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1巻

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 水筒を返そうとドランさんに近付くと、ドランさんはそんな私の考えをどうやら見抜いたようで、水筒を受け取りながらこう言いました。

「セリナが私の知っているラミアとは随分違うものだから、つい面白くてね。それにセリナは最初に私と目が合った時は戸惑っていたようだが、もう随分と警戒の意識が薄れている。もう少し人間を警戒した方が良いと、つい思ってしまう程だよ」

 ドランさんに言われて、私はあっと思いました。そうです。ドランさんは人間さんなのです。そして私は魔物のラミア。
 なら当然のように人間さんはラミアの事を怖がって、刃を向けてきてもおかしくはないのです。
 可哀想な大地の精霊さんとの戦いで、ついうっかりと忘れていました。いけない、いけない。
 本当はこんなに近くに寄るつもりもなかったのに、少し手を伸ばせば届く距離にいるではないですか!

「あ、えっと、ご、ごめんなさい」

 何を言えば良いのか分からなくって、私は自分でも何を言っているの、と思いながら何故かドランさんに謝っていました。
 するとドランさんは小さく肩をすくめます。とても良く似合っている仕草でした。
 ドランさんの青い瞳は、優しい光に輝いていました。
 まるで良く晴れた日の空のような輝きです。ドランさんの目を見ていると、不思議と心が落ち着きました。
 どうしてでしょう? ドランさんが私を傷つける事はないと、何故か私は思っていたのです。

「謝る必要はないよ。私も君をどうこうしようというつもりはない。さ、それよりも早く着替えを済ませた方が良い」

 どうやらドランさんは私をいじめるつもりはないようです。
 パパとママから人間さんに迂闊に近付いてはいけない、と何度も言い含められていたので、正直人間さんの事はかなり怖かったのです。
 ですから、ドランさんの優しい言葉と表情に私はとても安心する事が出来ました。


 お互い相手に悪意がない事が分かったので、私は着替えをする為に荷物を隠してあるリザードさんのお家に、ドランさんと一緒に向かいます。
 このリザードさん達の集落にはもう誰も居なくて、ほとんどのお家は床が抜けたり、壁が壊れていたりしていて、とても棲めたものではありません。
 それでも見て回った中で、一番綺麗な形で残っていたお家の中に私は荷物を隠していました。多分、集落のおさだった方のお家なのでしょう。
 私が濡れた服を着替え、髪を濡らす泥水を拭う間、ドランさんは外で待っていてくれました。
 壁が崩れた所もあるので、着替えを覗かれちゃうかも、と少しどきどきしましたが、ドランさんはずっとお家の外で動かなかったのが気配で分かりました。
 着替えを終え、泥水を被った鞄を手に持ち、隠しておいた鞄を背負ってドランさんの所に戻ると、ドランさんは西の方に視線を向けていました。
 そういえばいつの間にかお日さまが傾いていて、夕暮れが近付いています。春の足音がだいぶ聞こえてきているとはいえ、まだまだ陽が落ちるのは早いのです。

「そろそろ野営の準備をした方が良い。服を乾かしがてら食事の準備もしよう。私はここで一夜を明かすつもりだったのだが、セリナの予定はどうなっているのかな?」
「私も今日はここで夜を明かすつもりでした。私の一族は水との親和性が高いですから、大地と水の力が共に強く存在しているこの沼地は、居心地が良いんです」

 服が濡れやすいのはちょっと困りますけど、と私が言うと、ドランさんは納得したようで一度首を縦に振り、辺りを見回します。
 お夕飯の準備をするとなると火が必要になりますし、空気の湿っているこの沼から少し離れた所の方が良いでしょう。
 辺りには木も生えていますし、倒木や折れた枝なども落ちてはいるのですが、どれも濡れていて火をけるのに向いてはいません。
 暗がりで野営の準備をするのは危ないですから、日が暮れる前に支度をしないと。

「急ぎましょう」
「ああ」

 幸い私が家を出る時に持ってきた食べ物はまだ十分に残っていましたし、ドランさんも元々一泊する予定だったようで、食べ物は持っていましたから、お夕飯に困る事はありませんでした。
 私達は沼地から離れ、地面の乾いた所を見つけて野営の用意を整えました。
 野営と言っても毛布を敷き、その上に横になってもう一枚毛布を被って眠るという程度の事です。
 まだ夜は冷え込みますから、火を絶やす訳には行きません。だから私とドランさんが交代で火の番をする事にしました。
 ラミアは基本的に寒さに弱い種です。なので私は下半身の蛇の胴体に重点的に毛布を巻き、頭からも毛布を被ります。私の荷物の多くは、この毛布で占められています。
 量が多いので嵩張かさばるし、重たいので旅で持ち歩くのはとても大変です。でも寒いのはもっと困るから、どうしても手放す事が出来ないのが悩みどころ。
 ドランさんは毛布からひょっこり顔を覗かせている私の正面で、手頃な岩の上に腰かけていて、今は野草や干し肉、お野菜を入れたスープのお鍋をかき回しています。
 本来人間さんが野営をする場合、日が暮れてから火を焚き食事の用意をするのは危険な行為です。
 野生の動物さんは火に興味を引かれる事が多いですし、調理する時に出る匂いをたどって近付いてきてしまう事もあるからです。
 でも今日は大丈夫。何故って私が居るからです。半人半蛇はんじんはんじゃの魔物のラミアである私の事を怖がって、簡単には近付いてこないでしょう。
 動物さんに怖がられているのがちょっと寂しいのは、私だけの内緒の秘密ですよ。
 毛布にくるまり、目の前の焚火でぽかぽかと体を温めた私は、久しぶりに誰かとお話が出来る事の喜びもあって、自分でも驚くくらいにお喋りになり、気付けばどうして私が旅をしているのかを話し始めていました。
 私が生まれ育ったのは、沼からもっと北のモレス山脈にあるラミアの隠れ里です。
 そこにはたくさんのラミアとその夫である他種族の男性、そして両者の間に生まれた子供達が暮らしています。
 その隠れ里には、十七歳になったラミアは里の外に出て自分の旦那様を見つける旅に出なければならないというおきてがあります。
 私もまたその掟に従って旦那様を見つける旅に出ているのです。
 ラミアは女性しか存在しない特殊な生態の種族です。男の子が生まれる事もありますが、その場合はラミアではなく夫と同じ種族の子供が生まれます。
 つまりラミアが子供を作る為には他種族の男性と夫婦になる必要があるのです。けれど、他種族の男性ならば誰でも良いという訳ではありません。
 ラミアは、元々は人間であった女性が呪われた事で誕生した種族です。
 全てのラミアには始祖しそからの呪いが受け継がれ、肉体の一部が蛇であり、そして血や汗、唾液などには蛇の毒が混じっています。
 ですからラミアは自分達の身体に流れる蛇の毒に耐えられる強靭な肉体を持った男性を、夫として選ばないといけないのです。
 そうでないと……その、ええっと……キ、キスをしたり、ここ、こど、子供を作る時に相手の男性が毒に倒れ、ひどくすると死んでしまうからです。
 うう、顔から火が出てしまいそうです。ドランさんはとても聞き上手だから、ついついお話しするつもりのなかった事までお話ししてしまいました。
 私の話が一段落する間には食事も終わり、お鍋の中は空っぽです。
 ドランさんにはなんでもお兄さんと弟さんが居て、家ではよく聞き役をしていたそうです。
 他にも村では年下の子供達の面倒を見ているから、他の人の話を聞くのは得意なのだとか。
 でもそれって私が子供っぽいという事でしょうか。それはちょっと失礼だと思います。
 だってドランさんは今年で十六歳。十七歳の私の方が一つ年上なのです。お姉さんなんですよ?
 私がそんな風に不満を胸に抱いていると、空っぽになったお鍋を火から外して食器のお片付けをしていたドランさんが、こう言いました。

「そうやって頬を膨らませているところが、子供っぽいな」
「あ、口に出ていましたか?」

 いけないと思って慌てて口を押さえると、そんな私の様子がよっぽど可笑しかったのか、ドランさんはくすりと笑います。もう!

「いや、すまない。セリナを馬鹿にするつもりはない。ただとても可愛らしいものだから、ついな」
「そんな風におだてたって誤魔化されませんよ!」
「そう言わず許してくれ。セリナに機嫌を損ねられては、心苦しい」
「ふん、だ」
「これは困ったな。セリナにへそを曲げられてしまった。……そう言えばラミアには曲げる臍があったかな?」

 そう簡単に許してあげる訳には行きません。私がぷいっと顔を横に向けると、ドランさんは駄々っ子を見るような目をしてから、肩を竦めます。
 むむ、なんだかそういう反応をされるとますます私の方が子供っぽいような気がしてきます。
 というよりも、確かにドランさんの言う通り私のしている事はいちいち子供っぽいな、と自覚が湧いてきました。
 ううん……仕方ありません。ここは大人しく白旗を上げた方が墓穴を掘らずに済むのでしょう。私は背けた顔を戻して、ドランさんを正面から見つめます。

「私の降参です。私は子供っぽいですよーだ。あと、ラミアにもお臍はありますよ。私達の身体はここくらいから蛇に変わりますから」

 私は毛布に包まれている身体の一部に手をやります。人間の女性なら膝から少し上くらいでしょうか。そこから下が蛇の胴体に変わっているのです。
 もちろん私のママ、隠れ里の他のラミアの皆にもお臍はあります。私達は卵生ではなく胎生ですから。
 私はそれからパパとママの事をドランさんに話し始めました。私のママは当然ラミアですが、パパは人間さんです。
 ママは隠れ里の外に出て狩りをし、パパは里の中にある畑で働き、家事は私を含めた三人で分担していました。

「私もあまり詳しい事は聞いていないんですけれど、私と同じで旅に出たママがパパと出会って、里に帰って夫婦になったそうです。ふふ、パパとママはとっても仲良しなんですよ。私の前だと隠しているけど、ちょっと目を離すと手を握っていたり、肩を寄せ合ったりしていて。私もパパとママみたいな家庭を作りたいなあ」

 ただパパの昔の事を聞くと、決まってパパとママは悲しそうな顔になります。
 人間とラミアが夫婦になる事は、人間にとっては普通ではない事ですから、たとえお互いが好き合っていたとしても、きっとたくさんの障害があった事でしょう。
 その事が分かってからは、私はパパの昔の事を聞くのを止めました。パパとママの事は大好きですから、二人を悲しませるような事を聞けるはずがありません。

「そうか。人間と他種族との婚姻はあまり良い話を聞かないものだが、実際のところはそうでもないようだな。ところでセリナは母親似なのかな? とても綺麗な方だろうとは思うが」
「ん~ママがとっても美人なのは確かですよ。でも性格とかはあまり似ていません。私は目元とか性格はどちらかというとパパに似ているって、良く言われました。でもどうしてそんな事を聞かれるんですか?」
「いや、なに、ふと気になった事があったのだよ。沼でセリナと初めて会った時、君は艶っぽい仕草を見せ、魅了の力の籠った声を出してきたが、あれは母君に習ったのか、とね」

 うぅ、と私は痛いところを突かれてしまったと心の中で唸ってしまいます。
 何故かというとラミアは種族としての特性上、他種族の異性を誘惑する術を当たり前に備えているものなのですが、私は男の人を魅了する仕草というのがへたっぴなのです。
 魅了の魔眼を使って相手の心を惑わす事は出来るのですが、魅力的な笑みを浮かべる事や艶めいた仕草をする事、相手を誘惑する声を出すのがどうしても出来ないのです。
 お家に居る頃からママに付きっきりで教えてもらっていたのですが、こういう事に関して私はとても出来の悪い生徒なのでした。

「ママはとっても上手です。ただ私だけああいう事が上手に出来ないんです。自分でもどうにかしなくっちゃと思っていたんですけど、結局この旅に出る時になってもどうにも出来なかったから……」

 私がしょんぼりすると、ドランさんはまるでパパみたいな優しい顔をしました。

「無理に演じる事もないだろう。まだ知りあって一日も経っていないが、私はセリナの事をとても魅力的な女性だと思っているよ。セリナはあるがまま自分らしく振る舞うだけで、十分に可愛らしい。セリナなら必ず旅の中で、ありのままのセリナを愛してくれる相手と巡り合えるさ。私が保証しよう」

 ドランさんの言ってくれる事に嘘がないのは、ドランさんの青い目を見ればすぐに分かります。
 初めて出会ったのに、何の疑いもなくドランさんの言葉を信じる事が出来ました。
 でも、こんなに真っ直ぐな言葉で男の人に褒めてもらった事は今までなかったから、私は嬉しいやら恥ずかしいやらで頬が赤くなるのを感じました。
 ドランさんは自分がどれだけ恥ずかしい事を言っているのか、果たして自覚はあるのでしょうか。

「うう、ドランさんはお上手ですね。でも、うん、そうなると良いなって思います。素敵な旦那様を見つけて、パパとママに紹介します」
「その意気だな」

 それからママとパパの好きな食べ物だとか、誕生日に貰ったプレゼントの話をしていると、ドランさんも自分の家族の事を話してくれました。
 ドランさんはお父さんとお母さん、お兄さんと弟さんの五人家族だそうですが、もうお家を出て一人で暮らしているそうです。
 私達と違って旅に出る必要はないのですが、同じ村の中とはいえもうお家を出ないといけないのは大変で寂しいな、と私は思いました。

「ドランさんは寂しいと思う事はないんですか?」
「ないと言ったら嘘になるが、歩いてすぐのところに実家もあるし、この年で寂しいと堂々とは言えないさ。私としてはセリナの方が立派だと思うよ。家を出ただけでなく一人で旅をしているのだ。心細くて堪らないだろうに」
「ふふ、小さい頃から言われていた事ですから、覚悟は出来ていましたよ。それに自分の旦那様を見つける旅ですから、きちんと自分の目で確かめないといけません!」
「そうか。セリナは強い子だな」

 そう言って優しく笑うドランさんの穏やかな顔は、ちょっと素敵でした。


     †   †   †


 毛布にくるまったまま、地面の上に敷いた毛布の上にこてんと横になったセリナの寝顔を見て、良く寝ている、と私は一息ついた。
 旅に出てから寂しさを胸の内に溜め込んでいたのか、セリナは私を相手に饒舌じょうぜつになり、思いの外時間が経過していた。頭上を見上げれば月が中天に差し掛かり、夜空の女王として銀に輝いている。
 随分と話し込んでいたものだ。
 それにしても半日かそこらしか過ごしていないというのに、セリナはこうして安らかな寝顔を私に晒す程警戒心を緩めている。
 大地の精霊が出現し、共闘するという想像もしていなかった出来事があったとはいえ、人間を相手に気を許し過ぎではないかと思う。
 私が既にセリナの魔力によって魅了されていると言うのならともかく、そうでない相手と行動を共にするのなら、常に気を張っているくらいの態度でいるべきではないだろうか?
この後私と別れたセリナが、他の人間と出会っていく中で、ちゃんと自分の身を守れるかどうか、あるいは悪い人間に騙されやしないかと、私はまるで可愛い娘を心配する父親のような気持ちにならざるを得ない。
 人間に対する害意の無さや警戒心の緩さは、可愛がってくれた父親が人間だという事もあるのだろうが、それにしても心配だ。
 まあ、それを言うなら、初めて会ったラミアを相手に気を揉んでいる私も、だいぶ滑稽だろうが。
 すぅすぅと健やかな寝息を立てるセリナの寝顔を見ていると、ふと視界の片隅に彼女の尻尾の先が入り込んできた。
 むくむくと悪戯心が湧き起こって来た私は、毛布から出ている尻尾の先端に手を伸ばし、鱗に包まれたその場所をふにふにと握ってみた。
 するといやいやをするように尻尾がゆらゆらと左右に揺れる。

「んん、むにゃ」

 寝ぼけた声でむずむず身じろぐセリナ。流麗な線を描く眉の根元が寄せられて、白い眉間には罪深い皺が刻まれる。
 長い金色のまつ毛に縁どられた瞼が、ぴくぴくと細かに震えて、眠れる蛇姫は今にも起きてしまいそうな様子だった。
 赤ん坊みたいなセリナのその反応が面白くて、私はセリナが起きないように注意を払いつつ、暫くの間、セリナの尻尾をにぎにぎと触り続けた。
 むにゃ、ふにゃ、やん、うにゅ、というセリナの短い声が零れる。
 いかん、ものすごく楽しい、と気付けば私はセリナの尻尾を握るのに夢中になっていた。


 翌朝、太陽がようやく地平線の彼方を赤く染め上げた頃、私はまだ眠っているセリナをそのままに、野営地点を離れる事にした。
 幸い、私が尻尾をいじり続けても、セリナが起きる事はなかった。自分でも驚く程熱中してしまい、結局私は昨夜一睡もしていないありさまである。
 ラミア種は半分蛇である為に朝が弱く、身体が温まるまでは身体の動きも鈍くなる。
 よってセリナが起きるまで火が消えないよう、多めに薪をくべておいた。
 地面に敷いていた毛布や鍋、食器を鞄に纏め腰の剣帯に長剣と短剣を差して準備は終わりだ。
 それと朝起きて私の姿がないとセリナが慌ててしまいそうだから、沼に向かう事を地面に書き置きしておく事も忘れてはいけない。
 さて、これで良いだろう。
 野営地点を後にした私は、大地の精霊と一戦を交えた場所へと向かった。
 精霊力が溜まりやすい場所では、集まった精霊力が輝く鉱石のように物質化する事がままある。
 その結晶の事を、実に分かりやすく精霊石という。
 昨日の大地の精霊は十数年の長きに亘って沼地に君臨していた訳だから、そこには純度の高い精霊石がごろごろと眠っている可能性は高い、と踏んだのだ。
 程なくして私は沼地に辿り着く。
 狂った大地の精霊を恐れて、沼地の周囲には危険な生物はおろか小動物の類も存在しておらず、道中何かに邪魔をされる事もなかった。
 大地の精霊の仮初めの巨体を真っ二つにした地点から、沼地の中心部を目指して歩を進めて行く。
 いまだ濁ったままの沼水が靴を濡らすのも構わず、私はほとりから踏み出し沼の水面の上を進む。
 水に干渉し浮力を得て、水上の歩行を可能とするごく初歩の魔法である。
 ちょうど大地の精霊が姿を現した場所で私は足を止めた。
 ちゃぷちゃぷと揺れる水面の上で、鞄から取り出しておいた一枚布を左手に持ち、五指を広げた右手の掌を沼地へと向ける。
 そうして沼地の中にある精霊石の存在を感知する為の探査魔法を行使する。
 私の魔力を見えない波のようにして沼へと放ち、その波を浴びた精霊石の反応を確かめるのである。
 掌から発した私の魔力が、瞬時に沼の奥底から隅に至るまでに伝播でんぱし、中の様子を伝えてきた。
 沼はすっかり濁りきっていて、かつて生息していた魚などの姿はもはや見受けられない。
 目に見えないごく小さな生き物を除けば、ほとんど死の沼と化してしまっているようだった。
 精霊力の調和が戻ったとしても、沼が在りし日の姿を取り戻すのにはそれなりの時間が必要となりそうだ。
 私の発した魔力を受けた精霊石は、すぐに反応を示した。
 あれだけ力を蓄えた大地の精霊が居たのだからそれなりの精霊石があるだろう、という私の推測は的外れではなかったようだ。
 沼の底に埋もれている精霊石をいくつも捉えた私は、それらに目に見えない手が伸びていくさまを想像する。
 水上歩行と探査魔法に続いて行使するのは、念動というやはり初歩の魔法だ。
 思念をもって物体を動かす魔法で、使い手の力量によって動かせる物体の距離や重さが変わる。精霊石くらいの物体なら見習い魔法使いの念動でも動かせるだろう。
 まもなく握り拳程の大きさの精霊石が沼の奥底から浮上してきて、ちゃぷりと小さな音を立てて水面を割り、私の目の前まで浮かびあがる。
 大地の精霊力の結晶たる地精石は、琥珀こはくを思わせる深みのある茶色い輝きを放ち、水の精霊力の結晶たる水精石は、サファイアを思わせる澄んだ青い輝きを放っていた。
 一般的な精霊石は小石程の大きさであるから、これはいずれも珍しい大ぶりのものと言える。
 地精石が七つに水精石が四つ。合計十一個の精霊石を左手の一枚布で拭い、水気を切る。
 後は帰りの道で獣の一頭か二頭でも捕まえれば、お土産には十分だろう。

「ドランさーん。おはよーございまーす!!」

 声のする方を振り返れば、大量の毛布を仕舞い込んだ大荷物姿のセリナが沼のほとりで私に向かって手を振っていた。
 無邪気な笑みを浮かべながら手を振るその姿に、私に対する警戒心は露程も見られない。たった一日で随分と懐かれたものだ。
 私はセリナに右手を振り返しながら、再び水面の上を歩いてそちらへと歩いていった。

「精霊石を取っていらしたんですか? 大きいですね」
「あれだけ力の強い精霊が居たのだから、必ずあるはずだと踏んだのだが、当たりだったみたいだよ」

 左手の一枚布に包んでいた精霊石を見せると、セリナは素直に感心する。
 セリナは隠れ里を旅立つ際、護身用にと精霊石や魔力の結晶である魔晶石を持たされたそうだが、今、私の手の中にある精霊石程大きなものは見た事がなかったらしい。
 昨日の精霊との戦いでは、セリナの協力があったお陰で楽が出来た。だからこの精霊石を受け取る権利はセリナにもある。

「ほら、セリナにも」

 私は地精石を四つと水精石二つをセリナに手渡す。
 戦ったのはほとんどドランさんだから、と彼女はなかなか受け取ってくれなかったが、私の予想通り押しに弱い性格らしく結局最後には私に押し切られて、恐縮した様子で精霊石を受け取った。
 沼の異変の原因を突きとめ、解決も済み、さらに戦利品も手に入れる事が出来た。これ以上私が沼に留まる理由はない。
 マルコにも今日中に村に帰ると告げてあるし、そろそろ沼を出立しなければならない頃だろうか。

「セリナ、私はそろそろ村に帰るよ。君はこれからどうするつもりなのだね?」
「あ、えっと、南の方に人間さんの街があるって聞かされていますから、南下して旦那様を探す旅を続けようと思います」
「ふむ、分かっているとは思うが、ラミアを相手に私のような対応をする者はまれだ。不用意に近付いてはいけないよ。危険だからな」
「はい。パパとママにも何度も注意されました。皆さん、ドランさんみたいに優しい方だと良いんですけれど」
「セリナがとても優しい女の子だというのは、少し一緒に居れば誰でも分かるが、その少し一緒に居るというのが難しいからな。ラミアの寿命は人間と比べて長い。まずは焦らずゆっくりと人間や他の種族を知る事から始めるといい」

 はい、そうします、と頷くセリナに、私は右手を差し出した。
 セリナは少し驚いた顔で私を見ていたが、すぐにふわりと柔らかに笑むと、やや躊躇ためらいを見せてから恥ずかしげに私の右手を握る。
 その笑顔はとても暖かで優しいものであった。
 私はもう一つセリナに贈り物をと思い立ち、柔らかなセリナの手を通じて、私の精気をたっぷりと受け渡す。

「きゃっ!?」

 人間のよりも竜種の精気の方が精がつくだろう、と受け渡したのだが、少々セリナを驚かせてしまったようだ。
 考えてみれば隠れ里に居た頃に人間の精気を食べた事はあったかもしれないが、流石に竜種の精気は初めてなのだろう。
 これは私が迂闊だったか。驚きのあまりに尻尾をピンと伸ばし、目を白黒させているセリナに誤魔化すように笑いかける。

「すまない。驚かせてしまったな。私はもう行くが、君の行く道に幸多からん事を祈っているよ」
「え、あ、はい。ドランさんもお元気で」
「ありがとう。君なら必ず素敵な男性を見つける事が出来るだろう。そう信じている」

 握っていたお互いの手を離し、私はベルン村のある方角へときびすを返して歩を進める。
 沼が小さくなるくらいまで歩き、背後を振り返ると、セリナはまだそこに留まっていた。私の視線に気付くと、彼女は全力で手を振り始める。
 私も笑ってセリナに手を振り返す。セリナは私の姿が見えなくなるまで、沼のほとりで私を見送り続けていた。
 全く、可愛いラミアが居たものだ。


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