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4巻

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 序章―――― 霧と満月




 霧が出ていた。深く、濃く、もう二度とその中から抜け出す事が出来なくなるような――そんな霧であった。
 刻一刻と霧は深まり、少女の視界を白く覆っていく。もし、何者かが目の前で刃を振りかざしていたとしても、この霧の中では気付けないかもしれない。その恐ろしい考えに、少女は硝子細工ガラスざいくのように繊細で華奢きゃしゃな体を震わせた。


 まだ顔立ちにあどけなさを残すその少女――シエラは、元々爵位しゃくいを持つ貴族の令嬢であった。
 しかし、故国ここくが隣国との戦に敗れた為に、その暮らしは一変する。
 彼女の生家は没落。敗戦後の処刑と略奪の嵐の中から、からくも逃げ出す事の出来たシエラとその家族だったが、そこでほぼ全ての運を使い尽くした。
 逃亡時に敵国の兵の矢を受けて父が負傷し、以後、母は父の看護に日夜追われる事になった。
 寡黙かもくながらも威厳いげんに満ちていた父は病臥びょうがし、えぬ傷がもたらす苦痛と恥辱ちじょくによって、地獄の悪鬼を思わせる形相ぎょうそうを浮かべる日々。その父のかたわらに寄り添っていた母の顔からも、以前のつつましやかな笑みは消え、心労によって死仮面デスマスクの如く喜怒哀楽を失ってしまった。
 そんな暗澹あんたんたる日々の中で、わずかながら残された希望は、シエラが魔法に関して天賦てんぷの才能を持っていた事だ。彼女は幼少の頃より優秀な家庭教師から魔法を学んでおり、その魔法の技量を生活のかてとする為に、「冒険者」になる道を選んだ。
 魔法を扱えるほどの魔力を持つ人間は希少である。シエラはその中でも特に優秀と言える魔法の才覚を持ち、貴族の令嬢としてつちかった教養と、敗北者のまま終わってなるものかという、執念しゅうねんめいた気概を持ち合わせていた。
 初めて妖魔を相手にした時は、盛大に失禁したシエラであったが、今や、命のやり取りの経験は数十回を超え、灰風はいかぜのシエラと言えば、冒険者の間でも少しは知られた名前になっていた。
 相変わらず、一家の生活は貧苦ひんく只中ただなかにあったが、どれだけ高額の報酬が約束されたとしても、シエラは暗殺や誘拐などの汚れ仕事には手を出さなかった。家族や、三歳年下の妹の為にも、彼女は自らに高潔である事を課していたのだ。
 冒険者シエラにとって最大の幸運は、今日こんにちも行動を共にしている冒険者の仲間達との出会いである。
「ワールウィンド」と名乗る仲間達との出会いは、駆け出しの頃のシエラが、悪意ある冒険者達に言葉たくみにだまされ、危うく貞操ていそうを散らしそうになったところを救われたのがきっかけであった。
 しかし、シエラにとって、これが「最後の」幸運になる。
 後はただ、理不尽りふじんと絶望と恐怖のみが、彼女を待ち受けているのだ。


 はっはっと荒く吐き出す自分の息が、シエラにはひどく耳障みみざわりだった。
 もう随分ずいぶんと長い間走り続けている為、酷使こくしした心臓や肺、足がひっきりなしに悲鳴をあげている。
 前後左右、周囲の全てが白い霧に覆い尽くされる中、頭上をあおぎ見ると、果てなく続く霧の天蓋てんがいを透かして、ただ一筋満月の光が射し込んでいた。
 だが、霧の天蓋に溶けている満月の光は、あろう事か赤色をしているではないか。たった今切り裂かれた血管からあふれ出る、匂い立つような鮮血を思わせる赤色を。
 さながら、天上に輝く神々の瞳からしたたり落ちた血涙けつるいが、霧の水面みなもにじむ様子を見上げているかのようである。
 いつもと変わらぬ日のはずだった。いつものように冒険者ギルドで依頼を受け、いつものようにゴブリン達を退しりぞけ、村人達から感謝の言葉と謝礼を受け取る。それで終わる筈だった。
 なのに……ああ、それなのに!

「ジャック、エイリル、ギルベイン、ラージン!! 皆、皆どこにいるの!? 私を一人にしないでぇえ!!」

 シエラがなによりも恐れているのは孤独ではない。退治すべきゴブリンの姿を求めて霧の中を進む最中さなか、ついに見つけてしまったアレ。
 どうして見つけてしまったのだ? どうしてこんなところに? いや、いや違う、どうして思い出してしまった? 考えてしまったのだ!?

「あっ」

 それまでの絶叫ぜっきょうに比べれば、無きに等しいか細い声が、シエラの咽喉のどからこぼれ、足を止める。
 あまりにも唐突な停止に心臓と肺は今にも爆発してしまいそうで、シエラの呼吸は大いに乱れ、肩は激しく上下した。
 彼女の瞳に映ったのは連れ立って森を訪れた冒険者の仲間。シエラが淡い想いを寄せる、愛しきラージンの後ろ姿。
 これまでの狂態きょうたいかんがみれば、シエラは歓喜にむせび泣き、顔をくしゃくしゃにしてラージンに駆け寄るところだった。
 であるにもかかわらず、シエラの足は太い杭で打ちつけられたように、その場から動く事を拒絶していた。
 あ、あ、あ、とシエラの震える唇から言葉にならぬつぶやきが漏れ、見開いた瞳からは次々と涙が溢れ、青白い頬を伝う。
 なぜラージンの身体は地面から浮いている? なぜラージンの身体から若さに満ちた熱き血潮ちしおが失われている? 答えはたった一つで足りた。
 力なく傾いたラージンの首筋に何者かがかじりつき、その身体を吊り上げて、生命と血潮をすすっているのだ。

 じゅるじゅるじゅるじゅる、じゅるじゅるじゅるじゅると、おぞましい音を立てながら。

 ああ、ラージンの首筋に突き立てられた鋭い牙よ。皮膚ひふを突き破り、血の通う管に突き刺さり、そこから溢れる血潮を、咽喉を鳴らして飲む者よ。
 シエラの身体が髪の毛の一本から指先に至るまで時が凍りついたように動きを止める中、糸が切れた操り人形の如く、ラージンの身体がどさりと音を立てて地面に落ちた。
 突如、シエラの眼前に、天上に輝く満月と同じ血の色をした輝きが、新たに二つ生じる。
 いや、ソレは咽喉を鳴らしてラージンの血を堪能たんのうしていた者の眼。
 白い霧を禍々まがまがしい赤に変える瞳に見つめられると、シエラの脳髄のうずいは氷の棒でかき回されているかのような冷たさと激痛にさいなまれ、思考する事もままならない。
 赤い瞳がずい、とシエラに一歩近づくや、主人の歩みをはばんではならぬとでもいうように、白い霧が左右に割れる。
 シエラは、自分もラージンと同じ目にうのだと直感した。
 やがて、永劫えいごうとも一瞬ともとれる時間の果てに、シエラの両肩に途方もなく巨大な山の質量を備えた手が触れた。まるで、泣き崩れる我が子をなぐさめる父のように優しい仕草だった。なのに、その手を通じて、骨まで凍るような冷気が浸透しんとうしてくるのはなぜだ。
 シエラが自分の首筋に小さな痛みを感じた時、家に残してきた父母と幼い妹の姿がまたたいて、すぐに消えた。


 第一章―――― 夜の国の人々




「やあ、ドラン。依頼の帰りかい?」

 魔法学院本校舎の事務局の前にある大ホールで、私に対して気さくに声をかけてきたのは、級友のヨシュアである。
 私は、この春から故郷のベルン村を出て、北方の大都市ガロアの魔法学院に通っていた。半人半蛇はんじんはんじゃの魔物、ラミアの美少女であるセリナも、使い魔として私に同行している。貴族中心の学内において、平民出身の編入生である私と、魔物として恐れられるラミアのセリナは、級友達から距離を置かれていた。
 この大柄で縦にも横にも厚みのある同級生は、私とセリナに対して気軽に接する、希少な少年だ。
 赤色の髪に丁寧にくしを通し、後ろに流してまとめており、理知的な瞳や落ち着いた態度もあって、同じ十七歳にはちょっと見えない。

「君はまだ今年入学したばかりだから、勝手が分からなくて苦労してはいないか? 魔法学院に持ち込まれる依頼は、学生でもこなせるようにある程度選抜されている筈だが、慣れるまでは色々と面倒だからな」

 こちらの返事を待たずにヨシュアは口を動かす。この級友はお人好ひとよしだが、いささか会話の流れや場の空気を読まない欠点がある事を、私は短い付き合いの中で学んでいた。
 ひとしきり彼が話し終えたところを見計みはからって、ようやく私は最初の質問に答える。

「逃げ出した猫を探すのと、魔法薬の材料の買い物の手伝い、それに荒れ放題になっていた庭の整備を済ませてきたところだよ。どれも根気さえあれば誰でも出来る依頼だ」
「いやいや、そうは言うが、猫を探すのには存在の痕跡こんせきを探る探査魔法が役立つし、魔法薬の材料となれば魔法薬学に関する知識がる。庭の整備だって、地相ちそうを見て精霊の声を聞けば、普通にやるよりもうんと効率的だ。きちんと依頼の内容が勉学の役に立つようになっているのさ。しかし、まだ昼前なのに、三つも仕事を片付けて来たのだから、君も相当なものだけれどね」
「助手が優秀なのさ」

 私はそれだけ言って、傍らにひかえているセリナに視線を送った。セリナは私の視線とめ言葉に、小さく笑う。
 ヨシュアもセリナに目を向けると、こげ茶色の瞳になにやら納得の色を浮かべて、うむうむとうなずいた。

「なるほど、確かにレディ・セリナなら、大抵の使い魔よりも優秀だろうな。小動物や小型の魔法生物と比べてはいけないが、ラミアは人間と同等の知性と蛇の知覚能力を併せ持つ上に、魔法も扱える。高等部の学生の使い魔の中でも、君のところのレディは頭一つ抜けているだろうね」
「セリナへの称賛をはばかる事なく口にしてくれるのは、学生では君が四人目だよ。他の皆にも、ラミアという色眼鏡めがねを外してセリナ自身の事を評価してもらえればなによりなのだがね」
「まあ、なまじラミアの魔物としての手強てごわさが知れ渡っている分、難しい話だろう。そのラミアを使い魔にしている君への嫉妬しっとも、皆の胸にくすぶっているだろうし。なあに、その内に君らへの好奇の眼差まなざしは絶えるとも。それまでの辛抱しんぼうだよ、ドラン、レディ」

 ヨシュアはセリナを励ますように、一つ大きく頷いた。

「そう言えばドラン、ぼく以外にレディを評価している他の三人の学生というのは一体誰の事なんだい? 差しつかえなければ教えて欲しいな」
「ネルとファティマと、クリスティーナさんだよ」

 私は、学院内で親しくしている三人の友人の名前を挙げた。
 すると、ヨシュアはああ、と溜息ためいきいて、右手で顔を覆いながらあきらめた風に首を振る。

「なんだ、ヨシュア、君も『クリスティーナ様の下僕げぼく達』のうちの一人か? それとも『ミス・アルマディア信奉しんぽう会』の会員か『白銀の姫騎士ひめきし団』の団員? クリスティーナさんにお近づきになりたいと声を掛けてくる者が次々に現れる日々だよ、まったく」

 クリスティーナさんはその類稀たぐいまれ美貌びぼうから、学院でも高い人気を誇る。
 私が挙げたのは、いずれも、魔法学院内の熱烈……いや、激烈なクリスティーナさんの信者の集団である。

「ミス・アルマディアの実力に関しては心から敬服するが、生憎あいにくぼくはそこまで熱を上げちゃいないよ。だがドラン、先ほどの言葉を訂正する。レディへの好奇の視線はその内やわらぐだろうが、君に向けられる羨望せんぼうや嫉妬の念はこれからも増していく事だろう。あと、言っておくが、ネルネシア嬢もあれで意外と人気がある。あの冷たい眼差しに見下ろされて、踏みにじられたいと思っている男女はそれなりにいるぞ」
「男女両方?」

 私は、少々嫌な予感を覚え、自分でも硬いと分かる声でヨシュアに問い返した。するとヨシュアはまるで大賢者の如く、それはもう重々しく頷き返した。

「ああ」
「何という事だ。魔法学院は特殊性癖せいへき者の巣窟そうくつか?」
「あくまで一部だ、ほんの一部。それにファティマだって人気がある。彼女の場合、あの愛くるしい見た目と、人懐ひとなつっこい性格の所為せいだな。そんなわけで、君が友誼ゆうぎを結ぶ相手は、揃いも揃ってこの魔法学院で人気のある女生徒達ばかり。しかも男女問わずにだ。となれば、これから彼女らと親しくすればするほど、君への風当たりが強くなるのは必然だろう」
「そんな事を言われても、ネルとファティマはともかくとして、クリスティーナさんに関しては、私とセリナを見かけたら彼女の方から嬉しそうに寄って来るのだ。さすがに無下むげには出来ないよ。あの方はどうも友人がいな――ふむん、少ない所為か、とかく私達と一緒に居たがるし」

 クリスティーナさんは、以前ベルン村に逗留とうりゅうしていた為、私が魔法学院に入学する前からの付き合いだ。魔法学院で再会して以来、彼女は私とセリナの姿を見かけると、飼い主と再会した犬みたいに喜々ききとして寄って来るのである。

「ううむ、多少ミス・アルマディアの印象が変わったな。……ただ、ドラン、そういう事を口にすると、また新しい嫉妬にとりかれた敵が増えるぞ。仲が良いのはもちろん良い事ではあるけれど、色々難しいものだよ」
「クリスティーナさん、あれで結構残ね――ふむ、面白い女性だから、彼らも気後きおくれせずに話しかければ、すぐに友達くらいにはなれるだろうに。私に嫉妬している暇があったら、迅速じんそくに前向きな行動をとる事をお勧めしたいよ」
「はっはっは、そこまで言うなら、君の事は心配しなくてもよさそうだな。だが、ドラン、君は良くとも、隣のレディには気を遣いたまえよ」
「セリナは私が全身全霊で守るとも」

 私の正直な気持ちである。
 あう、と私の傍らでセリナがうめくのが聞こえた。今振り返れば、熟した林檎りんごの色になったセリナの顔を見る事が出来るだろう。

「普通、使い魔が主人を守るものだが、レディを守るのもまた男子の務め。ドラン、ぼくはますます君が気に入ったよ!」
「私もヨシュアの事は気に入っているよ。ネルやファティマ達以外に、私に声を掛けてくれる貴重な相手だ」
「ふふ、それは光栄だな。長く引き留めて悪かった。ぼくはこれから授業があるので、これで失礼するよ。レディ、これにて失礼」
「は、はい。ヨシュアさん、授業、頑張ってくださいね」

 ありがとう、とヨシュアは白い歯をまばゆく輝かせ、実にさわやかな笑顔と共に事務局の大ホールを後にした。ふむん、真似まね出来ないくらいに爽やかだな、ヨシュアは。
 ヨシュアの姿が見えなくなった後、セリナが私を呼んで、壁に貼りだされている依頼の記載された紙の一つを指差した。

「ドランさん、ドランさん、ここ、ファティマちゃん達が受けた依頼の場所です」

 セリナが指し示す紙には、魔法薬の材料となる花を引き取りに行くという依頼が記載されていた。その引き取り先の村には、別の依頼を受けたファティマとネルが向かっている。

「朝、風呂で話題に上ったと話していたフラウパ村か。ファティマはまだ魔法学院に戻ってきていないようだし、この依頼を受けたら村に向かう途中でひょっこりと顔を合わせる事になるかもしれないな」
「フラウパ村は、お花の綺麗な場所らしいですよ。お使いに行くだけですし、簡単な依頼だと思います」

 セリナはそう言って、ちらちらと視線を向けてくる。遠慮しないで正直に言えば良いのに、とも思うが、そこがセリナの良いところでもあるな。

「ふむ、今から出発しても、夕方頃には学院に戻ってこられるだろう。なんなら向こうで一泊してもいいし、たまには息抜きをするのも悪くないな」
「じゃあ……!」

 分かりやすく顔色を明るくするセリナに、私は微笑ほほえみ返した。

「ああ、この依頼を受けるとしよう」

 向こうに着いたら、セリナの見たがっている花々を見て回る余裕もあるだろうし、花のなえや種を買う事も出来るだろう。私はセリナが喜んでくれると良い、とだけ考えていた。


 事務局で依頼受託じゅたくの手続きを済ませ、私とセリナが馬車に乗り込んだのは、昼食を済ませた後であった。
 二頭立ての馬車の御者ぎょしゃは私が務め、セリナはほろ付きの荷台にもぐり込んでいる。
 学院の中ならともかく、ラミアであるセリナの姿を、ガロアや外の一般人に見られたら、ちょっとした騒動になりかねない。
 幸いにも、手配した馬車の荷台は広く、フラウパ村で依頼の花束を引き取った帰りでも、セリナが潜り込むだけの余裕はありそうだ。
 荷台のセリナと言葉をわしながら、私は馬車をフラウパ村へ進めた。
 はるかに延びている道は、数え切れぬ人々の靴と鉄蹄てっていによってすっかり表面が摩耗まもうした灰色の石畳いしだたみである。
 人々はこの石畳の道をたたえて、灰色の道と呼称する。王国の勃興ぼっこう期に一大事業として領内に網の目状に巡らされたこの道のお蔭で、国内の交通の便べんがぐんと良くなり、人々やあらゆる物資、情報の流れは劇的に変わったのだという。
 しばらくすると、人通りはぱたりと絶え、道には私達以外に石畳を踏む者の姿はなくなった。これならセリナを御者台に移しても大丈夫だろうか。
 そんな私の心の声が聞こえたわけではあるまいが、背後の荷台からひょっこり顔をのぞかせたセリナが、声を掛けてきた。

「ドランさん、ファティマちゃん達とは会いませんね」
「ふむ、確かにな。こちらも、そろそろフラウパ村に着く頃だが……。ファティマの事だから向こうで村人と仲良くなって、一泊くらいしているのかもしれないな。あのは誰とでも友人になれる素晴らしい才能を持っている」
「ふふ、そうですね。ファティマちゃんならどこに行ってもにぎやかでしょうね。一人ぼっちと一番縁のない人だと思いますよ」

 まったくだ、と私は心から同意した。
 やがて、灰色の道は何度か蛇行だこうし、背の高い巨木がひしめき合うようにそびえる森の中へ続いた。森に入ると、そこで石畳は絶えて地肌がむき出しの道に変わる。
 気の遠くなる歳月の積み重ねの中で、数え切れぬ生物達の生と死の循環じゅんかんが育んだ、豊かな森である。
 だが、私の知覚はこの森に生じた異状を明確に感じ取っていた。普段なら、生命の息吹いぶきがひしめき、彼らの発する見えざる生気が満ちている筈の森に、たった一つの、しかし絶対的な、あるモノが満ちていた。
 無数の生命の営みや存在をつぶしてしまうそれは、この地上に生きる全ての生命に等しく訪れるモノ――〝死〟。

「ドランさん、何か変ですよ、ここ。生き物の気配は確かにしているのに……なのに、それ以上に何もかもが死んでいるみたいな、変な感じがします」
「ふむ、その感覚は正しい。セリナ、自分の五感と魂が感じるものを信じなさい。確かに、ここは死に彩られた世界に変わっている。ただし、死は死でもこれは生ける死者の世界、死にながらも生きる者の国だが」
「ドランさん、霧が……」

 セリナが手を伸ばし、指し示した前方――馬車の進む先には、突如として濃霧が生じていた。
 真っ白い霧は、灰色の道の先ばかりでなく、木々にさえぎられた左右の果てまでも覆い尽くし、見る間に私達を呑み込んで背後に回り込む。

霧魔むまでしょうか? こんなに大きなものが居るなんて、聞いた事がないですけれど」

 霧魔とは霧状の生命体の事である。しかし、セリナの言う通り、これほど巨大な霧魔は、風の噂にも、魔法学院の図書館で目を通した書籍にも前例がない。

「白いころもの村って言うくらいですから、この地方特有の自然現象でしょうか? それとも、魔法で発生させた霧でしょうか?」

 周囲を囲う霧がいつ襲いかかって来ても返りちに出来るよう、セリナの全身からは魔力が立ち昇り、瞬時に魔法の術式を組み上げられる臨戦態勢が整っていた。
 馬達は既に足を止めており、手綱たづなを通じてかすかなおびえが伝わってくる。私は手綱をセリナに預けて、愛用の長剣をさやごと左手に握り、御者台から降り立った。

「霧魔を改造した魔法生物だな。手間暇をかけたと見えるが、さて」

 私から手綱を受け取ったセリナが、不安そうに私の背中を見ているのを感じながら、私はつかみ取れそうなほど濃い霧の向こうから、徐々に迫る影を見やる。

「助けて!」

 霧の向こうから届いたのは、私やセリナとそう歳の変わらぬ少女の声。
 これ以上ないくらいに簡単明瞭めいりょうな求めに、御者台のセリナがはっと息を呑む。
 わずかに遅れて、声の主の姿が霧の中から現れた。声の印象を裏切らぬ、可憐かれんな容姿の少女であった。長い黒髪を振り乱し、切れ長の瞳から大粒の涙がいくつも流れ落ちる。太陽の下で微笑んだら、どんなに偏屈な人間でも相好そうごうを崩しそうなほど愛らしい顔が、恐怖に歪んでいた。
 間を置かず、この少女を追い回す気配が三つ、霧の向こうに生じる。形状からして四足の大型獣。大きさはエンテの森に棲息せいそくする刃虎じんこと同じくらいか。
 私は脱力し、右手で抜いた長剣の切っ先を、地面に向けてだらりと垂らす。

「助けて、助けて!!」

 私の目前に少女が迫ったところで、背後の霧の中から、ぼっと三匹の獣が姿を見せる。
 こちらは黒豹くろひょうを元に改造をほどこした魔獣か。黒豹の姿形と美しさはそのままに、凶暴性と戦闘能力を強化させたものだろう。

「ドランさん!」

 一薙ひとなぎで私の首を半分は斬り裂きそうな黒豹獣くろひょうじゅうの爪を見たセリナが、警戒と心配を等しく含んだ声を出す。
 大丈夫だよ、セリナ。なにも心配する事はない。
 こちらに駆け寄って来る少女が間合いに足を踏み入れた瞬間、私は長剣をひるがえし、少女の頭頂部から股間まで真っ二つにした。
 左右に分断された少女が勢いそのまま私の両脇を通り抜け、黒血こっけつを切断面から噴き出しながら、どっと音を立てて地面に倒れる。

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