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レニーアと愉快な仲間達
第二話 蜥蜴と駱駝
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さてまずは情報収集だ、とレニーアは行動を開始する。
シャンドラという砂と風の国の南端に位置する港湾都市は、数多の人種と数多の種族が混在し、ひと際、生命の生み出す活力と欲望が大きい。
青空に輝く太陽のような活気に隠れて、この国中に広がる病んだ肺から零れる吐息のような気配をレニーアは明敏に感じ取り、砂漠も吸いきれぬ血が流れる未来が遠からず訪れるのを確信している。
(問題の渦中に飛び込むのは良いが、この国をどうこうしようなどと面倒くさい真似などしていられるか。適当な人材を引き抜いたら、さっさと次の土地に向かう予定なのだからな)
異国の人間も珍しくないとはいえ、レニーアのような少女が──二十歳を越えているが──一人で出歩いている姿は珍しく、好奇と下卑た欲望と疑惑といった感情の込められた視線が先ほどからずっと注がれている。
レニーアにとってはただ不愉快な代物だったが、同時にそれを無視する術も心得ている。
ひとまずはこの港湾都市を足掛かりにシャンドラの血生臭さの原因を探れば、必然的にレニーアの求める人材と遭遇する可能性は高まるだろう。
「独特の剣技と精霊信仰が有名だったか。精霊魔法を使うクリスティーナかドラミナに相当する人材が見つかれば上々だが……」
流石にこの星において五指に入るだろう剣士達に比肩する人材は、そうそう見つからないだろう。ついつい高望みしてしまう自分を戒めながら、レニーアはまず仮の拠点となる宿探しから始める事とする。
事前に船長達に聞いておいた異国人向けの高級宿が、しばらくの仮住まいだ。
遠く離れた異国の地で確かな後ろ盾もなく一人旅をする以上、お金で買える安全や利便性は最大利用して行くのがレニーアの方針である。まあ、身の安全はまったく心配する必要はないのだけれども。
客船の船長から紹介された『冷たい三日月亭』の最上級の部屋を取って一か月分の宿泊料金を前払いし、レニーアはまずは腰を落ち着けた。船旅もなかなか新鮮だったが、この熱砂を含む風の吹く国を自分の足で歩くのも、今のところは新鮮だ。
白い石材で作られた客室の足元にはどれだけの手間がかかったのか、考えるだけでも気の遠くなるほど精緻な刺繍の施された絨毯が敷かれ、伝統的な手法で描かれた絵画や調度品が置かれており、異国からの旅人にシャンドラの文化や伝統を伝えようという意図が見て取れる。
「ふん。ま、及第点といったところか」
寝室、浴室、厠、洗面所など一通りの部屋揃った客室の居間に置かれた籐製の椅子に腰かけ、足下に鞄を置く。左手で頬杖を突きながら、レニーアは部屋に軽く視線を巡らせる。
室内に盗聴用の伝声管や覗きをする為の隠し穴は見受けられない。レニーアの目や感覚をも騙せるのなら、むしろその手法を編み出した人材を何としても手に入れたいくらいだ。
部屋のすぐ外で室内の様子を伺っている人間の気配もない。今のところは気配りの行き届いた宿だが、レニーアがひと騒動起こせば裏で都市の権力者達に通報するくらいはするだろう。
しばらくはレニーアが部屋の中でぶつぶつと独り言をつぶやいても、外部に漏れる心配は要るまい。
レニーアはバルコニーの向こうに見える外の光景に目をやりながら、市中を歩く中で聞き取れた情報を思い返す。
支柱を歩きながら港湾都市全域で交わされる会話の全てを聞き取るくらいは、レニーアにとって造作もない事だ。たとえそれが人類視点では厳重な魔法・物理双方の観点から、厳重な防諜措置が取られていようとも。
──新鮮なデーツはどうだい? 今なら一袋買ってくれたらおまけをつけるよ。
──挽きたての豆で淹れた珈琲はいかが? うちのは砂糖たっぷり、香りも違う。
──ダメダメ、うちは一切値引きには応じないよ。そんな甘い考えが通じるような店じゃないんだ。
(平穏な日常か。結構な事だが、今の私が求めるものではない)
かつてのように市井の人々が送る日常を無価値と感じ、無関心と断じることはなくなったが、いかんせん、今のレニーアが求めるのは彼女の目に適う猛者かとびっきりの火種だ。
前者ならばレニーア自ら力を試すのもやぶさかではないし、後者であるならばその火種を派手に燃やして群がる強者や訳あり共を品定めできる。
まずは港湾都市内部に範囲を絞って広げた聴覚と視覚は、レニーアの求める情報を発見するまでにしばしの時間を要した。ソレらを見つけた時、レニーアの細く長い睫毛がぴくりと震えて、きゅっと結ばれていた小さな唇が凶悪な形に代わる。
「ふふ、さて最初から運に恵まれたと笑えるのか、それとも期待外れだったと落胆するのか。実に楽しみだ」
そうしてレニーアは腰かけていた椅子から立ち上がる。
異国の装いに身を包んだ少女が楽しげに立ち上がっただけの場面だが、その実態は世界を恐怖と絶望で支配する大魔王の出陣よりも、更に恐ろしいものだとこのシャンドラの人々に知る術はない。
これでも前世と比べれば別人のような寛容さと器量を獲得した今のレニーアならば、まあ、都市が地図から消え去るような結果にならないだろう。たぶん。
*
シャンドラ国内外との交易の一角を担うこの港湾都市デザルタは過去に幾度となく、その支配権を巡って大地と海とに血を吸わせてきた土地である。
表の歴史に乗るような氏族間の軍勢同士の激突から、影と闇の中で消える暗闘までを合わせれば、戦いの回数を正確に把握している者はいないだろう。
現在のデザルタの支配者マッファ氏族の統治は百年を越えるが、過去の戦いと現在の需要、未来への投資を含めて都市の拡大と港湾施設の整備は歴史上、常に行われており、結果的に都市の構造を複雑怪奇なものとしていた。
他氏族ないしは他国との戦争が常に想定されるお国柄である為、純粋な交易・港湾都市として開発するのが難しいという事情もある。
都市の有力者達や海外の裕福な商人、上流階級の人間を受け入れる区画や目抜き通りはともかく、デザルタにはそうした歴史的背景から迷路化している区画が少なくない。そして同時に都市の中でも社会的地位の低い貧困層がそうした区画の住人でもあった。
腐敗集の漂う捨てられた食材や原形をとどめていない木材、割れた陶器やガラス瓶の破片などが散乱し、昼間から安い酒を地べたに座り込んで飲む者や虚ろな目をしてふらふらと歩く者、あるいは建物の影に隠れて他人の懐を狙う者……。
そうした日向の下では生きていけない胡乱な者達を押し込め、止める間もなく肥大化していった貧民街を相応しくない者達が駆け抜けていた。
追われる者と追う者の二者だ。追われているのは女性の二人組で、片方は大柄で頬や首筋を埋める鱗や尻尾が特徴の蜥蜴人、この蜥蜴人に守られるように手を引かれているのが小柄な駱駝人の少女だ。
儲け話の種かと住人の何名かが彼女らに目を向けるが、追う者達の殺気だった様子を見てすぐに首を引っ込める。金の臭いに敏感な住人達だが、それ以上に命の危険に敏感なのだ。まずは命あっての物種と誰もが心得ている。
二人を追う集団の服装は姿勢に紛れれば一般人と区別のつかないものだ。この国のどこでも手に入るような民族衣装であり、風体だけを見れば一般人と変わりはない。
荒事に長じた者達だと判断するには、踏み固められた道を走る彼らが足音をほとんど立てず、息を荒げもせずに走り続けている事に気付く必要があるだろう。
無秩序に拡大と崩壊を重ねた家屋と路地の組み合わせは、燦燦と照り付ける太陽の日差しを遮り、長い日陰の道を作り出していた。
やや蛇行した路地の左右はいつ倒壊してもおかしくない家屋が続き、路地の先には桟橋が覗いている。桟橋に小舟の一つでも舫われていればよかったのだが、生憎となにもない。それなりの幅のある水路となっており、流れの行き着く先は海だ。
「誘導されたかっ」
先導していた蜥蜴人の女性は、これまでの逃走の日々の疲れもあり追跡者の思惑に乗ってしまった失態に歯噛みする。
警戒と緊張の続く日々の中でも蜥蜴人の体力と精神力はまだ余裕があったが、連れの方はそうは行かない。もとより走り回るような生活とは無縁の少女なのだ。
「アースィマ……」
息を切らしている少女に名前を呼ばれて、蜥蜴人──アースィマは安心させるように微笑みを浮かべて振り返る。
少女の手を握っていた左手を離し、右手はベルトに吊るした幅広の曲刀を握っていたつい先日捨て去った役目を与えられた時に与えられた、精霊の祝福を受けし霊刀ソレイガと磨き抜いた己の技量がこの場の頼みの綱だった。
他には風よけのマントの下には札上の鉄片を連ねたプレストアーマーにガントレット、グリーブとシャンドラにおいて標準的な戦士の組み合わせだ。
ただそれらすべてに風と水、砂の精霊の祝福が施されており、これほど贅沢な装備を持っているのは、アースィマがかつては高い地位にあった事を暗に示している。
「ハディーヤ、大丈夫だ。少し慌ただしくなるだけ。わしの後ろに隠れておれ。水路に落ちないようにな」
「うん。あの、気を付けて」
ハディーヤと呼ばれた少女は一片の疑いもない瞳でアースィマを見つめ返した。大柄なアースィマのお腹くらいまでしかない小柄なハディーヤの姿は、すっぽりとアースィマの背中に隠れる。
ハディーヤもフード付きの砂除けのマントを頭から被っているが、こちらは白い衣装の上に緑や青と鮮やかな色彩の薄布を重ねており、武器らしいものは一切身に着けていない。
いかにもなこの状況を更に後押ししたのは、人の気配が引いた路地に広がり、退路を塞いだ追跡者達だった。
先にも述べた通り服装はとても戦いを生業にする者とは思えないものだが、それぞれが懐や袖口から短剣を取り出し、鉤爪付きの手甲を嵌めるなどして武装して纏う雰囲気がやにわに危険なものと変わる。
アースィマの視界には三人が映っているが、物陰や左右の家屋の屋根の上などにも数人が息を潜めている可能性が高い。アースィマは手に馴染んだ愛刀を抜き、切っ先をだらんと垂らした自然体で構えたまま。
若干の緊張を孕んで追跡者の一人が一歩前に出て、アースィマに話しかけた。小柄な鼠人の女性で、人混みに紛れればもう見つけられなくなるような平凡な顔立ちをしている。目立たないからこそ、こうした表沙汰に出来ない荒事にうってつけなのだろう。
「大戦士アースィマ様、ここまでです。これでお戯れは終わりになさってください。ハディーヤ様をこちらへ。今ならば可能な限り穏便に済ますと……」
「心遣い痛み入る。しかしながら翻意するくらいならば最初からこのような行動は取らない。わしがそこまで粗忽者に見えるか?」
「いえ。分かっていた通りの返答でございます」
「であればこれ以上の問答は必要か? わしはともかくハディーヤの身柄を抑えたいのは、お主らばかりではあるまい。各氏族ばかりでなく犯罪組織の連中まで、欲の皮の突っ張った連中が薄汚い欲望を隠しきれておらん」
「これまではあなたもソレを許容しておられたというのに、今回ばかりは見逃せぬとは。私心を交えて行動してよいお立場ではない筈です」
アースィマはこの言葉が目の前の追跡者の私的な意見だろうと察した。許可されていない事まで喋るような役職ではないはずだが、思うところがあったのだろう。他の追跡者達も鼠人を咎める素振りを見せずにいる。
「これは痛いところを突かれたな。ただわしも人の子よ。いつまでも心を無にして大義ばかりを盲信してはいられんのだ。これまで目を背けてきたものから、目を背けるのをやめる事にした。そしてハディーヤを連れて逃げた。それだけよ」
アースィマの言葉を最後に鼠人と他の追跡者達は言葉をかけず、戦いの手を動かした。
鼠人の左右にいた純人間種の内、片方の両手が交差するように動いて短剣が二本投擲される。それに合わせて鉤爪を装備した方が身を低くして駆け出す。どちらも二十歳に届くかどうかの若い男性だ。
アースィマは飛んでくる短剣には目もくれない。
卓越した手練と風の加護により、尋常ではない速さで飛来する短剣は、アースィマの額を貫く軌道を描いていたがその手前で見えない空中に縫い留められたように動きを止める。
アースィマが持つ風の精霊の加護により、並大抵の飛び道具は彼女に触れる事さえ許されないのだが、それは追跡者達も承知の上だ。少しでもアースィマの注意を逸らせれば、それで十分。
短剣にわずかに遅れて鉤爪の男が家屋の壁を蹴って飛び上がり、天地を逆さにしながらアースィマの首を左右から挟み込むように振るう。
人型生物の死角となる頭上からの攻撃に対し、アースィマはその場を一歩も動かなかった。不動のままに左手を振り上げて鉤爪を着けた男の右腕を掴み取り、そのまま後ろの水路へと放り投げる。
その際、アースィマの手が男の骨を握り潰す音がしたが、握り潰したアースィマも残る鼠人の女も一顧だにしない。
アースィマがすくい上げるように振り上げた霊刀の切っ先が、地を這うように掛けていた鼠人の顎先をかすめる。咄嗟に左に体を滑らせた鼠人は、安堵の息を吐く間もなく両手の袖口から滑り出た太く長い針を掴み、体ごとぶつかる勢いでアースィマに突き込む。
アースィマの持つ風の守りを突破できるように用意された、特別な暗器だ。アースィマさえ排除できれば、ハディーヤの確保は成功したも同然。それが鼠人達とその背後の者達の認識であった。
そうして分厚いアースィマの筋肉を貫く感触を期待した鼠人は、死角の外から自分の体を襲うアースィマの尻尾への反応が遅れて、そのまま家屋の壁に叩きつけられる。
粗末な家屋の壁は衝撃に耐え切れずに、そのままけたたましい音と共に壊れて、鼠人は勢いよく壁の向こうへと吹っ飛んでいった。
残る短剣使いが新たな短剣を手に取り、既にアースィマまでの距離を詰めていた。黒い刃には猛毒が塗られ、蜥蜴人に合わせて調合された毒はアースィマの巨体を瞬く間に犯して絶命させる威力だ。
その男の額をぐるんと回転した勢いを乗せて、アースィマの投擲した石が強烈に打った。どれだけの威力があったものか、石が命中するのと同時に重い音を立て、更に血を噴きながら男はもんどりうって倒れ込む。
あっという間に三人を叩き伏せたアースィマだが、黒い瞳に油断や安堵の色はない。気配を殺している他の連中がいる事を、彼女の歴戦の勘は見逃していなかった。
戦いの物音を感じて周囲で様子を伺っていた本来の住人達はそそくさと逃げ出している。戦いが終われば火事場泥棒に走るだろうが、しばらくは周囲を気にしないで戦える。それはアースィマも他の追跡者達にとっても同じことだ。
アースィマは次に備えて背後のハディーヤに五、周囲への警戒に五、意識を割き、ソレイガを構え直して精霊の声に耳を傾けて神経を張り詰める。
不気味なほどの沈黙はほんの数瞬だった。左右の家屋の屋根や中に潜んでいた者、更には向こう岸の家屋に伏せていた者達までも一斉に姿を見せる。
その数は二十を下らない。一人で相手をするのならともかく、ハディーヤを奪われないように立ち回るとなればアースィマでも簡単な話ではない。そしてアースィマの口から出たのは、困惑の言葉だった。
周囲を囲い込んでいた追跡者達は全員が見えない手で首を絞められているように、空中に吊り上げられているのだ。純人間種、蜥蜴人、狐人、駱駝人と多種多様な追跡者達は全員が白目を剥いて意識を失っている状態だ。
「これは?」
「アースィマ、詳しい事は分からないけれど凄い力が働いている。それに精霊様の力じゃない」
二人からすれば理解の及ばない現象が突如として発生した状態だ。周囲の追跡者が排除された喜びも、未知の脅威に対する警戒が先に来る。そんな二人をあざ笑うようにして、路地の向こうから規則的な音を立てて近づいてくる小柄な人影が一つ。
黒い衣服の中で数少ない露出している手や顔の白さが際立っている。レニーアだ。アースィマとハディーヤは、レニーアの奥から吹いてくる風が凍えるように冷たく感じられた。二人の本能が警鐘を鳴らしているのか、あるいは周囲の精霊達が恐怖に戦慄いているのか。
「初めまして。なにやら楽しそうな事をしているな。私も話を聞かせて欲しいものだ」
アースィマの腕を軽く見物した後、堂々と姿を現したレニーアは彼女なりに友好的な態度を取ったつもりで話しかけたわけだ。
とはいえそれはレニーアの話で、アースィマとハディーヤからすればどうやら外国人らしいが、まるで素性が知れずなおかつ追跡者達を悲鳴一つあげさせずに拘束した実力と、不安要素の塊でしかない。
「見てくれは普通でも明らかに裏仕事に慣れた連中と、それに追い回されている女二人。物語ではよくある展開だが、実際に目の前で起きているとなるとこれは見過ごせぬものだ。安心しろ、お前達に危害を加えるつもりはない」
「周囲の者達は君が?」
ハディーヤを庇いながら、アースィマが一歩進み出る。彼女はレニーアがどうやって追跡者達の首を絞め、持ち上げているのか分からないままだったが、いざとなれば突撃して時間を稼ぐのと同時にハディーヤを水路へと蹴り飛ばして、逃がす算段を立てていた。
「ああ。見たところ、非があるのはこいつらの方と判断したのでな。それに一枚岩ではなさそうだ。私の勘だが、三つの勢力が独自に派遣した連中が周囲を固めていたとみている」
レニーアの言う三つの勢力にアースィマは心当たりがあった。正確にはさらに多くの勢力の名前が候補に上がっていたのだが、それを悠長に考えていられる状況ではない。
「……」
「そう構えるな。繰り返すが私はお前達の敵ではない。どうだ、まずは話をしないか? みたところ、ろくに休みもとれていまい。他の目と耳もあるが、少しは休める場所を提供してやれるぞ」
それだけ言うとレニーアは左手をくるりと回し、浮いていた追跡者達が一斉に音を立てて地面に落ちた。全員、意識は失っておりしばらくは目を覚ます気配もない。
彼ら追跡者の質はまちまちだったが、使い潰せる戦力があれだけあるのは羨ましいと、レニーアは素直に思う。
「さてどうする? 得体の知れない私の手を取るのが躊躇われるのは分かるが、私を相手に立ち回りを演じて要らぬ騒ぎを起こすのは本意ではあるまい。それに私としてもお前達とは出来るだけ事を荒立てたくはない」
「貴方がわしらに力を貸す理由が分からない。そんな事をして私達に一体何の得がある? 追われているわしらに手を貸せば、貴方にも累が及ぶのは火を見るよりも明らかだ。それとも貴方はわしらの知るどこかの手の者なのか」
「ふふん、守る者がある以上、用心深くもなるか。私としては無理にこの手を取れては言わん。だがまあ、あまり賢い選択ではないな」
不意にレニーアの左手が大きく振るわれた。ほぼ同時に身構えるアースィマだったが、レニーアの狙いは彼女達ではなかった。
地面に崩れ落ちた追跡者達の一部から突如沸き起こった黒い靄。それが空中で渦を巻くとレニーアに向かって、背後から襲い掛かってきていたのだ。
レニーアが腕を振るったのは、それを察知して思念魔法による横殴りの一撃を加えたからである。
「あれはネガジンか! 呪詛の悪霊を使うとは、ハディーヤの命すら不要とは!」
黒い靄の正体を知るアースィマが驚きと嫌悪感に顔を歪め、悍ましい気配を感じたハディーヤは咄嗟に目を背ける。
「あれは、命を触媒にして召喚された悪霊……。私達を捕まえられなかったら、発動するように……」
ハディーヤが震える声で告げる内容と、彼女が悪霊の召喚と引き換えに死んだ追跡者達を憐れんでいるのを聞き取り、レニーアは小さく笑った。この状況でそんな言葉が出てくるあたり、セリナを思わせる性根の主であるようだ。
「任務の失敗を命で償うか。定番だが、こういう償い方もあるというわけだな。お前達の身柄を抑えたい者達の中には、手段を選ばぬ者もいるようだ。難儀な話だな」
レニーアの思念に吹き飛ばされた黒い靄は再び空中に戻り、明確な形を取り始める。髑髏の頭を持つ巨大な羽虫だ。
牛馬ほどの巨大な羽虫は、その異形の造形もさることながら、複数の生命を代償として召喚された悪霊として見る者に死を連想させる異能を有している。
避難した貧民街の住人や遠巻きに運悪く目撃してしまった者達は、軒並み意識を遠ざけてその場にうずくまり出している。
精霊の強い祝福と加護を併せ持っているアースィマとハディーヤだから、顔を顰める程度で済んでいるのだ。レニーアがなんの重圧も感じていないのは、もはや語るまでもない。
彼女の場合はそもそも存在の格の次元が違い過ぎる。故あって三次元の世界に意識を割いている最高次元存在、それがレニーアの正体であるのだから。
『▼∴△*<+`{}=~”!!!』
意味を成さない呪詛の叫びをあげてレニーアを目掛けて呪いの巨大羽虫が襲い掛かる大きく開かれた口には、人間のものではない牙がずらりと並び、肉に突き立てれば即座に呪詛が流れ込んで、生命を奪う。
また無数に生えた細い脚も刃として機能し、羽音は見る者の脳と精神に作用して混迷状態に陥らせる。複数の人間の生命を用いた事からも分かる通り、かなり強力な悪霊なのだがこの場において相手はレニーアであった。
「は、お前を自在に呼び出せる術士なら声を掛ける価値もあるのだがな。何人もの命を使ってよやくでは、そこまでの価値はない。消えろ」
レニーアは頭蓋骨の巨大羽虫に向けて、パチンと指を鳴らし、たったそれだけの動作で巨大羽虫は左右から加えられた途方もない念力によって、紙のように薄く叩き潰される。
その光景を前にしてアースィマは息を呑み、その脅威の一端をようやく理解した。それでもレニーアの実力の一億分の一も見たわけではないのだが、それはむしろ理解しない方が幸いである。
(あれだけの悪霊ならば司祭や高位の精霊使いによる浄化が最善手。それを不可視の攻撃だけでああも簡単に。それこそ赤子の手を捻るように……。無詠唱の理魔法にしても妙な気配だし、精霊の働いた気配もない)
アースィマは、レニーアが余裕の笑みを浮かべたまま消滅する悪霊ネガジンを見つめるその姿に計り知れない力を感じて、話に応じる以外の道が閉ざされる音を聞いた気がした。
緊張に心を強張らせるアースィマの腰に、ハディーヤのほっそりとした指が触れる。視線を向けるアースィマに、庇護対象の少女は不安に揺れる赤い瞳に覚悟の光を固めていた。
「アースィマ、ここは彼女の手を取りましょう。今はそうするしか道がない。ならばせめて私達から手を取る方がまだいい」
「……そうだな。わしも腹を括るとしよう。大精霊サイフィカの加護を祈るか」
アースィマは深く呼吸をしてからソレイガを鞘に戻し、両手を広げて害意がないのを示しながら声を掛ける。
「先程までのわしの無礼を謝罪した。この通り、お詫び申しあげます」
アースィマとハディーヤが深々と頭を下げる姿を見て、レニーアは別段腹を立ててはおらんが、と思ったが、まあ、悪い気分はしない。
「私は気にしておらん。すぐに頭を上げると良い。それでそろそろ答えを聞かせてもらいたいところだが?」
「もちろんあなたの手を取らせてほしい。ただ一つだけお願いがある」
「内容によるが、なにを願うのか? それ次第だが、よほどのことでなければ声は荒げんから安心しろ」
「わしはアースィマ、そしてこちらはハディーヤ。二度もわしらの窮地を救ってくれた恩人の名前をまずは教えてほしい」
アースィマの言葉にレニーアは虚を突かれた顔になる。言われてみれば確かに自己紹介をしていなかったと、指摘を受けてようやく思い至ったのだ。挨拶は大事だ。今生の両親からもドランからも、そう教わっている。
「そうか、先に無礼を働いていたのは私だったか。こちらこそ謝罪しなければならんようだ。私はレニーア。むろん無償の善意でお前達を助けようとしたわけではない。が、ひと時の食事と休む場の提供くらいは見返り無しで用意する。そこから先は交渉次第だ」
次もまた選択肢の無い選択を突きつけられるのではないかと思うアースィマとハディーヤだったが、レニーアの上辺だけはとにかく愛らしい顔立ちを見ていると少しは信じてもいいと思えてくるのだから、なんとも厄介なものだった。
<続>
■精霊戦士と巫女に接触した!
シャンドラという砂と風の国の南端に位置する港湾都市は、数多の人種と数多の種族が混在し、ひと際、生命の生み出す活力と欲望が大きい。
青空に輝く太陽のような活気に隠れて、この国中に広がる病んだ肺から零れる吐息のような気配をレニーアは明敏に感じ取り、砂漠も吸いきれぬ血が流れる未来が遠からず訪れるのを確信している。
(問題の渦中に飛び込むのは良いが、この国をどうこうしようなどと面倒くさい真似などしていられるか。適当な人材を引き抜いたら、さっさと次の土地に向かう予定なのだからな)
異国の人間も珍しくないとはいえ、レニーアのような少女が──二十歳を越えているが──一人で出歩いている姿は珍しく、好奇と下卑た欲望と疑惑といった感情の込められた視線が先ほどからずっと注がれている。
レニーアにとってはただ不愉快な代物だったが、同時にそれを無視する術も心得ている。
ひとまずはこの港湾都市を足掛かりにシャンドラの血生臭さの原因を探れば、必然的にレニーアの求める人材と遭遇する可能性は高まるだろう。
「独特の剣技と精霊信仰が有名だったか。精霊魔法を使うクリスティーナかドラミナに相当する人材が見つかれば上々だが……」
流石にこの星において五指に入るだろう剣士達に比肩する人材は、そうそう見つからないだろう。ついつい高望みしてしまう自分を戒めながら、レニーアはまず仮の拠点となる宿探しから始める事とする。
事前に船長達に聞いておいた異国人向けの高級宿が、しばらくの仮住まいだ。
遠く離れた異国の地で確かな後ろ盾もなく一人旅をする以上、お金で買える安全や利便性は最大利用して行くのがレニーアの方針である。まあ、身の安全はまったく心配する必要はないのだけれども。
客船の船長から紹介された『冷たい三日月亭』の最上級の部屋を取って一か月分の宿泊料金を前払いし、レニーアはまずは腰を落ち着けた。船旅もなかなか新鮮だったが、この熱砂を含む風の吹く国を自分の足で歩くのも、今のところは新鮮だ。
白い石材で作られた客室の足元にはどれだけの手間がかかったのか、考えるだけでも気の遠くなるほど精緻な刺繍の施された絨毯が敷かれ、伝統的な手法で描かれた絵画や調度品が置かれており、異国からの旅人にシャンドラの文化や伝統を伝えようという意図が見て取れる。
「ふん。ま、及第点といったところか」
寝室、浴室、厠、洗面所など一通りの部屋揃った客室の居間に置かれた籐製の椅子に腰かけ、足下に鞄を置く。左手で頬杖を突きながら、レニーアは部屋に軽く視線を巡らせる。
室内に盗聴用の伝声管や覗きをする為の隠し穴は見受けられない。レニーアの目や感覚をも騙せるのなら、むしろその手法を編み出した人材を何としても手に入れたいくらいだ。
部屋のすぐ外で室内の様子を伺っている人間の気配もない。今のところは気配りの行き届いた宿だが、レニーアがひと騒動起こせば裏で都市の権力者達に通報するくらいはするだろう。
しばらくはレニーアが部屋の中でぶつぶつと独り言をつぶやいても、外部に漏れる心配は要るまい。
レニーアはバルコニーの向こうに見える外の光景に目をやりながら、市中を歩く中で聞き取れた情報を思い返す。
支柱を歩きながら港湾都市全域で交わされる会話の全てを聞き取るくらいは、レニーアにとって造作もない事だ。たとえそれが人類視点では厳重な魔法・物理双方の観点から、厳重な防諜措置が取られていようとも。
──新鮮なデーツはどうだい? 今なら一袋買ってくれたらおまけをつけるよ。
──挽きたての豆で淹れた珈琲はいかが? うちのは砂糖たっぷり、香りも違う。
──ダメダメ、うちは一切値引きには応じないよ。そんな甘い考えが通じるような店じゃないんだ。
(平穏な日常か。結構な事だが、今の私が求めるものではない)
かつてのように市井の人々が送る日常を無価値と感じ、無関心と断じることはなくなったが、いかんせん、今のレニーアが求めるのは彼女の目に適う猛者かとびっきりの火種だ。
前者ならばレニーア自ら力を試すのもやぶさかではないし、後者であるならばその火種を派手に燃やして群がる強者や訳あり共を品定めできる。
まずは港湾都市内部に範囲を絞って広げた聴覚と視覚は、レニーアの求める情報を発見するまでにしばしの時間を要した。ソレらを見つけた時、レニーアの細く長い睫毛がぴくりと震えて、きゅっと結ばれていた小さな唇が凶悪な形に代わる。
「ふふ、さて最初から運に恵まれたと笑えるのか、それとも期待外れだったと落胆するのか。実に楽しみだ」
そうしてレニーアは腰かけていた椅子から立ち上がる。
異国の装いに身を包んだ少女が楽しげに立ち上がっただけの場面だが、その実態は世界を恐怖と絶望で支配する大魔王の出陣よりも、更に恐ろしいものだとこのシャンドラの人々に知る術はない。
これでも前世と比べれば別人のような寛容さと器量を獲得した今のレニーアならば、まあ、都市が地図から消え去るような結果にならないだろう。たぶん。
*
シャンドラ国内外との交易の一角を担うこの港湾都市デザルタは過去に幾度となく、その支配権を巡って大地と海とに血を吸わせてきた土地である。
表の歴史に乗るような氏族間の軍勢同士の激突から、影と闇の中で消える暗闘までを合わせれば、戦いの回数を正確に把握している者はいないだろう。
現在のデザルタの支配者マッファ氏族の統治は百年を越えるが、過去の戦いと現在の需要、未来への投資を含めて都市の拡大と港湾施設の整備は歴史上、常に行われており、結果的に都市の構造を複雑怪奇なものとしていた。
他氏族ないしは他国との戦争が常に想定されるお国柄である為、純粋な交易・港湾都市として開発するのが難しいという事情もある。
都市の有力者達や海外の裕福な商人、上流階級の人間を受け入れる区画や目抜き通りはともかく、デザルタにはそうした歴史的背景から迷路化している区画が少なくない。そして同時に都市の中でも社会的地位の低い貧困層がそうした区画の住人でもあった。
腐敗集の漂う捨てられた食材や原形をとどめていない木材、割れた陶器やガラス瓶の破片などが散乱し、昼間から安い酒を地べたに座り込んで飲む者や虚ろな目をしてふらふらと歩く者、あるいは建物の影に隠れて他人の懐を狙う者……。
そうした日向の下では生きていけない胡乱な者達を押し込め、止める間もなく肥大化していった貧民街を相応しくない者達が駆け抜けていた。
追われる者と追う者の二者だ。追われているのは女性の二人組で、片方は大柄で頬や首筋を埋める鱗や尻尾が特徴の蜥蜴人、この蜥蜴人に守られるように手を引かれているのが小柄な駱駝人の少女だ。
儲け話の種かと住人の何名かが彼女らに目を向けるが、追う者達の殺気だった様子を見てすぐに首を引っ込める。金の臭いに敏感な住人達だが、それ以上に命の危険に敏感なのだ。まずは命あっての物種と誰もが心得ている。
二人を追う集団の服装は姿勢に紛れれば一般人と区別のつかないものだ。この国のどこでも手に入るような民族衣装であり、風体だけを見れば一般人と変わりはない。
荒事に長じた者達だと判断するには、踏み固められた道を走る彼らが足音をほとんど立てず、息を荒げもせずに走り続けている事に気付く必要があるだろう。
無秩序に拡大と崩壊を重ねた家屋と路地の組み合わせは、燦燦と照り付ける太陽の日差しを遮り、長い日陰の道を作り出していた。
やや蛇行した路地の左右はいつ倒壊してもおかしくない家屋が続き、路地の先には桟橋が覗いている。桟橋に小舟の一つでも舫われていればよかったのだが、生憎となにもない。それなりの幅のある水路となっており、流れの行き着く先は海だ。
「誘導されたかっ」
先導していた蜥蜴人の女性は、これまでの逃走の日々の疲れもあり追跡者の思惑に乗ってしまった失態に歯噛みする。
警戒と緊張の続く日々の中でも蜥蜴人の体力と精神力はまだ余裕があったが、連れの方はそうは行かない。もとより走り回るような生活とは無縁の少女なのだ。
「アースィマ……」
息を切らしている少女に名前を呼ばれて、蜥蜴人──アースィマは安心させるように微笑みを浮かべて振り返る。
少女の手を握っていた左手を離し、右手はベルトに吊るした幅広の曲刀を握っていたつい先日捨て去った役目を与えられた時に与えられた、精霊の祝福を受けし霊刀ソレイガと磨き抜いた己の技量がこの場の頼みの綱だった。
他には風よけのマントの下には札上の鉄片を連ねたプレストアーマーにガントレット、グリーブとシャンドラにおいて標準的な戦士の組み合わせだ。
ただそれらすべてに風と水、砂の精霊の祝福が施されており、これほど贅沢な装備を持っているのは、アースィマがかつては高い地位にあった事を暗に示している。
「ハディーヤ、大丈夫だ。少し慌ただしくなるだけ。わしの後ろに隠れておれ。水路に落ちないようにな」
「うん。あの、気を付けて」
ハディーヤと呼ばれた少女は一片の疑いもない瞳でアースィマを見つめ返した。大柄なアースィマのお腹くらいまでしかない小柄なハディーヤの姿は、すっぽりとアースィマの背中に隠れる。
ハディーヤもフード付きの砂除けのマントを頭から被っているが、こちらは白い衣装の上に緑や青と鮮やかな色彩の薄布を重ねており、武器らしいものは一切身に着けていない。
いかにもなこの状況を更に後押ししたのは、人の気配が引いた路地に広がり、退路を塞いだ追跡者達だった。
先にも述べた通り服装はとても戦いを生業にする者とは思えないものだが、それぞれが懐や袖口から短剣を取り出し、鉤爪付きの手甲を嵌めるなどして武装して纏う雰囲気がやにわに危険なものと変わる。
アースィマの視界には三人が映っているが、物陰や左右の家屋の屋根の上などにも数人が息を潜めている可能性が高い。アースィマは手に馴染んだ愛刀を抜き、切っ先をだらんと垂らした自然体で構えたまま。
若干の緊張を孕んで追跡者の一人が一歩前に出て、アースィマに話しかけた。小柄な鼠人の女性で、人混みに紛れればもう見つけられなくなるような平凡な顔立ちをしている。目立たないからこそ、こうした表沙汰に出来ない荒事にうってつけなのだろう。
「大戦士アースィマ様、ここまでです。これでお戯れは終わりになさってください。ハディーヤ様をこちらへ。今ならば可能な限り穏便に済ますと……」
「心遣い痛み入る。しかしながら翻意するくらいならば最初からこのような行動は取らない。わしがそこまで粗忽者に見えるか?」
「いえ。分かっていた通りの返答でございます」
「であればこれ以上の問答は必要か? わしはともかくハディーヤの身柄を抑えたいのは、お主らばかりではあるまい。各氏族ばかりでなく犯罪組織の連中まで、欲の皮の突っ張った連中が薄汚い欲望を隠しきれておらん」
「これまではあなたもソレを許容しておられたというのに、今回ばかりは見逃せぬとは。私心を交えて行動してよいお立場ではない筈です」
アースィマはこの言葉が目の前の追跡者の私的な意見だろうと察した。許可されていない事まで喋るような役職ではないはずだが、思うところがあったのだろう。他の追跡者達も鼠人を咎める素振りを見せずにいる。
「これは痛いところを突かれたな。ただわしも人の子よ。いつまでも心を無にして大義ばかりを盲信してはいられんのだ。これまで目を背けてきたものから、目を背けるのをやめる事にした。そしてハディーヤを連れて逃げた。それだけよ」
アースィマの言葉を最後に鼠人と他の追跡者達は言葉をかけず、戦いの手を動かした。
鼠人の左右にいた純人間種の内、片方の両手が交差するように動いて短剣が二本投擲される。それに合わせて鉤爪を装備した方が身を低くして駆け出す。どちらも二十歳に届くかどうかの若い男性だ。
アースィマは飛んでくる短剣には目もくれない。
卓越した手練と風の加護により、尋常ではない速さで飛来する短剣は、アースィマの額を貫く軌道を描いていたがその手前で見えない空中に縫い留められたように動きを止める。
アースィマが持つ風の精霊の加護により、並大抵の飛び道具は彼女に触れる事さえ許されないのだが、それは追跡者達も承知の上だ。少しでもアースィマの注意を逸らせれば、それで十分。
短剣にわずかに遅れて鉤爪の男が家屋の壁を蹴って飛び上がり、天地を逆さにしながらアースィマの首を左右から挟み込むように振るう。
人型生物の死角となる頭上からの攻撃に対し、アースィマはその場を一歩も動かなかった。不動のままに左手を振り上げて鉤爪を着けた男の右腕を掴み取り、そのまま後ろの水路へと放り投げる。
その際、アースィマの手が男の骨を握り潰す音がしたが、握り潰したアースィマも残る鼠人の女も一顧だにしない。
アースィマがすくい上げるように振り上げた霊刀の切っ先が、地を這うように掛けていた鼠人の顎先をかすめる。咄嗟に左に体を滑らせた鼠人は、安堵の息を吐く間もなく両手の袖口から滑り出た太く長い針を掴み、体ごとぶつかる勢いでアースィマに突き込む。
アースィマの持つ風の守りを突破できるように用意された、特別な暗器だ。アースィマさえ排除できれば、ハディーヤの確保は成功したも同然。それが鼠人達とその背後の者達の認識であった。
そうして分厚いアースィマの筋肉を貫く感触を期待した鼠人は、死角の外から自分の体を襲うアースィマの尻尾への反応が遅れて、そのまま家屋の壁に叩きつけられる。
粗末な家屋の壁は衝撃に耐え切れずに、そのままけたたましい音と共に壊れて、鼠人は勢いよく壁の向こうへと吹っ飛んでいった。
残る短剣使いが新たな短剣を手に取り、既にアースィマまでの距離を詰めていた。黒い刃には猛毒が塗られ、蜥蜴人に合わせて調合された毒はアースィマの巨体を瞬く間に犯して絶命させる威力だ。
その男の額をぐるんと回転した勢いを乗せて、アースィマの投擲した石が強烈に打った。どれだけの威力があったものか、石が命中するのと同時に重い音を立て、更に血を噴きながら男はもんどりうって倒れ込む。
あっという間に三人を叩き伏せたアースィマだが、黒い瞳に油断や安堵の色はない。気配を殺している他の連中がいる事を、彼女の歴戦の勘は見逃していなかった。
戦いの物音を感じて周囲で様子を伺っていた本来の住人達はそそくさと逃げ出している。戦いが終われば火事場泥棒に走るだろうが、しばらくは周囲を気にしないで戦える。それはアースィマも他の追跡者達にとっても同じことだ。
アースィマは次に備えて背後のハディーヤに五、周囲への警戒に五、意識を割き、ソレイガを構え直して精霊の声に耳を傾けて神経を張り詰める。
不気味なほどの沈黙はほんの数瞬だった。左右の家屋の屋根や中に潜んでいた者、更には向こう岸の家屋に伏せていた者達までも一斉に姿を見せる。
その数は二十を下らない。一人で相手をするのならともかく、ハディーヤを奪われないように立ち回るとなればアースィマでも簡単な話ではない。そしてアースィマの口から出たのは、困惑の言葉だった。
周囲を囲い込んでいた追跡者達は全員が見えない手で首を絞められているように、空中に吊り上げられているのだ。純人間種、蜥蜴人、狐人、駱駝人と多種多様な追跡者達は全員が白目を剥いて意識を失っている状態だ。
「これは?」
「アースィマ、詳しい事は分からないけれど凄い力が働いている。それに精霊様の力じゃない」
二人からすれば理解の及ばない現象が突如として発生した状態だ。周囲の追跡者が排除された喜びも、未知の脅威に対する警戒が先に来る。そんな二人をあざ笑うようにして、路地の向こうから規則的な音を立てて近づいてくる小柄な人影が一つ。
黒い衣服の中で数少ない露出している手や顔の白さが際立っている。レニーアだ。アースィマとハディーヤは、レニーアの奥から吹いてくる風が凍えるように冷たく感じられた。二人の本能が警鐘を鳴らしているのか、あるいは周囲の精霊達が恐怖に戦慄いているのか。
「初めまして。なにやら楽しそうな事をしているな。私も話を聞かせて欲しいものだ」
アースィマの腕を軽く見物した後、堂々と姿を現したレニーアは彼女なりに友好的な態度を取ったつもりで話しかけたわけだ。
とはいえそれはレニーアの話で、アースィマとハディーヤからすればどうやら外国人らしいが、まるで素性が知れずなおかつ追跡者達を悲鳴一つあげさせずに拘束した実力と、不安要素の塊でしかない。
「見てくれは普通でも明らかに裏仕事に慣れた連中と、それに追い回されている女二人。物語ではよくある展開だが、実際に目の前で起きているとなるとこれは見過ごせぬものだ。安心しろ、お前達に危害を加えるつもりはない」
「周囲の者達は君が?」
ハディーヤを庇いながら、アースィマが一歩進み出る。彼女はレニーアがどうやって追跡者達の首を絞め、持ち上げているのか分からないままだったが、いざとなれば突撃して時間を稼ぐのと同時にハディーヤを水路へと蹴り飛ばして、逃がす算段を立てていた。
「ああ。見たところ、非があるのはこいつらの方と判断したのでな。それに一枚岩ではなさそうだ。私の勘だが、三つの勢力が独自に派遣した連中が周囲を固めていたとみている」
レニーアの言う三つの勢力にアースィマは心当たりがあった。正確にはさらに多くの勢力の名前が候補に上がっていたのだが、それを悠長に考えていられる状況ではない。
「……」
「そう構えるな。繰り返すが私はお前達の敵ではない。どうだ、まずは話をしないか? みたところ、ろくに休みもとれていまい。他の目と耳もあるが、少しは休める場所を提供してやれるぞ」
それだけ言うとレニーアは左手をくるりと回し、浮いていた追跡者達が一斉に音を立てて地面に落ちた。全員、意識は失っておりしばらくは目を覚ます気配もない。
彼ら追跡者の質はまちまちだったが、使い潰せる戦力があれだけあるのは羨ましいと、レニーアは素直に思う。
「さてどうする? 得体の知れない私の手を取るのが躊躇われるのは分かるが、私を相手に立ち回りを演じて要らぬ騒ぎを起こすのは本意ではあるまい。それに私としてもお前達とは出来るだけ事を荒立てたくはない」
「貴方がわしらに力を貸す理由が分からない。そんな事をして私達に一体何の得がある? 追われているわしらに手を貸せば、貴方にも累が及ぶのは火を見るよりも明らかだ。それとも貴方はわしらの知るどこかの手の者なのか」
「ふふん、守る者がある以上、用心深くもなるか。私としては無理にこの手を取れては言わん。だがまあ、あまり賢い選択ではないな」
不意にレニーアの左手が大きく振るわれた。ほぼ同時に身構えるアースィマだったが、レニーアの狙いは彼女達ではなかった。
地面に崩れ落ちた追跡者達の一部から突如沸き起こった黒い靄。それが空中で渦を巻くとレニーアに向かって、背後から襲い掛かってきていたのだ。
レニーアが腕を振るったのは、それを察知して思念魔法による横殴りの一撃を加えたからである。
「あれはネガジンか! 呪詛の悪霊を使うとは、ハディーヤの命すら不要とは!」
黒い靄の正体を知るアースィマが驚きと嫌悪感に顔を歪め、悍ましい気配を感じたハディーヤは咄嗟に目を背ける。
「あれは、命を触媒にして召喚された悪霊……。私達を捕まえられなかったら、発動するように……」
ハディーヤが震える声で告げる内容と、彼女が悪霊の召喚と引き換えに死んだ追跡者達を憐れんでいるのを聞き取り、レニーアは小さく笑った。この状況でそんな言葉が出てくるあたり、セリナを思わせる性根の主であるようだ。
「任務の失敗を命で償うか。定番だが、こういう償い方もあるというわけだな。お前達の身柄を抑えたい者達の中には、手段を選ばぬ者もいるようだ。難儀な話だな」
レニーアの思念に吹き飛ばされた黒い靄は再び空中に戻り、明確な形を取り始める。髑髏の頭を持つ巨大な羽虫だ。
牛馬ほどの巨大な羽虫は、その異形の造形もさることながら、複数の生命を代償として召喚された悪霊として見る者に死を連想させる異能を有している。
避難した貧民街の住人や遠巻きに運悪く目撃してしまった者達は、軒並み意識を遠ざけてその場にうずくまり出している。
精霊の強い祝福と加護を併せ持っているアースィマとハディーヤだから、顔を顰める程度で済んでいるのだ。レニーアがなんの重圧も感じていないのは、もはや語るまでもない。
彼女の場合はそもそも存在の格の次元が違い過ぎる。故あって三次元の世界に意識を割いている最高次元存在、それがレニーアの正体であるのだから。
『▼∴△*<+`{}=~”!!!』
意味を成さない呪詛の叫びをあげてレニーアを目掛けて呪いの巨大羽虫が襲い掛かる大きく開かれた口には、人間のものではない牙がずらりと並び、肉に突き立てれば即座に呪詛が流れ込んで、生命を奪う。
また無数に生えた細い脚も刃として機能し、羽音は見る者の脳と精神に作用して混迷状態に陥らせる。複数の人間の生命を用いた事からも分かる通り、かなり強力な悪霊なのだがこの場において相手はレニーアであった。
「は、お前を自在に呼び出せる術士なら声を掛ける価値もあるのだがな。何人もの命を使ってよやくでは、そこまでの価値はない。消えろ」
レニーアは頭蓋骨の巨大羽虫に向けて、パチンと指を鳴らし、たったそれだけの動作で巨大羽虫は左右から加えられた途方もない念力によって、紙のように薄く叩き潰される。
その光景を前にしてアースィマは息を呑み、その脅威の一端をようやく理解した。それでもレニーアの実力の一億分の一も見たわけではないのだが、それはむしろ理解しない方が幸いである。
(あれだけの悪霊ならば司祭や高位の精霊使いによる浄化が最善手。それを不可視の攻撃だけでああも簡単に。それこそ赤子の手を捻るように……。無詠唱の理魔法にしても妙な気配だし、精霊の働いた気配もない)
アースィマは、レニーアが余裕の笑みを浮かべたまま消滅する悪霊ネガジンを見つめるその姿に計り知れない力を感じて、話に応じる以外の道が閉ざされる音を聞いた気がした。
緊張に心を強張らせるアースィマの腰に、ハディーヤのほっそりとした指が触れる。視線を向けるアースィマに、庇護対象の少女は不安に揺れる赤い瞳に覚悟の光を固めていた。
「アースィマ、ここは彼女の手を取りましょう。今はそうするしか道がない。ならばせめて私達から手を取る方がまだいい」
「……そうだな。わしも腹を括るとしよう。大精霊サイフィカの加護を祈るか」
アースィマは深く呼吸をしてからソレイガを鞘に戻し、両手を広げて害意がないのを示しながら声を掛ける。
「先程までのわしの無礼を謝罪した。この通り、お詫び申しあげます」
アースィマとハディーヤが深々と頭を下げる姿を見て、レニーアは別段腹を立ててはおらんが、と思ったが、まあ、悪い気分はしない。
「私は気にしておらん。すぐに頭を上げると良い。それでそろそろ答えを聞かせてもらいたいところだが?」
「もちろんあなたの手を取らせてほしい。ただ一つだけお願いがある」
「内容によるが、なにを願うのか? それ次第だが、よほどのことでなければ声は荒げんから安心しろ」
「わしはアースィマ、そしてこちらはハディーヤ。二度もわしらの窮地を救ってくれた恩人の名前をまずは教えてほしい」
アースィマの言葉にレニーアは虚を突かれた顔になる。言われてみれば確かに自己紹介をしていなかったと、指摘を受けてようやく思い至ったのだ。挨拶は大事だ。今生の両親からもドランからも、そう教わっている。
「そうか、先に無礼を働いていたのは私だったか。こちらこそ謝罪しなければならんようだ。私はレニーア。むろん無償の善意でお前達を助けようとしたわけではない。が、ひと時の食事と休む場の提供くらいは見返り無しで用意する。そこから先は交渉次第だ」
次もまた選択肢の無い選択を突きつけられるのではないかと思うアースィマとハディーヤだったが、レニーアの上辺だけはとにかく愛らしい顔立ちを見ていると少しは信じてもいいと思えてくるのだから、なんとも厄介なものだった。
<続>
■精霊戦士と巫女に接触した!
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