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11巻
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そしてリュー・キッツはといえば、クリスティーナさんの因子の変化以上に、その右腰に下げられた長剣に意識を向けている。
「一言では説明し難い事情があるのだが、要点を述べると、クリスティーナさんが、かつて彼女のご先祖が殺めた竜の生まれ変わりと出会い、その罪を許してもらった事で、竜殺しの因子が祝福と加護に変化したのだ。クリスティーナさんの印象が変わったと感じたのなら、それが理由だ。今のクリスティーナさんに嫌悪や憤怒は抱かないだろう?」
私が大雑把に説明すると、ヴァジェは素直に納得したようで、頭のてっぺんから爪先に至るまで、何度もクリスティーナさんを見回した。
「確かに受ける印象がまるで違うが、こうまで変わるか……」
一方瑠禹は、私の言葉が引っかかったようで、訝しげな視線を向けてくる。ふむ、言葉の選択を誤ったかな?
「クリスティーナさんの先祖が殺めた竜が転生し、その罪を許した? ドラン様は転生した竜……なら」
そろそろヴァジェと瑠禹にも、隠していた私の事情を伝えるべき時かね。
幸い、ヴァジェと瑠禹以外は全員私の魂の事情を知っている。説明するのはヴァジェ達だけで済む。
私はそう思案しながら、クリスティーナさんの新しい剣について問う視線を向けてきたリュー・キッツに、右手の人さし指で自分の心臓を軽く叩く仕草をして見せた。
「っ!」
リュー・キッツはすぐさまこの剣がなんであるか理解して、表情を強張らせる。
さもありなん。今は私殺しの因子に変化があったとはいえ、ドラッドノートは紛れもなく古神竜殺しに用いられた剣なのだ。
その事実に対する忌避感は、私殺しの実行者である勇者セムトに対するものにも匹敵しよう。
だがリュー・キッツは、ドラッドノートが私殺しの剣でありながら、私の加護を受けている事で、おおよその経緯を察してくれたようだった。
「さあ、久しぶりに見る顔もあれば、初めて見る顔もあるだろう。私から紹介しよう。瑠禹、ヴァジェ、リュー・キッツ殿、こちらはドラミナ。新しく私の使い魔になってくれた女性で、バンパイアだ。とても頼りになる」
ヴァジェと瑠禹はバンパイアでありながら竜種の自分達を上回るドラミナの力を感じてか――あるいは、私の使い魔というドラミナの立場が癇に障ったのか、程度の違いはあるが身構えた。
リュー・キッツだけは警戒も緊張も感じさせぬ優雅な仕草で、ドラミナに一礼した。
「お初にお目に掛かります、ドラミナさん。私はリュー・キッツ。縁あってドラン殿と関わりを持った古龍の女にございます。瑠禹、ヴァジェさん、貴女達もご挨拶なさい」
リュー・キッツに促された瑠禹とヴァジェは我に返って会釈する。
「これは失礼をいたしました。リュー・キッツの娘、瑠禹と申します。どうぞよろしくお願いいたします、ドラミナさん」
「ドランの使い魔とは、もの好きな事だな。深紅竜のヴァジェだ」
リュー・キッツ達の挨拶に、ドラミナはヴェール付きの帽子を取って脇に抱え、右手でスカートの裾を摘まみながら小さく頭を下げて、リュー・キッツの礼に勝るとも劣らぬ優雅な挨拶をした。
「ドランから紹介していただきましたが、改めてご挨拶申し上げます。新しくドランの使い魔となりましたバンパイアのドラミナです。皆さんのお話は常々ドランから伺っております。こうしてお目に掛かる機会が訪れるのを、楽しみにしておりました」
リュー・キッツはドラミナの立ち居振る舞いに、まるで嫁の評価を下す姑を思わせる様子で頷きつつ、私に告げる。
「ふふ、つくづくドラン殿は罪作りなお方。少しお目に掛からぬ間にまた新しい女性をお傍に置かれるとは」
ふむ、リュー・キッツからの視線がむず痒い。瑠禹とヴァジェなどは、いっそ清々しいくらいに私を睨んでいるな。
「今後はそうそう増えないだろう。特訓で忙しくなるしね」
そこで私は一度話を区切り、お互いにだけ聞こえるように、声量を抑えて龍吉に問いかけた。
「それで、一つ確認したいのだが、例の件は他の龍皇らにはもう伝えたのかい?」
私が竜界に帰った時に提案した、バハムートやリヴァイアサンら、始原の七竜がこの地上世界を訪問するという話についてである。
「ええ、あそこまで唖然とした皆の姿を、私は初めて見ました。やはりドラン殿のご兄弟方は私達にとってそれほどの存在であると、つくづく痛感いたしました。事前のご連絡なくご来訪されては、私共の心臓が破裂してしまいます」
「連絡を忘れぬように気を付けるし、竜界からこちらへ渡ってくる気配があったなら確認するよう留意もしよう。出来る限り君達の心の安寧を守りたいからな」
「そうしていただけると大変助かります。ドラン様にこのような手間をお掛けする形になってしまい、申し訳ございません……」
「それは構わないよ。私は君達にとんだ騒動を押し付けてしまったからな。とりあえず、そちら側への通達は終わったという認識で良いかな? 後でバハムートやリヴァイアサンにいつ頃こちらに来るか、尋ねておこう」
「よろしくお願いいたします。では、そろそろ特訓を始めますか? ヴァジェさんや瑠禹はクリスティーナさんばかりに気を取られていますが、レニーアさんの変化のなんと著しい事。これではもう私など足元にも及びますまい。ドラミナさんも、ヴァジェさんや瑠禹では敵わぬほどですね。それに、少しだけですが、ドラン様の気配がドラミナさんとセリナさんからするようですから、油断は出来そうにありません」
ほう、レニーアの魂と肉体の調和が整った事ばかりか、セリナとドラミナが私の力をものにしつつある事まで感じ取ったか。流石は水龍皇。知覚能力の鋭敏さは見事と言えよう。
「油断せず戦ってくれるなら、その方がありがたいさ。さあ、瑠禹、ヴァジェ、ドラミナ、セリナ、話し込んでいるところ悪いが、そろそろ模擬戦を始めるとしよう。日が暮れるのが早くなっているから、時間が惜しい。ヴァジェはともかく、瑠禹達は宿泊していくわけにはいくまいからな」
龍宮城からここに飛んでくる程度ならまだしも、宿泊するのは、リュー・キッツ達の立場では難しいだろう。
瑠禹達がこちらに向き直るのに合わせ、私は【影箱】の魔法によって自分の影に仕舞い込んでいた結界展開装置四基と、バリアゴーレム八体を引っ張り出した。
夏季休暇を経てレニーアとクリスティーナさんの戦闘能力は劇的に増大しており、ドラミナが加わった事も鑑みると、一学期とは少し特訓のやり方を変えるべきかもしれない。
この特訓の主眼は、あくまで競魔祭出場者を鍛える事なのだ。つまり、今この場にいる面子の中で鍛えるべきは、私、レニーア、クリスティーナさんの三名。
しかし、私とレニーアはこれ以上ほとんど鍛えようがない。となると、今日はクリスティーナさん一人を徹底して鍛える事になるな。
私と同じ結論に達したリュー・キッツやドラミナからの視線を浴びて、クリスティーナさんは分かりやすく肩を震わせる。徹底的にしごかれる様を想像して、流石のクリスティーナさんも腰が引けているらしい。
「何かな? と聞くだけ無駄か。お手柔らかにお願いする」
そう応えたクリスティーナさんの声音が震えていなかったのは、彼女なりの意地だったのかもしれない。
「ドラッドノートの力を引き出せれば、リュー・キッツ殿が相手でも互角以上に戦えるだろう。上手く剣と対話する事だね」
私の発言にぎょっとしたのは、ヴァジェであった。
クリスティーナさんが水龍皇をも上回ると告げたも同然なのだから、さもありなん。
「おい、いくらなんでもこいつがりゅ――リュー・キッツ様と互角に戦えるなど、言いすぎだろう」
ヴァジェは怒気を撒き散らして私に食ってかかる。
「ドラッドノートの力を引き出せれば、という条件付きだよ。クリスティーナさんの左手にあるあの剣は、それくらいとんでもない代物なのだ。ヴァジェも瑠禹も納得いかない様子だが、当のリュー・キッツ殿はそうでもないようだぞ」
「母様?」
否定してほしい、そんな気持ちを込めて瑠禹は母親へ視線を向けたが、母親の口から出たのは、瑠禹の望んだ答えではなかった。
「ドラン殿の言われる通り、クリスティーナさんが新たに手にした剣にはそれだけの力があります。あの剣の前では三竜帝三龍皇といえども、斬り伏せられてもおかしくはありません。クリスティーナさんのお人柄ならば、その力に溺れる事はないと信じられますが……本来ならば捨て置く事の出来ない物です」
「ははは、過分な評価をいただいて頭が下がる思いです。この剣は身の丈に合わない代物ですが、因縁がありますので、手放すわけにもいかず、こうして手元に置いています。そもそも手放すつもりはないのですけれど」
リュー・キッツとクリスティーナさんのやり取りを聞き、ヴァジェと瑠禹は〝どうやら本当らしい〟と、お互いの顔を見合わせて表情を強張らせる。
彼女らにとっては自分達の種族の頂点に立つリュー・キッツが、人間の少女――厳密には超人種だが――に負けるかもしれないとは認めたくないのだろう。
その間にもリュー・キッツは携えていた両刃の刀を抜き、クリスティーナさんは両手に魔剣を握っている。
レニーアとドラミナ、セリナはさりげなく私の周囲に固まっていて、まずはあの二人の模擬戦を見るつもりらしい。
周囲の環境を守る結界を展開しようと、バリアゴーレムと結界発生装置を配置し終えたところで、私はふと頭上を見上げた。
なんの変哲もない空に生じた〝異変の予兆〟を感じたのだ。
その動きに釣られて、全員が揃って青い空を仰ぎ見る。
「ドランさん、どうかしましたか?」
セリナが私の肘を掴み、不思議そうに聞いてくる。
私は少しばかりの困惑と胸一杯の申し訳なさを交えた声で答えた。
謝罪の感情は主にリュー・キッツに向いているが、これから起きる事態に関しては、セリナとドラミナ、それにレニーアも無関係では済むまい。
「少し困った事になったと言うべきなのかな。リュー・キッツ……いや、龍吉。来た。来てしまったよ、まったく……」
そう、来るのだ。彼女ら、あるいは彼ら、我が始原の七竜の兄妹達が!
龍吉は、私が突然偽名で呼ぶのをやめた事に一瞬目を見張り、そして私が言わんとするところを理解して顔色を蒼白にした。
「そんな、まさか。どうしてこのような時に!?」
「ふぅむ……気まぐれ?」
「それは、確かにあり得ますが、それでは……」
我ながら身も蓋もない答えである。
私が見上げる先の空間は、今や水面に波紋が生じるように揺らぎはじめている。
私と龍吉だけに通じる会話だったが、セリナ達は嫉妬よりもむしろ不安を抱いているらしい。
おそらく、私の言葉の中の不穏な響きを敏感に聴き取ったのだろう。
「来る……来た」
私は即座に反応し、今ここにいる私達以外にこの現象が察知されないように、結界を展開して隠蔽する。
その直後、一際大きな波紋が生じ、強烈な光と共に確たる実体を持った巨大な竜の影が出現した。
それは、銀の鱗と金の瞳を持った竜。
セリナ達は敵の出現かと身構えるが、私が迎撃の備えを見せていない事から、攻撃は控えている。
「セリナ、ドラミナ、ヴァジェ、瑠禹、レニーア、私の知り合いだ。敵ではないよ」
そう、敵ではない。
ただ……滅多やたらと喧嘩を吹っ掛けてくる問題児ではあるが。
さながら葉の上に溜まった朝露が地面に落ちるように、銀鱗の竜は眩い輝きを放ちながらまっすぐに私めがけて落下してくる。
ふむん? あいつ、目を閉じているな。それに、何か思い悩んでいるような表情をしているが……
あの様子では、この場に私以外の面々がいる事に気付いていないのではないか?
他に目撃者は居るまいが、後で拳骨の一つも落としてやろう。
思い込むと一直線、悪く言えば視野狭窄がアレの特徴であるし……一体何をするつもりやら。
「ドラン様、あのお方は!」
他者の目と耳があるにもかかわらず、龍吉は敬称を付けて私を呼ぶ。
これはもう、この場に居る全員に隠していた事を全て告げる他ない流れだなあ。
「我が妹アレキサンダーに相違ない。相違ないが、なぜよりにもよってアレが? バハムートやリヴァイアサンならまだ分かるが……」
私の疑問は解決されぬまま、神々しい光に包まれたアレキサンダーは巨大な竜から竜界で見た時と同じ人間の少女へと姿を変える。
古神竜の威光と風格を纏いながら降りてくる少女に意識を呑まれ、皆口を開く事も出来ずにいた。
無理もない。私にとってアレキサンダーは手の掛かる面倒な妹程度の認識だが、セリナやドラミナ達からすれば怪物という概念を超えた怪物、規格外、超越者にして上位存在。
アレキサンダーめ、地上世界で古神竜としての重圧を堂々と放つとは……どんな影響が出るか分かっていないとは言わせんぞ? 拳骨を一発ではなく百発にしてやろうかな。
全力で殴るべきか、それとも回数に免じて一発の威力を手加減すべきか――そう思案している間に、彼女は私の正面に降り立ち、すうっと深呼吸をした。
目の前のアレキサンダーは、長い髪と同じ銀色の一枚布を緩く体に巻き付けただけの簡素な衣服を纏っていたが、誰もが称えたくなる見事な顔立ちの妙も相まって、まさしく神がかった美少女と言える。
が、これには口さえ開かなければ、という但し書きが付く。
息を呑む皆と同様に、私も黙して待っていると、深呼吸を終えたアレキサンダーが静かに瞼と口を開いた。
さて、何が飛び出してくる?
「ドラゴン、ううん、お兄ちゃん――」
ふむ? なんだ? アレキサンダーの口からこれまで聞いた事のない単語が出たような?
私の耳が腐ってしまったのか、それともアレキサンダーの精神に深刻な障害が発生したのか……一体どうしたというのだ、我が妹よ!?
普段は勝気な黄金の瞳は弱々しく目尻を下げ、紗幕がかかったかのように涙で潤んでいる。
そればかりか、まるで神に懺悔する敬虔な信者の如く、ほっそりとした両手の指を胸の前で組んでさえいる。
私を騙そうとしているのかと疑いたくなるが、そんなつもりはないらしい事が、かえって私に不安を抱かせた。
アレキサンダーが何をしたいのか分からず、私は生まれて初めてと言っていいくらいに混乱しきっていた。
アレキサンダーは続ける。
「――今まで酷い事ばかり言ってごめんね。でもね、本当はあんな事言うつもりはなかったの。アレキサンダー、本当はね、あの時お兄ちゃんに助けてもらってから、ずっと謝りたかったし、ずっとお礼が言いたかった。いつも喧嘩ばかりしているけれど、本当は、本当は、アレキサンダーはお兄ちゃんが大好……」
ここでようやく、この場に第三者がいる事に気付いて、アレキサンダーは石と化したかのように体を強張らせる。
まるで関節が錆びた鉄になったかと思わせるぎこちない動きで辺りを見回し――おそらく恥じらいで――全身を真っ赤に染めて、叫んだ!
「ぴゃああああ~~~~~~~!?」
なんの連絡もなしに地上に降りてきたと思ったら、この始末である。
どうしたものかと私が考えあぐねていると、アレキサンダーの後頭部を何者かの手が思いきり叩いた。
「ふぎゃあ!?」
「何を叫んでおるのじゃ、アレキサンダー。はしたない真似は控えよと常日頃から言い聞かせておろう。もう忘れたか?」
古神竜に相応しい頑強さを持つアレキサンダーに痛みを感じさせるほどの一撃を加えたのは、私がこの事態に気を取られている間に降臨していたリヴァイアサンであった。
アレキサンダー同様に人間の姿を取ったリヴァイアサンは、私に気付くと手刀の形にしていた左手を上げて軽く振る。
「おう、ドラゴン。連絡もなしに訪ねてすまぬのう。アレキサンダーが逸って飛び出していったので、急ぎ追って参ったが、手間を掛けてしまったようじゃ」
挨拶代わりに左手を握ったり開いたりしているリヴァイアサンの足元では、アレキサンダーが頭の天辺に出来た見事なタンコブを押さえて蹲っている。
「うううううううう~~~」
ああもう、今日はなんなのだろう。私はこれまで感じた事のない疲労と共に溜息を吐いた。
……もう疲れたよ。
†
古龍神リヴァイアサン、古神竜アレキサンダーがこの惑星に降臨するという前代未聞の事態が人知れず発生している一方で、本来ならばその場面に立ち合うはずだった四人の少女達が、〝ある話題〟について語る為に集まっていた。
フェニア、ネルネシア、そしてファティマとその使い魔のシエラである。
四人はドランが魔法学院の敷地内に建てた浴場に設置されたテラスに集い、他者の目や耳を避けて声を潜め、周囲への警戒を厳にしている。
口火を切ったのは、この会合を主催したフェニアである。
彼女は、煌めく黄金の巻き髪に劣らぬ好奇心の輝きを宿した瞳で三人を見回し、嫌味にならぬ程度に俗っぽい笑みを浮かべると、愛用の扇子で口元を隠しながら喋りはじめた。
「ネルネシアさん、ファティマさん、ドランさん達に特訓に参加出来ない事情はお伝えになって?」
「ん。授業があると伝えておいた」
ネルネシアは短く答えながらも、今日はお茶菓子の類が用意されていないのか、と残念そうな素振りを見せる。
魔法行使に際する膨大な魔力と精神力消費を補う為、魔法使いは大食い――ないしは高カロリーの菓子類や酒類を好んで摂取する者が多いが、それを抜きにしてもこの娘は大食いである。
「でしたら問題はありませんわね。さて競魔祭に向けての特訓を辞してまでこうして集まっていただいたのは、かねてからファティマさん達にだけお声掛けしていた事についてですわ」
以前からドランやクリスティーナ、レニーアに隠れて四人で集まり、フェニアはとある相談を持ちかけていた。
「クリスティーナ先輩の事ですねぇ~。夏休みの前よりも明るくなったし、ベルン村に行っていたっていうお話だったから……」
普段のぽやんとした雰囲気はそのままに、ファティマは顎先に指を添えて、少しだけ思案した。
親友の言葉にネルネシアが追従する。
「夏季休暇の間、短くない時間ドランと一緒だったのは間違いない」
二人の発言を受けたフェニアは、音を立てて扇子を閉じ、腰のベルトに取りつけたホルダーに収納すると、凛とした表情で頷く。
普段は容姿と精神から二重に放たれる輝きの派手さに隠れがちだが、ネルとファティマはこの少女が持つ素の美しさに少なからず感嘆する。
しかしフェニアの真剣な表情が維持されていたのは、ごく短い時間であった。
再びにんまりとした笑みを浮かべると、彼女は好奇心を隠しきれない声でこう言った。
「ではではでは、やっぱりクリスティーナさんは? ドランさんの事を? 異性として見ていらっしゃったりするのかしら?」
つまり、フェニアがドランに隠れてこうした会合を持ったのは、大好きな友人のクリスティーナと頼もしい後輩ドランの恋愛事情が、気になって気になって仕方がなかったからである。
フェニアとて、差し迫る競魔祭を前に級友達の恋愛話に花を咲かせるのは、不謹慎であると思っている。
しかし、何しろ話題はあのクリスティーナである。魔法学院史上最も多くの生徒や学院関係者を魅了し、社交界にでも顔を出したら、王国中の貴族が信奉者になると誰もが認める美の化身だ。
フェニアの頭の中では、二人の婚約者を持つドランとクリスティーナの不義にも等しい恋愛譚が瞬く間に作り上げられ、勝手に燃え上がるという惨状であった。
「ネルさん、ファティマさん、やっぱりクリスティーナさんはドランさんの事を慕っていらっしゃるのかしら? でもドランさんは、セリナさんとドラミナさんと婚約していらっしゃるのですよね? きゃー、これって大丈夫なんですの? 血の雨が降りません事!?」
この話題を始めると、フェニアはいつも熱くなって、周りが見えなくなるのである。ふんふんと鼻息荒い彼女を落ち着かせる為に口を挟んだのは、ネルネシアだった。
「アークレスト王国ではラミアとバンパイアは人間種として定義されていないから、本人達が夫婦を名乗っても法律上は夫婦として認められない。だから、ドランが二人の他に人間と結婚しても、罪に問われる事はないはず。でもセリナとドラミナさんの心情は別。だから、フェニア先輩の言う通り、最悪の場合は血の雨が降るかもしれない」
「まあまあまあ、それでは一体どういたしましょう。私、お友達が痴情のもつれで怪我をするなんて恐ろしくって仕方ありませんわ! それにドランさんとセリナさんとドラミナさんは、とっても仲良しでいらっしゃいます。クリスティーナさんだってそうですわ。ですのに……その四人がいがみ合う事になったら、あわわわ、あわわわわ、あわわわわわわ……」
自分で話を振っておきながら大層取り乱すフェニアに、シエラが笑いを堪えながら話しかけた。
「ネルネシア様、あまりフェニア様をからかわない方がよろしいですよ。ドランさん達はきちんと話し合いで解決出来る方々ですし、刃傷沙汰にはならないでしょう。それに私の見たところ、クリスティーナ様はどうも色恋に関しては奥手でいらっしゃるようです。セリナ様とドラミナ様が居られる以上は、遠慮されるでしょう」
日頃ファティマに対しては素の口調と態度で接するようになったシエラだが、ファティマ以外に関しては、使い魔としての態度を崩していない。
「そそそそ、そうでしょうか? ああ、皆さんが丸く収まると良いのですが、それはそれで都合が良すぎますし……どうなるか心配で心配で堪らないったらありゃしませんわ。私などが外からなんやかやと騒いでも、余計なお世話――まさに、小さな親切大きなお世話でしかありませんけれど!」
一応、余計なお世話という自覚はあるらしいと内心安堵し、ネルネシアはしみじみと呟いた。
「まったくもってその通り。ところで、競魔祭も近いのにこうして雑談をするのは、そろそろどうかと思う。フェニア先輩とお茶をするのは嫌ではないけれど、優先順位ははっきりとさせておくべき」
「それはもちのろん、分かっておりますわ! 競魔祭本戦は王国中の貴族や魔法師団、そしてスペリオン王太子殿下達に、私達の力を知らしめる絶好の機会ですのよ。派手に――いいえ、ド派手に暴れて、荒ぶって、目立ちまくるのですわ。今回、特訓を辞した分、次の特訓は二倍、三倍の密度でこなして補填するつもりで行きますわ!!」
フェニアはさっきまでクリスティーナとドランの不穏な未来を想像して青褪めていたのに、話題が競魔祭に変わった途端に息を吹き返し、頬を紅潮させるついでに全身から高熱を発して周囲の気温を上げる。昂ぶった感情がフェニアの魔力変換体質によって熱量に変わった結果だ。
とはいえ、ここまでの意気込みを持つフェニアが、この時期にこのような恋愛話を持ち出したのは、彼女自身がガロア代表のまとめ役であるという自負があり、クリスティーナとドラン達の関係が拗れる事を危惧し、友人達の関係が悪化するのではないかと気が気でなかったからだ。良くも悪くも責任感が強く、真面目な気質なのがフェニアという少女だった。
今回、改めてネルネシアとファティマ達から、ドラン達の関係は大丈夫だと太鼓判を押された事で、ようやくフェニアは競魔祭に集中できる精神状態に戻ったわけだ。
「一言では説明し難い事情があるのだが、要点を述べると、クリスティーナさんが、かつて彼女のご先祖が殺めた竜の生まれ変わりと出会い、その罪を許してもらった事で、竜殺しの因子が祝福と加護に変化したのだ。クリスティーナさんの印象が変わったと感じたのなら、それが理由だ。今のクリスティーナさんに嫌悪や憤怒は抱かないだろう?」
私が大雑把に説明すると、ヴァジェは素直に納得したようで、頭のてっぺんから爪先に至るまで、何度もクリスティーナさんを見回した。
「確かに受ける印象がまるで違うが、こうまで変わるか……」
一方瑠禹は、私の言葉が引っかかったようで、訝しげな視線を向けてくる。ふむ、言葉の選択を誤ったかな?
「クリスティーナさんの先祖が殺めた竜が転生し、その罪を許した? ドラン様は転生した竜……なら」
そろそろヴァジェと瑠禹にも、隠していた私の事情を伝えるべき時かね。
幸い、ヴァジェと瑠禹以外は全員私の魂の事情を知っている。説明するのはヴァジェ達だけで済む。
私はそう思案しながら、クリスティーナさんの新しい剣について問う視線を向けてきたリュー・キッツに、右手の人さし指で自分の心臓を軽く叩く仕草をして見せた。
「っ!」
リュー・キッツはすぐさまこの剣がなんであるか理解して、表情を強張らせる。
さもありなん。今は私殺しの因子に変化があったとはいえ、ドラッドノートは紛れもなく古神竜殺しに用いられた剣なのだ。
その事実に対する忌避感は、私殺しの実行者である勇者セムトに対するものにも匹敵しよう。
だがリュー・キッツは、ドラッドノートが私殺しの剣でありながら、私の加護を受けている事で、おおよその経緯を察してくれたようだった。
「さあ、久しぶりに見る顔もあれば、初めて見る顔もあるだろう。私から紹介しよう。瑠禹、ヴァジェ、リュー・キッツ殿、こちらはドラミナ。新しく私の使い魔になってくれた女性で、バンパイアだ。とても頼りになる」
ヴァジェと瑠禹はバンパイアでありながら竜種の自分達を上回るドラミナの力を感じてか――あるいは、私の使い魔というドラミナの立場が癇に障ったのか、程度の違いはあるが身構えた。
リュー・キッツだけは警戒も緊張も感じさせぬ優雅な仕草で、ドラミナに一礼した。
「お初にお目に掛かります、ドラミナさん。私はリュー・キッツ。縁あってドラン殿と関わりを持った古龍の女にございます。瑠禹、ヴァジェさん、貴女達もご挨拶なさい」
リュー・キッツに促された瑠禹とヴァジェは我に返って会釈する。
「これは失礼をいたしました。リュー・キッツの娘、瑠禹と申します。どうぞよろしくお願いいたします、ドラミナさん」
「ドランの使い魔とは、もの好きな事だな。深紅竜のヴァジェだ」
リュー・キッツ達の挨拶に、ドラミナはヴェール付きの帽子を取って脇に抱え、右手でスカートの裾を摘まみながら小さく頭を下げて、リュー・キッツの礼に勝るとも劣らぬ優雅な挨拶をした。
「ドランから紹介していただきましたが、改めてご挨拶申し上げます。新しくドランの使い魔となりましたバンパイアのドラミナです。皆さんのお話は常々ドランから伺っております。こうしてお目に掛かる機会が訪れるのを、楽しみにしておりました」
リュー・キッツはドラミナの立ち居振る舞いに、まるで嫁の評価を下す姑を思わせる様子で頷きつつ、私に告げる。
「ふふ、つくづくドラン殿は罪作りなお方。少しお目に掛からぬ間にまた新しい女性をお傍に置かれるとは」
ふむ、リュー・キッツからの視線がむず痒い。瑠禹とヴァジェなどは、いっそ清々しいくらいに私を睨んでいるな。
「今後はそうそう増えないだろう。特訓で忙しくなるしね」
そこで私は一度話を区切り、お互いにだけ聞こえるように、声量を抑えて龍吉に問いかけた。
「それで、一つ確認したいのだが、例の件は他の龍皇らにはもう伝えたのかい?」
私が竜界に帰った時に提案した、バハムートやリヴァイアサンら、始原の七竜がこの地上世界を訪問するという話についてである。
「ええ、あそこまで唖然とした皆の姿を、私は初めて見ました。やはりドラン殿のご兄弟方は私達にとってそれほどの存在であると、つくづく痛感いたしました。事前のご連絡なくご来訪されては、私共の心臓が破裂してしまいます」
「連絡を忘れぬように気を付けるし、竜界からこちらへ渡ってくる気配があったなら確認するよう留意もしよう。出来る限り君達の心の安寧を守りたいからな」
「そうしていただけると大変助かります。ドラン様にこのような手間をお掛けする形になってしまい、申し訳ございません……」
「それは構わないよ。私は君達にとんだ騒動を押し付けてしまったからな。とりあえず、そちら側への通達は終わったという認識で良いかな? 後でバハムートやリヴァイアサンにいつ頃こちらに来るか、尋ねておこう」
「よろしくお願いいたします。では、そろそろ特訓を始めますか? ヴァジェさんや瑠禹はクリスティーナさんばかりに気を取られていますが、レニーアさんの変化のなんと著しい事。これではもう私など足元にも及びますまい。ドラミナさんも、ヴァジェさんや瑠禹では敵わぬほどですね。それに、少しだけですが、ドラン様の気配がドラミナさんとセリナさんからするようですから、油断は出来そうにありません」
ほう、レニーアの魂と肉体の調和が整った事ばかりか、セリナとドラミナが私の力をものにしつつある事まで感じ取ったか。流石は水龍皇。知覚能力の鋭敏さは見事と言えよう。
「油断せず戦ってくれるなら、その方がありがたいさ。さあ、瑠禹、ヴァジェ、ドラミナ、セリナ、話し込んでいるところ悪いが、そろそろ模擬戦を始めるとしよう。日が暮れるのが早くなっているから、時間が惜しい。ヴァジェはともかく、瑠禹達は宿泊していくわけにはいくまいからな」
龍宮城からここに飛んでくる程度ならまだしも、宿泊するのは、リュー・キッツ達の立場では難しいだろう。
瑠禹達がこちらに向き直るのに合わせ、私は【影箱】の魔法によって自分の影に仕舞い込んでいた結界展開装置四基と、バリアゴーレム八体を引っ張り出した。
夏季休暇を経てレニーアとクリスティーナさんの戦闘能力は劇的に増大しており、ドラミナが加わった事も鑑みると、一学期とは少し特訓のやり方を変えるべきかもしれない。
この特訓の主眼は、あくまで競魔祭出場者を鍛える事なのだ。つまり、今この場にいる面子の中で鍛えるべきは、私、レニーア、クリスティーナさんの三名。
しかし、私とレニーアはこれ以上ほとんど鍛えようがない。となると、今日はクリスティーナさん一人を徹底して鍛える事になるな。
私と同じ結論に達したリュー・キッツやドラミナからの視線を浴びて、クリスティーナさんは分かりやすく肩を震わせる。徹底的にしごかれる様を想像して、流石のクリスティーナさんも腰が引けているらしい。
「何かな? と聞くだけ無駄か。お手柔らかにお願いする」
そう応えたクリスティーナさんの声音が震えていなかったのは、彼女なりの意地だったのかもしれない。
「ドラッドノートの力を引き出せれば、リュー・キッツ殿が相手でも互角以上に戦えるだろう。上手く剣と対話する事だね」
私の発言にぎょっとしたのは、ヴァジェであった。
クリスティーナさんが水龍皇をも上回ると告げたも同然なのだから、さもありなん。
「おい、いくらなんでもこいつがりゅ――リュー・キッツ様と互角に戦えるなど、言いすぎだろう」
ヴァジェは怒気を撒き散らして私に食ってかかる。
「ドラッドノートの力を引き出せれば、という条件付きだよ。クリスティーナさんの左手にあるあの剣は、それくらいとんでもない代物なのだ。ヴァジェも瑠禹も納得いかない様子だが、当のリュー・キッツ殿はそうでもないようだぞ」
「母様?」
否定してほしい、そんな気持ちを込めて瑠禹は母親へ視線を向けたが、母親の口から出たのは、瑠禹の望んだ答えではなかった。
「ドラン殿の言われる通り、クリスティーナさんが新たに手にした剣にはそれだけの力があります。あの剣の前では三竜帝三龍皇といえども、斬り伏せられてもおかしくはありません。クリスティーナさんのお人柄ならば、その力に溺れる事はないと信じられますが……本来ならば捨て置く事の出来ない物です」
「ははは、過分な評価をいただいて頭が下がる思いです。この剣は身の丈に合わない代物ですが、因縁がありますので、手放すわけにもいかず、こうして手元に置いています。そもそも手放すつもりはないのですけれど」
リュー・キッツとクリスティーナさんのやり取りを聞き、ヴァジェと瑠禹は〝どうやら本当らしい〟と、お互いの顔を見合わせて表情を強張らせる。
彼女らにとっては自分達の種族の頂点に立つリュー・キッツが、人間の少女――厳密には超人種だが――に負けるかもしれないとは認めたくないのだろう。
その間にもリュー・キッツは携えていた両刃の刀を抜き、クリスティーナさんは両手に魔剣を握っている。
レニーアとドラミナ、セリナはさりげなく私の周囲に固まっていて、まずはあの二人の模擬戦を見るつもりらしい。
周囲の環境を守る結界を展開しようと、バリアゴーレムと結界発生装置を配置し終えたところで、私はふと頭上を見上げた。
なんの変哲もない空に生じた〝異変の予兆〟を感じたのだ。
その動きに釣られて、全員が揃って青い空を仰ぎ見る。
「ドランさん、どうかしましたか?」
セリナが私の肘を掴み、不思議そうに聞いてくる。
私は少しばかりの困惑と胸一杯の申し訳なさを交えた声で答えた。
謝罪の感情は主にリュー・キッツに向いているが、これから起きる事態に関しては、セリナとドラミナ、それにレニーアも無関係では済むまい。
「少し困った事になったと言うべきなのかな。リュー・キッツ……いや、龍吉。来た。来てしまったよ、まったく……」
そう、来るのだ。彼女ら、あるいは彼ら、我が始原の七竜の兄妹達が!
龍吉は、私が突然偽名で呼ぶのをやめた事に一瞬目を見張り、そして私が言わんとするところを理解して顔色を蒼白にした。
「そんな、まさか。どうしてこのような時に!?」
「ふぅむ……気まぐれ?」
「それは、確かにあり得ますが、それでは……」
我ながら身も蓋もない答えである。
私が見上げる先の空間は、今や水面に波紋が生じるように揺らぎはじめている。
私と龍吉だけに通じる会話だったが、セリナ達は嫉妬よりもむしろ不安を抱いているらしい。
おそらく、私の言葉の中の不穏な響きを敏感に聴き取ったのだろう。
「来る……来た」
私は即座に反応し、今ここにいる私達以外にこの現象が察知されないように、結界を展開して隠蔽する。
その直後、一際大きな波紋が生じ、強烈な光と共に確たる実体を持った巨大な竜の影が出現した。
それは、銀の鱗と金の瞳を持った竜。
セリナ達は敵の出現かと身構えるが、私が迎撃の備えを見せていない事から、攻撃は控えている。
「セリナ、ドラミナ、ヴァジェ、瑠禹、レニーア、私の知り合いだ。敵ではないよ」
そう、敵ではない。
ただ……滅多やたらと喧嘩を吹っ掛けてくる問題児ではあるが。
さながら葉の上に溜まった朝露が地面に落ちるように、銀鱗の竜は眩い輝きを放ちながらまっすぐに私めがけて落下してくる。
ふむん? あいつ、目を閉じているな。それに、何か思い悩んでいるような表情をしているが……
あの様子では、この場に私以外の面々がいる事に気付いていないのではないか?
他に目撃者は居るまいが、後で拳骨の一つも落としてやろう。
思い込むと一直線、悪く言えば視野狭窄がアレの特徴であるし……一体何をするつもりやら。
「ドラン様、あのお方は!」
他者の目と耳があるにもかかわらず、龍吉は敬称を付けて私を呼ぶ。
これはもう、この場に居る全員に隠していた事を全て告げる他ない流れだなあ。
「我が妹アレキサンダーに相違ない。相違ないが、なぜよりにもよってアレが? バハムートやリヴァイアサンならまだ分かるが……」
私の疑問は解決されぬまま、神々しい光に包まれたアレキサンダーは巨大な竜から竜界で見た時と同じ人間の少女へと姿を変える。
古神竜の威光と風格を纏いながら降りてくる少女に意識を呑まれ、皆口を開く事も出来ずにいた。
無理もない。私にとってアレキサンダーは手の掛かる面倒な妹程度の認識だが、セリナやドラミナ達からすれば怪物という概念を超えた怪物、規格外、超越者にして上位存在。
アレキサンダーめ、地上世界で古神竜としての重圧を堂々と放つとは……どんな影響が出るか分かっていないとは言わせんぞ? 拳骨を一発ではなく百発にしてやろうかな。
全力で殴るべきか、それとも回数に免じて一発の威力を手加減すべきか――そう思案している間に、彼女は私の正面に降り立ち、すうっと深呼吸をした。
目の前のアレキサンダーは、長い髪と同じ銀色の一枚布を緩く体に巻き付けただけの簡素な衣服を纏っていたが、誰もが称えたくなる見事な顔立ちの妙も相まって、まさしく神がかった美少女と言える。
が、これには口さえ開かなければ、という但し書きが付く。
息を呑む皆と同様に、私も黙して待っていると、深呼吸を終えたアレキサンダーが静かに瞼と口を開いた。
さて、何が飛び出してくる?
「ドラゴン、ううん、お兄ちゃん――」
ふむ? なんだ? アレキサンダーの口からこれまで聞いた事のない単語が出たような?
私の耳が腐ってしまったのか、それともアレキサンダーの精神に深刻な障害が発生したのか……一体どうしたというのだ、我が妹よ!?
普段は勝気な黄金の瞳は弱々しく目尻を下げ、紗幕がかかったかのように涙で潤んでいる。
そればかりか、まるで神に懺悔する敬虔な信者の如く、ほっそりとした両手の指を胸の前で組んでさえいる。
私を騙そうとしているのかと疑いたくなるが、そんなつもりはないらしい事が、かえって私に不安を抱かせた。
アレキサンダーが何をしたいのか分からず、私は生まれて初めてと言っていいくらいに混乱しきっていた。
アレキサンダーは続ける。
「――今まで酷い事ばかり言ってごめんね。でもね、本当はあんな事言うつもりはなかったの。アレキサンダー、本当はね、あの時お兄ちゃんに助けてもらってから、ずっと謝りたかったし、ずっとお礼が言いたかった。いつも喧嘩ばかりしているけれど、本当は、本当は、アレキサンダーはお兄ちゃんが大好……」
ここでようやく、この場に第三者がいる事に気付いて、アレキサンダーは石と化したかのように体を強張らせる。
まるで関節が錆びた鉄になったかと思わせるぎこちない動きで辺りを見回し――おそらく恥じらいで――全身を真っ赤に染めて、叫んだ!
「ぴゃああああ~~~~~~~!?」
なんの連絡もなしに地上に降りてきたと思ったら、この始末である。
どうしたものかと私が考えあぐねていると、アレキサンダーの後頭部を何者かの手が思いきり叩いた。
「ふぎゃあ!?」
「何を叫んでおるのじゃ、アレキサンダー。はしたない真似は控えよと常日頃から言い聞かせておろう。もう忘れたか?」
古神竜に相応しい頑強さを持つアレキサンダーに痛みを感じさせるほどの一撃を加えたのは、私がこの事態に気を取られている間に降臨していたリヴァイアサンであった。
アレキサンダー同様に人間の姿を取ったリヴァイアサンは、私に気付くと手刀の形にしていた左手を上げて軽く振る。
「おう、ドラゴン。連絡もなしに訪ねてすまぬのう。アレキサンダーが逸って飛び出していったので、急ぎ追って参ったが、手間を掛けてしまったようじゃ」
挨拶代わりに左手を握ったり開いたりしているリヴァイアサンの足元では、アレキサンダーが頭の天辺に出来た見事なタンコブを押さえて蹲っている。
「うううううううう~~~」
ああもう、今日はなんなのだろう。私はこれまで感じた事のない疲労と共に溜息を吐いた。
……もう疲れたよ。
†
古龍神リヴァイアサン、古神竜アレキサンダーがこの惑星に降臨するという前代未聞の事態が人知れず発生している一方で、本来ならばその場面に立ち合うはずだった四人の少女達が、〝ある話題〟について語る為に集まっていた。
フェニア、ネルネシア、そしてファティマとその使い魔のシエラである。
四人はドランが魔法学院の敷地内に建てた浴場に設置されたテラスに集い、他者の目や耳を避けて声を潜め、周囲への警戒を厳にしている。
口火を切ったのは、この会合を主催したフェニアである。
彼女は、煌めく黄金の巻き髪に劣らぬ好奇心の輝きを宿した瞳で三人を見回し、嫌味にならぬ程度に俗っぽい笑みを浮かべると、愛用の扇子で口元を隠しながら喋りはじめた。
「ネルネシアさん、ファティマさん、ドランさん達に特訓に参加出来ない事情はお伝えになって?」
「ん。授業があると伝えておいた」
ネルネシアは短く答えながらも、今日はお茶菓子の類が用意されていないのか、と残念そうな素振りを見せる。
魔法行使に際する膨大な魔力と精神力消費を補う為、魔法使いは大食い――ないしは高カロリーの菓子類や酒類を好んで摂取する者が多いが、それを抜きにしてもこの娘は大食いである。
「でしたら問題はありませんわね。さて競魔祭に向けての特訓を辞してまでこうして集まっていただいたのは、かねてからファティマさん達にだけお声掛けしていた事についてですわ」
以前からドランやクリスティーナ、レニーアに隠れて四人で集まり、フェニアはとある相談を持ちかけていた。
「クリスティーナ先輩の事ですねぇ~。夏休みの前よりも明るくなったし、ベルン村に行っていたっていうお話だったから……」
普段のぽやんとした雰囲気はそのままに、ファティマは顎先に指を添えて、少しだけ思案した。
親友の言葉にネルネシアが追従する。
「夏季休暇の間、短くない時間ドランと一緒だったのは間違いない」
二人の発言を受けたフェニアは、音を立てて扇子を閉じ、腰のベルトに取りつけたホルダーに収納すると、凛とした表情で頷く。
普段は容姿と精神から二重に放たれる輝きの派手さに隠れがちだが、ネルとファティマはこの少女が持つ素の美しさに少なからず感嘆する。
しかしフェニアの真剣な表情が維持されていたのは、ごく短い時間であった。
再びにんまりとした笑みを浮かべると、彼女は好奇心を隠しきれない声でこう言った。
「ではではでは、やっぱりクリスティーナさんは? ドランさんの事を? 異性として見ていらっしゃったりするのかしら?」
つまり、フェニアがドランに隠れてこうした会合を持ったのは、大好きな友人のクリスティーナと頼もしい後輩ドランの恋愛事情が、気になって気になって仕方がなかったからである。
フェニアとて、差し迫る競魔祭を前に級友達の恋愛話に花を咲かせるのは、不謹慎であると思っている。
しかし、何しろ話題はあのクリスティーナである。魔法学院史上最も多くの生徒や学院関係者を魅了し、社交界にでも顔を出したら、王国中の貴族が信奉者になると誰もが認める美の化身だ。
フェニアの頭の中では、二人の婚約者を持つドランとクリスティーナの不義にも等しい恋愛譚が瞬く間に作り上げられ、勝手に燃え上がるという惨状であった。
「ネルさん、ファティマさん、やっぱりクリスティーナさんはドランさんの事を慕っていらっしゃるのかしら? でもドランさんは、セリナさんとドラミナさんと婚約していらっしゃるのですよね? きゃー、これって大丈夫なんですの? 血の雨が降りません事!?」
この話題を始めると、フェニアはいつも熱くなって、周りが見えなくなるのである。ふんふんと鼻息荒い彼女を落ち着かせる為に口を挟んだのは、ネルネシアだった。
「アークレスト王国ではラミアとバンパイアは人間種として定義されていないから、本人達が夫婦を名乗っても法律上は夫婦として認められない。だから、ドランが二人の他に人間と結婚しても、罪に問われる事はないはず。でもセリナとドラミナさんの心情は別。だから、フェニア先輩の言う通り、最悪の場合は血の雨が降るかもしれない」
「まあまあまあ、それでは一体どういたしましょう。私、お友達が痴情のもつれで怪我をするなんて恐ろしくって仕方ありませんわ! それにドランさんとセリナさんとドラミナさんは、とっても仲良しでいらっしゃいます。クリスティーナさんだってそうですわ。ですのに……その四人がいがみ合う事になったら、あわわわ、あわわわわ、あわわわわわわ……」
自分で話を振っておきながら大層取り乱すフェニアに、シエラが笑いを堪えながら話しかけた。
「ネルネシア様、あまりフェニア様をからかわない方がよろしいですよ。ドランさん達はきちんと話し合いで解決出来る方々ですし、刃傷沙汰にはならないでしょう。それに私の見たところ、クリスティーナ様はどうも色恋に関しては奥手でいらっしゃるようです。セリナ様とドラミナ様が居られる以上は、遠慮されるでしょう」
日頃ファティマに対しては素の口調と態度で接するようになったシエラだが、ファティマ以外に関しては、使い魔としての態度を崩していない。
「そそそそ、そうでしょうか? ああ、皆さんが丸く収まると良いのですが、それはそれで都合が良すぎますし……どうなるか心配で心配で堪らないったらありゃしませんわ。私などが外からなんやかやと騒いでも、余計なお世話――まさに、小さな親切大きなお世話でしかありませんけれど!」
一応、余計なお世話という自覚はあるらしいと内心安堵し、ネルネシアはしみじみと呟いた。
「まったくもってその通り。ところで、競魔祭も近いのにこうして雑談をするのは、そろそろどうかと思う。フェニア先輩とお茶をするのは嫌ではないけれど、優先順位ははっきりとさせておくべき」
「それはもちのろん、分かっておりますわ! 競魔祭本戦は王国中の貴族や魔法師団、そしてスペリオン王太子殿下達に、私達の力を知らしめる絶好の機会ですのよ。派手に――いいえ、ド派手に暴れて、荒ぶって、目立ちまくるのですわ。今回、特訓を辞した分、次の特訓は二倍、三倍の密度でこなして補填するつもりで行きますわ!!」
フェニアはさっきまでクリスティーナとドランの不穏な未来を想像して青褪めていたのに、話題が競魔祭に変わった途端に息を吹き返し、頬を紅潮させるついでに全身から高熱を発して周囲の気温を上げる。昂ぶった感情がフェニアの魔力変換体質によって熱量に変わった結果だ。
とはいえ、ここまでの意気込みを持つフェニアが、この時期にこのような恋愛話を持ち出したのは、彼女自身がガロア代表のまとめ役であるという自負があり、クリスティーナとドラン達の関係が拗れる事を危惧し、友人達の関係が悪化するのではないかと気が気でなかったからだ。良くも悪くも責任感が強く、真面目な気質なのがフェニアという少女だった。
今回、改めてネルネシアとファティマ達から、ドラン達の関係は大丈夫だと太鼓判を押された事で、ようやくフェニアは競魔祭に集中できる精神状態に戻ったわけだ。
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