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前日譚
いずれ殺し合う彼らの縁はかくて繋がれり
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「ぎゅあ、ぎゅあ、ぎゅあ、ぎはははははは!!」
それは声と認識した瞬間に鼓膜を破く衝動に駆られるような、おぞましさと不気味さに満ちた嘲笑だった。
薄紅色の空間に色とりどりの星の輝きが散りばめられたどこかで、そいつは笑っていた。
大きく広げられた翼の起こす風はあらゆる生物に恐怖を齎し、黄色く濁った瞳は恐怖した生物の魂の底までを見通して怯える様子を楽しみ、赤紫色の唾液に塗れた太く鋭い牙と爪は、どんな時でも肉を裂き、骨を噛み砕く欲求に餓えている。
無理矢理金属を引き裂いたような音に似た笑い声を上げるそいつの周囲に、ちっぽけな羽虫のように見える七つの人影があった。
後に古神竜ドラゴンと出会い、その命を奪う事となる全次元に棲息する人類種最強の戦士『七勇者』達だ。
彼らは今、世界樹の内の一本、ユーバ・ユグドラシルを食らわんとしている悪竜ニーズヘッグを三次元に無理矢理引き摺り下ろして打倒せんと、三日間に及ぶ激戦を繰り広げていた。
原種は冥界のある領域に住まうニーズヘッグ種であるが、七勇者達の戦っている相手は原種に近い世代に生まれた神域に達する極めて強力な個体だ。
ニーズヴァシャルと自ら名乗った邪竜により、ユーバ・ユグドラシルに住まう栗鼠ラタトスクも大鷲フレースヴェルグも食い殺されており、身を守る術を失ったこのユグドラシルを守る為に、七勇者達はニーズヴァシャルと対峙しているのだった。
如何に人類最強を誇る七勇者でも、神々の被造物としての限界に至った程度に留まる。故に神域の存在であるニーズヴァシャルを彼らの独力で倒すのは至難を極める。
その為に、七勇者の内の神官マイアルテが信仰する神に願い、ニーズヴァシャルの力を大きく減衰させ、反対に七勇者達には強力な神の加護を与える結界を展開し、そこで戦っている。この薄紅色の空間がまさにそれだ。
ニーズヴァシャルが狙うユーバ・ユグドラシルは、成熟の域に達した世界樹と呼ぶにふさわしい次元を超越する規模の大樹であり、無数に伸びた枝に生い茂る葉の一枚一枚に一つの宇宙が乗っている。
もし強靭にして貪欲なるニーズヴァシャルに食い倒されようものなら、ユーバ・ユグドラシルによって支えられている宇宙の全住人はその運命を共にしなければならない。
直径一光年の球形に形作られた結界の中を、光よりもはるかに速く飛翔するニーズヴァシャルを、先端の折れ曲がった大きな三角帽子と黒いローブに年季の入った箒を持った魔法使いハルミンは、並行世界を含む過去、現在、未来すら見通す魔法視力で正確に捕捉していた。
くるくるとハルミンの手の中で回転した箒が、結界内部のエーテルを攪拌するのと同時に指向性と膨大なエネルギーを付与し、ニーズヴァシャルを翡翠色の風の奔流が飲み込まんと襲い掛かる。
「我が前に立つ罪を背負いし囚人よ 翡翠の風にて因果の地平線に消え果てん 【翡翠追放刑】を執行す!」
「くだらぬ、風と法の神の合いの子の力を借りる人間の魔法で、我が翼を望まぬ方向へと羽ばたかせる事は叶わぬ」
銀河すら動かすハルミンの翡翠の流れを、ニーズヴァシャルは取るに足らぬ児戯と笑い飛ばし、大きく羽ばたいた翼の一打ちで起こした黄色い風で迎え撃ち、双方は一瞬の拮抗の後に消え去る。
ニーズヴァシャルの意識が魔法の迎撃に逸れた瞬間を狙いすまし、七勇者の内、近接戦闘に特化した二人が左右からニーズヴァシャルの首と心臓を狙って虚空を掛けていた。
特徴的な形状の赤い肩当てや蛇腹状に編まれた胴丸、そして所属する国家伝来の宝刀『星切丸』を手に、後頭部で結わえた黒髪を翻すは侍大将ハガミ。
特殊な塗料による紋様を描いた褐色の筋肉を惜しげもなく晒し、仕留めた天文災害規模の超生物達の牙や骨の飾り物と毛皮を纏い、黒曜石を思わせる槍穂の長槍を構えるは蛮勇の戦士アルガッツ。
「一刃、風となりて天道を断つ。落陽の太刀!」
「面倒くせえ、さっさと死ねや!」
「ぎしゃあああ!」
言霊を乗せて斬撃の威力を高め、恒星すら真っ二つに斬り裂くハガミ――“刃の神”転じて“神の刃”――の太刀を、ニーズヴァシャルの瘴気を纏う左手が鱗を断たれて肉に刃を食い込ませながらも受け止めた。
そしてまた、アルガッツのただ力任せに押し出したと見えて、これ以上ないほど合理的な力の伝達率を誇る構えから繰り出された長槍を、ニーズヴァシャルはあえて右手の掌から甲までを貫かせて被害を最小限に留める。
「ききききゃきゃ、この程度は我の首と心臓はくれてやれんなあ、人間にしてはそこそこにやる者達よ。神々の失敗作にしては上々だが、神の力を借りねば我の影を踏む事さえ叶わぬ惰弱な生き物風情が調子に乗るでないわ!」
怒号を発したニーズヴァシャルが両手を振り回し、ハガミとアルガッツは一光年の広さを誇る結界の端まで吹き飛ばされてしまう。
怒号と共に開かれたニーズヴァシャルの咽喉奥に、黒紫色の霧が発生した。毒竜としての属性を持つニーズヴァシャルが、本来はユグドラシルの木の根や幹を腐らせる為の毒液を放とうとしているのだ。
かつてユーバ・ユグドラシルに住まう者達が、ニーズヴァシャルを撃退させる為に集結し、戦いを挑んだことがあった。
そうして集った星すら食らう巨大生物を、太陽すらお手玉に見える巨人戦士を、それらを乗せた無数の艦隊を一息で全滅させたニーズヴァシャルのブレス。
ニーズヴァシャルは結界内部を自らの毒で埋め尽くすべく四方へと首を回して、狙いを定めることなく無差別に毒を撒き散らし始める。
神の加護に満たされた結界の中にあってなお猛烈な毒性を備えたブレスに、ハイエルフの女性が動いた。
ハイエルフの種族としての歴史の中、後にも先にも比肩する者は誕生しないと称賛された精霊使いエルシリアは、膨大な量の精霊石を圧縮し繊維状に加工して編み上げた衣服と、両手に持った虹色の複合精霊石より力を抽出し、異次元に存在する精霊界へのチャンネルを開く。
「風の精霊王ヴァユラビーマ、水の精霊王ニヘルシャルマ、火の精霊王アグンヅゥー、冥府の気配を纏う偽竜の悪意を退けて!」
エルリシアの呼び声に応じ、三柱の精霊王が同時に顕現した。一柱一柱が全力を発揮すれば、一つの宇宙を崩壊させうる超越存在だ。
光り輝く竜巻の下半身と逞しい人間の上半身を持つヴァユラビーマの起こす風が、ニーズヴァシャルのブレスを一か所に集め、巻貝からひょっこりと腰から上を覗かせる水の少女の姿をしたニヘルシャルマが、ブレスの全てを青い水の中に閉じ込める。
そして灼熱する二本の角と炎の翼を持つ猛牛の姿のアグンヅゥーが、水ごと毒のブレスを燃やしつくす事で、毒の脅威はようやく消える。
瞬時に精霊王を三柱同時召喚してのけたエルシリアの力量と霊格は常軌を逸するが、そうしなければブレス一つ防げないニーズヴァシャルもまた凄まじい。
「小癪だなァ、ニンゲン」
ニーズヴァシャルがハイエルフのエルシリアをニンゲンと呼ぶのは、神々の失敗作である人間を元にして、ハイエルフの祖である最初のエルフ達が生み出された経緯を知るからだろう。
「その臭い口を閉ざしなさい、ニーズヴァシャル! 時の精霊王クロックワークロック、時の流れを我が手に!」
ガチン、と時計の針が重なり合うのに似た音を立てて、ニーズヴァシャルの体を中心とした巨大な時計盤が出現していた。
長針と短針の軸の位置にニーズヴァシャルの体が固定されて、悪竜の身体を捕縛する。
本来ならばそのままニーズヴァシャルの時間を止める筈が、拘束するだけに効果が留まっている事に、エルシリアは焦燥の念を覚えずにはいられなかった。
「セムト、ソウゲン! 長くは保たないわよ」
「おおおおお!!」
エルシリアの警告に、ソウゲンは咆哮を持って答えた。人間種の体内に七つ存在する気の門チャクラに加え、頭上と尾てい骨の先に八つ目と九つ目のチャクラを作りだし、九つ全てと肉体を連動させて、十個目のチャクラとし、それら全てを全力で稼働させる。
そうなったソウゲンは密接に森羅万象と繋がり、際限なく純度を高められた気の使い手となる。
「かあっ! 千闘千争撃!」
千の手と千の足が生えたかのごとく、ソウゲンからニーズヴァシャルへと向けて拳撃と蹴撃の嵐が降り注ぐ。
「ぐががが、ぎゃ、ぎゃうっ」
魔力と瘴気による複合結界がソウゲンのチャクラによって減衰され、高純度のオリハルコンを砕く手足が次々と叩き込まれる苦痛に、わずかにニーズヴァシャルの口から声が零れる。
時の精霊王による束縛が力を失い、ニーズヴァシャルが反撃の一手を打つ直前に、最新式の時空振動ブレード『ズィーリッパー』を構え、全次元領域対応型歩兵強化鎧『コスモスアーマー』を着用した七勇者のリーダー、セムトが懐深くまで踏み込んでいた。
「お前に世界樹を食わせるものか!」
世界に勇者はセムトただ一人、唯一無二のセムトと彼を知る者から限りない称賛を受ける青年は、優美な弧を描く万物を斬断する長剣を基本通りの動作で振り上げ、そして振り下ろした。
言葉にすればたったこれだけの動作に、一体どれだけの魔性の妙技と神域の絶技が込められていたものか、並大抵の時空干渉程度など通用しないニーズヴァシャルの胸元から左頸部にかけてパックリと真っ二つに割れて、紫色の血が滝のように噴き出し始める。
「げああ、ようもやったな。やってくれたな、このニーズヴァシャルに傷を与えたか! 人間、いや、超人種! それも既に亜神の域に達しておるか、ぬかった、ぬかったわ。
しかし我はニーズヘッグの一族。神に準ずる域に達したとて、敵う相手ではないと知れ」
「お前が強いか弱いかは関係ない。ニーズヴァシャル、問題なのは、お前が絶対に倒さなければならない敵であるという事実だけだ」
「我が何を食おうと我の勝手よ。貴様らの生まれた宇宙はユーバ・ユグドラシルとは関係の無い宇宙であろうに、こうしてしゃしゃり出て来るとは、貴様らは己らがしてきた命の取捨選択を棚上げにして我の邪魔をしておるだけであろうが」
「そうであったとしても、お前が世界樹を食えば星の数よりも多くの命が消える。それを防ぐ事が出来るのに見逃すのならば、それは絶対に良くない行いだ」
「はっ! 悪と断じる言葉を吐く気概も持たぬ腑抜けが、ならば貴様らはユグドラシルの前の前菜よ。我の胃の腑に収まれ、屑共!」
これよりさらに四日の間、七勇者とニーズヴァシャルは戦い、手傷を負ったニーズヴァシャルが一旦は別次元の塒へと引き返した事でひとまずの決着を見る。
しかし、ニーズヴァシャルはユーバ・ユグドラシルを諦めたわけでないのは火を見るよりも明らかであり、同時に七勇者達には次の、その次の、更に次の次の戦場が待っていた。
ニーズヴァシャルとの激戦の後、負わせた傷が治るまで一ヶ月はかかると目途が立ち、セムト達は再び戦う際にニーズヴァシャルを逃がさず、倒しきるための方策を練らなければならなかった。
セムトの所属するシンアース多元連合王国を介して齎された依頼は、これまで七勇者としてこなしてきた活動の中でも、かなり難しい部類に入ると言わざるを得ない。
ニーズヴァシャルを閉じ込めていた結界の外で待機させていた戦艦に帰還し、今回のユーバ・ユグドラシルの護衛とニーズヴァシャル討伐の依頼をしてきたシャルガール世界樹連盟が保有する人工衛星に奇港して、ひとまずの休息を得る。
世界樹連盟の人工衛星ガムネシアは、人工ブラックホールを動力源に据えた人口三十億人を誇る標準的な人工衛星である。
人類種以外の知的生命体も数多く加盟している世界樹連盟の人工衛星には、外見から生体、思考形態、単純な体格に至るまで多種多様で、効率性を重視してそれぞれの都合に合わせて衛星内の居住区の造りが大きく異なる。
標準的な人類種の集まりである七勇者達は、概ね身長三メートルまでに収まる人類種系統がひしめく居住ブロックの、最高級品質の宿泊施設を用意されていた。
既にこの時点で数多の世界にその名を轟かせた七勇者達は、後の時代よりもはるかに神々が近しいこの世界において、極めて希少な人間の身で神々にわずかでも抗し得る奇跡そのものに等しい。
当然、その奇跡を崇める人々からの対応は、推して知るべしだろう。
人類種にとって心地よく感じられるデザインの調度品と気温、匂い、照明の明るさに至るまで全てが計算され尽くした部屋の中で、それぞれ武装を解いて楽な格好に変わったセムト達は、改めて部屋の中央にある大テーブルに集まっていた。
アルガッツなどは早々に大テーブルの上に置かれていた果物の類に手を伸ばし、皮も種も芯も構わずにバリバリシャクシャクムシャムシャとやかましい音を立てて貪っている。
エルシリアが色々と言いたそうな顔に変わったが、この宇宙の辺境に住む戦闘民族の猛者は出会った時からこうだったのだから、今更言っても無駄だと諦めた。
その代わりに、エルフの味覚にはこれ以上美味と感じられる事はないとされる茶葉を使った紅茶に口を付けて、気分を落ち着ける。
ハルミンはハルミンで室内にあったレプリカメイカー――質量とエネルギーさえあれば、ほぼ何でも作れる――を使って、地獄の釜の底から汲み出したようなドギツイ色のコーヒーを楽しんでいる。
ソウゲンは至極真面目な態度なのは良いのだが、黙して語らない人間の典型どころかそれを突きつめたようなタイプで、自分からはなかなか口を開こうとせず、ともすれば人型のオブジェか何かかと、エルシリアは今でも時折錯覚してしまう。
口火を切ったのは、故郷の名産である干し芋を齧り、複製品ではない玉露で口と胃の中を潤していたハガミであった。
多少人を煙に巻くところはあるが、基本的には信用できる人格の主であり、鋭い洞察力の持ち主である為、エルシリアが意見を求める場面も少なくない。
「さて、まずは恒例の反省会と参ろうか。かの偽竜めはマイアルテ殿の結界で弱体化させ、こちら側に引き摺りこんでもいやはや、手強いものよな。
我ら総がかりでそれなりの手傷は負わせたが、逃げ足が速すぎる。次に備えて拘束の手はずを整えても、向こうもそれに対抗する手段を何かしら用意してこよう。傷が癒えた、では我らに報復を、と考えるほど単細胞でもなさそうだ」
厄介そうに左目を閉じて玉露を啜るハガミの分析に、表向きはどうあれ他の六人全員が心の中では同意していた。
神々の眷属か神造魔獣の類は、大抵がその出自相応に気位が高く、人間を相手に背を向ける事を良しとしないか、するにしても躊躇う素振りを見せて隙を作るのだが、ニーズヴァシャルは一切躊躇せずにさっさと逃げた。
その潔いとも言える判断力に関しては、厄介と言う他ない。
ハガミの分析を受けて、王国の士官服に着替えたセムトがパーティー随一の良心であり、二大知恵袋の片割れである女性神官マイアルテに問いかけた。
「マイアルテ、ニーズヴァシャルが逃げられないように結界を強固にする事はできそうにないか?」
信頼するリーダーからの問いかけに、マイアルテは小さく首を左右に振りながら答えた。
「いいえ。あの結界が今の私にできる精一杯です。世界樹連盟と連合王国からのバックアップがあっても、ニーズヴァシャルを三次元に留め、その他の偽竜や悪魔達を出現させないように次元の穴に蓋をするのが限界です。ごめんなさい」
「マイアルテは何も悪くはないよ。出来る限りの事をしてくれているのは、十分知っている」
「ええ、そう言って貰えると救われます。でも他の神々に助力を願ったとしても、ニーズヴァシャルもまた近しい邪神や他の偽竜に助力を願い、対抗してくるでしょう」
マイアルテの言う通り、神々の力を借りるのは延々とイタチごっこを続ける羽目に陥りかねない。
ニーズヴァシャルにとって誰かに助けを求める行為は恥辱に他ならないとは思うのだが、見事な逃げっぷりを見せたニーズヴァシャルならば、助力を乞うのを躊躇いはしないだろう。
大テーブルの上の果物を片付け終えたアルガッツが、今度はレプリカメイカーから合計で百キロ近い分厚いステーキを何枚も作って頬張りながら口を挟む。
言葉を重ねても口から肉片やらが飛ばないのは、その飛んだ肉片が勿体ないとアルガッツが無駄な器用さを発揮して、口の外に出ないようにしているからだ。
「だったら、今のおれらがあの不味そうな偽竜の野郎を逃げる暇もねえぐれえ早く片付けられるよう強くなるか、それともユグドラシルを囮にして、偽竜野郎が夢中になって食っている隙を突くぐれえしかねえんじゃねえか?」
「ちょっと、アルガッツ、前半はともかく後半はあり得ないわ。ユグドラシル様が傷付けばそれはそのまま共生している世界の人々に、天変地異かそれ以上の災害となって襲い掛かってくるのよ!」
ユグドラシルを信仰対象の一つとするエルフに属するエルシリアには、ただの提案であろうともユグドラシルを囮にする提案は到底許せるものではなかった。
烈火の如き怒りを見せるエルシリアだが、アルガッツは当然こうなると予測していたようで、取り立てて声を荒げる事もせずに肉を咀嚼し続ける。
命の宿らない合成肉は決して本物に劣るものではない筈だが、いくら食べても、アルガッツが満足を得られる事はないだろう、とセムトはアルガッツの間食風景を見ながら思う。
アルガッツが求めているのは、命だ。自身の命に溶けて新たな活力となり、熱となる命。
文明の発達に伴って多くの世界で合成食や身体改造、医療用ナノマシンなどによって食事を必要としなくなる者が増える中、アルガッツの所属する部族は時代に逆行して命をあるがままに食らうのを是としている。
さてそれはそれとして、アルガッツの提案は即興で出た案としては、検討に値するものではある。ユグドラシルを全て食べられるよりは、多少傷を負ってでもニーズヴァシャルを倒す方が、被害が少なくて済むのは確かなのだから。
もっともそれを許しては世界樹連盟も連合王国も面目は丸つぶれだし、それを知ったエルフというエルフが激昂して暴発する恐れすらある。
「一番いいのは、アルガッツが言った通りにおれ達が強くなる事なんだろうけれど、最長一ヶ月の期間でそこまで強くなれるかって話になるな。
もちろん、強くなるのに越した事はないが、他の手段も考えよう。これしかない、自分達だけで何とかしないといけない、そんな風に思いこんで自分から選択肢を狭めるのはよくあるけれど、失敗があってはいけないからな」
玉露を啜り終えたハガミが二杯目を注ぎながら、セムトに向かって微笑した。
「我らのリーダーは良い事を言う。さりとてニーズヴァシャル級の個体を相手には、通常の兵器ではほとんど効果があるまい。時空や因果干渉系統の兵器は、それこそニーズヴァシャルのような神域の存在には通じんしな。
神々への助力もあまり上手く行きそうにないとなれば、我らと同じく個体としてニーズヴァシャルと戦える猛者を探さなければならなくなる。
世界樹連盟も我らに依頼を出す前に、身内の中でそれだけの使い手が居ないかとさんざん探していた筈。となると、これも難しいかな?」
「耳に痛い事をずばずばと言ってくれるなあ、ハガミは。でも実際その通りだ。ニーズヴァシャルとの戦いに賛同してくれて、なおかつ実力を兼ね備えた相手か。……居るかな?」
七勇者級の実力者は他にいないではないが、パッと思いつく誰もが実力相応の責任ある立場に就いているか、何かしらの役目などを持っていて今いる場所から離れられない事情を抱えていた。
一カ月後のニーズヴァシャルとの決戦にだけ助力を願うのならば、何人かは動いてくれるかもしれないが、ニーズヴァシャルに逃走を許さずに滅ぼしきれるかと言うと、どうにも断言しきれない点が残る。
毒物としか見えないコーヒーを飲み終えたハルミンが、今度は星の彼方まで意識が広がる蜂蜜酒をチビチビと飲みながら口を開く。
世界の真理を解き明かさんとする探究の徒として、また魔導の学徒として凄まじい叡智を備えた少女は、困難に直面した時にはかなりの確率で、問題を多く含む欠点はあるものの解決案を提示して来た実績を持つ。
「今、王国で製造されている対高次元存在用決戦兵器が使えれば何も問題はないけれど、完成するのはまだまだ先の事。だから私達はどうしても協力者を募る必要性がある。
そしてこの手の戦いの時には、敵の上位互換の存在をぶつけるのが一番。剣士にはより格上の剣士。魔法使いにはより格上の魔法使い。武闘家にはより格上の武闘家。そして、竜にはより格上の竜を」
ハルミンの提案は、それが出来るのならば苦労はしないと言う位に魅力的かつ説得力のあるものだったが、問題は実現できるかどうかである。
セムトは渋い顔になりながら、ハルミンからの案が実現可能かどうか脳細胞を働かせ始める。高位の竜達は既にこの三次元の世界から離れて久しい。こちら側に残っている竜種は、霊的にも肉体的にも大きく退化している。
「竜を? でもニーズヴァシャルのような格の高い竜と戦えるような竜種は、もう皆竜界に移ってしまっているだろう。
竜界への連絡手段って何かあったかな。それに対価らしい対価を用意できるか難しいと思うよ。そもそも気位の高いっていう竜種が、おれ達の頼みを聞いてくれるかな?」
「大丈夫、竜界に繋ぎを取る必要はない。まだこの地上世界にも、竜界に行くべき力を持った竜が一体だけ、ううん、一柱だけ残っている。それもよりにもよってか、あるいは幸いにもと呼ぶべき個体」
ハルミンの話に何かしら察しが着いたのは、マイアルテだけだった。
まるで見えない手に弾かれたかのように顔を上げて、狼狽ともその手が合ったかとも見て取れる複雑な表情を浮かべる。
その個体は、一部の聖職者達や大国の指導者層には最重要機密の一つとして認知されている。神々と竜がそれぞれの世界に居を構える中で、地上世界に残ったかの竜の名前は……。
「古神竜ドラゴン。破壊と忘却の女神カラヴィスや混沌の神ケイオス、戦神の頂点に立つアルデスすらも及ばないという、始原の七竜の内の一柱が今もこの世界に残っている。
彼の力を借りる事が出来たなら、ニーズヴァシャルなど敵ではない。幸いにしてかの竜は人類に対して友好的と思われる逸話が、世界各地に残っている。きちんと礼儀を守ってお願いをすれば、きっと力を貸してくれる。多分、おそらく。力を貸してくれるといいね?」
そこは断言して欲しいとセムトやエルリシアの顔には、でかでかと書いてあったのは言うまでもない。
《続》
神々の代理戦争めいている時代で、こっちが神の力を借りれば向こうも神の力を持ってくるという状況。マイラールやケイオスなど良識のある一部の神が率先して地上生命の保護を行っているので、世界の均衡が維持されているような割と危うい世界です。
それは声と認識した瞬間に鼓膜を破く衝動に駆られるような、おぞましさと不気味さに満ちた嘲笑だった。
薄紅色の空間に色とりどりの星の輝きが散りばめられたどこかで、そいつは笑っていた。
大きく広げられた翼の起こす風はあらゆる生物に恐怖を齎し、黄色く濁った瞳は恐怖した生物の魂の底までを見通して怯える様子を楽しみ、赤紫色の唾液に塗れた太く鋭い牙と爪は、どんな時でも肉を裂き、骨を噛み砕く欲求に餓えている。
無理矢理金属を引き裂いたような音に似た笑い声を上げるそいつの周囲に、ちっぽけな羽虫のように見える七つの人影があった。
後に古神竜ドラゴンと出会い、その命を奪う事となる全次元に棲息する人類種最強の戦士『七勇者』達だ。
彼らは今、世界樹の内の一本、ユーバ・ユグドラシルを食らわんとしている悪竜ニーズヘッグを三次元に無理矢理引き摺り下ろして打倒せんと、三日間に及ぶ激戦を繰り広げていた。
原種は冥界のある領域に住まうニーズヘッグ種であるが、七勇者達の戦っている相手は原種に近い世代に生まれた神域に達する極めて強力な個体だ。
ニーズヴァシャルと自ら名乗った邪竜により、ユーバ・ユグドラシルに住まう栗鼠ラタトスクも大鷲フレースヴェルグも食い殺されており、身を守る術を失ったこのユグドラシルを守る為に、七勇者達はニーズヴァシャルと対峙しているのだった。
如何に人類最強を誇る七勇者でも、神々の被造物としての限界に至った程度に留まる。故に神域の存在であるニーズヴァシャルを彼らの独力で倒すのは至難を極める。
その為に、七勇者の内の神官マイアルテが信仰する神に願い、ニーズヴァシャルの力を大きく減衰させ、反対に七勇者達には強力な神の加護を与える結界を展開し、そこで戦っている。この薄紅色の空間がまさにそれだ。
ニーズヴァシャルが狙うユーバ・ユグドラシルは、成熟の域に達した世界樹と呼ぶにふさわしい次元を超越する規模の大樹であり、無数に伸びた枝に生い茂る葉の一枚一枚に一つの宇宙が乗っている。
もし強靭にして貪欲なるニーズヴァシャルに食い倒されようものなら、ユーバ・ユグドラシルによって支えられている宇宙の全住人はその運命を共にしなければならない。
直径一光年の球形に形作られた結界の中を、光よりもはるかに速く飛翔するニーズヴァシャルを、先端の折れ曲がった大きな三角帽子と黒いローブに年季の入った箒を持った魔法使いハルミンは、並行世界を含む過去、現在、未来すら見通す魔法視力で正確に捕捉していた。
くるくるとハルミンの手の中で回転した箒が、結界内部のエーテルを攪拌するのと同時に指向性と膨大なエネルギーを付与し、ニーズヴァシャルを翡翠色の風の奔流が飲み込まんと襲い掛かる。
「我が前に立つ罪を背負いし囚人よ 翡翠の風にて因果の地平線に消え果てん 【翡翠追放刑】を執行す!」
「くだらぬ、風と法の神の合いの子の力を借りる人間の魔法で、我が翼を望まぬ方向へと羽ばたかせる事は叶わぬ」
銀河すら動かすハルミンの翡翠の流れを、ニーズヴァシャルは取るに足らぬ児戯と笑い飛ばし、大きく羽ばたいた翼の一打ちで起こした黄色い風で迎え撃ち、双方は一瞬の拮抗の後に消え去る。
ニーズヴァシャルの意識が魔法の迎撃に逸れた瞬間を狙いすまし、七勇者の内、近接戦闘に特化した二人が左右からニーズヴァシャルの首と心臓を狙って虚空を掛けていた。
特徴的な形状の赤い肩当てや蛇腹状に編まれた胴丸、そして所属する国家伝来の宝刀『星切丸』を手に、後頭部で結わえた黒髪を翻すは侍大将ハガミ。
特殊な塗料による紋様を描いた褐色の筋肉を惜しげもなく晒し、仕留めた天文災害規模の超生物達の牙や骨の飾り物と毛皮を纏い、黒曜石を思わせる槍穂の長槍を構えるは蛮勇の戦士アルガッツ。
「一刃、風となりて天道を断つ。落陽の太刀!」
「面倒くせえ、さっさと死ねや!」
「ぎしゃあああ!」
言霊を乗せて斬撃の威力を高め、恒星すら真っ二つに斬り裂くハガミ――“刃の神”転じて“神の刃”――の太刀を、ニーズヴァシャルの瘴気を纏う左手が鱗を断たれて肉に刃を食い込ませながらも受け止めた。
そしてまた、アルガッツのただ力任せに押し出したと見えて、これ以上ないほど合理的な力の伝達率を誇る構えから繰り出された長槍を、ニーズヴァシャルはあえて右手の掌から甲までを貫かせて被害を最小限に留める。
「ききききゃきゃ、この程度は我の首と心臓はくれてやれんなあ、人間にしてはそこそこにやる者達よ。神々の失敗作にしては上々だが、神の力を借りねば我の影を踏む事さえ叶わぬ惰弱な生き物風情が調子に乗るでないわ!」
怒号を発したニーズヴァシャルが両手を振り回し、ハガミとアルガッツは一光年の広さを誇る結界の端まで吹き飛ばされてしまう。
怒号と共に開かれたニーズヴァシャルの咽喉奥に、黒紫色の霧が発生した。毒竜としての属性を持つニーズヴァシャルが、本来はユグドラシルの木の根や幹を腐らせる為の毒液を放とうとしているのだ。
かつてユーバ・ユグドラシルに住まう者達が、ニーズヴァシャルを撃退させる為に集結し、戦いを挑んだことがあった。
そうして集った星すら食らう巨大生物を、太陽すらお手玉に見える巨人戦士を、それらを乗せた無数の艦隊を一息で全滅させたニーズヴァシャルのブレス。
ニーズヴァシャルは結界内部を自らの毒で埋め尽くすべく四方へと首を回して、狙いを定めることなく無差別に毒を撒き散らし始める。
神の加護に満たされた結界の中にあってなお猛烈な毒性を備えたブレスに、ハイエルフの女性が動いた。
ハイエルフの種族としての歴史の中、後にも先にも比肩する者は誕生しないと称賛された精霊使いエルシリアは、膨大な量の精霊石を圧縮し繊維状に加工して編み上げた衣服と、両手に持った虹色の複合精霊石より力を抽出し、異次元に存在する精霊界へのチャンネルを開く。
「風の精霊王ヴァユラビーマ、水の精霊王ニヘルシャルマ、火の精霊王アグンヅゥー、冥府の気配を纏う偽竜の悪意を退けて!」
エルリシアの呼び声に応じ、三柱の精霊王が同時に顕現した。一柱一柱が全力を発揮すれば、一つの宇宙を崩壊させうる超越存在だ。
光り輝く竜巻の下半身と逞しい人間の上半身を持つヴァユラビーマの起こす風が、ニーズヴァシャルのブレスを一か所に集め、巻貝からひょっこりと腰から上を覗かせる水の少女の姿をしたニヘルシャルマが、ブレスの全てを青い水の中に閉じ込める。
そして灼熱する二本の角と炎の翼を持つ猛牛の姿のアグンヅゥーが、水ごと毒のブレスを燃やしつくす事で、毒の脅威はようやく消える。
瞬時に精霊王を三柱同時召喚してのけたエルシリアの力量と霊格は常軌を逸するが、そうしなければブレス一つ防げないニーズヴァシャルもまた凄まじい。
「小癪だなァ、ニンゲン」
ニーズヴァシャルがハイエルフのエルシリアをニンゲンと呼ぶのは、神々の失敗作である人間を元にして、ハイエルフの祖である最初のエルフ達が生み出された経緯を知るからだろう。
「その臭い口を閉ざしなさい、ニーズヴァシャル! 時の精霊王クロックワークロック、時の流れを我が手に!」
ガチン、と時計の針が重なり合うのに似た音を立てて、ニーズヴァシャルの体を中心とした巨大な時計盤が出現していた。
長針と短針の軸の位置にニーズヴァシャルの体が固定されて、悪竜の身体を捕縛する。
本来ならばそのままニーズヴァシャルの時間を止める筈が、拘束するだけに効果が留まっている事に、エルシリアは焦燥の念を覚えずにはいられなかった。
「セムト、ソウゲン! 長くは保たないわよ」
「おおおおお!!」
エルシリアの警告に、ソウゲンは咆哮を持って答えた。人間種の体内に七つ存在する気の門チャクラに加え、頭上と尾てい骨の先に八つ目と九つ目のチャクラを作りだし、九つ全てと肉体を連動させて、十個目のチャクラとし、それら全てを全力で稼働させる。
そうなったソウゲンは密接に森羅万象と繋がり、際限なく純度を高められた気の使い手となる。
「かあっ! 千闘千争撃!」
千の手と千の足が生えたかのごとく、ソウゲンからニーズヴァシャルへと向けて拳撃と蹴撃の嵐が降り注ぐ。
「ぐががが、ぎゃ、ぎゃうっ」
魔力と瘴気による複合結界がソウゲンのチャクラによって減衰され、高純度のオリハルコンを砕く手足が次々と叩き込まれる苦痛に、わずかにニーズヴァシャルの口から声が零れる。
時の精霊王による束縛が力を失い、ニーズヴァシャルが反撃の一手を打つ直前に、最新式の時空振動ブレード『ズィーリッパー』を構え、全次元領域対応型歩兵強化鎧『コスモスアーマー』を着用した七勇者のリーダー、セムトが懐深くまで踏み込んでいた。
「お前に世界樹を食わせるものか!」
世界に勇者はセムトただ一人、唯一無二のセムトと彼を知る者から限りない称賛を受ける青年は、優美な弧を描く万物を斬断する長剣を基本通りの動作で振り上げ、そして振り下ろした。
言葉にすればたったこれだけの動作に、一体どれだけの魔性の妙技と神域の絶技が込められていたものか、並大抵の時空干渉程度など通用しないニーズヴァシャルの胸元から左頸部にかけてパックリと真っ二つに割れて、紫色の血が滝のように噴き出し始める。
「げああ、ようもやったな。やってくれたな、このニーズヴァシャルに傷を与えたか! 人間、いや、超人種! それも既に亜神の域に達しておるか、ぬかった、ぬかったわ。
しかし我はニーズヘッグの一族。神に準ずる域に達したとて、敵う相手ではないと知れ」
「お前が強いか弱いかは関係ない。ニーズヴァシャル、問題なのは、お前が絶対に倒さなければならない敵であるという事実だけだ」
「我が何を食おうと我の勝手よ。貴様らの生まれた宇宙はユーバ・ユグドラシルとは関係の無い宇宙であろうに、こうしてしゃしゃり出て来るとは、貴様らは己らがしてきた命の取捨選択を棚上げにして我の邪魔をしておるだけであろうが」
「そうであったとしても、お前が世界樹を食えば星の数よりも多くの命が消える。それを防ぐ事が出来るのに見逃すのならば、それは絶対に良くない行いだ」
「はっ! 悪と断じる言葉を吐く気概も持たぬ腑抜けが、ならば貴様らはユグドラシルの前の前菜よ。我の胃の腑に収まれ、屑共!」
これよりさらに四日の間、七勇者とニーズヴァシャルは戦い、手傷を負ったニーズヴァシャルが一旦は別次元の塒へと引き返した事でひとまずの決着を見る。
しかし、ニーズヴァシャルはユーバ・ユグドラシルを諦めたわけでないのは火を見るよりも明らかであり、同時に七勇者達には次の、その次の、更に次の次の戦場が待っていた。
ニーズヴァシャルとの激戦の後、負わせた傷が治るまで一ヶ月はかかると目途が立ち、セムト達は再び戦う際にニーズヴァシャルを逃がさず、倒しきるための方策を練らなければならなかった。
セムトの所属するシンアース多元連合王国を介して齎された依頼は、これまで七勇者としてこなしてきた活動の中でも、かなり難しい部類に入ると言わざるを得ない。
ニーズヴァシャルを閉じ込めていた結界の外で待機させていた戦艦に帰還し、今回のユーバ・ユグドラシルの護衛とニーズヴァシャル討伐の依頼をしてきたシャルガール世界樹連盟が保有する人工衛星に奇港して、ひとまずの休息を得る。
世界樹連盟の人工衛星ガムネシアは、人工ブラックホールを動力源に据えた人口三十億人を誇る標準的な人工衛星である。
人類種以外の知的生命体も数多く加盟している世界樹連盟の人工衛星には、外見から生体、思考形態、単純な体格に至るまで多種多様で、効率性を重視してそれぞれの都合に合わせて衛星内の居住区の造りが大きく異なる。
標準的な人類種の集まりである七勇者達は、概ね身長三メートルまでに収まる人類種系統がひしめく居住ブロックの、最高級品質の宿泊施設を用意されていた。
既にこの時点で数多の世界にその名を轟かせた七勇者達は、後の時代よりもはるかに神々が近しいこの世界において、極めて希少な人間の身で神々にわずかでも抗し得る奇跡そのものに等しい。
当然、その奇跡を崇める人々からの対応は、推して知るべしだろう。
人類種にとって心地よく感じられるデザインの調度品と気温、匂い、照明の明るさに至るまで全てが計算され尽くした部屋の中で、それぞれ武装を解いて楽な格好に変わったセムト達は、改めて部屋の中央にある大テーブルに集まっていた。
アルガッツなどは早々に大テーブルの上に置かれていた果物の類に手を伸ばし、皮も種も芯も構わずにバリバリシャクシャクムシャムシャとやかましい音を立てて貪っている。
エルシリアが色々と言いたそうな顔に変わったが、この宇宙の辺境に住む戦闘民族の猛者は出会った時からこうだったのだから、今更言っても無駄だと諦めた。
その代わりに、エルフの味覚にはこれ以上美味と感じられる事はないとされる茶葉を使った紅茶に口を付けて、気分を落ち着ける。
ハルミンはハルミンで室内にあったレプリカメイカー――質量とエネルギーさえあれば、ほぼ何でも作れる――を使って、地獄の釜の底から汲み出したようなドギツイ色のコーヒーを楽しんでいる。
ソウゲンは至極真面目な態度なのは良いのだが、黙して語らない人間の典型どころかそれを突きつめたようなタイプで、自分からはなかなか口を開こうとせず、ともすれば人型のオブジェか何かかと、エルシリアは今でも時折錯覚してしまう。
口火を切ったのは、故郷の名産である干し芋を齧り、複製品ではない玉露で口と胃の中を潤していたハガミであった。
多少人を煙に巻くところはあるが、基本的には信用できる人格の主であり、鋭い洞察力の持ち主である為、エルシリアが意見を求める場面も少なくない。
「さて、まずは恒例の反省会と参ろうか。かの偽竜めはマイアルテ殿の結界で弱体化させ、こちら側に引き摺りこんでもいやはや、手強いものよな。
我ら総がかりでそれなりの手傷は負わせたが、逃げ足が速すぎる。次に備えて拘束の手はずを整えても、向こうもそれに対抗する手段を何かしら用意してこよう。傷が癒えた、では我らに報復を、と考えるほど単細胞でもなさそうだ」
厄介そうに左目を閉じて玉露を啜るハガミの分析に、表向きはどうあれ他の六人全員が心の中では同意していた。
神々の眷属か神造魔獣の類は、大抵がその出自相応に気位が高く、人間を相手に背を向ける事を良しとしないか、するにしても躊躇う素振りを見せて隙を作るのだが、ニーズヴァシャルは一切躊躇せずにさっさと逃げた。
その潔いとも言える判断力に関しては、厄介と言う他ない。
ハガミの分析を受けて、王国の士官服に着替えたセムトがパーティー随一の良心であり、二大知恵袋の片割れである女性神官マイアルテに問いかけた。
「マイアルテ、ニーズヴァシャルが逃げられないように結界を強固にする事はできそうにないか?」
信頼するリーダーからの問いかけに、マイアルテは小さく首を左右に振りながら答えた。
「いいえ。あの結界が今の私にできる精一杯です。世界樹連盟と連合王国からのバックアップがあっても、ニーズヴァシャルを三次元に留め、その他の偽竜や悪魔達を出現させないように次元の穴に蓋をするのが限界です。ごめんなさい」
「マイアルテは何も悪くはないよ。出来る限りの事をしてくれているのは、十分知っている」
「ええ、そう言って貰えると救われます。でも他の神々に助力を願ったとしても、ニーズヴァシャルもまた近しい邪神や他の偽竜に助力を願い、対抗してくるでしょう」
マイアルテの言う通り、神々の力を借りるのは延々とイタチごっこを続ける羽目に陥りかねない。
ニーズヴァシャルにとって誰かに助けを求める行為は恥辱に他ならないとは思うのだが、見事な逃げっぷりを見せたニーズヴァシャルならば、助力を乞うのを躊躇いはしないだろう。
大テーブルの上の果物を片付け終えたアルガッツが、今度はレプリカメイカーから合計で百キロ近い分厚いステーキを何枚も作って頬張りながら口を挟む。
言葉を重ねても口から肉片やらが飛ばないのは、その飛んだ肉片が勿体ないとアルガッツが無駄な器用さを発揮して、口の外に出ないようにしているからだ。
「だったら、今のおれらがあの不味そうな偽竜の野郎を逃げる暇もねえぐれえ早く片付けられるよう強くなるか、それともユグドラシルを囮にして、偽竜野郎が夢中になって食っている隙を突くぐれえしかねえんじゃねえか?」
「ちょっと、アルガッツ、前半はともかく後半はあり得ないわ。ユグドラシル様が傷付けばそれはそのまま共生している世界の人々に、天変地異かそれ以上の災害となって襲い掛かってくるのよ!」
ユグドラシルを信仰対象の一つとするエルフに属するエルシリアには、ただの提案であろうともユグドラシルを囮にする提案は到底許せるものではなかった。
烈火の如き怒りを見せるエルシリアだが、アルガッツは当然こうなると予測していたようで、取り立てて声を荒げる事もせずに肉を咀嚼し続ける。
命の宿らない合成肉は決して本物に劣るものではない筈だが、いくら食べても、アルガッツが満足を得られる事はないだろう、とセムトはアルガッツの間食風景を見ながら思う。
アルガッツが求めているのは、命だ。自身の命に溶けて新たな活力となり、熱となる命。
文明の発達に伴って多くの世界で合成食や身体改造、医療用ナノマシンなどによって食事を必要としなくなる者が増える中、アルガッツの所属する部族は時代に逆行して命をあるがままに食らうのを是としている。
さてそれはそれとして、アルガッツの提案は即興で出た案としては、検討に値するものではある。ユグドラシルを全て食べられるよりは、多少傷を負ってでもニーズヴァシャルを倒す方が、被害が少なくて済むのは確かなのだから。
もっともそれを許しては世界樹連盟も連合王国も面目は丸つぶれだし、それを知ったエルフというエルフが激昂して暴発する恐れすらある。
「一番いいのは、アルガッツが言った通りにおれ達が強くなる事なんだろうけれど、最長一ヶ月の期間でそこまで強くなれるかって話になるな。
もちろん、強くなるのに越した事はないが、他の手段も考えよう。これしかない、自分達だけで何とかしないといけない、そんな風に思いこんで自分から選択肢を狭めるのはよくあるけれど、失敗があってはいけないからな」
玉露を啜り終えたハガミが二杯目を注ぎながら、セムトに向かって微笑した。
「我らのリーダーは良い事を言う。さりとてニーズヴァシャル級の個体を相手には、通常の兵器ではほとんど効果があるまい。時空や因果干渉系統の兵器は、それこそニーズヴァシャルのような神域の存在には通じんしな。
神々への助力もあまり上手く行きそうにないとなれば、我らと同じく個体としてニーズヴァシャルと戦える猛者を探さなければならなくなる。
世界樹連盟も我らに依頼を出す前に、身内の中でそれだけの使い手が居ないかとさんざん探していた筈。となると、これも難しいかな?」
「耳に痛い事をずばずばと言ってくれるなあ、ハガミは。でも実際その通りだ。ニーズヴァシャルとの戦いに賛同してくれて、なおかつ実力を兼ね備えた相手か。……居るかな?」
七勇者級の実力者は他にいないではないが、パッと思いつく誰もが実力相応の責任ある立場に就いているか、何かしらの役目などを持っていて今いる場所から離れられない事情を抱えていた。
一カ月後のニーズヴァシャルとの決戦にだけ助力を願うのならば、何人かは動いてくれるかもしれないが、ニーズヴァシャルに逃走を許さずに滅ぼしきれるかと言うと、どうにも断言しきれない点が残る。
毒物としか見えないコーヒーを飲み終えたハルミンが、今度は星の彼方まで意識が広がる蜂蜜酒をチビチビと飲みながら口を開く。
世界の真理を解き明かさんとする探究の徒として、また魔導の学徒として凄まじい叡智を備えた少女は、困難に直面した時にはかなりの確率で、問題を多く含む欠点はあるものの解決案を提示して来た実績を持つ。
「今、王国で製造されている対高次元存在用決戦兵器が使えれば何も問題はないけれど、完成するのはまだまだ先の事。だから私達はどうしても協力者を募る必要性がある。
そしてこの手の戦いの時には、敵の上位互換の存在をぶつけるのが一番。剣士にはより格上の剣士。魔法使いにはより格上の魔法使い。武闘家にはより格上の武闘家。そして、竜にはより格上の竜を」
ハルミンの提案は、それが出来るのならば苦労はしないと言う位に魅力的かつ説得力のあるものだったが、問題は実現できるかどうかである。
セムトは渋い顔になりながら、ハルミンからの案が実現可能かどうか脳細胞を働かせ始める。高位の竜達は既にこの三次元の世界から離れて久しい。こちら側に残っている竜種は、霊的にも肉体的にも大きく退化している。
「竜を? でもニーズヴァシャルのような格の高い竜と戦えるような竜種は、もう皆竜界に移ってしまっているだろう。
竜界への連絡手段って何かあったかな。それに対価らしい対価を用意できるか難しいと思うよ。そもそも気位の高いっていう竜種が、おれ達の頼みを聞いてくれるかな?」
「大丈夫、竜界に繋ぎを取る必要はない。まだこの地上世界にも、竜界に行くべき力を持った竜が一体だけ、ううん、一柱だけ残っている。それもよりにもよってか、あるいは幸いにもと呼ぶべき個体」
ハルミンの話に何かしら察しが着いたのは、マイアルテだけだった。
まるで見えない手に弾かれたかのように顔を上げて、狼狽ともその手が合ったかとも見て取れる複雑な表情を浮かべる。
その個体は、一部の聖職者達や大国の指導者層には最重要機密の一つとして認知されている。神々と竜がそれぞれの世界に居を構える中で、地上世界に残ったかの竜の名前は……。
「古神竜ドラゴン。破壊と忘却の女神カラヴィスや混沌の神ケイオス、戦神の頂点に立つアルデスすらも及ばないという、始原の七竜の内の一柱が今もこの世界に残っている。
彼の力を借りる事が出来たなら、ニーズヴァシャルなど敵ではない。幸いにしてかの竜は人類に対して友好的と思われる逸話が、世界各地に残っている。きちんと礼儀を守ってお願いをすれば、きっと力を貸してくれる。多分、おそらく。力を貸してくれるといいね?」
そこは断言して欲しいとセムトやエルリシアの顔には、でかでかと書いてあったのは言うまでもない。
《続》
神々の代理戦争めいている時代で、こっちが神の力を借りれば向こうも神の力を持ってくるという状況。マイラールやケイオスなど良識のある一部の神が率先して地上生命の保護を行っているので、世界の均衡が維持されているような割と危うい世界です。
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