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3巻
3-3
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「失礼します」
扉を開いた先には、白いカーテンを引いた窓を背にして長机に腰掛けた四人の魔法教師達の姿があった。
真ん中の席には、赤いローブを纏い、山羊のように長く白い髭を伸ばし、髭と同じく真っ白い髪を長く伸ばした老人。
二人目は白いものが交じる茶髪を後頭部で団子状に纏め、薄紫色のドレスに身を包んだふくよかな四十代前後の女性。
それから魔法使いらしからぬ、まるで巨岩から削りだしたような巨漢がいた。我がベルン村の男性陣を思わせるこの人は、分厚い唇と大きな顔に、小さな目がやや不釣りあいな顔の造作をしていた。
それに続いてランドランナー族の小柄な体躯の男性の姿がある。
ランドランナーは成人であっても人間の子供程度の外見をしており、耳は角の丸い四角形でやや横に長い。足の裏には分厚い皮の上に毛が生え揃っていて、裸足で素早く地上を走る事が出来るため、草原の小人とも呼ばれる。
どうやら面接の場にオリヴィエはいないようだが、公平を期する為かな?
第一声を放ったのは老教師であった。
「座りなさい」
「はい。ベルン村のドランです。本日はよろしくお願いいたします」
椅子の横まで歩き、鞄は足元に置いて一礼してから腰を下ろす。深くは腰掛けず、面接官達からの視線を受け止める。
見世物になった気分だが、これもまた一つの経験であろう。私はふむ! と心の中でだけ気合いを入れて、胸を張りながら面接官達との問答を始める。
四人の面接官からは特にこれといって奇異に感じられるような質問もなく、それなりの時間言葉を交わした後、面接の終わりを老教師に告げられた。
去り際に一礼し、私は部屋の外で待っていたアリスター先生と合流する。合否の通知は後日村に届けられるそうだが、面接でも大きな失敗はなかったし、九分九厘大丈夫だろうと思いたい。
しん、と静まる学院の廊下に、私とアリスター先生の足音だけが、かつん、かつんと一定の拍子で連続して響く。
不意に、私の前を行くアリスター先生が前を向いたまま私に声をかけて来た。
「君は非常に興味深い生徒だ。筆記試験、実技試験を受けていた時の様子。それにこうして歩いている今も、足音と呼吸の拍子が学院に来た時から変わっておらん。そんな生徒を吾輩はこれまで見た事はなかった」
「足音と呼吸ですか? アリスター先生は耳が随分とよろしいのですね」
「さて、その返答は君の本心か、猫を被っておるのか」
聴覚及び触覚強化を用いるか大気や床の振動を感知して、私の呼吸や足音の拍子に変化がない事に気づいたのだろう。前者ならば基本的な技術である魔力による肉体活性の強化魔法、後者ならば風系統の魔法を得手としているか。
「吾輩の指摘を受けても息一つ呑まん。君は見た目通りの生徒だと思ってはならぬようだ。デンゼル師も仰っていたが、実際に会った事で吾輩も確信した。言葉は悪いが、君は異常と言える。この場合は良い意味でね。君は入学すれば必ずや南と西の学院への対抗馬としての期待を背負わされるだろう。あまり楽しい学院生活にはならぬかもしれんが、そこは君の努力次第でいくらでも変えられる。勉学以外にも学ぶべき事は多いし、魔法学院で君のやる事はいくらでもあるだろう」
西の天才と南の天才とやらが、今後私の学院生活で鍵となるらしいな。どちらも数十年に一人の傑物というが、実際はどれほどのものかという興味は既に私の胸中にあった。デンゼルさんに続いて、アリスター先生からも私が魔法学院に求められる理由として聞かされれば当然と言えよう。
とはいえ、アリスター先生は少々内部事情を晒しすぎではないだろうか。先の言葉通り、私をただの少年として扱わないからこそなのかもしれないが、夢と希望を持って魔法学院に入学しようという私を前にこのような裏の事情を口にするのは、褒められた事ではないだろう。
「これから入学しようという生徒にそういった事情を明かすのは、いかがなものかと思いますが」
私の言葉を受けてもアリスター先生はまるで意に介した風もなく、私に背を向けたまま言葉を続ける。
「安心したまえ。君は聞かせても大丈夫な生徒だと思うからこその発言だよ。その程度の分別ならば吾輩も持ち合わせているのでな」
アリスター先生は中々食えない御仁のようだが、そういう意味ではあのハイエルフの学院長も同様か。
個性が強すぎて食えない相手と言うのは、神々の中にも腐るほどいたものだ。あのアクの強い連中と付き合ってきた経験のある私からすれば、むしろそういった相手こそ付き合いやすい面があるのも確かである。このガロア魔法学院で過ごす時間は、私から命と心をも蝕む退屈という最大の天敵を忘れさせてくれるに違いない。
エントランスホールには、やや落ち着かない様子のデンゼルさんの姿があった。
「ご苦労だったな、ドラン。うむ、その様子では特に失敗はなかったようだが」
「出来る限りの事をしました。後は運を天上の神々に委ねるのみです」
とは言うものの、私の場合大っぴらに神々に結果を委ねるわけにはいかない。顔が利きすぎて神々が無用な配慮をする可能性が高いのだ。地上世界広しといえど、このような事情がある者など、私を含めて片手の指ほどもおるまい。今の言葉が大地母神マイラールに届いていませんように、と祈るべきか。
「デンゼルさん、試験は終わったようですが、他に何かしなければならない事はありますか?」
緊張も安堵もなく、至って平静な態度を崩さぬ私に、デンゼルさんは呆れ混じりの表情を浮かべた。
「いや、お前が今日この魔法学院でせねばならん事はこれですべて終わりだ。私はこのままこちらに残るが、お前はこれで帰って構わんよ。帰りの馬車は私の方で手配しておいた。正門のところにもう来ているから、それに乗って帰るといい。馬車に土産を積んでおいたから、村の皆に配っておいてくれ」
デンゼルさんの気配りは大変にありがたく、私は素直にそのご厚意に甘える事にした。
「分かりました。お心遣い、ありがたく頂戴します」
魔法学院の窓の向こうを見れば、来た時には青一色の空が広がっていたのに、今では橙色に染まっている。
私は二人の教師達に礼と別れの言葉を告げてから、エントランスホールを辞し、デンゼルさんの手配した帰りの馬車でベルン村への帰途についたのだった。
第二章―――― 龍宮への誘い
試験を終え村に戻った私は、農作業の傍ら村の北に聳えるモレス山脈へも変わらず足を運び続けていた。
気性の荒い深紅竜のお嬢さん――ヴァジェや、穏やかで育ちの良さが窺える水龍の瑠禹と遭遇した事からも分かる通りに、モレス山脈には私が知らなかっただけで、何体もの我が同胞が棲息している。
彼女達との遭遇以来、私は時折暇を見つけては村での農作業や狩りと並行して竜の分身体を周辺の山脈などに飛ばし、空中散歩をするのが日課となっていた。
その日課のお蔭で、私は新たにヴァジェ以外のモレス山脈に棲む竜らと知遇を得る事となった。
麗らかな日差しの降り注ぐある日、私はモレス山脈に大小無数に点在する湖の一つに降り立って、そこに棲むある水竜と話しこんでいた。
この新しい知己となった水竜は名をウェドロと言い、蛇のように細長い胴体を煌めく青い鱗で覆い、四肢と翼から変化した、それぞれに大きさの異なる六枚の鰭を持つ。
淡い肌の色に近い皮膜を持った鰭は空を飛ぶ力を失っているが、その代わりに水中ではどんな魚よりも速く泳ぐ事を可能とし、また竜語魔法を用いれば翼がなくとも空を飛ぶ事も出来た。
ウェドロは、私が人間として使用している大陸公用語も流暢に操る事が出来る。
標高が高く周囲に人間の住まないこの湖で、どうして公用語を学ぶ機会があったのか問うたところ、湖底と繋がっている地下水脈を通じて山脈の外に出た事があり、そこで人間や妖精族などと交流を持って学んだのだと言う。
また鏡のように澄みきった湖には水竜以外にも人魚が棲んでおり、ウェドロはこの湖の主として、またその人魚らの守護者として共に暮らしている。
人魚達の上半身は人間に近い姿だが、腰から下は魚のそれであり、湖の水と同じ色合いの鱗に包まれていた。耳は鰭のような形をしており、首には水中で呼吸する為の鰓があって、指と指の間には水掻きが生えている。
人魚の大部分は海を棲息地としている為、彼女らのように山脈の湖に居を構えている者達は珍しい。おそらくまだこの山脈が海の中にあった頃に付近に棲息しており、その後の地殻変動や天変地異などでこの山脈に取り残された者達の子孫なのだろう。
湖で獲れる魚や藻類、珊瑚などを採取して暮している人魚達は、自分達を〝ウアラの民〟と呼んでいる。今は湖の畔に降り立った私と水面から顔を覗かせる水竜の様子を遠巻きに見ていた。
人間の視力では向こう岸が見えないほどに広いこの湖だから、数百人に上る人魚達と水竜が共に暮らす事が出来たのだろう。
「そう言えばドラン、貴殿はあの深紅竜と顔見知りだとか」
意外な話題に私は少々驚いた。
「ヴァジェの事か? 顔見知りと言っても売られた喧嘩を買っただけにすぎない。その後も顔を合わせる度に稽古をつけているという付き合いだが、ウェドロも何やら因縁をつけられた事があるのか?」
「そういうわけではないが、随分と張りつめた様子で空を飛んでいる姿を湖の中より見かけたものでのう。あれがここに来たのは最近の話であるが、まだ親元を離れたばかりで心細いのであろう。それを誤魔化す為に虚勢を張っているように見受ける」
ウェドロの声は私の母と同じ年ごろの女性のようで、穏やかな気性とも相まってどこか落ち着く響きがある。
「ふむ、私もウェドロと同じ意見だな。あれは元々気性が激しいようではあるが、些か無理をしている風にも見えた。ウェドロとは棲む場所が違うから顔を合わせる事はないのだろうが、あの調子ならば風竜や地竜達にも食ってかかっておるかもしれんな。力を測り間違えて怪我などしなければ良いのだが」
「その言い方はまるで娘を案ずる父親のようだの、ドランや」
「ウェドロこそ種の違う竜の娘を相手に、随分と案じているように見えるぞ」
「なに、年を取ると若い者に要らぬお節介を焼いてやろうと考えてしまうもの。もっとも貴殿もヴァジェとそう年が変わらぬように見受けるのに、はて、なぜだかお節介を焼こうとは思わぬ。むしろ私と同じか年上の相手と話をしているかのようであるぞよ」
ふむ、鋭いな。実際私が若いのは肉体年齢だけの話であって、精神の年齢はこの地上のすべての竜種よりも上だ。
まして十六歳の若々しい人間の肉体から離れた今の私は、あるがままの魂の状態が晒されているに等しく、一層老成した雰囲気になってしまう。
「その方が気楽で良かろう。……それに、人間達の言葉にある通り、噂をすれば何とやらとだ。話題の主が空を飛んでおるわ」
私が視線を頭上へ向けると、ウェドロもそれに倣って鎌首を持ち上げた。私に気づいたヴァジェが頭上から射殺すような視線を向けてくる。
遠目に見てもヴァジェの全身から闘争心に満たされた魔力が炎となって噴きだしており、天空に竜の形をした小さな太陽が生じたかのようだ。
「ドランや、一体どれほどあの娘御を辱めたのかえ。この距離からでも私の鱗を打つほどの熱が届いておるわいな」
「別に辱めてなどおらんよ。初心な娘に恥辱を与えるような趣味はないのだからな」
「ならば良いが、何分男と女の事じゃ、何がどう転んで奇異な目が出るとも限らぬ。あまりひどい目に遭わすでないぞよ?」
「分かっておるよ。そろそろヴァジェが痺れを切らしそうだ。今日の話はここまでとしておこう。ではな、ウェドロよ」
「うむ。貴殿もつまらぬ怪我などせぬようにな」
ウェドロとの話を切り上げると、私は軽く翼を打ち、水面を揺らしてその場を飛び立った。
流石にヴァジェも見知らぬ水竜と話をしているところに挑みかかってくるほど短慮ではなかったが、私が向かってきているのを知るや、全身から放出していた炎の量と熱を更に増し闘志を高めている。
私との初遭遇以来重ね続けた敗戦がよほどヴァジェの自尊心を傷つけたようだが、それにしても私と遭遇したら即座に戦闘態勢を取るほど意識される事になるとは。自分の行いがどんな形で返ってくるのか分からぬものだ。
「ヴァジェ、随分と怖い顔を……」
「お前と話す事など、私にはない! 過日に受けた屈辱、万倍にして返してくれるわ!!」
私の言葉を遮ったヴァジェは、自らの言葉を現実のものとすべく、開いた口腔の奥に紅蓮の炎を滾らせる。
ふむっふん。親元から離れて神経を尖らせているにしても、これは些か過敏に反応しすぎだろう。いっそ背を向けてこれ以上関わりを持たぬようにしようか、とも考えたが、せっかく出会った相手だ。縁をこれっきりで終わらせては勿体ない。
私はヴァジェの気が済むまで相手をする事を決め、この分身体を構築する魔力を励起させた。
戦闘態勢を整える私に、ヴァジェが吠える。
「灰も残さんぞ!」
ごう、と目一杯開かれたヴァジェの口の奥から、火竜の上位種である深紅竜ならではの高温の火炎が私を目がけて吐きだされた。人間の操る耐火魔法などでは数十人がかりで施したとしても、気休めにすらならない熱量だ。
「私でなければそうなったかもしれんな」
私は視界を埋める火炎を紙一重の距離で回避し、そのまま火炎を吐き続けるヴァジェへと迫る。
当然、ヴァジェは私を焼き尽くさんと火炎を吐き続けながら、私の後を追って首を動かす。
青い空にヴァジェの吐く火炎の赤が私の後を追ってあちらへこちらへと伸び、周囲の大気に火の属性を帯びた魔力が散逸していった。
一向に火炎が当たらず、私との距離が急激に詰まっている事から、ヴァジェは火炎の放射を中止し、周囲に散逸した自分の魔力といまだ燃えている火の粉への干渉を行い始める。ふむ、この前の戦いで私にやられた事をきちんと学習しているらしい。善きかな善きかな。
「これなら避けようがあるまいっ!」
勝利の予感に浮かれるヴァジェの咆哮と共に、突如として生じた紅蓮の炎が私の周囲の空間を一斉に呑み込んだ。
僅かな時間の誤差もなく、ヴァジェが周囲の魔力と火の粉を触媒にして、鋼鉄を蒸発させるほどの熱を持った炎を広範囲に生じさせる。
炎は瞬く間に私の全身を包み込み、私の周囲に炎のない空間はなかった。
痛みと共に教えた技術ではあるが、この短期間でここまで扱えるようになった事は称賛に値する。
だが、私は心中の称賛とは裏腹に、ヴァジェを落胆させる言葉を口にせねばならない。
「避けようはないが、防ぎようならあるぞ、お嬢さん」
私はヴァジェの放った火炎を上回り、一切寄せつけぬほどの更なる高熱の火炎を全身の鱗に生じさせた。
私があえて火炎を用いてヴァジェの火炎を防ぐ選択肢を採ったのは、今のヴァジェにとって自分と同系統で、かつ格上の竜との戦いこそが最良の経験となると考えたからである。
「ええい、白竜が私を相手に火を使うか!」
「種族の特性はもちろん重要であるが、世には外見を裏切る手合いもいる事を知らねば、思わぬところで痛い目を見るぞ」
「そのように上から見下した物言いばかりをして、だから貴様は気に入らんのだ!」
再びヴァジェは全身に炎を纏う。ただし今度は紅蓮の色ではなく鱗と同じ深紅の色をした炎であった。
おそらくヴァジェの出し得る最大熱量の炎であろう。ヴァジェの深紅竜の魔力が練りこまれた炎は、物質のみならず霊魂すら燃やす真の竜種の炎。
私の振る舞いがヴァジェの逆鱗をこれでもかというくらいに刺激してしまったようだ。さて、では目障りな年長者らしく、血気盛んな若者の相手をしてみせようか。あまりに怒らせて周りに被害が出ないようにせねばなるまいが。
私はヴァジェから仕掛けてくるのを待ち、その都度攻撃を防ぎ、避け、時に反撃を織り交ぜて戦い続けた。
おそらくヴァジェにとって、自分より火の扱いに長けた竜種は父母や兄弟などの親族だけだったのであろう。白竜でありながら火竜の自分以上に火炎を扱ってみせる私に対し、驚きを隠せないでいた。
それでもまだ私に対して火炎を使って攻撃を仕掛け続けるのは、彼女の深紅竜としての矜持のゆえか。
だが全霊をもって放つ炎が私の鱗にすら届かず、時には私の炎の勢いによって自らの炎が焼き消される事が続けば、気位の高い彼女も流石にその愚を悟ったようだ。
ヴァジェはこのまま勝ちの目の見えない火炎の応酬を続けるか、あるいはそれ以外の――例えば肉弾戦に持ちこんで私と戦うか、逡巡を見せた。
ふむ、炎の扱いに関してはもう十分か。次は取っ組みあっての戦いにするか。
私はヴァジェの迷いを見逃さず、すぐさま周囲の大気への干渉を行い、翼の一打ちで急加速。風の砲弾と化した私は、ヴァジェに反応する間も与えず、手を伸ばせば届く距離まで接近する。
同等の体格の相手との戦いに慣れていないヴァジェは、全力で腕や尻尾を振るうが、間合いを詰められた事への動揺から動作に余分な力が込められており、私が回避するのは容易かった。
巨人種でも一撃で首をへし折られる腕の一振りを掻い潜った私は、伸びきったヴァジェの左腕に組みつき、その勢いと体重を活かしてヴァジェを空中で仰向けに倒した。
組みついたまま翼を動かし、並行して重力への干渉も行い、無理な体勢のまま私とヴァジェの双方を空中に浮かべ続ける。
抵抗するヴァジェは首を伸ばして私に火炎弾を叩きこもうとするが、私はヴァジェの左腕に足を絡めてこれを制した。そのまま体重をかけてヴァジェの左腕をぎりぎりと締め続け、降参するのを待つ。
ヴァジェもしばらく耐え続けたものの、流石に左腕を壊されては堪らぬと、尻尾を使って私に降参の意を示してきた。
ヴァジェの尻尾がぺちぺちと弱々しく私の足を叩く。
「ぐ、ぐぬぅぅううう……」
「む、すまぬ、少し力を入れすぎたか」
私は短く謝罪の言葉を述べてから締め上げていたヴァジェの左腕を解放し、軽く翼を動かしてふわりと体を離す。
まだ痛みが骨の髄まで残っているのか、ヴァジェは仰向けに倒れていた体を起こして左腕をしきりに擦っている。私に無様な姿を見せまいと、前屈みの姿勢になって必死に堪えているようだが、噛み締めた牙の間からは苦痛の唸り声が零れていた。
私は首を伸ばしてヴァジェの顔を覗きこんだ。
「骨が折れてはおらんはずだが、腱を痛め……」
その時、隙を見出したヴァジェが私の首根っこに牙を突き立てようと身を翻した。
「ぐるうぉああ!!」
すかさず私は、ヴァジェの脳天に拳骨を叩きこんでこれを抑えこむ。
「ふむ」
「がっ!?」
演技が下手すぎて見え見えである。ヴァジェのあまりの大根役者ぶりに、私はこの女竜に腹芸は無理だと確信する。良く言えば裏表がないとも言えるが……
「殺気を抑えるくらいの芸当はせんと、そんな演技で騙される者はおらぬぞ。ヴァジェよ、そなたは些か直情的にすぎるな。老竜の年頃になれば落ち着きは得られるであろうが、今のうちから頭に血が上らぬように自制せぬと、冗談ではなく寿命を縮めかねんぞ」
「つぅ……私の命は私だけのものだ。お前にとやかく言われる筋合いはない。第一、私とさして変わらぬ成竜の貴様が、分別臭い年寄りめいた事を口にしても、説得力などないわ」
最古の竜であった私の言動に、まだ若いヴァジェが年寄り臭さを感じるのは仕方のない事だが、なまじ分身体の外見がヴァジェとそう年齢の変わらぬ成竜である事も、ヴァジェの反発を買う理由の一つになってしまっているようだ。
ただまあ、以前私が教えた戦い方の工夫を頭の片隅で考える程度の事はしているようではある。以前と同じように私が翼を畳んで急制動をかけ、背後を取ろうとする動きにも反応していたし、私の教えを完全に無視しているわけではないらしい。
若者の成長は早い。私の言葉から学んで手強さを増すヴァジェの姿に、私は若者の特権だなと感慨深いものを覚える。
「しかしヴァジェよ、お前のその気性では番となる雄が見つからぬぞ。母御と父御に孫の顔を見せてやろうという殊勝な考えはないのか?」
それこそ父母のような気持ちで問う私に、ヴァジェは深紅色の鱗で覆われた顔に何を言っているんだこいつはと、盛大に疑問符を浮かべた。
人間に換算すればクリスティーナさんより一つ二つ上といった年齢のヴァジェにとって、まだ自分が母親になるという事に対する実感はまるでないのだろう。
「夢にも考えた事はないわ。第一、お前に心配される事でもない!」
「だからその短気を直せと言うに。元気は有り余っておるようだが、もう一戦交える気にはならぬし、今日はこれくらいで切り上げるとしよう。ではヴァジェよ、またな」
「次こそ貴様の全身を紅蓮の炎で包んでくれる」
「それは楽しみだな、お嬢さん」
私のお嬢さん発言を受けて、ヴァジェが口内に紅蓮の炎を溜め込むのが見えた。私はやれやれと言う代わりに、翼を大きく広げてその場から飛び上がる。
瞬く間に背後のヴァジェは小さな深紅色の点に変わった。ヴァジェは私の姿が見えなくなってもなお、私の姿を思い描いて虚空を睨み続けていただろうと容易に想像出来た。
ふむ、なんとも元気なお嬢さんである。これはもうしばらく付き合って、鍛えてみるとしよう。
†
「ねえ、ドラちゃん」
上も下もなく、右も左もなく、方向という概念が意味を成さない白一色の空間に、黒衣のドレスを纏った女がいた。
褐色の肌に黄金の髪を長く伸ばし、炎を閉じこめたような赤眼が輝くその女は、破壊と忘却を司る邪悪なる大女神カラヴィスである。
「ここにはぼくとドラちゃんの二人っきりだよ。永遠処女のマイラールも、戦馬鹿のアルデスも、姉を敬う事を知らないケイオスもいない。素敵だねえ。ぼく達の愛の巣に土足で上がりこんで来るお邪魔虫はいないんだもの」
人間の創造神の一柱である大地母神マイラールと対を成すと言われる女神であり、数多存在する魔界の邪神達の中でも有数の力を持つ悪しき神、カラヴィス。
「ああ、ドラちゃん、ドラちゃん、ドラちゃん。君が死んでくれて本当に良かった。君が生まれ変わってくれて本当に良かった。君がこうしてぼくのものになってくれて本当に幸せだよ。君がもうぼくに牙を向ける事がなくなって本当に不幸だよ。ああ、ドラちゃん。君が死んでしまっている間、ぼくはこれまでにないほどに喜びに胸を躍らせ、そしてすぐさま底知れない悲しみと寂しさと、いや、いやいやいや、到底言葉では言い表せない何かに襲われてしまったんだ。……なんて事だろうね、ドラちゃん。ぼくにとってマイラールやケイオス以上に煩わしく目障りで憎らしくて邪魔なはずの君の事が、ぼくは大大大大大大大好きになってしまっていたんだよ?」
ドランが人間へと転生するまでの間、胸の内に溜めこんだあらゆる感情を吐きだしながらも、カラヴィスはどこまでも美しく無垢な笑みを浮かべていた。
「笑える話じゃないか。破壊と忘却を司る女神たる、このぼくが! 大邪神カラヴィスが! 唯一破壊する事も忘れる事も出来なかった君に心奪われ愛してしまうなんて! だからだからだからドラちゃん、君はもうぼくの目の前から消えないでおくれ。君がいなくなってしまっては、ぼくは、そう、生きる張り合いがないのさ。ぼくの魂は絶対に君の存在を必要としているのさ。ああ、だから、ドラちゃん、ああ――」
カラヴィスの心の内に無限に湧き出る愛と、憎悪と、虚しさと、悲しみと、狂気が言葉という形を持って更に紡がれようとした時、心底嫌そうなドランの声が遮った。
「ふむ、気持ちは嬉しいが話が長すぎるぞ」
扉を開いた先には、白いカーテンを引いた窓を背にして長机に腰掛けた四人の魔法教師達の姿があった。
真ん中の席には、赤いローブを纏い、山羊のように長く白い髭を伸ばし、髭と同じく真っ白い髪を長く伸ばした老人。
二人目は白いものが交じる茶髪を後頭部で団子状に纏め、薄紫色のドレスに身を包んだふくよかな四十代前後の女性。
それから魔法使いらしからぬ、まるで巨岩から削りだしたような巨漢がいた。我がベルン村の男性陣を思わせるこの人は、分厚い唇と大きな顔に、小さな目がやや不釣りあいな顔の造作をしていた。
それに続いてランドランナー族の小柄な体躯の男性の姿がある。
ランドランナーは成人であっても人間の子供程度の外見をしており、耳は角の丸い四角形でやや横に長い。足の裏には分厚い皮の上に毛が生え揃っていて、裸足で素早く地上を走る事が出来るため、草原の小人とも呼ばれる。
どうやら面接の場にオリヴィエはいないようだが、公平を期する為かな?
第一声を放ったのは老教師であった。
「座りなさい」
「はい。ベルン村のドランです。本日はよろしくお願いいたします」
椅子の横まで歩き、鞄は足元に置いて一礼してから腰を下ろす。深くは腰掛けず、面接官達からの視線を受け止める。
見世物になった気分だが、これもまた一つの経験であろう。私はふむ! と心の中でだけ気合いを入れて、胸を張りながら面接官達との問答を始める。
四人の面接官からは特にこれといって奇異に感じられるような質問もなく、それなりの時間言葉を交わした後、面接の終わりを老教師に告げられた。
去り際に一礼し、私は部屋の外で待っていたアリスター先生と合流する。合否の通知は後日村に届けられるそうだが、面接でも大きな失敗はなかったし、九分九厘大丈夫だろうと思いたい。
しん、と静まる学院の廊下に、私とアリスター先生の足音だけが、かつん、かつんと一定の拍子で連続して響く。
不意に、私の前を行くアリスター先生が前を向いたまま私に声をかけて来た。
「君は非常に興味深い生徒だ。筆記試験、実技試験を受けていた時の様子。それにこうして歩いている今も、足音と呼吸の拍子が学院に来た時から変わっておらん。そんな生徒を吾輩はこれまで見た事はなかった」
「足音と呼吸ですか? アリスター先生は耳が随分とよろしいのですね」
「さて、その返答は君の本心か、猫を被っておるのか」
聴覚及び触覚強化を用いるか大気や床の振動を感知して、私の呼吸や足音の拍子に変化がない事に気づいたのだろう。前者ならば基本的な技術である魔力による肉体活性の強化魔法、後者ならば風系統の魔法を得手としているか。
「吾輩の指摘を受けても息一つ呑まん。君は見た目通りの生徒だと思ってはならぬようだ。デンゼル師も仰っていたが、実際に会った事で吾輩も確信した。言葉は悪いが、君は異常と言える。この場合は良い意味でね。君は入学すれば必ずや南と西の学院への対抗馬としての期待を背負わされるだろう。あまり楽しい学院生活にはならぬかもしれんが、そこは君の努力次第でいくらでも変えられる。勉学以外にも学ぶべき事は多いし、魔法学院で君のやる事はいくらでもあるだろう」
西の天才と南の天才とやらが、今後私の学院生活で鍵となるらしいな。どちらも数十年に一人の傑物というが、実際はどれほどのものかという興味は既に私の胸中にあった。デンゼルさんに続いて、アリスター先生からも私が魔法学院に求められる理由として聞かされれば当然と言えよう。
とはいえ、アリスター先生は少々内部事情を晒しすぎではないだろうか。先の言葉通り、私をただの少年として扱わないからこそなのかもしれないが、夢と希望を持って魔法学院に入学しようという私を前にこのような裏の事情を口にするのは、褒められた事ではないだろう。
「これから入学しようという生徒にそういった事情を明かすのは、いかがなものかと思いますが」
私の言葉を受けてもアリスター先生はまるで意に介した風もなく、私に背を向けたまま言葉を続ける。
「安心したまえ。君は聞かせても大丈夫な生徒だと思うからこその発言だよ。その程度の分別ならば吾輩も持ち合わせているのでな」
アリスター先生は中々食えない御仁のようだが、そういう意味ではあのハイエルフの学院長も同様か。
個性が強すぎて食えない相手と言うのは、神々の中にも腐るほどいたものだ。あのアクの強い連中と付き合ってきた経験のある私からすれば、むしろそういった相手こそ付き合いやすい面があるのも確かである。このガロア魔法学院で過ごす時間は、私から命と心をも蝕む退屈という最大の天敵を忘れさせてくれるに違いない。
エントランスホールには、やや落ち着かない様子のデンゼルさんの姿があった。
「ご苦労だったな、ドラン。うむ、その様子では特に失敗はなかったようだが」
「出来る限りの事をしました。後は運を天上の神々に委ねるのみです」
とは言うものの、私の場合大っぴらに神々に結果を委ねるわけにはいかない。顔が利きすぎて神々が無用な配慮をする可能性が高いのだ。地上世界広しといえど、このような事情がある者など、私を含めて片手の指ほどもおるまい。今の言葉が大地母神マイラールに届いていませんように、と祈るべきか。
「デンゼルさん、試験は終わったようですが、他に何かしなければならない事はありますか?」
緊張も安堵もなく、至って平静な態度を崩さぬ私に、デンゼルさんは呆れ混じりの表情を浮かべた。
「いや、お前が今日この魔法学院でせねばならん事はこれですべて終わりだ。私はこのままこちらに残るが、お前はこれで帰って構わんよ。帰りの馬車は私の方で手配しておいた。正門のところにもう来ているから、それに乗って帰るといい。馬車に土産を積んでおいたから、村の皆に配っておいてくれ」
デンゼルさんの気配りは大変にありがたく、私は素直にそのご厚意に甘える事にした。
「分かりました。お心遣い、ありがたく頂戴します」
魔法学院の窓の向こうを見れば、来た時には青一色の空が広がっていたのに、今では橙色に染まっている。
私は二人の教師達に礼と別れの言葉を告げてから、エントランスホールを辞し、デンゼルさんの手配した帰りの馬車でベルン村への帰途についたのだった。
第二章―――― 龍宮への誘い
試験を終え村に戻った私は、農作業の傍ら村の北に聳えるモレス山脈へも変わらず足を運び続けていた。
気性の荒い深紅竜のお嬢さん――ヴァジェや、穏やかで育ちの良さが窺える水龍の瑠禹と遭遇した事からも分かる通りに、モレス山脈には私が知らなかっただけで、何体もの我が同胞が棲息している。
彼女達との遭遇以来、私は時折暇を見つけては村での農作業や狩りと並行して竜の分身体を周辺の山脈などに飛ばし、空中散歩をするのが日課となっていた。
その日課のお蔭で、私は新たにヴァジェ以外のモレス山脈に棲む竜らと知遇を得る事となった。
麗らかな日差しの降り注ぐある日、私はモレス山脈に大小無数に点在する湖の一つに降り立って、そこに棲むある水竜と話しこんでいた。
この新しい知己となった水竜は名をウェドロと言い、蛇のように細長い胴体を煌めく青い鱗で覆い、四肢と翼から変化した、それぞれに大きさの異なる六枚の鰭を持つ。
淡い肌の色に近い皮膜を持った鰭は空を飛ぶ力を失っているが、その代わりに水中ではどんな魚よりも速く泳ぐ事を可能とし、また竜語魔法を用いれば翼がなくとも空を飛ぶ事も出来た。
ウェドロは、私が人間として使用している大陸公用語も流暢に操る事が出来る。
標高が高く周囲に人間の住まないこの湖で、どうして公用語を学ぶ機会があったのか問うたところ、湖底と繋がっている地下水脈を通じて山脈の外に出た事があり、そこで人間や妖精族などと交流を持って学んだのだと言う。
また鏡のように澄みきった湖には水竜以外にも人魚が棲んでおり、ウェドロはこの湖の主として、またその人魚らの守護者として共に暮らしている。
人魚達の上半身は人間に近い姿だが、腰から下は魚のそれであり、湖の水と同じ色合いの鱗に包まれていた。耳は鰭のような形をしており、首には水中で呼吸する為の鰓があって、指と指の間には水掻きが生えている。
人魚の大部分は海を棲息地としている為、彼女らのように山脈の湖に居を構えている者達は珍しい。おそらくまだこの山脈が海の中にあった頃に付近に棲息しており、その後の地殻変動や天変地異などでこの山脈に取り残された者達の子孫なのだろう。
湖で獲れる魚や藻類、珊瑚などを採取して暮している人魚達は、自分達を〝ウアラの民〟と呼んでいる。今は湖の畔に降り立った私と水面から顔を覗かせる水竜の様子を遠巻きに見ていた。
人間の視力では向こう岸が見えないほどに広いこの湖だから、数百人に上る人魚達と水竜が共に暮らす事が出来たのだろう。
「そう言えばドラン、貴殿はあの深紅竜と顔見知りだとか」
意外な話題に私は少々驚いた。
「ヴァジェの事か? 顔見知りと言っても売られた喧嘩を買っただけにすぎない。その後も顔を合わせる度に稽古をつけているという付き合いだが、ウェドロも何やら因縁をつけられた事があるのか?」
「そういうわけではないが、随分と張りつめた様子で空を飛んでいる姿を湖の中より見かけたものでのう。あれがここに来たのは最近の話であるが、まだ親元を離れたばかりで心細いのであろう。それを誤魔化す為に虚勢を張っているように見受ける」
ウェドロの声は私の母と同じ年ごろの女性のようで、穏やかな気性とも相まってどこか落ち着く響きがある。
「ふむ、私もウェドロと同じ意見だな。あれは元々気性が激しいようではあるが、些か無理をしている風にも見えた。ウェドロとは棲む場所が違うから顔を合わせる事はないのだろうが、あの調子ならば風竜や地竜達にも食ってかかっておるかもしれんな。力を測り間違えて怪我などしなければ良いのだが」
「その言い方はまるで娘を案ずる父親のようだの、ドランや」
「ウェドロこそ種の違う竜の娘を相手に、随分と案じているように見えるぞ」
「なに、年を取ると若い者に要らぬお節介を焼いてやろうと考えてしまうもの。もっとも貴殿もヴァジェとそう年が変わらぬように見受けるのに、はて、なぜだかお節介を焼こうとは思わぬ。むしろ私と同じか年上の相手と話をしているかのようであるぞよ」
ふむ、鋭いな。実際私が若いのは肉体年齢だけの話であって、精神の年齢はこの地上のすべての竜種よりも上だ。
まして十六歳の若々しい人間の肉体から離れた今の私は、あるがままの魂の状態が晒されているに等しく、一層老成した雰囲気になってしまう。
「その方が気楽で良かろう。……それに、人間達の言葉にある通り、噂をすれば何とやらとだ。話題の主が空を飛んでおるわ」
私が視線を頭上へ向けると、ウェドロもそれに倣って鎌首を持ち上げた。私に気づいたヴァジェが頭上から射殺すような視線を向けてくる。
遠目に見てもヴァジェの全身から闘争心に満たされた魔力が炎となって噴きだしており、天空に竜の形をした小さな太陽が生じたかのようだ。
「ドランや、一体どれほどあの娘御を辱めたのかえ。この距離からでも私の鱗を打つほどの熱が届いておるわいな」
「別に辱めてなどおらんよ。初心な娘に恥辱を与えるような趣味はないのだからな」
「ならば良いが、何分男と女の事じゃ、何がどう転んで奇異な目が出るとも限らぬ。あまりひどい目に遭わすでないぞよ?」
「分かっておるよ。そろそろヴァジェが痺れを切らしそうだ。今日の話はここまでとしておこう。ではな、ウェドロよ」
「うむ。貴殿もつまらぬ怪我などせぬようにな」
ウェドロとの話を切り上げると、私は軽く翼を打ち、水面を揺らしてその場を飛び立った。
流石にヴァジェも見知らぬ水竜と話をしているところに挑みかかってくるほど短慮ではなかったが、私が向かってきているのを知るや、全身から放出していた炎の量と熱を更に増し闘志を高めている。
私との初遭遇以来重ね続けた敗戦がよほどヴァジェの自尊心を傷つけたようだが、それにしても私と遭遇したら即座に戦闘態勢を取るほど意識される事になるとは。自分の行いがどんな形で返ってくるのか分からぬものだ。
「ヴァジェ、随分と怖い顔を……」
「お前と話す事など、私にはない! 過日に受けた屈辱、万倍にして返してくれるわ!!」
私の言葉を遮ったヴァジェは、自らの言葉を現実のものとすべく、開いた口腔の奥に紅蓮の炎を滾らせる。
ふむっふん。親元から離れて神経を尖らせているにしても、これは些か過敏に反応しすぎだろう。いっそ背を向けてこれ以上関わりを持たぬようにしようか、とも考えたが、せっかく出会った相手だ。縁をこれっきりで終わらせては勿体ない。
私はヴァジェの気が済むまで相手をする事を決め、この分身体を構築する魔力を励起させた。
戦闘態勢を整える私に、ヴァジェが吠える。
「灰も残さんぞ!」
ごう、と目一杯開かれたヴァジェの口の奥から、火竜の上位種である深紅竜ならではの高温の火炎が私を目がけて吐きだされた。人間の操る耐火魔法などでは数十人がかりで施したとしても、気休めにすらならない熱量だ。
「私でなければそうなったかもしれんな」
私は視界を埋める火炎を紙一重の距離で回避し、そのまま火炎を吐き続けるヴァジェへと迫る。
当然、ヴァジェは私を焼き尽くさんと火炎を吐き続けながら、私の後を追って首を動かす。
青い空にヴァジェの吐く火炎の赤が私の後を追ってあちらへこちらへと伸び、周囲の大気に火の属性を帯びた魔力が散逸していった。
一向に火炎が当たらず、私との距離が急激に詰まっている事から、ヴァジェは火炎の放射を中止し、周囲に散逸した自分の魔力といまだ燃えている火の粉への干渉を行い始める。ふむ、この前の戦いで私にやられた事をきちんと学習しているらしい。善きかな善きかな。
「これなら避けようがあるまいっ!」
勝利の予感に浮かれるヴァジェの咆哮と共に、突如として生じた紅蓮の炎が私の周囲の空間を一斉に呑み込んだ。
僅かな時間の誤差もなく、ヴァジェが周囲の魔力と火の粉を触媒にして、鋼鉄を蒸発させるほどの熱を持った炎を広範囲に生じさせる。
炎は瞬く間に私の全身を包み込み、私の周囲に炎のない空間はなかった。
痛みと共に教えた技術ではあるが、この短期間でここまで扱えるようになった事は称賛に値する。
だが、私は心中の称賛とは裏腹に、ヴァジェを落胆させる言葉を口にせねばならない。
「避けようはないが、防ぎようならあるぞ、お嬢さん」
私はヴァジェの放った火炎を上回り、一切寄せつけぬほどの更なる高熱の火炎を全身の鱗に生じさせた。
私があえて火炎を用いてヴァジェの火炎を防ぐ選択肢を採ったのは、今のヴァジェにとって自分と同系統で、かつ格上の竜との戦いこそが最良の経験となると考えたからである。
「ええい、白竜が私を相手に火を使うか!」
「種族の特性はもちろん重要であるが、世には外見を裏切る手合いもいる事を知らねば、思わぬところで痛い目を見るぞ」
「そのように上から見下した物言いばかりをして、だから貴様は気に入らんのだ!」
再びヴァジェは全身に炎を纏う。ただし今度は紅蓮の色ではなく鱗と同じ深紅の色をした炎であった。
おそらくヴァジェの出し得る最大熱量の炎であろう。ヴァジェの深紅竜の魔力が練りこまれた炎は、物質のみならず霊魂すら燃やす真の竜種の炎。
私の振る舞いがヴァジェの逆鱗をこれでもかというくらいに刺激してしまったようだ。さて、では目障りな年長者らしく、血気盛んな若者の相手をしてみせようか。あまりに怒らせて周りに被害が出ないようにせねばなるまいが。
私はヴァジェから仕掛けてくるのを待ち、その都度攻撃を防ぎ、避け、時に反撃を織り交ぜて戦い続けた。
おそらくヴァジェにとって、自分より火の扱いに長けた竜種は父母や兄弟などの親族だけだったのであろう。白竜でありながら火竜の自分以上に火炎を扱ってみせる私に対し、驚きを隠せないでいた。
それでもまだ私に対して火炎を使って攻撃を仕掛け続けるのは、彼女の深紅竜としての矜持のゆえか。
だが全霊をもって放つ炎が私の鱗にすら届かず、時には私の炎の勢いによって自らの炎が焼き消される事が続けば、気位の高い彼女も流石にその愚を悟ったようだ。
ヴァジェはこのまま勝ちの目の見えない火炎の応酬を続けるか、あるいはそれ以外の――例えば肉弾戦に持ちこんで私と戦うか、逡巡を見せた。
ふむ、炎の扱いに関してはもう十分か。次は取っ組みあっての戦いにするか。
私はヴァジェの迷いを見逃さず、すぐさま周囲の大気への干渉を行い、翼の一打ちで急加速。風の砲弾と化した私は、ヴァジェに反応する間も与えず、手を伸ばせば届く距離まで接近する。
同等の体格の相手との戦いに慣れていないヴァジェは、全力で腕や尻尾を振るうが、間合いを詰められた事への動揺から動作に余分な力が込められており、私が回避するのは容易かった。
巨人種でも一撃で首をへし折られる腕の一振りを掻い潜った私は、伸びきったヴァジェの左腕に組みつき、その勢いと体重を活かしてヴァジェを空中で仰向けに倒した。
組みついたまま翼を動かし、並行して重力への干渉も行い、無理な体勢のまま私とヴァジェの双方を空中に浮かべ続ける。
抵抗するヴァジェは首を伸ばして私に火炎弾を叩きこもうとするが、私はヴァジェの左腕に足を絡めてこれを制した。そのまま体重をかけてヴァジェの左腕をぎりぎりと締め続け、降参するのを待つ。
ヴァジェもしばらく耐え続けたものの、流石に左腕を壊されては堪らぬと、尻尾を使って私に降参の意を示してきた。
ヴァジェの尻尾がぺちぺちと弱々しく私の足を叩く。
「ぐ、ぐぬぅぅううう……」
「む、すまぬ、少し力を入れすぎたか」
私は短く謝罪の言葉を述べてから締め上げていたヴァジェの左腕を解放し、軽く翼を動かしてふわりと体を離す。
まだ痛みが骨の髄まで残っているのか、ヴァジェは仰向けに倒れていた体を起こして左腕をしきりに擦っている。私に無様な姿を見せまいと、前屈みの姿勢になって必死に堪えているようだが、噛み締めた牙の間からは苦痛の唸り声が零れていた。
私は首を伸ばしてヴァジェの顔を覗きこんだ。
「骨が折れてはおらんはずだが、腱を痛め……」
その時、隙を見出したヴァジェが私の首根っこに牙を突き立てようと身を翻した。
「ぐるうぉああ!!」
すかさず私は、ヴァジェの脳天に拳骨を叩きこんでこれを抑えこむ。
「ふむ」
「がっ!?」
演技が下手すぎて見え見えである。ヴァジェのあまりの大根役者ぶりに、私はこの女竜に腹芸は無理だと確信する。良く言えば裏表がないとも言えるが……
「殺気を抑えるくらいの芸当はせんと、そんな演技で騙される者はおらぬぞ。ヴァジェよ、そなたは些か直情的にすぎるな。老竜の年頃になれば落ち着きは得られるであろうが、今のうちから頭に血が上らぬように自制せぬと、冗談ではなく寿命を縮めかねんぞ」
「つぅ……私の命は私だけのものだ。お前にとやかく言われる筋合いはない。第一、私とさして変わらぬ成竜の貴様が、分別臭い年寄りめいた事を口にしても、説得力などないわ」
最古の竜であった私の言動に、まだ若いヴァジェが年寄り臭さを感じるのは仕方のない事だが、なまじ分身体の外見がヴァジェとそう年齢の変わらぬ成竜である事も、ヴァジェの反発を買う理由の一つになってしまっているようだ。
ただまあ、以前私が教えた戦い方の工夫を頭の片隅で考える程度の事はしているようではある。以前と同じように私が翼を畳んで急制動をかけ、背後を取ろうとする動きにも反応していたし、私の教えを完全に無視しているわけではないらしい。
若者の成長は早い。私の言葉から学んで手強さを増すヴァジェの姿に、私は若者の特権だなと感慨深いものを覚える。
「しかしヴァジェよ、お前のその気性では番となる雄が見つからぬぞ。母御と父御に孫の顔を見せてやろうという殊勝な考えはないのか?」
それこそ父母のような気持ちで問う私に、ヴァジェは深紅色の鱗で覆われた顔に何を言っているんだこいつはと、盛大に疑問符を浮かべた。
人間に換算すればクリスティーナさんより一つ二つ上といった年齢のヴァジェにとって、まだ自分が母親になるという事に対する実感はまるでないのだろう。
「夢にも考えた事はないわ。第一、お前に心配される事でもない!」
「だからその短気を直せと言うに。元気は有り余っておるようだが、もう一戦交える気にはならぬし、今日はこれくらいで切り上げるとしよう。ではヴァジェよ、またな」
「次こそ貴様の全身を紅蓮の炎で包んでくれる」
「それは楽しみだな、お嬢さん」
私のお嬢さん発言を受けて、ヴァジェが口内に紅蓮の炎を溜め込むのが見えた。私はやれやれと言う代わりに、翼を大きく広げてその場から飛び上がる。
瞬く間に背後のヴァジェは小さな深紅色の点に変わった。ヴァジェは私の姿が見えなくなってもなお、私の姿を思い描いて虚空を睨み続けていただろうと容易に想像出来た。
ふむ、なんとも元気なお嬢さんである。これはもうしばらく付き合って、鍛えてみるとしよう。
†
「ねえ、ドラちゃん」
上も下もなく、右も左もなく、方向という概念が意味を成さない白一色の空間に、黒衣のドレスを纏った女がいた。
褐色の肌に黄金の髪を長く伸ばし、炎を閉じこめたような赤眼が輝くその女は、破壊と忘却を司る邪悪なる大女神カラヴィスである。
「ここにはぼくとドラちゃんの二人っきりだよ。永遠処女のマイラールも、戦馬鹿のアルデスも、姉を敬う事を知らないケイオスもいない。素敵だねえ。ぼく達の愛の巣に土足で上がりこんで来るお邪魔虫はいないんだもの」
人間の創造神の一柱である大地母神マイラールと対を成すと言われる女神であり、数多存在する魔界の邪神達の中でも有数の力を持つ悪しき神、カラヴィス。
「ああ、ドラちゃん、ドラちゃん、ドラちゃん。君が死んでくれて本当に良かった。君が生まれ変わってくれて本当に良かった。君がこうしてぼくのものになってくれて本当に幸せだよ。君がもうぼくに牙を向ける事がなくなって本当に不幸だよ。ああ、ドラちゃん。君が死んでしまっている間、ぼくはこれまでにないほどに喜びに胸を躍らせ、そしてすぐさま底知れない悲しみと寂しさと、いや、いやいやいや、到底言葉では言い表せない何かに襲われてしまったんだ。……なんて事だろうね、ドラちゃん。ぼくにとってマイラールやケイオス以上に煩わしく目障りで憎らしくて邪魔なはずの君の事が、ぼくは大大大大大大大好きになってしまっていたんだよ?」
ドランが人間へと転生するまでの間、胸の内に溜めこんだあらゆる感情を吐きだしながらも、カラヴィスはどこまでも美しく無垢な笑みを浮かべていた。
「笑える話じゃないか。破壊と忘却を司る女神たる、このぼくが! 大邪神カラヴィスが! 唯一破壊する事も忘れる事も出来なかった君に心奪われ愛してしまうなんて! だからだからだからドラちゃん、君はもうぼくの目の前から消えないでおくれ。君がいなくなってしまっては、ぼくは、そう、生きる張り合いがないのさ。ぼくの魂は絶対に君の存在を必要としているのさ。ああ、だから、ドラちゃん、ああ――」
カラヴィスの心の内に無限に湧き出る愛と、憎悪と、虚しさと、悲しみと、狂気が言葉という形を持って更に紡がれようとした時、心底嫌そうなドランの声が遮った。
「ふむ、気持ちは嬉しいが話が長すぎるぞ」
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