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10巻

10-3

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「ふふ。私の経験から、継母と前妻の子の関係がこじれるのではないかと心配していたが、君は運がいいらしいな、ドラン」

 いや、笑って言うけれど、貴女あなたのお家の事情を考えるとこっちは笑えないぞ、クリスティーナさん。

「運がいいという点には全面的に同意するよ。さて……となると、今日のうちに出来そうな事は二つだな」
「二つですか?」

 それが何か見当がつかないらしく、不思議そうに私の顔を覗きこんでくるセリナに、私は頷き返した。

「ああ。こうして婚約を交わしたわけだから、私の両親や家族に挨拶くらいはしておかないとね。それに、村長にも話を通さないと」
「お、お義父さんとお義母さんにですか? 改めて、となると恥ずかしいですね」

 私としては今更な気がするのだが、セリナにとってはそうでもないようで、恥ずかしげに全身をくねくねと動かし、同意を求める視線をドラミナに向けた。
 女王陛下は泰然自若たいぜんじじゃくとした態度でセリナの視線を受け止めるかと思ったのだが、こちらもセリナと同じように恥ずかしげに身悶みもだえている。ふむん?

「そうですね。将来のお義父とう様とお義母様にご挨拶するのですから、緊張いたしますね、セリナさん」
「ですよね。私はもう何度も会っていますけれど、これまでと違って〝婚約者〟という立場で会うとなると……」

 やや硬いものではあったが、セリナとドラミナは同じ婚約者という立場から来る親近感からか、笑顔を向け合っていた。
 そんなに緊張するものかね? 私もセリナの御両親に会いに行く時に同じ気持ちを味わう事になりそうだが、さて。


 最初に足を向けたのは、我が両親と兄夫婦の暮らす実家である。セリナの事は前から知っているが、ドラミナの事は伝えていなかったので、さぞや驚くだろう。
 一日の仕事の予定を考えると、夕飯の前後が一番自由のく時間だが、話は早いうちに進めた方が良いし、正直、ドラミナとセリナの緊張による心労が気になって仕方がない。その為、朝食を済ませた頃を見計みはからって、実家を訪ねる事になった。
 流石にクリスティーナさんやレニーア達とは別行動となり、実家を前に私の左右に立つセリナとドラミナは、ひどく緊張した面持おももちだった。
 大仰おおぎょうな言い方かもしれないが、これからおもむくのは彼女らが経験した事のない、未知の戦場と言える。そして、それは私にとっても同じ事なのだ。

「恥ずかしながら」

 そう切り出したのはドラミナである。傍目にも緊張しているが、少なくとも言葉それ自体はいつも通りの柔和にゅうわな響きをたもっている。内心では必死にいつも通りの自分を心がけていたりするかもな。

「国にいた頃は、やれどこそこの子息が相応しい、やれあの家の令嬢が婚約した、陛下もお早くと急かされるのを、どこか遠い出来事のように聞いていたものですが、いざこうして当事者になってみると、これほどにまで緊張するのですね」

 ドラミナの言葉に、セリナがコクコクと何度も首を縦に振るのを横目に見ながら、私は二人の緊張をやわらげようと必死になった。ただし表面上はいつも通りの態度で、とも心がける。ここで私まで緊張しています、という態度を取ったら、ますます二人が硬くなってしまうだろう。

「何か言われるとしたら私だろうし、二人が悪く言われる事はないから、平気だよ。本当に私などでいいのかとか、男はほかにいくらでもいるとか、それくらいは言われるかもしれないな」
「それは、ドランが自身の事を低く評価しすぎでは?」
「そうかな? ドラミナとセリナが魅力みりょく的過ぎるから、どうしたって私にはもったいないと思ってしまうのだよ。さて、ここでいつまでも卑下ひげしたりめ合ったりしていても話は進まない。そろそろ、覚悟は固まったかい?」
「そうですね。ここで足踏みばかりはしていられませんし、私は大丈夫です。セリナさんはいかがですか?」
「……はい。覚悟は出来ました。面識のないドラミナさんがもう気持ちを固めていらっしゃるのに、私が二の足を踏むのは格好が悪いですから。まあ、踏む足が私にはないのですけれど」

 ふむ、セリナも冗談を口に出来る程度には、心がほぐれてきたようだ。

「それではそろそろ行こうか」

 私たちは一つ息を吐いて、家に向き合う。

「父さん、母さん、いるかな? ドランです。急ですが、話があって来ました」

 玄関の戸を叩きながら声を掛けると、すぐに家の中で動く気配が感じられた。
 さて、これからが本番だな、ふむん。
 思った通り、父さんと母さん、ディランにい義姉あねのランはまだ家におり、見慣れないドラミナの姿に驚きこそすれ、私達を家の中へと招いてくれた。
 私の家族達を前に、ドラミナはそれまで日除ひよけも兼ねて被っていた帽子を外し、素顔を露わにしている。クリスティーナさんの場合もそうだが、ドラミナの素顔を見た者があまりの精神的衝撃に心身喪失しんしんそうしつ状態におちいるのは、いつもの通りであった。
 父さん達が正気を取り戻すのを待ってから、私達は改めて居間で向かい合う。ちなみに、父さん達が正気を失っている間に、私が皆を部屋の中央に置かれたテーブルに着席させておいた。並び順は、私をはさんで右にセリナ、左にドラミナ。私の向かいに父さん、その左側に母さん、右側にディラン兄、更にその右に兄嫁のランとなる。
 もし、私が連れてきたのがセリナだけだったなら、以前から彼女の私に対する態度が村の中で知られていた事もあり、両親と兄夫婦はすぐさま用向きを察しただろうが、この場にドラミナがいる事で、父達はどう応対すれば良いか判断しかねているのが見て取れた。私にとっても急な話だったが、家族にとっては尚更急な話なのだから、混乱の一つもするわな。
 とりあえず話を早めに進めないと今日の仕事に支障が出てしまう為、私は初めて引き合わせるドラミナを紹介し、彼女がバンパイアである事や、魔法学院に通っている時に出来た知り合いであり、先日からセリナの家に寝泊まりしている事などを告げた。
 これだけなら、単に村に来た知人の紹介で話は終わるのだが、今回は違う。

「ドラン、そちらのドラミナさんという方が、お前達と親しい間柄だという事は分かった。さっきから気心の知れた雰囲気を感じるしな。だが、これは父親としてのかんだが、話はそれだけではなかろう。ディランがランを嫁にしたいと連れてきた時もこうだった。そうだろ、ディラン?」
「ああ、今となっては俺もよく分かるよ。しかし、二人か」

 既に私よりも先に、相手の家族に結婚の挨拶をする、という一大事業を経験済みの父と兄は、私達三人の雰囲気からおおよそのところを察したらしい。いや、母さんもランも、言わずとも分かっているという顔をしているか。ランには若干あきれられてもいるけれど。
 それは、まあ……ごもっともだ。
 私が今回の訪問の理由を口にするよりも先に、緊張で冷や汗まで流しているセリナが大きな声を出した。

「あ、ああ、あの、実は、私セリナとこちらのドラミナさんがですね、先日、ドランさんと、け、結婚の約束を交わしました!」

 セリナの不意打ちめいた発言に、少しだけ目を丸くしていたドラミナも、可愛い妹分と足並みをそろえる事に決めたらしい。

「セリナさんの言う通り、急な話で恐縮ではありますが、ドランと将来をちかわせていただきました。ただ、この国で私やセリナさんのような身の上の者が、正式にドランとの夫婦関係を認められない事も承知しています。これからはそういった事も含めて、三人でよい未来をきずく為に努力する所存です。義父上ちちうえ義母上ははうえ義兄上あにうえ義姉上あねうえと皆さんをそう呼べる未来を、私とセリナさんは強く望んでおります。ですので、どうか、ドランとの結婚をお許しくださいませ」

 そう告げて席を立ち上がり、深く腰を折って頭を下げるドラミナに、セリナは逡巡しゅんじゅんせずに続いて同様に頭を下げた。
 私もまた彼女らに続く。二人だけに頭を下げさせるなど、男に生まれた者のする事ではない。

「私からもお願いする。セリナとドラミナを私達の新しい家族として、いずれ迎える事を承知してもらいたい」

 貴人然としているドラミナが率先して頭を下げた事に、父さん達は困惑していたが、同時にお互いに目配めくばせをして無言の会話を交わしている気配がした。

「ドランはともかく、セリナちゃんとドラミナさんは頭を上げてくださいな。それからお話をしましょう」

 そのようにセリナとドラミナに告げたのは母さんである。私はともかく、か……この状況ならそうなるな、ふむん。

「私はなんの変哲へんてつもない農民の女ですけれど、それでもドランを、誰かの不幸を悲しみ、誰かの幸福を喜べる人間に育てたつもりです。そんな私の息子を貴女達のような女性が好いてくれた事を、母親としてとても嬉しく思います。そこで、一つお聞きしたいのですけれど、どんな時にドランと一緒になろうと思ったのかしら? 急に言われてもすぐには答えられないかもしれませんが、もし良かったら、それを教えてもらえないかしら」

 これはまた、聞かされる方としては照れ臭いというか、気恥ずかしいというか。思わぬ母の言葉に私が口にするべき言葉を模索もさくしている間に、セリナが母さん達の顔を一人一人見回しながら、確かな自信を持って答えてくれた。

「私は、ある日、ふと気付いたんです。何か美味おいしい物を食べる時や、図書館で本を借りる時に、私が食べたいものじゃなくって、ドランさんの好きな食べ物やドランさんに食べさせてあげたいものを選ぼうとか、ドランさんの役に立つ本はどれかなとか、自然とそう考えていました。私は、自分よりもドランさんの事を先に考えるようになっていたんです。その事に気付いて、ああ、私はドランさんが好きなのだなと分かりました」
「私もセリナさんと似ていて、気付いたら、ドランを好きになっていたのです。ゆえあって私は故郷を離れており、いつどこでち果てるとも分からぬ身でした。以前はそれをどうとも思わなかったものですが、ふふ、ドランと出会ってからは〝どこか〟ではなく、ドランのそばにいたいと願うようになっていました。私はこれから生きるのも終わりを迎えるのも、彼の傍でありたいのです。いえ、もっと欲張って言うのならば、ドランの傍でなければ嫌なのです」

 私はセリナとドラミナの言葉に胸がいっぱいになる思いだった。
 ここまで誰かに強く求められ、必要とされる事の喜びよ、感動よ。人間とは、かくも幸福になれるものなのか。

「父さん、母さん、ディラン兄、ラン、私には勿体もったいないくらいの素敵すてきな女性達だろう? もう何度目になるか分からないが、心の底からそう思うよ。私も、そうだ、私もセリナとドラミナが欲しい。未来を思い描いた時には、必ず二人の姿があるんだ。私はもう、セリナとドラミナが傍にいない未来は考えられないよ」
「そう、三人の気持ちは分かりました。きっと、私達が何を言っても貴方達は離れようとはしないでしょうし、そこまではっきりと想い合っている三人に、余計な事を言うつもりはないわ。貴方はどう?」
「実際、ただの一農民が二人の妻を持つ事は法で許されてはおらんし、二人の種族の事もある。他にも問題はいくらでもあるだろうが、おれが思いつく事をドランが考えていないわけもないだろう。ドラン、お前達の好きにするがいいさ。おれは惚れた女と夫婦になれた。息子もそうなれるように応援くらいはする」
「おれも父さんたちと同じだ。特に反対するつもりはないな。お前と違って、一人を愛するので精いっぱいだが」

 ふむ、ふむ、これは思った以上というか、ここまで好意的に受け止めてもらえるとは、夢なのではないかというくらいにありがたいが、まずは私達の婚姻こんいんを否定されなくてよかった。そう思ったのは私ばかりではなく、セリナもドラミナも私とほぼ同時に小さく安堵の息を零した。
 三人そろって同じ反応をするのを、ランが愉快そうに見つめる。私達三兄弟のおさな馴染なじみでもある兄嫁は、紫色の瞳に困った義弟おとうとだ、という色を浮かべていた。

「ドラン達の前にマルコちゃんの件があったのが大きいわね。あれで、皆慣れたから、こうしてドラン達の話を割とあっさり受け入れられたのよ? 成人前のマルコちゃんが女の子達を連れてきた時は、もっと騒ぎになったもの」

 ああ、なるほど、そういえば私が預けていた家でいつの間にか異種族の女性達と暮らしていた我が弟、マルコがいたか。まだ夏季休暇に入る前に、マルコが父さん達に同棲どうせいする事を報告していたのなら、必然的に父さん達に、自分の息子が複数の女性と恋愛関係にある事に対する慣れというか、耐性が出来るわな。
 もちろん、私達がお互いを真摯しんしに想い合っているからこそ、認めてもらえたのだろうが、マルコという前例には、まあ、正直助けられたかな?



 第二章―――― 神々の降臨




 さて、こうして私達はベルン村で残りの夏季休暇を満喫まんきつするはずだったのだが、またしても新たな変化が訪れた。それは、私が畑に向かう道すがら発生した。
 休暇中はエンテの森に滞在している学院長達に、ドラミナやセリナの事をどう説明したものかと頭をひねりながら歩いていた私は、道端みちばたに立つ見知らぬ女性から、〝魂の名前〟で呼び止められたのである。

「あの、もし、そこの御方おかた。ドラゴン様」

 弱々しく震える声は、確かにドラゴンと口にした。
 私に対してその名で呼びかけただけでも、相手が神魔かその眷族けんぞくに位置する存在であると警戒するには十分すぎる。
 振り向いた私の視線の先には、善悪どちらの神にも属さぬ中立の神――ゼノビアの神官が身につける薄紫色の神官衣を纏った、うら若い少女の姿があった。

「ふむん」

 ゼノビアにつかえる天使、セレステルと名乗ったその少女は、村で唯一の宿屋である魔除まよけの鈴亭の一室で、私と話をしたいと申し出てきた。
 招かれるがままに宿の個室に入り、簡素だがよく磨かれたテーブルを挟んでセレステルと向かい合う。
 存在の格で言えば、本来私とセレステルは、言葉を交わす事もないほど隔絶かくぜつされている。その為、少女は見ているこちらが可哀想かわいそうになるくらい萎縮いしゅくして、震えていた。

「ふ~む。とりあえず茶でも飲んで落ち着きなさい。取って食べたりはしないから」
「はははは、ひゃい!!」

 ほどよくぬるくなった紅茶を一息で飲み干したセレステルは、腹をくくったか、震えを抑えて顔を上げた。
 美しいゼノビアの横顔をかたどった教団のペンダントを固く握り、自らの主の名を数度呟いてから、口を開く。

「こ、この度はドラゴン様の貴重なお時間をたまわり、ありがとうございます。本日、こうして貴方様にお声を掛けましたのは、我が主ゼノビアの命によります」

 セレステルの表情はここを己が死地とさだめた者のそれであった。いや、ここは戦場でもなんでもない、食事処兼宿屋の一室なのだが……

「そう硬くならずとも良い。私に関してどのような評判を聞いていたかは知らぬが、そなたがむやみに人間を傷つけるような真似まねをしないのであれば、私から危害を加えはせぬ。……で、ゼノビアのめいとはいかなるものか?」
「我が主ゼノビアからの命はただ一つ……」

 私の目をまっすぐ見るセレステルは、そこで一度言葉を切る。

「ふむ。よほど無茶なものでなければ、聞くだけなら構わんが、何かな」

 私が促すと、彼女はゴン! と音を立ててテーブルにひたいを叩きつけた。
 これまた痛そうな音だ。

「何卒、我が主、ゼノビアをご信仰くださいませ!!」
「……ふむ? ゼノビアを信仰せよとな? それはまた奇妙な頼み事だな」
「その通りでございます。御身おんみが人間に転生されてより十六年あまり。大神マイラール様をご信仰されている事は百も承知しております。貴方様の祈りを受け、マイラール様のお力は格段に増しております。つきましては、我が主にもその一端いったんなりをお分けいただければ幸いと、このようにお願いに上がった次第です」

 腹を括ったセレステルは先程までとは打って変わって、よどみなく私への用件を口にしたが、よもや信仰の話が出てくるとは、正直言って予想外であった。
 それにしても、彼女は私がマイラールを信仰していると言うが、私としては本気で信じ崇めているわけではない。あくまで人間として生活する上で必要最低限の範囲で、マイラール教の教義に従っているだけである。
 そもそも、マイラールは私にとって信仰云々うんぬん以前に、最良の友なのだ。
 その友の助けとなるのであればと、ここ最近は気合いを入れて祈っていたが、他の神からかような事を言われるとは、いやはや……
 ちなみに、マイラールはカラヴィスと違って、私にちょくちょく顔を見せたりはしない。
 私がこうして人間に生まれ変わる以前から、この惑星に留まらず、より広義の意味での地上世界に自由に出現する事はカラヴィスの特技ではあるが、マイラールに関しては食前や何かの行事で祈りを捧げる際に、高い頻度で世間話をしているから、わざわざ顔を合わせる必要がないのだ。

「セレステルよ、私の祈りで得られる力は、マイラールからすればそう大したものではないぞ。他の人間の信徒よりは格段に大きいと思うが、さりとて大神にとっては微々たるものであろう」
「しかし……しかしながら、ドラゴン様の祈りより得られる力は、通常の人間の信徒数億人、数兆人……いえ、たとえ何人集めようとも及びますまい。何よりドラゴン様の知己ちきを得られるとあらば、これは如何いかなる奇跡にも替えがたきもの。我が主ゼノビアはき神にもしき神にも属さぬ神なれば、信仰したとてどこに角が立ちましょうや!」

 セレステルは私が信仰を渋っていると見たのか、立て板に水で熱弁を振るう。私へのおびえはすっかり消え去り、見開いた目は血走って、こちらに食いかからんばかりの勢いである。

「恐れながら、我ら、地上における教団の規模こそマイラール教に劣りますが、かといって迫害も受けてはおりませぬ。このアークレスト王国で表立って信仰をしても、異端審問いたんしんもんにかけられるような事は決してありません。ドラゴン様が抱かれるあらゆる欲望を、それが真に望まれたものであるのならば、我らは肯定いたしまするぞ」

 実在する神の数があまりに多いものだから、このアークレスト王国やその近隣での信仰事情はかなり寛容である。
 信仰しているのが、人類や善なる神々に敵対している邪神でもなければ、王国内で問題視はされない。
 欲望を司るゼノビアは、時としてその教義を都合つごう良く解釈した信徒が騒動を起こす為、世間からけむたがられる傾向にある。
 だが、己の欲望と真摯に向き合い、真に己が望むものを見出みいだす事、欲望にただ従うのではなく、数多あまた生まれる欲望の取捨選択や自制もまた教義の中でいている。
 神の教えというよりも、それを受ける信徒の人間性によって行いが大きく左右される、なかなか珍しい教団と言えよう。

「まあ、マイラール教の神官位をさずかっているわけでもないし、ゼノビアへの信仰を口にしても問題はなかろうが、かといって鞍替くらがえをする理由もないぞ?」
「もちろん、無償で改宗していただこうというわけではございません。そのような厚かましいお願いはたとえ口がけても申せません。マイラール様へのご信仰はそのままで結構でございます。我が主への祈りを、こう……ちょっとばかりしてくだされば、それで十分なのです、はい」

 そう自分の主への信仰を安売りせんでも良いと思うが、しかし当のセレステルは私の信仰を取り付けようと必死である。
 というか、二神に信仰を捧げる事になるが、それは良いのか? マイラールはそう気にしないだろうと簡単に想像はつくけれども。

「何も、ただで祈っていただきたいというわけではございません。今ご信仰いただけるのであれば……」

 机に手をついて私に向けてずずいっと身を乗り出したセレステルが、とどめの一言を口にしようとしたその瞬間――

「お待ちを!!」

 蝶番ちょうつがいはじけ飛んでしまいそうなほどに勢いよく扉が開かれて、いくつもの制止の声が私達の耳を震わせた。

「ドラゴン様、我らのお言葉にも耳を傾けてくださいませっ」
「ゼノビア殿の天使ばかりでなく、私共にも機会をお与えください!」

 セレステルの言葉を遮ったのは、様々な神々の神官達であった。
 彼らは押し合いへし合いして、互いの体がぎゅうぎゅうに扉で詰まってしまって、部屋に入れなくなっている。
 なんとも間抜けな光景だが、実のところこの神官達の中に人間は一人もいない。その全てが神界に住まう天使や下級神、あるいはその眷属けんぞくであった。
 本来、地上に降臨すれば、いかなる宗教の頂点に立つ大神官、大司教、法皇であろうと頭をし、最大の礼をもって接する天使や下級神達が、人間に姿を変えて、私を訪ねて来たようである。
 ふむふむん。鉱物を司る神、牧羊の知識を人間に伝えた神、気候の変化を司る神、信仰に応じて植物の種子を授ける神、他にも様々な者がいる。

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