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2巻

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 部屋を出た私は、夜の帳が下りた村の中を目的の人物を追い求めて進む。
 魔兵達が退いたとはいえ襲撃がないとは言い切れぬ為、見かける人々は全員が緊張した雰囲気を纏っていた。
 大樹の合間を縫って進むと、ほどなくして無数の花々で覆われた一角に辿り着いた。ウッドエルフ達が日常生活で採取する花や草を栽培している場所らしいが、私はここに佇む人影に用があった。
 赤、白、紫、青、黄、緑、黒と色彩豊かな薔薇の咲く花畑の真ん中に、美しいと喩えるのも愚かな黒薔薇の精――ディアドラの姿があった。私は薔薇を踏んでしまわぬように気をつけながら、彼女に近づく。

「こんな夜更けに何の用かしら、ドラン?」

 ディアドラまで後十歩ほどの距離で、金鈴きんれいを鳴らしたかのような声が私の足を止めた。私の眼にはディアドラの長い黒髪ばかりが映り、彼女が今どんな顔をしているのかは窺い知れない。

「名前は憶えてくれたのだな。君を探していた」
「私を? 何かしら、私は今機嫌があまり良くないの。くだらない話をするようだったらお断りよ。さっさと戻って明日に備えなさい。人間の貴方には眠りが必要でしょう」
「お気遣い痛み入る。ところで、機嫌が良くないのは君の仲間達を殺した仇を見つけたからか?」

 風がないにもかかわらず、ディアドラの全身から放たれた一瞬の殺意に、薔薇の花弁が一斉に揺れた。
 ふむ、ラフラシアの事に関しては相当過敏になっているな。口を滑らせれば、いばらむちで一撃くらいはされる覚悟をした方が良さそうだ。
 ディアドラの声は、冥界に響く亡者の声のごとく凍えた響きを持っていた。

「ええ、そうよ。あの魔界の花の精の事を考えるだけで、おかしくなってしまいそうだわ。だから、不用意に近づかないで。今の私は何をするか分からないわ。せっかく増えた味方を傷つけたくはないの」
「ふむ、なるほど」

 そう呟いた時には、私は既にディアドラのかたわらに居た。ディアドラからすれば、唐突に私が隣に出現したかのように感じられたらしく、驚きと共に私を振り返る。

「いつの間に? いいえ、それよりも私が不用意に近づくなと言ったのは聞こえていなかったの?」

 まなじりけわしくするディアドラの瞳を見つめ返しながら、私はこう答えた。

「だから十分に用意して近づいたとも。それなら良いだろう?」

 ディアドラからすれば、すっとぼけた言い方に聞こえたかもしれない。

「……はあ、貴方、変わっているのね」

 根を上げたような溜息を吐くディアドラに、私は微苦笑した。
 私はそんなに変わり者かね。いや、中身が竜で、その感性と感覚が残っている間は、どうしたところで人間としては変わり者か。

「良く言われる。すっかり言われ慣れてしまったよ」
「そう。貴方の周りの人間の苦労が思いやられるわ」

 そこまで言わなくて良いと思うのだが、ふむん。それきりディアドラは口を閉じ、しばし私達は沈黙のままに時が流れるのに任せた。
 月は白々とした光を降り注ぎ、風は血の匂いを忘れて芳しい薔薇の香りと花々の密やかな囁きを運んでいる。
 言葉もなくただ月の光と風を浴びていると、魔界の者達との戦いは私達の見ている悪しき夢なのではないかとさえ思えてくる。
 不意にディアドラが口を開いた。沈黙の時は、どのような働きをもってこの黒薔薇の精の口を動かしたのだろうか。

「ラフラシアに殺された皆は良い子達だったわ。少し意地っ張りだったり、悪戯が好きだったり、ちょっとのんびりし過ぎているところのある子達だったけれど、あんな死に方をしていい子は一人もいなかった。いなかったのよ」

 ざわり、ざわり、と再び薔薇が悲鳴を上げた。

「だから許せない。生き残った私があの子達の恨みを晴らさなければならないのよ。たとえこの身を引き換えにしてでも、必ずあの女は殺す」

 ディアドラの憎しみに怯えて風は吹く事を忘れ、月は雲に隠れてディアドラの凶貌を見る事を恐れた。
 黒薔薇の精は鬼気迫る威圧感を周囲へ放っていた。
 ディアドラの鬼気ききを浴びた私の体温も、氷の張る水中に没しているかのごとく低下している。ディアドラの憎悪の何と深き事よ。
 ラフラシアの手にかかった花の精達は、親しい友であり、そして家族のような存在だったに違いない。私も父母や兄弟がそのような目に遭ったならば、目の前のディアドラと同様の鬼気を発する事だろう。

「そうか。ならその手伝いもしなければならんな」

 私は復讐をしても死んだ者達は喜ばない、といった類の言葉を口にはしなかった。
 仇討ちを止める理由は、何もなかったからだ。私がしなければならない事があるとするなら、ディアドラの復讐がその命と引き換えにならないよう、助力する事だろう。

「あっさりとしているのね。顔を合わせた事もなかった私達にここまで力を貸してくれるのは、報酬が目当てだからかしら? それともここが落ちれば自分達の村にも累が及ぶから?」
「ふむ、ここは素直に言うとしよう。ディアドラの言う通り報酬は嬉しいし、村に累が及ばないようにと思っているのも事実。だがそれ以前に、私は父母から、困っている者がいたら、自分のできる範囲で助けてあげなさい、と教わっている。エンテの森の民とは村の方でも付き合いのあった相手だし、私にできる事があったら力になりたいと思っている。たとえ報酬がなくても、私は君達の力となる事を選んだよ。私の言葉を信じるかどうかはディアドラに任せるが」
「そう。貴方は、そうね……信じられそう、と言う事にしておくわ」

 ふむん。断言はしてもらえないらしい。

「ドラン、貴方は変というか、不思議ね。貴方の眼を見ていると、どうしてだか落ち着くのよ。まるで魂の底まで見通されているみたいな気分になって、でもそれが不快ではない。貴方、本当に人間?」
「この身体は父母から賜った正真正銘の人間の身体だよ」
「ふうん、少し気になる言い方ね」
「気のせいだろう。それよりディアドラを探していたのは話をする為だけではなかった。ディアドラ、ラフラシアに傷を負わされているだろう?」
「何のことかしら?」
「ディアドラ」

 優しく言った私にじいっと見つめられて、ディアドラは小さく首を横に振って自分の負けを認めた。しなやかな右手の指が首の付け根からへそまでをゆるやかに撫でると、しゅるりしゅるりとドレスの生地が無数の小さな蛇のようにうごめいて左右に退いて行く。
 このドレスもまた、ディアドラの肉体の一部が変容したものなのだろう。
 そうして月光の下にあらわになったのは、そこにだけ月光が集中しているかのように、白く輝く豊かな乳房とつつましやかな臍の窪みがある腹部。
 見れば乳房の真ん中から臍の真上までが干乾びて黒く変色していた。一度触れたらその感触を生涯忘れる事のないだろう美肌は、今や見るも無残な醜悪な様相を呈している。

「本当に何でもお見通しなのね。心配しないで。戦いには影響はないわ」
「そうは行くまい。少し触っても?」
「ええ。こんな身体で良いのなら」

 ディアドラは小さく肩をすくめて、茶目っ気のある仕草でそう言った。黒薔薇の精という出自の為なのか、異性に肌を晒す事への羞恥心がさほどないらしい。
 私は繊細な硝子細工に触れるかのようにゆっくりと優しく、ディアドラの変色した肌に触れた。
 内側の半分ほどを惜しげもなく晒す乳房の真ん中から、形の良い臍の上まで指を滑らせれば、がさがさにかさついた感触が返って来る。
 単純に生命力を吸い取られただけでなく、魂そのものにも若干の衰弱が見られる。
 魂にまで影響を及ぼせるとなれば、ラフラシアはディアドラ同様に花の精としてはかなり高位の存在のようだな。

「触っても楽しいものではないのではなくって?」
「そんな事はない。ディアドラは魅力的過ぎて困る。私も健全な男だからな」
「あらそう? 私は艶事つやごととは縁遠いからそういう風に扱われた事はあまりないのよね。一応、魅力的と褒めてもらえたと解釈すればよいのかしら?」
「構わないよ。しかし、もう少し異性に対して警戒心を抱いた方がいいな」
「そういうものなのかしらね? ドリアードの皆は、美しい少年や逞しい男との交わりを随分楽しんでいるみたいよ」

 ドリアードとは樹木の精である。美しい女性と樹木とが融合した姿をしており、他種族の男性と交合してその精を糧とする。時には気に入った相手を自らの本体である樹木の中に引きずり込み、外の世界とは異なる時間の流れの中で愛を交わす事もあるという。

「あまり真に受けない方がいいぞ」

 どうもこの黒薔薇の精は見た目に反して随分素直と言うか、純真なところがあるらしい。これは街になど出たら悪い魔法使いか何かに騙されそうだ。そういう意味ではセリナと良い勝負だな。
 そんな感想を抱きながら、私がディアドラの身体に竜種の生命力を流し込むと、ディアドラの身体は乾いた地面が水を吸い込むように私の生命力を吸う。
 そうしていると、間もなくディアドラの変色した肌の上にほのかな虹色の光が浮かび、見る間に黒に変色していた肌が元の白へと戻って行く。

「これは! ますます貴方が人間かどうか疑わしくなってきたわね」
「少し不思議な人間と思ってくれると嬉しい」

 私は名残惜しさを感じながらディアドラの肌から指を離し、小さく笑う。ディアドラは深く詮索する事はせず、それ以上、私の事についても問い質しては来なかった。

「少し不思議な人間ね。そういう事にしておいてあげる。それとありがとう。傷を治してくれて感謝するわ。この戦いが終わったらドリアードに倣ったお礼をしてあげましょうか? 男の人ってそういうのが好きなのでしょう」
「たとえからかう為でも、君のような女性がそんな事を口にするのは感心できないな。それでは、私は宿に戻るよ」
「そう、貴方と話せて楽しかったわ。自分でも意外なほどにね。良い夢が見られる事を祈っているわ」
「ありがとう。君も身体と心を休めた方がいい」

 それだけを告げて、私とディアドラは今宵の逢瀬を終えた。
 夜は深くなっていた。私達と魔界の者達の戦いを見なければならぬ明日の太陽は、今日の夜を恨む事だろう。


     †


 サイウェストの者達が眠りの国に旅立っている頃、サイウェスト北部に四つある魔界門のうち、主たる最北の魔界門にゲオルグを筆頭にした四騎が集っていた。
 魔界門は断末魔の表情をした顔が無数に連なった金属製の枠に、長方形の黒い扉がめこまれた形状をしている。
 その魔界門の前にゲオルグとゲレンが門番のごとく立ち、周囲には無数の魔兵達が蠢いていた。周辺に木々はなく、地面は濃い紫色に変色し、所々でぶくぶくと泡立って弾けている。
 泡が弾ける度に、胃の中の物を全て吐き出さずにはいられないような悪臭が周囲に立ちこめる。
 魔界門の周囲は魔界からの浸食が進み、かつての生命に満ち溢れた森の姿を失っているが、月光だけは変わらず冷たく美しい光を注いでいた。
 静寂ばかりが満ちるかと思われた光景であるが、先ほどから腹の底まで響くような轟音がひっきりなしに続いていた。
 ドランとクリスティーナに傷を負わされたゲオルードが、魔兵相手に八つ当たりをしているのだ。
 ぶおっと凄まじい音と共に槍が振るわれる度に、五体の砕けた魔兵と共に抉られた魔界化した土が宙を舞っている。
 更にはラフラシアまで、自らの尖兵であるはずの魔兵を相手に八つ当たりをしており、周囲には魔兵のなれの果てである塵が山積みとなっていた。
 玉座とは到底言えぬ岩の上に女王然と腰かけたラフラシアの顔には、終始何の感情も浮かんでおらず、ディアドラ達と邂逅かいこうする時の為にあらゆる感情と力が溜めこまれているのは明白であった。

「全く、ゲオルードもラフラシアも度が過ぎるぞ。魔兵とて勝手に生まれてくるわけではないというに」

 苦々しく言い捨てたのはゲレンである。相棒の戦斧を地面に突き立て、それに寄りかかって楽な姿勢を取っている。
 兜状に変形している為に表情は窺い知れぬが、人間だったら下顎したあごを突き出して呆れ顔をしている事だろう。
 ゲレンの隣のゲオルグはと言えば、腕組みをした姿勢で沈黙を友とし、仲間の醜態にも動じた様子はなく、ゲレンがこいつ寝ているんじゃないのか? と疑うほどであった。

「おい、ゲオルグ、けいから何か言わんのか?」
「二人とも次の戦いに備えて気がたかぶっているのだろう。好きにさせておけ。それにゲレン、お前とて彼らとの戦いを待ち望んでおるだろう」

 幸いにしてゲオルグからの返事はあった。どうやら居眠りを決め込んでいたわけではないらしい。

「それはまあそうだな。あのクリスティーナという娘御は超人種という事を差し引いても、大した胆力と実力の持ち主だ。ラミアの娘もまだ鱗の固まりきらぬ子蛇といったところだが、なかなか見所がありよる」
「ふふん、楽しげな声を出すではないか。わしもあのドランという男の事を気に入った。久しく憶えのない戦いができると確信しておるよ」

 こうまで断言するゲオルグが珍しかったのか、ゲレンはほう、と嘘偽りのない感嘆の声を出した。
 ゲオルグとの縁は既に千年近いものになるが、こうまで特定の相手に入れ込む事は過去に二、三度あったかどうかだ。

「それは何よりだな。魔界や神界でもなければ、楽しめるような戦いには恵まれぬと思っていたが、地上でこうも楽しめるとは望外の喜……」

 ひと際大きな爆音と共に三十近い魔兵が宙を舞って、ゲレンの言葉を中断させた。
 ええい、とそれまでの上機嫌の仮面を乱暴に脱ぎ捨てて、ゲレンは戦斧を抜いてずんずんと地面を砕きながらゲオルードへと向かって行く。
 口論の末、ゲレンがゲオルードの頭を戦斧の腹で思いきり叩き、気を失わせてようやく魔兵の消費は抑えられた。
 そんな仲間達の姿を瞳に映しながら、ゲオルグは全く違うものを幻視していた。
 ドランと名乗ったあの人間の男が、戦いの最中で見せた戦闘能力。そしてそれを支えていた魔力と闘気。あれは、ゲオルグの記憶が正しければ間違いなく……

「かつて魔界の邪神と民を蹂躙じゅうりんし、虐殺し、戦慄せしめたいにしえの竜の力。その名を聞けば如何いかなる邪神や悪神といえども恐怖におののき、絶望の嘆きを漏らしたというあの御方ではあるまいが、竜が人間に姿を変えたかあるいは転生した個体か。いずれにせよ、血のたぎる戦いができよう。さあ、早く来い。戦いを待ち遠しく思うのは、実に久しぶりの事ぞ」


     †


 ディアドラとの会話を終えた後、私はもう一つの野暮用を済ませる為に長老の木に立ち寄った。明日の決戦に備えて自分にできることはまだ他にもある。セリナやクリスティーナさん、エンテの森の民達の身に及ぶ危険を少しでも減らせるならば、労を惜しむつもりはない。


 野暮用を済ませ用意された部屋に戻った私を、クリスティーナさんとセリナにフィオと妖精の少女マールを加えた四人が迎えてくれた。
 扉から入って左右の壁際に寝台が二つずつあり、壁には花の生けられた花瓶と、花の上で踊る妖精の透かし彫り細工のランタンが飾られている。
 板張りの床の上に巧妙精緻せいち刺繍ししゅうの施された厚手の絨毯じゅうたんの上に横になり、たっぷりの綿や繊維状にほぐした植物の茎を包んだクッションに身を預けて、セリナ達はゆったりとくつろいでいた。

「マールにフィオも来ていたのか。夜更かしをすると肌に良くないと聞くが」

 フィオはゆったりとした薄緑色の寝間着に着替えていた。滑らかな光沢の美しい生地は、エンテの森固有の蚕の糸を用いた品だろうか。袖や襟には薄い布地がひらひらと何重にも飾られている。
 こうの多い都市の方ではかなりの高値で取引できるかもしれない。
 フィオは私の言葉に手に持った木製の杯を持ち上げて答えた。

「大丈夫。ファレエナの蜜入りのこのフラワーティーを飲めば、いつまでも綺麗な肌のままでいられるのよ」

 そう答えるフィオの肌にはおよそ染みや汚れ、ニキビの類は一切見られない。
 ウッドエルフに限らず、エルフ種は総じて見目麗みめうるわしい種族であるが、日常の飲食物もその美貌を支える重要な要素というわけか。

「ふむ、まだ肌に気を使う年頃ではないだろうに」
「女の子はちっちゃな頃から綺麗きれいでいたいと思うものなのよ、ドラン」

 つんと澄ました顔で言うフィオの様子が面白くて、私は小さく肩を竦めながら答えた。

「それは一つ勉強になったな」

 おそらく実年齢三桁を超えているだろうウッドエルフが女の子ね。まあ、外見だけでいえば私とそう変わらぬくらいにしか見えぬし、フィオの言い分を否定する事もないだろう。
 私が空いている椅子に腰かけると、気を利かせたセリナが丸盆に杯と湯気の立つスープ皿を二つ載せて渡してくれた。
 よく見れば、杯とスープ皿には絡み合う蔦や木の枝とそこに実を結ぶ様々な果実、それをついばむ小鳥や花々といった彫刻がなされている。いずれも素晴らしい技量の匠が、腕を惜しまずに技を振るった賜物だろう。
 森の暮らしの中で、ウッドエルフの民達が培った芸術と美意識のごくわずかな一部に私は接しているのだ、と不意に思った。

「ドランさん、どうぞ。今日のお夕飯ですよ」
「ありがとう、セリナ。フィオからの差し入れかな」
「ええ。一緒に戦ってくれる人がお腹をすかせていたら大変だからね」
「とっても美味しいですよ。クリスティーナさんもセリナさんも美味しいって言ってくれたです」

 フィオの膝の上に葉脈製と思しいハンカチを敷いて腰を下ろしたマールが、両手に食べかけのクッキーを持ったまま、満面の笑みを私に向けていた。
 純真無垢な小さな妖精につられて、私の口元にも自然と笑みが浮かぶ。

「マールのお墨付きなら何の心配もいらないな。ありがたくいただこう」

 皿の中味は野菜がごろごろと入った澄んだスープと甘い匂いのする乳粥のようで、昼に干し肉とパンを入れただけの胃袋はぐう、と鳴いて空腹を主張する。
 どちらもこのエンテの森で採れる特有の食材を使ったウッドエルフの日常食なのだろう。
 既に他の者達は食事を終えていたようで、彼女達の皿は空になっている。
 スープには塩や胡椒などの味付けはほとんどされていないようだったが、野菜から出る甘味や旨味が複雑に絡み合い、素朴ながら実に味わい深く、毎日飲んでも飽きる事はないだろう。
 乳粥の方はとろとろになるまで煮込まれた麦の淡白さの中に、わずかに香る程度に入れられた蜂蜜の甘味が優しい味わいを引き立てていた。
 一口含むだけで瞬く間に麦の風味と蜂蜜の甘味とが広がり、ほっと心から安堵の息を吐く味わいに口中が満たされる。

「心の安らぐ味だな。これはいくらでも食べられそうだ」
「ふふ、気に入ってもらえたのなら何よりだわ。クリスティーナなんて、あっという間に食べちゃったのよ。綺麗な顔をしているのに気持ちのいい食べっぷりだったわ」
「恥ずかしいところを見せてしまったよ」

 とクリスティーナさん。美貌の白面に少しはにかんだ笑みを浮かべている。
 エンテの森に来るまでの間は簡素な保存食ばかりだったから、食が進むのは私も同意するが、この方は外見を裏切ってなかなか食の太い方らしい、と私は理解しつつあった。

「クリスティーナさんは、食は太いようだが、よくそれだけ引き締まった体型を維持できるものだと感心するよ」
「太りにくい体質なのさ。それに鍛錬を欠かした事はない。食べた分はきっちりと動いて消費しているつもりだし、今日はよく動いたからしっかり栄を養っておかないとね」
「でもクリスティーナさんは、本当に腰はきゅっと締まっているのに、出るところは出ていますよね。同じ女性としてすごく羨ましいです」
「それを言ったらセリナも同じだと思うが」

 やや遠慮がちにクリスティーナさんはセリナに返事をした。
 あまりこういった会話に慣れていないのか、それとも同年代の同性と話した事が少ないのか、クリスティーナさんの舌の動きは鈍い。

「私はどちらかというと精気が主食ですから、お腹や二の腕に余計なお肉は付きにくいんです」
「私からすればクリスティーナもセリナも十分、おっぱいは大きいし、腰も綺麗にくびれているようにしか見えないけどね。私達エルフはどうしても身体が華奢きゃしゃにできているから、筋肉はある程度つける事ができても、二人みたいに出るところが中々出ないのよ?」

 フィオは自分の腰やら胸やらをぺたぺたと触り始める。男の目の前でやるにはいささかはしたない、あるいは無防備な行為だ。
 さてフィオの体つきを見てみれば、なるほど確かに寝間着の胸元は控え目に隆起しているのみで、クリスティーナさんやセリナのように山なりの曲線を描いているわけではない。
 その分、きめ細やかな肌に覆われた手足はすらりと流麗な線を描きながら伸びていて、わずかでも力加減を間違えると、簡単に折れてしまいそうなほど華奢に見えた。
 野に咲く花のように可憐かれんはかなげな印象は、それもまた一つの美の形態ではあるが、フィオとしては今少し豊満という言葉に恵まれた体つきが良いらしかった。
 私が無遠慮にフィオの薄い寝間着に包まれた体を見ていると、非難の色を淡く含んだ視線が私の全身を貫いている事に気づく。
 色欲に突き動かされて視線を向けたわけではないのだが、どうも女性陣にはそのように捉えてはもらえなかったらしい。

「ドラン、人の事をじろじろ見るのは止めてもらえるかしら? あんまり褒められた事ではないと思うの」
「君も成人した男子だし、そういう事に興味があるのも理解はするが、もう少し時と場所をだね……」

 フィオは私をからかうような口調で、クリスティーナさんはと言えば気まずそうに視線を彷徨わせて、やんわりと私を窘める。
 口を動かさずにいたセリナはむすっと少し頬を膨らませて、縦にすぼまった瞳孔で私の顔に穴を開けるような視線を向けている。
 マールばかりが私達のやり取りを気にせずに、クッキーの残りを小さな口でかじっていた。

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