく、青年が私を突き飛ばしたらしいのだが。

「おいっ!!大丈夫かっっ?!」

 床に転がる私に声をかける青年がいた。燃えるような美しい赤髪にルビーのような瞳のその青年は、とても心配そうに私を見ている。

「あぁ。大丈夫だよ。それより君は何処から来たんだい?君は一体誰なんだい?」

 私は上半身をゆっくりと起こしてから青年にそう聞いた。すると青年は少し驚いたような顔をしながらも、この事態に危機を感じているのか私の左腕を強引に引っ張った。

「時間は無いんだ!!とりあえずこっから抜け出すぞ!!」

 この時私は不思議と安心していた。青年の力強い瞳と暖かな手が私に安心感を与えたのだ。青年は私の手を離すまいとしっかりと握って走り出した。空中を覆う煙の中、青年は何の迷いもなく進んでいく。

「ちょっと森羅!!いるんでしょ?!いるなら返事してよ!!」

 分厚い煙の向こうで先程の女性の声が聞こえてきた。

「まずいっっ!!追いつかれる!!珮杜、もうちょっと速く走れ!!」

 青年は更に強く私の手を握った。私もそれに答えるようにして、脚に力をこめた。全く状況なんて分からない。この青年について行かずに、先程の女性の元へ戻った方が安全なのかも知れない。そう考えていながらも私は青年について行く。眠っていて全く動いていなかったせいか、上手く脚が回らない。私は青年に置いて行かれないように必死に走った。

「森羅!!何処にいるの?!森羅?!」

 まだ彼女の声は聞こえていた。しかし徐々にその声も小さくなってきている。青年は少し安堵したのか、走る速度を緩めた。私も青年に合わせて走りを遅くする。そしてついに彼女の声は聞こえなくなった。その時だった。

「珮杜!!出口だぞ!!」

 青年は私の腕を静かに離すとその手でそのまま前方を指指した。そこには永い眠りから醒めて初めて見た日光があった。そして青年はこちらを向く。

「おかえり、珮杜」

 そしてその美しい顔で微笑んだのだった。








《星宮冥美side》
 
 終わった 何もかも 
 今回がチャンスだったのに
 私達が自由になれる最後のチャンスかも知れなかったのに

 私はその場で膝から崩れ落ちた。

「どうしたらいいの…?教えてよ…」

 私の目からはいつしか大粒の涙が溢れていた。泣くなんていつぶりだろう。決して泣かないと決めていたはずなのに。でも、だって、だって私は今回にかけていたのに。森羅さえ上手く使えれれば私達は自由だったのに。こんな研究所からおさらば出来たのに。今回はきっと上手くいく。いつしかそう考えていた。でもそんな淡い期待は今まさに崩れ落ちた。

「どうしたらいいの…。教えてよ…」


 それから暫くして、爆発音と異様な煙に違和感を感じた研究員が数名駆けつけて来た。その時、研究員たちはきっとこう思っただろう。
『あの星宮冥美が泣いている』と







《森羅珮杜side》
 
 澄んだ空気が私の頬を優しく撫でる。目の前にはどこまでも果てしなく広がる雲一つ無い青空と、眩しすぎる白い太陽が輝いていた。

「珮杜、大丈夫か?」

 青年は目を細める私にそう聞いてきた。

「あぁ、外に出るのは久しぶりだったからついね…」

「そっか、でも施設から抜け出しただけで油断出来ねぇからな。こっからは車に乗って逃げる。追手が来るかも知れねぇから、あの車庫の影に隠れるぞ」

 後ろを振り返るとそこには今まで私が眠っていた研究施設の全貌が。その大きさに驚き声も出ない私に青年はこう言った。

「ここは様々な研究が行われている施設、𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫だ。数学・物理・化学・天文、様々な分野の研究が行われていて、表向きは自由に好きな研究が出来る良い施設なんだが、この施設が作られた本当の目的は“神”を創る事なんだ。珮杜もその為にここに連れ去られたんだよ」

「そう…。迷惑をかけてすまない…」

「良いって良いって、仲間なんだしさ。それより早くあそこに隠れるぞ」

 青年はそう言って私の背中を押しながら車庫の影までやってきた。実際はまだ彼を100%信じている訳では無い。それでも私は彼について来た。それは私の本能がそうさせたからだ。私は記憶喪失になっているのか、この状況を何も理解出来ていない。それでも私の事をどうしようとしているのかも分からない青年について来たのは私の本能が彼について行った方が良いと判断したからだ。本能とは、動物が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。私もその『本能』に導かれたのだ。人間最後に頼れるのは己の本能だけである。

「ちっ、遅ぇな、ツバキのやつ…」

 私が色々と1人で考えている間、青年はずっと辺りを見渡して追手が来ないかを確認しながら誰かが来るのを待っていた。

「おい、青年よ。君は一体何をしているんだ?」

「えっ、俺?迎えを待っているんだよ。ツバキって奴が来る予定なんだけど全然来なくて…。ほら、さっきの星宮冥美みたいに特殊な能力使える奴がここの𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫には何人かいるからな。車でササッと逃げちゃわないと」

「なるほど。それで青年よ。君は一体誰なんだい?先程は私の事を仲間と言っていたようだが」

 私がそう聞くと青年は少し悲しそうな顔をした後に、また笑顔を作り直してこう言った。

「俺の名前は刻刀賢護(ときとうけんご)。珮杜、アンタと同じ𝓐𝓡𝓣𝓔(アルテ)のメンバーだよ。あっ、記憶ねぇんだったっけ?最初から話さなきゃいけねぇな。まず、アンタの名前は森羅珮杜。これはOK?」

「あぁ、了解だ」

「それから𝓐𝓡𝓣𝓔ってのは…、𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫に対抗している人達のチームだ。済まないけど、上手く全てを説明するには時間がかかるからとりあえず今はそんな感じで知っておいてもらえると良いんだが…」

「うむ、了解だ。つまりこういう事だろ?私はある日𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫の連中に誘拐され記憶を失い、眠らされていた。𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫が私を狙った目的は良く分からないが、さっきの君の説明から分かったのは、“神”を創る為には私が何らかのパーツになる必要があった。そして君は私が居なくなったことから𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫に拐われたのではないかと疑い敵地に侵入。そして見事に囚われていた私を発見。しかし生憎な事に私が勝手に脱走していたことから事態は大事に。星宮冥美が危険な幻術を用いて私を殺そうとしている所をギリギリの所で君が止めたと言うわけだ。違うかい?」

「んん、まぁざっとそんな所だ。とりあえず俺らはこれから自分達の隠れ家に逃げ帰る。何かあったら言ってくれ」

「あぁ、分かった」

 私は彼の背中を見ながらどこか寂しく感じていた。





《刻刀賢護side》
 
 しばらくぶりに見た珮杜は何の変わりもなかった。
 やはり天才なのは変わりないらしく、今自分に起こっている状況を分かっている事実+推測で組み立てる事が出来るらしい。しかも90%程は正解。更に本能も天才らしく、急に現れたはずの俺に何も言わずについて来る。いや、もしかしたら外に出るまでは俺を利用して、そこからはまた脱走を図っているのかも知れない。
 俺は珮杜に注意しながらも今出てきた𝐂𝐢𝐩𝐡𝐞𝐫の出口を注意して見ていた。追手がなかなか来ない。いや、来られても困るのだが、あんなに大勢の研究員がいるというのに、全く来ないなんてありえるのか?もしかすると何か罠が仕掛けられているんじゃないか?くそっ!!珮杜が記憶喪失じゃないんなら何か案を出してくれていたはずなのに!!
 俺は妙な不安に襲われながら監視を行っていた。向かいの車が来るまでは下手にここから動かない方が良い。俺だけならまだしも、今は珮杜がいる。きっとopusを使う事なんて到底出来る訳がない。その時だった。

「賢護、何か来たようだよ」

 珮杜が俺の服の裾をツンツンと引っ張りながら何かを訴えていた。

「えっ?何処だ?」

 珮杜が左手で指指している方を見てみると、確かに何かがこちらにやってくる。最初は小さくてゴマのようにしか見えなかった物体も、いつしかハッキリと見えるようになった。

「あれが君が言っていた車かい?」

「あぁ、そのようだ」

 俺は猛スピードでこちらに走ってくる赤のマセラティ レヴァンテを見ながらそう言った。赤のマセラティ レヴァンテはスピードを落とさずにこちらに向かってどんどん速度をあげる。俺は珮杜を連れて車庫の影から出ると、その車に向かって手を振った。普通ならここで止まる所だが、赤のマセラティ レヴァンテはそのままの勢いでこちらに走ってくる。
 ぶつかる!!
 そう感じた俺は思わず珮杜を抱えながら、地面にしゃがみ込んだ。

キキーーーーーーッッッ!!!!!!

 車は辺り一体に鳴り響くブレーキ音を盛大に鳴らしながら俺の真横で止まった。俺とその車との距離はなんとおよそ30cm程。
 俺が少しヨロヨロとしながら車から離れると、運転席のドアがゆっくりと開き、1人の女性が顔を出した。

「遅ぇじゃねぇかよ、椿姫」

 俺が半分キレながら言うと、そいつは少し意地悪そうに微笑みながら言うのであった。

「そっちこそどこに目ぇつけてんだよ?ほら森羅も保護したんだから早く車に乗って!私だって暇じゃないんだから」

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