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5巻
5-1
しおりを挟む第一章―――― またいつか
私の友人ファティマの血を吸い、フラウパ村の人々を苦しめていたバンパイアの王ジオールを滅ぼし、ようやく辺りの空気が和らいだ。
崩落した武器庫の天井から月の光が降り注ぐ中、仇敵を討ち果たした孤独な吸血女王ドラミナは、私からの称賛の言葉に何も言わず、ただ私の胸に顔を押し付けていた。
夜の祝福を満身に受けた女王が、私の腕の中では平凡な女性と変わらぬ恥じらいを見せていて、その仕草がドラミナの魅力を更に輝かせている。私は、これまで目にしてきた彼女の凛として気高い様からはまるで想像も出来ない今の姿に、ふっと口元が緩むのを禁じ得なかった。
とはいえ、あまり気障な台詞でからかうのも可哀想か。
「ドラミナ」
私は抱え上げたドラミナの耳元に口を寄せる。反応してびくっと震えるドラミナの姿を見ると、ああ、やはりドラミナはからかい甲斐がある――そう思わずにいられない。
「は、はい」
「ジオールの死で、この城があるべき場所に還ろうとしている。フラウパ村に重ねられていたグロースグリアの土地が、海の向こうの大陸に戻るぞ。このままここにいては私達も巻き込まれる」
私の指摘を受け、ドラミナはようやく正気に戻り、顔をぱっと上げる。
「確かに、このままではグロースグリアの国土へとまもなく転移するでしょう。ドラン、早くここから脱出を」
「ふむ、無論私はそうせねばならぬが、君はどうする? 仇を討った事を故国の者達に報告するのならば、このままグロースグリアの国土に転移するのが近道だろう。ジオール達が滅びた以上、君を害する事の出来るバンパイアはもはやこの地上には存在しないはずだ」
私の気遣いに、ドラミナは本当に嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべた。
そんな顔をされると困る、いつまでも見続けていたくなるではないか。喉元まで出かかったその言葉を、私はぐっと呑み込んだ。
「妾の事は気にしないで。故郷の皆への報告を急ぎはしません。それよりも、貴方の方が大事。早くここから離れましょう」
「そうか。なら、そうするとしよう。せっかく近道があるのだから、使わぬ手はないな」
私はそのまま、目の前の見えない階段を上るかのように、何もない虚空に足を掛けた。
私はドラミナを抱えたまま月光の祝福の中を天井に開いた穴へと向かって一段、また一段と不可視の階段を上り続ける。
「あと少しだな」
天井から覗く満月が少しずつ近づいてきたところで、私がそう告げると、ドラミナが私の首に顔を埋めてきた。
「どうした?」
背に回した左手で、優しく背中を撫でると、ドラミナは小さな声で答えた。
「このまま、時が止まればいいのに」
脈打たぬ心臓を持ち、氷水のように冷たい血が巡る肉体の持ち主のはずなのに、彼女の朱色の唇からは熱い吐息が零れて、私の首筋を擽った。
いやいやするようにドラミナが頭を左右に小さく振り、紫銀の髪がさらさらと揺れて、私の頬や首筋を撫でる。何とも言えぬ芳しい香りが私を包んだ。
ふむふむ、自制心の箍が緩んでいるのか、随分と甘えんぼうさんだな。可愛いから構わないが。
私はドラミナを抱える腕に力を込めて、ぎゅっと抱き寄せる。せめて、まもなく終わるこの時が、より強くドラミナの心に刻まれるように。
ドラミナはもう驚く事はなかった。ほうっと安堵の息を漏らして、子猫が母猫に甘えるように頬ずりをしてくる。ふむむん。
「ん、ドラン……もっと強く」
お望みの通りにさらに腕に力を込めた。不死者の中でも最高位の存在と分かってはいるが、力加減を間違えると簡単に壊れてしまいそうなほど繊細な姿は、私の庇護欲を擽った。
いや、壊れてしまいそうな、という感じ方は間違いではない。復讐を果たした今のドラミナにとって、生きる目的や意味はすでに失われている。今のドラミナは、復讐の業火が生む憎悪の熱意と力を失い、これまで保っていた心の均衡を大きく乱した状態なのだ。万が一にも魔がさすような事があれば、自らの滅びを選びかねない危うさを孕んでいる。
ドラミナは十分に傷つき、そして疲れ果てたと思う。ならば、後の人生はその傷と疲れを癒す為に費してもいいではないか。
「ふむ、これでいいか?」
「うん」
あまりに素直で、そしてあどけない童女のように弾んだドラミナの返事に、私は多少面食らった。ひょっとしたら、私の血が齎した力にいささか酔っているのかもしれない。
私は赤子をあやす要領で、ドラミナの髪や背中を撫でながら月光の中を進み続ける。
私達が天井に開いた穴を抜けて城の中庭に降り立つと、すぐ傍でぶるる、と野太い嘶きがいくつも重なって聞こえてきた。
私と同じものを耳にしたドラミナが顔を上げて、熟した林檎の色の顔にかすかな笑みを迎える。
私達が武器庫から上がって来るのを待っていたのは、ドラミナが乗っていた馬車とそれを牽引するスレイプニル種の魔性の馬達であった。
魔馬達は自分達の主を抱きかかえている私に対し、訝しさと不埒な真似をしたら蹴り殺すぞ、という二種の感情を乗せた視線を送ってくる。
「賢い馬達だな。それにドラミナの事を随分と慕っているらしい」
「ええ。そう言えば、お前達はずっと妾と一緒に居てくれたわね。国と民が焼かれ、滅ぼされる前からずっと――」
鼻面を寄せるスレイプニルを、ドラミナが愛しげに撫でる。
国を滅ぼされてから今日に至るまで、ずっとこの魔馬達が傍にいて、決して孤独ではなかった事を、ドラミナは今噛み締めているのだろう。
しばらくドラミナに撫でられていたスレイプニルであったが、ヴェールを失ったドラミナの左半顔が、在りし日の美貌を取り戻している事に気付くと、嬉しそうに嘶いて鼻面を擦り寄せる。
「ふふ、ありがとう。お前達も喜んでくれるのね。この顔が治ったのも、ジオールを滅ぼす事が出来たのも、このドランのお蔭。だからあまり怖い目で見ないであげてね」
ドラミナもスレイプニル達が私に寄せる視線に気付いていたらしい。私がドラミナに瞳を向けると、ドラミナはごめんなさい、と小さく笑って肩を竦める。
「さて、あまり悠長にもしていられんか。君達、急いでくれるかね?」
私が呼びかけたのはスレイプニル達である。いざとなれば私がどうとでもするが、主が本懐を果たした事で、張り切っている様子のスレイプニル達に任せようと思ったのだ。
私の問いかけに、スレイプニル達は一斉に天を仰いで嘶き、任せておけと実に頼もしく返事を寄越す。
私は独りでに開いた馬車右側面の扉から乗り込み、ここでようやくドラミナを長椅子の上に下ろした。ドラミナは言葉にこそしなかったが、私の腕から下ろされるのを、ひどく残念がっている様子だ。長椅子に下ろされるまでの間、小さく口を尖らせ、憂いを帯びた瞳で私を見つめ続けていた。
「あまり拗ねてくれるな。淑女の振る舞いではないよ。まるで童女のようだ」
「拗ねてなどおりません」
短く反論すると、すぐにドラミナはプイッと私から顔を背ける。これ以上追及しても、ますます機嫌を損ねるだけなので、私は何も言わずドラミナの右隣に腰掛けた。
この間は対面に座ったが、今ならば隣に腰掛けても問題はないだろう。
私が座ると一転、ドラミナは華やいだ表情を浮かべ、先程までの拗ねた表情の仮面をどこかへと放り捨ててしまう。先刻から感情の浮き沈みがまあ激しい。ドラミナは酔うと情緒が不安定になるというか、極端になるのか、ふむん。
後はスレイプニル達に脱出を任せれば、ひとまず安心だ。私は長椅子の背もたれに背を預けて、ふうっと溜息を一つ吐く。
そこで、ドラミナがちらちらと私の方に視線を寄せている事に気付いた。それとなくドラミナの視線を追うと、どうやら女王陛下は私の膝が気になるらしい。
私の膝に何かあったろうか? ああ、あれか、あれだ。膝枕。
武器庫の天井を崩落させて墜落したドラミナのもとに駆けつけた時に、目を醒ますまでドラミナに膝枕をしてあげていたが、あれをまたやって欲しいということか。未だ甘えんぼう状態は継続中のようだ。
期待を含んだ、というよりもこれでもかと期待を山盛りにしているドラミナの視線に気付いておきながら、これを無下にする事など出来るはずがない。
「ドラミナ、おいで」
ドラミナの反応は劇的だった。まさに喜色満面。まるで大輪の向日葵が、いや向日葵畑が広がったような笑みを浮かべたのである。私はそんな姿に大好きな御主人様に許しをもらった飼い犬の姿を幻視した。犬の耳と尻尾の生えたドラミナか……ふむ。
しかし、そこは曲がりなりにも一国の女王としての教育を受けた彼女である。今すぐにでも私の膝に体を委ねたいのを必死に我慢して、一応は遠慮する素振りを見せる。素直になればいいのに。
「い、いえ、殿方の膝を枕代わりにするなど、畏れ多い事です。妾を気遣う必要はありません。この馬車には妾の寝室もありますから、眠りたくなればそちらで眠ります故」
「いや、私がドラミナに膝枕をしてあげたいのだよ。一度君を膝枕した時はとても心地が好かったし、少しは疲れを癒す手助けにもなれるだろう。だからドラミナ、私に膝枕をさせてはくれないか? お願いする」
じっとドラミナの瞳を見つめて、真摯な態度と声音を努めて意識し、お願いした。効果は抜群である。
私のお願いを聞いたドラミナは、照れ臭さを誤魔化すように落ち着かない様子でドレスの裾をいじったり、髪の毛を梳いたり、忙しなく視線を彷徨わせたりを繰り返したが、膝枕への欲求は強かった。
「で、ではドランのお言葉に甘えて……」
「おいで」
父親が幼い自分の娘を招くような気持ちになりつつ、私は体を傾けてくるドラミナを膝の上へと導いた。ドラミナは恐る恐る身体を傾けて、そっと、それこそ砂の城にでも触れるかのように私の膝にゆっくりと自分の頭を載せてくる。ドラミナの顔が馬車の進行方向を向く体勢だ。
遠慮と羞恥が抜けきらず、頭を軽く浮かせているドラミナの緊張を解す為に、私は彼女の頭を左手で撫でた。
「ドラミナ、なにも遠慮はいらないよ。君の好きにしなさい。私は受け入れるから」
私の手が髪を撫でる度に緊張は薄れて、ほどなくしてドラミナは私の膝に頭を完全に載せてきた。
「はい」
そう応えたドラミナの声は、安らぎに満ちて聞こえた。心身から緊張が跡形もなく消え去り、ドラミナの心がこれ以上ないくらいに弛緩しているのが、膝と髪を撫でる手を通じて分かる。
「ドラミナ、私の膝は硬くはないかい?」
「少し。でも、殿方の膝なのですから当然でしょう。それに妾にとっては心地が好い。とても安らぎます。こんなに穏やかな気持ちになったのは、いつの夜以来でしょうか」
「そう言ってくれるのなら私としても嬉しいよ」
「貴方の手は温かい。心も温まって、とても素敵です」
ドラミナは満足そうにほうっと恍惚の息を漏らす。
ふ~む、なんだな、膝の上に載せた子犬か子猫が撫でているうちに眠り始めたのを見るような、なんとも微笑ましい気持ちになるな。
どれほどドラミナの髪を撫で続けた頃だろうか、それまでまどろむように私の膝の上で大人しくしていたドラミナが口を開いた。
「ドラン」
凛とした響きは失われ、年がら年じゅう春霞に包まれているみたいな、ぼうっとしたドラミナの声だった。
「ん、もう膝枕は飽きたかね?」
「いいえ、もうこのまま永劫を過ごしたいほどに心地好いです。ただ、その、向きを変えても良いですか?」
「ああ、そういう事か。構わないよ」
寝返りを打って視線を私の腹の方に向けるのかと思ったが、ドラミナは仰向けの体勢で落ち着き、私を見上げて赤子のように無垢に笑う。
「うん、やはりこの方が良い。これなら貴方の顔がよく見える」
「こんな顔でよければ穴が空くほど見てくれ」
「ふふ、ならそうします。妾にとっては大恩人の、いくら見ても見飽きぬ顔ですから」
そうかね、と私は肩を竦めて応えるに留めた。
ドラミナの向きが変わったので、今度は頭と髪を撫でるのは右手に替える。さて空いた左手はどうするかと考えて、脳裏に閃くものがあった。
私は左の人差し指の腹を親指の爪で切り、血の珠が浮かぶのを待ってから、ドラミナの口元に寄せた。
「勝利の美酒とは言い過ぎかもしれんが、君にとってはなによりの妙薬だろう。安心しなさい。今は普通の血だ」
「貴方の血が齎したあの力を考えれば、貴方が何者なのかと問うべきなのでしょうけれど、今はそんな気分になれません。貴方の膝は心地が好すぎる」
はあ、とドラミナは恍惚の吐息を零して満足そうに頬を緩める。ジオールとの決戦の際に飲ませた私の血の正体については、取り敢えず今は追及を避けてくれるらしい。その話題を出せば、こうして過ごす時間が壊れてしまうと、ドラミナも悟っていたのだろう。
「ドラミナ、唇を開けて」
「でも、そんな……はしたないでしょう?」
ドラミナの朱色の唇にも負けぬ赤い舌が伸びて、私の人差し指の先で球を結びつつある血を舐め取ろうとする。しかし、淑女としての貞操観念がかろうじてそれを抑え込んだらしい。
舌が引き戻される寸前に、私は人差し指を半開きの唇に押しつけて、ドラミナに私の血という美酒を味わわせる事に成功していた。
「遠慮はしない」
「ん、や、あ……」
彼女が抵抗の意思を表す事が出来たのは一瞬にも満たない僅かな時間。唇を濡らした私の血が、ほんの微量ずつドラミナの口内に流れ込むと、ドラミナのかすかな抵抗はすぐさま瓦解した。
ドラミナのぷっくりとした唇に指を挟まれ、ぬるぬるとした唾液と舌にたっぷりとねぶられ、力強く吸われる感触が伝わってくる。
「ん、んん、あむ、ん、美味しい……」
ちゅうちゅうと恥も外聞もなく、高貴と典雅が手を組んで形作られたドラミナの美貌は、春の陽射しを浴びた雪のように蕩けて無垢な顔を晒している。
こう、にゅるにゅると舐められるのは擽ったいが、奇妙な気持ち良さがあった。
「ふふ、ここまで喜んでもらえるとこっちも嬉しくなるが、これではまるで赤子だな。こんなに大きな赤子を持った覚えはないのだがな」
「んん」
私が赤子扱いしたことがドラミナには大いに不満だったようで、それまで夢中で私の指をしゃぶっていた彼女は、拗ねた顔を作り私の指を甘噛みする。
バンパイアに歯を立てられる――状況だけを説明したら、誰しも顔が青ざめるだろう。だが、私はドラミナの見せた稚気が可愛らしく、機嫌を取るように右手でドラミナの頭を撫でた。
「すまなかった。ドラミナのような立派な淑女を赤子扱いは失礼だったな。許してくれないか」
「ん……はむ」
頭を撫で出したのとすぐに謝罪をしたのが功を奏し、ドラミナはすぐに機嫌を直して、また私の指を嬉しそうにしゃぶりはじめる。
頬を桜色に染め、本当に美味しそうに目を細めるドラミナの様子を見ていると、私の方もとても良い気分になり、この馬車の旅がもっと長く続けば良いのに、と思わずにはいられなかった。
†
フラウパ村近郊に重なっていたグロースグリア王国の領土が転移するよりも早く、馬車はフラウパ村に到着して事なきを得た。
ドラミナは私の膝の上で頭を撫でられるのと私の指に吸いついてしゃぶるのに夢中で、フラウパ村に到着した事にも、馬車が停車した事にもまるで気付いていない様子。よほど私の膝と血がお気に召したらしい。
ふにゃっと形容したくなるくらいに蕩けたドラミナを見ていると、私もずっとこのままにしてあげたい気持ちはあるが、そういうわけにもいかない。
村の門から旋風と土煙を立てながら走り込んできた尋常ならざる馬車と馬達の姿に、村人達はあり合わせの武器を手にして、恐る恐る遠巻きに囲んでいた。
数少ない冒険者達も良く手入れされた長剣や短槍、あるいは魔法の触媒となる杖を持ち、村人達の先頭に立っている。
私は、膝の上で生まれたての赤んぼうみたいに無垢な顔になっているドラミナの肩をゆすった。
「ドラミナ、村に着いたよ。そろそろ私の膝の上から起きてくれるかい?」
心地好さそうに瞼を閉じていたドラミナは、夢中でしゃぶっていた私の人差し指を解放し、ぼんやりと私の顔を見上げながら朱色の唇を動かす。
この表情を見るに、ドラミナの思考はまだ春霞に包まれたように定まらぬものなのだろう。その分、思わぬドラミナの本音がぽろりと出てきた。
「いや、です」
おそらく反射的に口にしてしまった事なのだろうが、それにしても……
「いやと言われてもだな」
私の古神竜としての血で酔ったドラミナはやけに甘えんぼうになったと思っていたが、それに加えて幼児退行も起こっているのか? これは、正直に言えば参ったな。
私の心情など露知らず、ドラミナは私の人差し指を咥え直し、んん、と鼻に掛かった甘い声を出しながら上機嫌にちゅうちゅう、ちゅぷちゅぷと水音を零し始める。
私はふむと一つ呟いて、精神の紐を締め直し、ドラミナの舌が絡みついてくる人差し指を無理矢理唇から引き抜く。
ちゅぽ、と酒瓶から栓を抜く時のような音がした。
「あ、ドラン?」
極上の美酒が滲み出る指を取り上げられて、ドラミナは不服そうに私の顔を見上げる。
もう甘やかす時間はおしまいだ。私は意識して自分の心を強く持った。
私は鼻先がくっついてしまいそうなほどドラミナに顔を近づけてから、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。ドラミナの匂いが私の鼻を擽るように、ドラミナもまた、私の匂いを嗅ぎ、私の吐息を肌で感じている事だろう。
「これ以上は駄目だ。私も名残惜しいが、楽しい時間があっという間に終わってしまうのは君も覚えがあるだろう。フラウパ村の人々に、もう脅威がない事を説明しなければならない。分かるね、ドラミナ。それが私達の義務だ」
私と見つめあううちに、ぼうっとしていたドラミナの瞳に理性の光が戻り始めた。それに比例してドラミナの全身がほんのりした朱から茹でた蟹のような赤色へと変わり出す。
ふむん、ようやく我に返ったらしい。
無防備に心をさらけ出した可愛らしいドラミナ。そしてその後に理性を取り戻して羞恥に身を悶えさせるドラミナ。一人で二つの魅力を見せてくれる実に素晴らしい女性である。確か、一粒で二度美味しいと言うのだったか。
正気に返ったドラミナは、息も出来ない様子で私の顔を見つめていたが、そっと両手を私の胸板に添えて押してきた。
ドラミナの手に押されるままに上体を起こせば、ドラミナも上半身を起こして、潤んだ瞳で私をしばらく見た後、顔を逸らす。
「ドラン、その、ごめんなさい。貴方には何と言ってよいか、恥ずかしいところばかりを見せてしまって。ひざ……膝枕をしてもらった挙句、血まで飲ませてもらって、し、しかもあんな、赤子のように、ああ、何てはしたない……!」
ドラミナは言いたい事が山ほどあるようだが、どうにも心情を表す言葉を見つけられないようで、口から出てきたのは至極ありきたりな言葉だった。その分、ドラミナがどれほど慌てふためいているのかがよく分かる。
ドラミナの心が落ち着きを取り戻すまで、もうしばらく待った方が良いかもしれん。
「気にしていないよ。君がとても可愛らしい女性だという事がよく分かったし、あんな無防備な姿を見せてくれた事は単純に嬉しかったからね。もう少し待った方が良いかな?」
「いえ、もう大丈夫です。村の方々には妾からも事情をお話しすべきでしょう。といっても、ジオールらと同じバンパイアとあっては、どこまで信用していただけるかどうか」
流石は一国の女王。心の深いところはともかくとして、表面上だけでも取り繕うくらいは実に鮮やかにやってのける。
「救出されたリタやファティマが説明してくれるだろうし、私も証言させてもらうよ。ただ、ガロアの総督府にも報告しなければならないから、村が安全だと判明するまでは付き合ってもらう事になるかもしれん。申し訳ないが、故国の皆に報告へ行くのが遅れることになるな」
「その事なら気にしないで。妾に与えられた時間はとても永い。すぐにでも報告したいところではありますが、だからといって時間を惜しむわけではありません」
「そう言ってくれると助かる。では参りましょうか、女王陛下」
少し気取って私が言うと、ドラミナはあら、という顔をしてから、柔らかに微笑む。
在りし日のドラミナは、王城のバルコニーから万民に対してこの笑みを向けてきたのだろう。それは、為政者として被る仮面の類ではない。向けられた者の心に安心と温もりを与える笑みである。ドラミナ自身の心がそうであるからこそ浮かべられるものだった。
ドラミナに長手袋に包まれた右手を差し出され、私は指先の血を拭うと恭しくその手を取った。
私が手を取るのを待ってから、ドラミナは改めて居住まいを正して口を開く。
「エスコートをお願い出来ますか、騎士殿」
口元に浮かぶ笑みは、遊びに興じる子供と同じものだった。幼い頃、彼女も将来女王となる予行演習に、お付きの者達を相手に女王と騎士のごっこ遊びに興じた事があったのかもしれない。
「私などで良ければ」
「貴方でなければなりませんわ」
「光栄の至りにございます、陛下」
私はこの世界で最も尊いバンパイアの血統を受け継ぐ女王の手を取って、馬車の扉を開いた。
私と共に馬車を降りたドラミナの完璧という言葉が霞む美貌と気品を前に、恐怖に青ざめていた村人達の顔が呆然と崩れる。
恍惚と蕩けるのとはまた違う、どんな表情を浮かべればいいのか、彼らの精神が判断出来ずに停止してしまったのだ。
例外は冒険者達よりも一歩前に出ていた二人、私の使い魔として同行しているラミアの美少女セリナと、魔法学院の級友ネルだけだった。
二人は怪我ひとつない姿の私を認めると、ドラミナの美貌に目もくれず、ぱあっと明るい笑みを浮かべる。相変わらずネルの表情の変化は乏しかったけれど。
私はいささかの気恥ずかしさを覚えながら、右手を上げてこう言った。
「ただいま」
†
私とドラミナが戻ってほどなくして、フラウパ村を包んでいた白い魔霧は消え去った。
見慣れた光景が戻った事に、村の人々は盛大に歓喜の声を上げて喜びあう。
一足先に村に戻っていたセリナ達も、これでようやく肩の荷が下りた様子だ。
フラウパ村を襲った今回の事態をガロアへ伝える為、冒険者と村長の息子が馬を飛ばす事になった。すぐに上層部へ伝わるように、国内の有力貴族の令嬢であるファティマとネルの署名入りの書簡を持たせてある。
既に解決したとはいえ、ガロア側がバンパイアの関わる事変に対応出来る戦力を用意し、フラウパ村周囲の封鎖と包囲を終えるまでに、ふうむ、何日かかるだろう。
取り敢えず、私達はガロアの対応を待って、当面は大人しくフラウパ村で待機する事に決め、ドラミナもこれを快く承諾してくれた。
村人達はバンパイアの乗る馬車が村の中に停まる事を嫌ったので、ドラミナは近くの森の中で待つ事となったのだが、それは仕方がないと言えよう。
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