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第四話 毒

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「ふう」

 狭く外の様子を見る窓一つない馬車に閉じ込められ、休憩以外には外に出る事も許されない窮屈な馬車移動はエルリンネにしても堪えるものがあった。
 牢獄よりも更に狭い為に体を動かす事もままならず、脳裏でひたすら想像による組手と魔力操作の反復練習に没頭したが、それにしても暇だし馬車に揺られ続けた所為で体のあちこちも痛む。

 魔力封じの腕輪は体の外へと魔力を放出するのを封じるが、体内の魔力を操作する分には支障がないのは幸いだった。
 そんな旅路であるから、外に出られる休憩はエルリンネにとって数少ない楽しみとなるのは必然だった。例え監視の騎士や兵士らに物々しく周囲を取り囲まれていようともだ。

 武装した騎士や兵士らを襲う野盗の類はおらず、またエルリンネの危惧した今回の事件の黒幕が直接命を奪いに来る、という事もなく、一行は森の奥深くに建つダヴァジン女子修道院へ順調に近づいている。
 馬車に乗って五日目、エルリンネは朝食の為に停められた馬車を降り、三日前にこのあたりで降った雨で水かさを増した川に近づいて、ぼんやりと激しい流れを眺めていた。陽がようやく上り始めたばかりで、あたりはまだ薄暗い。
 ここから北東に架けられた橋を渡って進めば、行程の半分が消化される。
 騎士達は馬車で移動中も休憩中もエルリンネに一切声を掛けて来ず、エルリンネも試しに何度か話しかけてはみたのだが、芳しい返事は得られていない。

(命令が行き届いているわね。まあ、ゼガの穢れた血族を恐れている様子でもないし、単純に命令に忠実であるというだけなのかもしれないわ。
 黒羽騎士団……聞いた覚えのない騎士団だけれど、物腰からして使い手揃い。ウチの騎士団ともそれなりに戦えるでしょう)

 チラっと周囲の騎士達を観察していると、その中からエルリンネとそう年の変わらない紫色の巻き髪の女性が木製のコップと皮の水筒を手に近づいてくる。
 兜を外しているが、甲冑の上に黒羽騎士団の紋章をあしらったサーコートを着用していて、左の腰には長剣と短剣が下げられている。どちらもよく使い込まれている。おそらく何人か斬ったこともあるだろう。
 長身のエルリンネと同じくらいの背丈で、目尻の下がった目つきと浮かべている微笑は穏やかな雰囲気を醸し出している。

「窮屈な馬車で随分とお疲れでらっしゃいますでしょう。まずは喉を潤してはいかがですか?」

 呪われた血め! と罵倒の一つも出るのかと思ったら、柔らかな声と共に左手のコップを差し出してくるものだから、思わずエルリンネは目を瞬かせた。

「柑橘類の汁を絞り、蜂蜜を混ぜた水です。これが行軍で疲れた体にはよく染みます。あなたと必要のない接触は禁じられておりますが、これくらいは許されましょう」

 女騎士が悪戯っぽく片目を瞑って見せる。なんとも茶目っ気のある仕草で、エルリンネが他の騎士らを見ると彼らはあえてこちらを見ないようにしている。

「なるほど誰も見ていなかったというわけね」

「私も気が付いたら自分で飲み干していた、と思うでしょうね」

 修道院送りの追放令嬢に果汁水を恵んだことを忘れる、というわけだ。思わぬ親切に、エルリンネは微笑みながら差し出されたコップを受け取る。

「では遠慮なく頂戴するわ」

 道中で用意された食事は長期保存と栄養が第一、味は第二の保存食で石の如く焼き固めた黒パンや干した豆や芋、干し肉といった品ぞろえだったから、久しぶりの甘味にエルリンネは喉を鳴らして果汁水を飲んだ。
 少しずつ味わいながら飲むつもりだったのに、あっという間に飲み干してしまい、エルリンネは羞恥にかられながらコップを女騎士へと返す。

「美味しかったわ。ご馳走様。本当にありがとう」

「いえ、お気になさらず。出発までもう少々かかります。見るものもない場所ですが、お体を休めていてください」

「ええ、甘えさせてもらうわ。名前を伺っても?」

「それくらいは許されるでしょう。私はミスクと申します」

「そう、改めて感謝を。サー・ミスク」

 エルリンネは礼を告げた後、川辺の石を踏みながら進み、濁流の近くで足を止める。久しぶりの甘味を堪能した体は現金なもので、不思議と活力に満ちているような気がする。
 ごうごうと音を立てて流れる濁った流れの勢いは激しく、もし足を滑らせて落ちてしまえば、助かるのは難しいだろう。

(ここから川に飛び込んで脱走……とはいかないわね)

 はあ、と物憂げな溜息を吐いてしゃがみ込んだエルリンネは、濁流に陽光の反射とは異なる光が煌めいたのに気付いた。それが何かを理解するよりも早く、エルリンネの体は首筋に走る悪寒に反応し、咄嗟に右手側に飛び退いていた。
 びゅん! と音を立てて直前までエルリンネの首があった空間を、磨き抜かれた長剣が薙ぎ払っていた。ゴロゴロと川辺の上を転がり、膝立ちの姿勢で身を起こしたエルリンネは自分の首を斬ろうとした下手人を睨む。

「あなた……!」

 それは果汁水を恵んでくれた女騎士ミスクだった。口元には先程と変わらない人懐っこい笑みが浮かんでいる。

「あら、残念。何も知らないまま死ねる好機でしたのに」

 突然のミスクの凶行に周囲の黒羽騎士達は動く様子を見せない。それだけでエルリンネは事態を把握する。

「なるほど、あなた達が私の始末を任された者達ですか。修道院送りは建前だったのかしら? 宰相閣下はこの事をご存じ? それとも別の誰かの独断?」

「それをあなたが知る必要がありません。最後の慈悲だとそれを告げるわけもありませんから、諦めてくださいな。じっとしていてくだされば、なるべく痛くないように殺して差し上げますよ」

 川辺の石を踏む耳障りな音を立てて、ミスクが長剣を片手にエルリンネとの距離を詰めてくる。エルリンネを、蝶よ花よと育てられた貴族の令嬢、と侮っているのが分かる動きだ。

「そう、そういう事。なら、あなたは、私が怒ってもいい相手よね?」

 そうしてエルリンネの顔に浮かんだ笑みに、ミスクは背筋の凍り付くような恐怖を感じた。無力な子猫と思った相手が、牙を隠していた雌獅子だったと本能が悟ったのだ。
 これまで溜めに溜め込んだ怒りをぶつけてもいいと、そう思える相手が目の前にいる。そう考えるだけで、エルリンネは手足の指の先まで痺れるような歓喜と開放感に満たされていた。
 まるで獣のように身を低くして駆けるエルリンネに、微笑はそのままに眼差しを鋭く変えたミスクも長剣を右手一本で握り、駆け出す。
 首を綺麗に落として差し上げましょう、とミスクが長剣を振る直前、エルリンネの左手からいつの間にか拾い上げていた石がミスクの額目掛けて投げられる。

「っ!?」

 ミスクが咄嗟に首を左に傾けて投石を避ける間に、エルリンネはミスクの懐にまで潜り込んでいた。

(先程よりも速い!)

 ミスクが速度を見誤ったのは、エルリンネが間合いに飛び込む一歩まではわざと速度を落として走っていたからだ。
 暗黒時代を力づくで生き抜いたヴァリオン家に伝わる走法でミスクの認識を惑わし、距離を詰めたところから五指を開いた右の掌をミスクの左耳を正確に狙って叩き込む。

 本来なら掌から敵の耳の穴を通じて頭の中に炎を流し込み、体の中から焼殺する凶悪な技なのだが、魔力封じの腕輪によってただの掌底打ちになってしまう。
 先程まで言葉を交わした相手に躊躇なく攻撃を加えたのは、物心つく前から叩き込まれたヴァリオン家の家風とエルリンネの生来の烈火の如き気性に依るが、実戦を知らない詰めの甘さがここで露呈した。

「っ、私としたことが!」

「く、ただのお嬢様ではありませんかっ」

 ただの掌底打ちとはいえ左の鼓膜を破られたミスクは苦痛と屈辱に目を細めながら、長剣をエルリンネの左首筋に叩きつけるように振るう。
 エルリンネはそれを左手の魔力封じの腕輪で受け止める。金属製の腕輪とはいえ、盾代わりに長剣を受け止めるとは大胆な行動だ。ましてや顔色一つ変えないとあっては。

「せいやぁああ!!」

 気合の叫びをあげるのと同時に、エルリンネは再びの掌底打ちでミスクの顎をやや斜め下から突き、彼女の右足を自分の左足を使って内から外へと跳ね上げる。
 重心を崩されたミスクの体がそのまま仰向けに倒れ込み、エルリンネの体重を加えて彼女の後頭部が思い切り川辺へと叩きつけられる。

「まずは一人」

 白目を剥くミスクの腰から短剣を奪い取り、どうにかしてこの窮地を潜り抜けようと視線を周囲へと走らせるエルリンネ。その顔面に向けて放たれた矢を、彼女は獣めいた反射神経で短剣を振るい、斬り落とした。

(弓兵っ!)

 見れば兵士達が四名、弓を構えて次々と二の矢、三の矢を放ってくる。エルリンネは素早くその場を移動しながら矢を短剣で叩き落とすが、武器を抜いた騎士達がエルリンネを包囲し始めている。
 背後は川という事もあり、エルリンネが独力でこの包囲を突破するのは不可能だ。例え魔術が使えたとしても、戦闘用の魔術をろくに扱えないエルリンネでは大して変わるまい。

「どうにか馬を奪ってこの場を切り抜けなければ――!?」

 先に弓を潰したいが、とこれからの行動を思考するエルリンネだったが、背後からぶつかるようにして突き込んできた人影への反応は遅れ、咄嗟に刃こそ避けたがもろに体当たりを食らって、そのまま背後の激流へと突き飛ばされてしまう。

「止めを刺すべきでしたね、お嬢様」

 それは後頭部から血を垂らしながらも長剣を突き込んできたミスクだった。激流へと落ち行くエルリンネへ、ミスクはそれでも変わらぬ柔和な笑みを浮かべていた。

「っ――――!!」

 エルリンネはなにかを口にする間もなく濁流に落ちて、見る間にその姿を飲み込まれてゆく。エルリンネの姿が完全に見えなくなってから、ミスクは糸の切れた人形のように崩れ落ちそうになり、それを慌てて駆け寄った中年の同僚が受け止めた。

「おいおい、見ていてヒヤリとしたぜ。とんでもないじゃじゃ馬だったな」

 同僚はミスクの後頭部からダラダラと流れる血に目をやり、うげ、と一言呟いた。

「ええ、ええ、大したお嬢様でした。こんなところで殺さないといけないなんて、勿体ないですね。でも死体を確認しないと」

「この激流でね。十中八九助からんだろうが、確かめなければ上の方々は納得しないか。お前が毒も飲ませたんだ。どうせ助からないんなら、川に落ちずにお前に斬られていて欲しかったな」

「彼女に聞かれたら祟られますよ?」

 ミスクも既にエルリンネが死んだ前提でそう同僚をからかった。

「ゼガの血筋にか? そいつぁ、おっかねえな」

 肩を竦める同僚にミスクはそれ以上言わず、駆け寄ってきた兵士に大人しく治療を受けた。



「がは、はっ、はあ、はっ……」

 そしてエルリンネはしぶとく生き残っていた。激流の中で決して短剣を手放さないように固く握り、岩との激突をかろうじて避けながら流されて、ようやく川岸に辿り着き、ずぶ濡れの体を引きずり上げるのに成功していた。
 肺の中に入った水を吐き出し、たっぷりと水を吸った重たい服と体を引きずりながら、少しでも川から、いや、刺客から遠ざかるべく必死で体を動かす。

「はあ、はあ、はあ、ああ、あああ、ぐうう、な、に? まさ……か、毒?」

 冷え切った体に鞭を打って歩いていると、前触れもなく体の内側に火が着いたように全身が熱くなり、呼吸が苦しくなって力が失われてゆく。
 エルリンネは耐えきれずにその場で崩れ落ち、水を含んでぬかるんだ地面にうつぶせに倒れ込んだ。

(毒、食事に? いえ、ミスクが、渡してきたあの果汁、水、ね。不覚……優しくされて、気が緩んだ。警戒、を、怠って、しまった……)

 あの馬車に乗り込んでからは周りは全て敵だと警戒するべきだったのに、と己の甘さを痛感するエルリンネだったが、彼女の命の火は見る間に小さくなっていった。

「ごほ、ごほっ!」

 咳き込むのと同時に喉の奥から血が溢れ出し、口元と地面を赤く濡らす。

「ごん、な、こんな、ところで……死んで、たまる、もの……です、か。ヴァリオン、の、女は……恥辱を……恨みを晴らす……まで、忘れない、の、よ……」

 ろくに息を吸う事も出来ず、目の前が霞んで、口の中に広がる血の味も直に分からなくなってくる。自分の命がどんどんと死へと近づいて行くのを、エルリンネは否応なく理解させられていた。
 命の灯が消える寸前になっても、エルリンネの心にあったのは怒りの炎だった。決して衰えず、絶えない不滅の炎。

(私……は……)

 それでもその炎は生命ではない。どれだけ心が燃えていても、エルリンネの命の代わりになりはしないのだ。
 ゆるゆると瞼を閉じ、意識を暗黒の底へと落としてゆくエルリンネ。そんな彼女に聞こえ来たのは、この上なく甘美でこの上なく優しく、そして邪悪なのだと分かる声だった。

(憎いか? 力が欲しいか? 復讐を望むか? ならば与えよう。その憎しみに力を。復讐を成し遂げる為の力を!)
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