クガイの剣 とある剣豪の異境活劇

永島ひろあき

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冥界の剣

第二十九話 勝者への報酬 なによりの御馳走

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 赤光の柱の真ん中が内側から爆ぜて、禍羅漢がくるくると回転しながら飛び出してくる。

「オォラア!」

 獅子吼と共に禍羅漢の右足が断頭台の如く高々と振り上げられる。神輝斗堕とは赤光の柱で敵を強制的に上空へ打ち上げ、赤光に耐えた敵へ振り上げた踵を叩き込む二段構えの連続技なのだ。
 何度目になるのか、また盾になろうとするハクラに先んじてクガイが飛び出し、自身の体を激しく回転させながら右下段に下げていた木刀を振り上げる!

「羅象刃・渦潮!」

 禍羅漢の落とした踵と木刀が真っ向から激突し、言語を絶する衝撃が両者へと返る。クガイの隔絶した技量は、そのままにすれば五体を粉砕して有り余る衝撃を足を通して床へと逃がし、自身への反動を皆無にした点にある。
 その代わりにクガイを中心とした床一帯が粉状に砕け、クガイの足が一気に膝まで沈み込む。
 禍羅漢は木刀を足場にして右方へと跳躍し、着地の瞬間を狙ったハクラ、クゼ、ラドウと四肢を操って着地する前から攻防を演じる。

「この蔵の外にはどれだけの強者が居る? どれだけの者が俺に強さの実感を与えてくれる? 夢見心地とはまさにこれよ!」

 呵々大笑する禍羅漢にクガイは険しい表情のまま肺の中の空気をすべて絞り出し、吸い込んだ空気を血の巡りと共に全細胞へと供給し、体の内側に太陽が生まれる光景を想像する。
 体の中心線に沿って存在するチャクラが更に回転を強め、クガイの外に広がる無限の世界から際限なく力を取り込み、不浄を払って純粋な力へと変換する。その力にどんな指向性を与えるかは、クガイの意思次第だ。
 そうして気を操る者、チャクラを操る者が目を向く速度と質で力を高めるクガイだったが、それに呼応してぐずぐずと臓腑が腐るような悪寒と激痛が彼の肉体と精神を蝕んでいた。

「っ、こんな時だからこそ邪魔をしてくるかよ。いい加減諦めな」

 クガイは己の内側に巣食うあるモノへ挑発めいた言葉を投げかけ、三人と斬り結ぶ禍羅漢へ視線を向ける。

「そろそろとしまいとしようや、禍羅漢!」

 クガイが高めに高めた力を開放し、それを感知した禍羅漢はクガイへと視線と意識を転じる。

「ほう!」

 その隙を逃さずクゼは禍羅漢の後頭部に全力の右鉤打ちを、ラドウは首と甲冑の隙間に二刀の切っ先を捻じ込む。

「我龍拙式・天翔龍てんしょうりゅう!」

 大きく翼を広げ、龍の飛翔速度と踏み込みの速さを合わせた刺突を禍羅漢の冥業剣が刺さっていた胸部を狙って突き込む。
 対する禍羅漢の反応は後頭部への一撃には自ら首を勢いよく逸らして、裏拳ならぬ裏頭突きで反対にクゼの右拳を粉砕し、ラドウが捻じ込んだ刃に対しては自ら上半身をひねり、刃を巻き込んであらぬ方向へとラドウごと吹き飛ばす。

 そして天を飛翔する龍の如き威圧感と共に突進してきたハクラへは、ほとんど直感に任せて左の拳を叩き込んだ。
 甲冑を貫く威力があると直感的に理解していたから、胸や腹を貫かれても代わりにハクラの頭を砕くと叩き込んだ拳が、異様な手応えを伝えてきた。

「狙いはこちらか、ハハハハ!」

 固く握り締められた禍羅漢の左拳の手首にまでハクラの直剣が食い込んでいる。禍羅漢と戦い出してから、初めて与えられた明確な傷だ。

「左腕、貰うぞ!」

 ハクラが直剣をねじり込み、更に傷を広げようとする。ハクラは刃を通じて禍羅漢の甲冑の中に漲る力の凄まじさを感じていた。煮え滾る溶岩、あるいは黒雲に煌めく轟雷の奔流に触れればこうだろうかと連想する程の圧倒的な力。
 唯一の生身の部分である頭部と胸部中央の赤い球体から生まれる力が甲冑の中を満たし、自由自在に動かしているのだ。
 これではまだ足りない。禍羅漢を討つ為に必要な一手を決める為にも、なんとしてもこの獣頭鎧体じゅうとうがいたいの怪物に隙を作らねばならない。

「足りない一手はあの気功使いか!」

 三人の連携に加わらなかったクガイに思い至るのは当然の流れだろう。事実、クガイが気を練り、チャクラを回す波動を感知したハクラ達三人は止めの一撃をクガイへ委ねるべく、即興の連携で仕掛け続けているのだから。
 そうなれば、この場の四人全員を足してもまるで及ばない戦闘経験を持つ禍羅漢が気付かぬはずがない。気付かれるのも踏まえた上で三人は仕掛けていた。

「正解、正解、大正解。禍羅漢殿にはご褒美を上げよう。そら、勿体ないなんて言っていられないしね!」

 禍羅漢に弾き飛ばされたラドウだ。彼の手に灼骨炎戯と雷電轟鳴はなく、いまだ禍羅漢の首筋にわずかに突き刺さった形で残っていた。
 ラドウが気障ったらしく右手の指をパチンと鳴らすと、その二振りの仙術武具が明らかに危険な輝きを纏い、直後に爆散して無数の破片と共に炎と雷を放出して禍羅漢の顔を焼く。

「おおっ!?」

 それでも剥き出しの目玉さえ傷つけられなかったが、禍羅漢の動きを遅延させる働きは果たせた。さらに禍羅漢の右腕には、弾かれた際に吹き飛ばされたクゼの縄鏢が何重にも巻きつけられている。
 クゼが百回近く狙って攻撃を加え続けた禍羅漢の右肘は、わずかに感覚を鈍らせており、気付くのを遅らせるのに成功していた。

「おおおおお!」

 左右の手を封じられ、目を晦まされた禍羅漢の胸部中央、冥業剣の傷跡を狙いすましてクガイが駆ける。禍羅漢は、視界を妨げられた相手にわざわざ咆哮を上げて位置を伝える愚行を犯すはずがあるまい、と彼の伏せた札を警戒する。
 同時に中身のない甲冑を妖力によって動かしていた経験から、クガイの放つ膨大な気とチャクラで精錬された力を感知して正確な位置を把握する。
 伏せた札がなんであろうと先に叩き潰してしまえば同じ、と禍羅漢は口から赤光の砲弾をクガイの未来位置を狙って放つ。

「ガアッ!」

「残念、外れだな」

 赤光の砲弾が着弾して吹き飛ばしたのは、クガイのはるか前方だった。クガイは突如足を止めて禍羅漢への突進を中途半端な位置で終えていたのだ。さらにクガイはその場でくるりと回転し――

「ええーーい!」

 クムが精一杯の力で投擲した冥業剣が禍羅漢へと迫る。直前までクガイの影と気に紛れて、禍羅漢の探知から隠れていたのだ。
 だが、クムの細腕では大した距離を投げられるわけもない。それを補ったのがセイケンだった。どうにか禍羅漢に隙を作れないかと頭をひねったクムの案に協力し、彼の仙術武具“風編”の大気操作によって冥業剣の軌道と速度を調整したのだ。

「ふん、冥業剣か。だが、その程度の速さで!」

「だからこうする!」

 回転の勢いをそのままにクガイの木刀が冥業剣の柄を叩いて、練り上げた気と浄化した力の加わった冥業剣は紫色の流星と変わり、禍羅漢へと奔る!
 急激な加速にも禍羅漢は反応してのけたが、彼の右腕はクゼによって拘束され、左手は今もハクラの直剣に貫かれている。ラドウの目晦ましで冥業剣に気付くのが遅れ、クゼとハクラによって両手が拘束され、ようやく禍羅漢に隙が出来た。
 そして加速した冥業剣は、祭壇に封じていた時のように禍羅漢の胸部へ柄まで深々と突き刺さる!

「ぐうぅおおおおっ!」

 これまでクガイ達の猛攻にも傷の着かなかった禍羅漢に渾身の一撃が決まり、その背中から冥業剣の切っ先が飛び出る。さしもの禍羅漢も大きな苦しみの声を上げる。そこへクガイが迫った。

「もう一つくれてやらあ!」

 両腕で高く振り上げた木刀が冥業剣の柄を叩き、その反動で冥業剣の刃が勢いよく跳ね上がり、禍羅漢を内側から斬り裂いて、胸から上の頭部までが真っ二つになる。冥業剣はそのままクルクルと回転して、クガイの後方へと突き刺さる。
 禍羅漢は血の代わりに真っ赤な光をバシャバシャと音を立てて噴きだしているが、それでもまだ絶命はしておらず二つに斬られた頭部の瞳が力強くクガイを睨んでいる。

「あんた、強さを実感したいって言っていたが、もう二度と戦いたくないってくらいに強かったよ。心の底からもう勘弁してくれって思ってらあ」

「……」

「それによ」

 クガイは木刀を右肩に担ぎ、背後のクムを振り返る。冥業剣を投げてそのまま床に倒れ込んだクムは、不安と恐怖とに揺れる瞳でクガイと禍羅漢を見ている。そしてクガイと禍羅漢もそんなクムを見ていた。

「あんたと冥業剣の所為で、クムは遭わなくていい理不尽な目に遭ってきたんだ。あんたにゃ悪いが、ここはひとつ、このまま負けといてくれ」

「……ふん」

 クガイの言葉が届いたのか、それとも単に生命の火が尽きたのか。禍羅漢は最後に鼻を一つ鳴らして、そのままどうっと仰向けに倒れた。すると禍羅漢の獣の頭が見る間に赤い霧のように崩れてゆき、甲冑の中を満たしていた力もまた消える。
 いとも簡単にハクラの直剣が抜け、クゼも中身のなくなった甲冑から縄鏢を引き戻す。ハクラもまた纏っていた白龍の殻を解除して、生身の姿を晒して禍羅漢の残した甲冑を見る。

「やれやれ、どうにかなったか」

 クガイが心底疲れたと言わんばかりの溜息を零すと、ヨウゼツが再びクムを抱きかかえて背後に来ていた。

「禍羅漢は、元々魔界に生息するある動物の怨念が集まって誕生した怨霊だ。乱獲によって絶滅にまで追い込まれた動物達の集合体だったから、かつて弱かったと口にしたのだろう。
弱ければ絶滅させられる。強くなければ生きる事さえできない、といったところか。クガイ、君がクムを引き合いに出したのは実に良かった。
 禍羅漢にとって弱い者はかつての己であり、否定したくとも否定してはならない要素だからね。自分が強き者を脅かすのは良くても、弱き者を脅かすのは彼にとって愉快なことではなかったのだよ」

「べらべらとまあ、ヨウゼツ、お前は嫌な奴だな」

「そうかい? ま、君達が知らなくてもよい情報ではある。さて、クム、降ろすよ」

「はい、ありがとうございます。……クガイさん!」

 ヨウゼツに丁寧に降ろされたクムはそのままクガイへと走ってゆき、その腰に正面から抱き着いた。

「よかった、本当に良かった。クガイさんもハクラさんも無事でぇ……」

「はは、まあな。どうにか五体満足で終わらせられたぜ」

 クガイは自分にしがみつくクムの頭を左手で優しく撫でる。意外と手慣れた仕草だった。直剣を鞘に納めたハクラもクムの近くに寄っていて、禍羅漢という脅威の排除に緊張感を少しだけ緩めた様子だ。

「後はあの剣か。禍羅漢を再封印じゃなく打倒できたのは、結果としちゃ上々だろう。あれはお前らの好きにさせる代わりに、クムには手を出さない約束だったな」

 クガイが首を巡らせてクゼに視線をやって問えば、クゼは重々しく頷く。どこに縄鏢を仕舞うのかと見れば、手首の内側の装甲が開いてその内部に巻き取られていた。

「ええ。禍羅漢の処分に関しては求められた以上の成果です。では冥業剣は我々が……貴様」

 クゼの語気が荒ぶったのは、床に突き刺さった冥業剣をヨウゼツが抜いたからだ。およそこの場に居る全員から不審と警戒の視線をぶつけられても、ヨウゼツに気にした素振りはない。

「安心したまえ。私が独占する為に手に取ったわけではない。あるべきところに戻す為さ。それが楽都の為にもなる。そら、本当の持ち主達が取りに来たよ」

 突如、前触れもなくヨウゼツの眼前に黒い骨組みの門が出来上がり、そこから黒い布を頭から被った人影が二つ姿を見せた。門だけでなく人影の放つこの世の者とは思えぬ異様な気配に、すぐさまハクラの契約した白龍が気付いてその正体をハクラ越しに伝える。

「なんと。……冥界の住人だそうだ。それも冥界の神からの使者で間違いないそうだ」

「そういやクムの親父さんが冥界下りで持ち出した、いや、貸し与えられた剣だった」

 冥界の使者はヨウゼツの手前で足を止めて、布の中から筋張った青白い手を差し出す。肉こそろくについてはいないが、爪の先まで綺麗に磨かれており至って清潔だ。

「やあ、お待たせしたね。役目を終えた冥業剣は君達冥界の下へとお返しするよ。生と死の在り方を歪めてしまいかねない剣だ。君達の下で管理されるのが正しい」

 ヨウゼツは冥業剣の柄を冥界の使者へと向けて差し出し、一人が受け取るともう一人が持っていた空の鞘を手渡して厳かな雰囲気と丁重な仕草で冥業剣を納める。それでもう用は済んだと使者達は踵を返して門へと戻ってゆく。
 門をくぐる寸前、クムの方を向いてぺこりと会釈していったのは、最後の所有者への彼らなりの礼節の表れだったろうか。思わずクムが会釈を返した時には、使者達の姿は消えて門も無くなっていた。

「クゼ、ラドウ、よく手を出さなかったね。実に賢明だったよ」

 それを見届けてからヨウゼツがいけしゃあしゃあと抜かすものだから、クムはうわ、と思わず零して恐る恐るクゼ達を振り返る。

「貴様、冥界の信者か? 最初から狙いは冥業剣を冥界へ返却する事か」

「別に信者ではないよ。でも冥業剣をあるべきところに返すのが目的だったのは否定しない。私は楽都の為に行動するのが役目だからね。君達だって冥界の使者が姿を見せた時点で、冥業剣は諦めただろう?」

 これに答えたのは両肩をすくめたラドウだ。

「そりゃねえ。冥界の使者はいわば世界全体の理の内だろう。魔王とは違う意味でどうしようもない存在さ。下手に手を出して冥界と事を構えてごらんよ。いくら無尽会だってヤバいぜ」

「そうそう、その通り。冥界との戦争なんて最初から勝ち目がない。なにしろ死んだら死んだだけ向こうの戦力が増える上に、最初から死んでいるから更に死にようがないという相手だ。見過ごすのがあの場の大正解だったよ。
 それにいずれ君達だってお世話になる相手だ。心証は良くしておくに越したことはないだろう。さて、これで冥業剣は綺麗さっぱりこの世からなくなったわけだ。クムが君達無尽会に付きまとわれる理由もなくなったね?」

 茶目っ気たっぷりに左目を瞑って見せるヨウゼツに、クムがあっという声を上げる。

「そういえばそうですね」

「まあ、そうなるか。クゼ、ラドウ、この場合はどうなる? 冥業剣の代わりにそこの甲冑じゃあ、釣り合いが取れないか?」

 クガイが冥業剣の代わりに提案したのは、中身を失って崩れ落ちた禍羅漢の甲冑だ。あれだけのクガイ達の猛攻を受けて、左拳と胸部以外に傷のない逸品である。ラドウは考えるのを放棄したのか、クゼに視線を向けている。任せた、という態度だ。

「まさか冥界に降りるわけにもいきますまい。目的を達せられなかったと会長からお叱りの言葉を頂戴するでしょうが、今回はこれで終わりとするしかありません。クムさんから手を引くよう周知を徹底する事に関しては、私とラドウの責任でお約束いたします」

「え、俺も?」

「貴様もカタギに要らぬ迷惑をかけたのは同罪だろうが」

「今回、仙術武具を三つも使い潰したんだぜ。俺の方がクゼ殿より損しているのに。まあいっか。クムちゃんにこれ以上関わっても得にならないで、損をするだけだしね。あ~あ、会長になんて言い訳しようかな。クゼ殿も考えておくれよ」

「ありのままをお伝えするだけだ。ただし、ヨウゼツと言ったか。紙芝居屋、貴様の身柄は……」

「およ? 消えていなくなっているねえ。彼、何者だったんだろう?」

 そう、ヨウゼツはクガイやハクラにさえ気づかせぬまま姿を消していたのである。彼から視線を外さずにいたセイケンやウロトですら、彼がいつ消えたのか分からない消失劇である。
 クガイは呆れた調子でヨウゼツの立っていた空間を眺めていたが、ほどなくして大きく溜息を吐くと晴れ晴れとした顔でまだ腰にしがみついているクムを見る。

「あんの野郎、かき回すだけかき回してどっかいきやがった。クムに関しては助かった面もあるが。……しかしよ、これで今回の騒動は終わりだな。クム、ハクラ、お疲れさん」

「は、はい。クガイさん、ハクラさん、ほんとに、本当にありがとうございました。お二人のお陰で、私、なんとかなりました!」

「私もクガイも好きでしたことだ。だが、君を無事に守れて嬉しく思う。後は、そうだな。早く地上に戻って報酬を頂きたいところだ」

 クムからのクガイとハクラへの報酬、すなわちクムの手料理をお腹いっぱい、だ。

「ははは、そうだな。クゼ、ラドウ、お互いもう戦う理由は無かろう。俺達も別に官憲ってわけじゃないからな。もう斬った張ったで顔を合わせないように祈っとくぜ」

「ええ、それはこちらも同じです。では街海までお送りしましょう。そこで本当におさらばです」

「おう、頼まあ」

 クガイはへにゃりと力の抜けた顔でクゼに言うのだった。



「ええ、禍羅漢は討たれました。申し訳ありません。復活は叶ったのですが打倒されるとは、こちらの想像を超える事態です。は。冥業剣は冥界へと返却されました」

 ルリエンが楽都のどこかにある彼女の隠れ家で、手にした鏡型の通信機へと向けて一連の事態を報告していた。禍羅漢の復活に乗じて姿を消した彼女は、そのまま事の成り行きを確かめた後、こうして誰にも知られていない隠れ家へ身を潜めていたのである。
 窓は全て閉められ、明かりは机の上に置かれた燭台一つ。およそ生活感とはかけ離れた狭く何もない部屋だ。

「はい。はい。禍羅漢の復活による楽都の混乱に乗じての介入は、残念ながら頓挫したと言わざるを得ないかと。はい。私はこのまま潜伏し次の指令を待ちます。はい。この度の失態は必ずや挽回して見せます。はっ」

 通信を終えて何も映さなくなった鏡を机の上に置いて、大きく溜息を吐いた。胃が痛くなるどころか破裂しそうな報告を終えて緊張が解けたのもあるが、それ以上に

「クムは傷一つなく無事、か。はあああ、よかったぁ」

 楽都での潜入生活の中で一服の清涼剤となっていた少女の無事に、心底安堵していたからであった。敵対者を前にせず、単なる常連客としての彼女は善良な女性だったとクムだけが知っている。



 そして禍羅漢が討たれて数日後、これまで留守にしていた家の片付けや懇意にしていた市場の人々、屋台仲間への挨拶と弁明を終えたクムは大恩人であるクガイとハクラを自宅に招いて、かねてからの約束通り報酬となる料理を振舞っていた。
 質素だが親子二人が暮らすには十分な広さの平屋が、クムの家だった。玄関を入ってすぐに食事をとる部屋があり、夕餉の時間にクガイとハクラは招かれていた。

「は~い、お待たせいたしました!」

 でん、とクムが机に並べた最後の大皿には、海老、烏賊、蛸のぶつ切りと木耳、白菜、人参、椎茸のあんかけをたっぷりと乗せた焼きそばが盛られ、他にも酢豚、揚げた蝦蛄、茄子の揚げびたし、花椒ほわじゃおがたっぷりの麻婆豆腐、隠し味に蒸留酒を使った鶏肉の揚げ物、卵に葱、焼き豚の細切いりの炒飯、水餃子に揚げ餃子、蒸し餃子……
 普段は使わない机もくっつけて広げた面積に、これでもかと料理を持った皿が並べられていて、家の中はお腹の虫を刺激する芳しい匂いで一杯だ。

「えへへへ、もやもやが晴れたので思いっきり料理できました。まだまだたっくさんありますから、お腹がはち切れるくらい食べてくださいね!」

 もはや影など欠片もない輝かしい笑みを浮かべるクムにつられて、招待客であるクガイとハクラも心からの笑みを浮かべる。

「おう! 腰を落ち着けてゆっくりと味わえるってもんだ。クムの心づくしを心ゆくまで堪能させてもらうぜ」

「うむ、私はクガイと同じだ。今日の為に朝ごはんと昼ごはんを抜いてきたぞ」

「気持ちは嬉しいですけれど、しっかり食べましょう、ハクラさん」

 困ったように笑い、クムは小皿を取って二人の給仕の用意を整える。クガイ達は最初、自分でやるといったが、クムがフンフンと気合満点の顔で給仕をすると言い張るので、二人が折れている。

「私の故郷は食べられる物の少ない土地だったから、この楽都の住人よりも私の食事量は少ないのだ。二、三日なら食事を抜いても支障はない。ただ、クムの料理は話が別だから、お米一粒も残さないぞ」

「ふふふ、美味しく食べてもらえればそれが一番ですよ。クガイさんも遠慮なくどうぞ」

「もちろん、これで遠慮したらそっちの方が無粋ってもんよ。それじゃあ、クムの新しい門出を祝って、心づくしをいただこうじゃないか」

「うむ」

「はい。お腹いっぱいどうぞ!」

 クムの心からの明るい笑顔こそが、クガイとハクラにとってはなによりの報酬であり、これに勝る御馳走はなかった。
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みんなの感想(1件)

からめり
2023.01.31 からめり

めちゃくちゃ面白かったです。混沌とした世界観の中に確かにあるキャラクター達の生き様や熱量が匂い立つような作品でした。特にヨウゼツの煙管を叩く音を開戦のゴングに見立てる描写や、禍羅漢の最期などは胸が高鳴りましたね!先生の次なる作品も楽しみです!

ただ、文中に一箇所「霊格」ってワードが存在していたり、ルリエンが「鏡型の通信機」を使っていることから、この楽都は惑星アーカディアンのどこかの大陸に存在しているのかな〜と竜生から先生の作品に入った身としては邪推せずにはいられませんでした(笑)。もしそうならルリエンはさしずめヤーハームから魔王の座の簒奪を企むザンダルザの手先といったところでしょうか?

解除

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