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19巻
19-1
しおりを挟む第一章―――― 王太子からの依頼
新たな春の季節にアークレスト王国最北部辺境に興されたベルン男爵領は、その出発から半年を経ずして、とんでもない事件に襲われた。
悪名高い大邪神カラヴィスの名を冠する建造物――カラヴィスタワーが領内に出現するという、世界中の統治者が頭を抱えて神々を呪いたくなるような一大事である。
一つ対処を誤れば、禁教に指定されているカラヴィス教との関係を疑われて、男爵家の取り潰しもあり得る。さらに、塔の内部に囚われていたサキュバス達が、古神竜ドラゴンの転生者であるドランの眷属になるという予想外の事態まで発生した。
しかし、ドラン達ベルン首脳陣の奮迅に加えて神々の協力もあり、なんとか穏便な方向で一段落を迎えられたのは誠に幸いだったと言えよう。
こうした予想外の事態に見舞われながらも、出だしに成功したベルン領には、それまで様子見に徹していた商人や冒険者、移住を考えていた者達が本格的に集まりだした。
宿泊施設と交通網の整備、積極的な広告活動のお蔭もあって、ベルン村にはかつての開拓計画の全盛期に勝るとも劣らない賑わいが戻っている。
†
ガロア魔法学院を卒業し、ベルン男爵領の領主となったクリスティーナの一日は、日の出と共に始まる。
起床の時間は学生時代と変わりはなく、同じ部屋で寝起きしている使い魔の不死鳥ニクスに促されて目を覚ますのも同じだ。
鶏ではなく、不死鳥の子供が朝を告げるとは、ある意味豪華である。
近頃は、固有の人格を持つ愛剣『ドラッドノート』が、少年ないしは少女の姿で顕現し、ニクスと交替で起こしに来るようになっている。
この様子からも、両者の関係は良好であると窺え、主人であるクリスティーナとしては大変喜ばしかった。
「クリスティーナ、起床の時間です。本日は一日中晴天となるでしょう」
今日の目覚まし役は、少女の姿で顕現したドラッドノートだ。
就寝時は有事に備えて剣の状態でベッドの中に持ち込まれて、クリスティーナに握られているが、目覚まし役をする時は人間の姿に変わって枕元に立つ。
「ん……ああ、おはよう、ドラッドノート。いつもありがとう」
クリスティーナは幼少期に母と流浪の生活していた際の習慣から、僅かな物音や変化ですぐに目を覚ます。
ドラッドノートに声を掛けられた時点でほぼ完全に覚醒し、顔からは眠気が完全に払拭されていた。
ニクスも愛用の止まり木の上で目を覚ましており、主の代わりと言わんばかりに大きく嘴を開けて欠伸している。
クリスティーナの寝室は新興の男爵家として充分な広さを備え、ベルン近隣の土地から集められた調度品が並んでいた。
エンテの森産の古木を用いた衣装箪笥や、海底で何千年も生きた貝の貝殻を使った見事な透かし彫りのランプなどは、交友関係を分かりやすく示す品だろう。
決してこれ見よがしな華美さはないものの、価値の分かる王侯貴族なら目玉が飛び出るような希少な品が並んでいる。
ただ、部屋の主であるクリスティーナに勝る宝は一つもないと、誰もが認めるところだ。
「侍女を招き入れてもよろしいですか?」
ベッドを下りたクリスティーナに、ドラッドノートが確認した。
寝室の外では着替えの準備を整えた侍女達が入室の許可を待っている。
返事をする前に、クリスティーナはベッド脇の棚に置いた、容貌を醜く変化させる効果のある『アグルルアの腕輪』を手早く身につけた。美しすぎる彼女が下手に素顔を晒すと男女問わず魅了してしまう為、生活や執務に支障が出ないように日頃から外見を補整しているのだ。
「ああ、もう構わないよ。入ってもらってくれ」
現在、この館のメイド兼遊撃騎士団の団員として、リビングゴーレムの少女――リネットが籍を置いているが、クリスティーナの世話は、他のメイド達も行なう。
専属秘書であるバンパイアクイーンのドラミナや、補佐官のドランを含め、周りを〝身内〟ばかりで固めるのは健全とは言い難いと考えたからだ。
それに、クリスティーナの父方の祖父、先代のアルマディア侯爵に仕えていた経験豊かな者達が働きに来てくれている。彼らの指導のもと、人材の育成も兼ねて、新しいメイド達にも身の回りの世話を委ねているのだ。
ドラッドノートが小さな銀の鈴を鳴らすとすぐに扉が開き、年齢も種族もバラバラな四人のメイドが入ってくる。
「おはようございます、男爵様。本日のお召し替えを始めさせていただきたく存じます」
真っ先に口を開いたのは先頭に立つメイド長だ。巻角と柔らかな白髪が印象的な羊人の老女である。先代アルマディア侯爵に仕えていた者の一人で、ベルン男爵領ではメイドとして最も確かな経歴と経験を持つ、貴重な人材だ。
彼女に続くのは、耳と腕の付け根から手首にかけての被膜が特徴の蝙蝠人、体の一部が皮膚ではなく甲殻に覆われている蟹人、クリスティーナよりも年下の小柄な純人間種の少女。この四人が、本日の担当だった。
ちなみに、美の概念を超越するほどに美しい主人の肌や髪に触れ、その姿を間近に見なければならないメイド達にとっては、一回一回の着替えが途方もない死闘である。何しろ、あまりの美貌にやられて男女問わず失神しかけるほどなのだから。
そんな彼女達の心中を知ってか知らずか、クリスティーナが一礼する。
「よろしく頼む」
こういう場合、黙ってメイド達に身を任せるのが〝貴族らしさ〟なのだが、クリスティーナが実践出来るようになる日はまだまだ遠そうだ。
メイド達の方も腰の低さの抜けない主人には慣れたもので、黙々と衣装箪笥を開いて準備を始める。
基本的にクリスティーナは、動きやすさが第一、次に価格の低さを優先して服を選ぶ傾向にある。
彼女は幼少期から人生の半分以上の時間を貧困に喘いで暮らしてきた為、衣食に不自由ない生活を送れるようになってからも、好みに変化はない。
彼女が身につけたのは、最上級の素材を使ったフリルを襟や袖にあしらった白のブラウス、動きやすさを重視した革のズボン。白銀の髪を束ねるのは金糸の刺繍が施された青のリボンで、首元を飾るリボンも同じく青と、学生時代とほとんど変わらぬ出で立ちだ。
これには流石のドラン達も少し呆れている。
屋敷の中では帯剣はせず、少女姿のドラッドノートを後ろに従え、ニクスを左肩に乗せて、クリスティーナは寝室を出る。
身だしなみを整えたら、次は朝食だ。
彼女の人生において、食事は常に最大の楽しみであり、癒やしであり、救いであった。
しかも、生涯の伴侶と定めたドランがおり、最愛の友人達――ラミアのセリナや黒薔薇の精ディアドラ、ドラミナも同席する、賑やかな食卓だ。今やクリスティーナにとっては人生で最も楽しい時間になっている。
普段の食卓では家長の座る席にクリスティーナが腰掛けて、彼女から見て右手側にドラン、その隣にセリナ、左手側にはディアドラとドラミナという席次だ。
最近ドランに保護されて身内に加わったリネットは、愛らしいメイド服姿で、給仕の為に控えているメイド達の列に並んでいる。
ドラッドノートは、クリスティーナの愛剣としては先輩にあたる『エルスパーダ』を抱えて、主人の右後ろに立つ。その場所ならば、必要な際にはいつでもクリスティーナの右腰に収まれるからだ。
無論、食事の席でも、使用人達の〝気苦労〟は続く。
クリスティーナのみならず、ドラミナという絶世の美女まで加わるのだから、二人を同時に視界に収めてしまうと、眩暈に襲われてどんな粗相をしでかすか分からない。むしろ、それで済めばマシなくらいだ。
結局、使用人達はクリスティーナとドラミナの顔を直視せず、手元を見るように徹底して対応せざるを得なかった。
そんな中、クリスティーナがにこやかに口を開く。
「みんな、おはよう。今日もこうして顔を合わせられて、本当に嬉しいよ。まだまだ忙しい日が続くけれど、まずはお腹を満たして、一日頑張ろう」
身内相手とはいえ、堅苦しい挨拶ではなく、穏やかな励ましの言葉から始まったのは、実にクリスティーナらしい。
†
朝食を済ませて心身共に栄養をとった後は、早速仕事の時間である。
「ルメル子爵からの紹介状をお持ちのこちらの方はシロ、元ヴェイクル侯爵家の執事の方はクロですね」
クリスティーナの執務室に置かれた秘書用の机では、ドラミナが直近の就職希望者の書類審査をしている最中だ。
彼女はベルン男爵領の内情調査を行なう為の密偵と、純粋な就職希望者を選別していた。
これには、彼女が事前に放った蝙蝠の使い魔がもたらす情報と、道中の木々や草花が聞いた会話などが判断基準になる。
世界樹――エンテ・ユグドラシルや、黒薔薇の精ディアドラの全面的協力を得ているベルンならではの情報網だ。
「今日も胸の内に隠し事をしていらっしゃる方がたくさんおいでのようで」
ドラミナはバンパイアの国の女王であった時代にも似たような情報戦をした経験がある。それを思い出して、楽しそうに笑った。
しかし、経験豊富な元女王陛下はそれでいいかもしれないが、新米領主のクリスティーナは、白黒入り混じる就職希望者に辟易している様子だ。
「一癖ある連中といっても、労働力としては有能だから、追い払うのは勿体ない。おまけに、紹介状があると断りにくい。知られても構わない〝餌としての情報〟をいくらか掴ませて、後は身を粉にして働いてもらえばいいか」
「ドランの魂やドラッドノートの本当の由来と比べれば、大概の事は重要な情報ではないと、ついつい錯覚してしまうのには、気を付けないといけませんよ」
ドラミナにやんわりと忠告され、クリスティーナが苦笑する。
「普通の領主としての感覚を養わないと、色々と失敗しそうだからね。とにかく、多少の曰く付きや思惑を抱えた人材も、構わず採用して利用させてもらおう。しかし、人事採用でこうも悩むとは……。そこに思い至らなかった私が浅はかだったよ」
クリスティーナは机の上に置かれたいくつかの籠の一つから、また別の書類を取り出した。
ベルン男爵領には、いわゆる内政、文官系の就職希望者ばかりでなく、武官としての希望者も大挙して押し寄せている。
クリスティーナが手にした書類は、そちらの希望者達をまとめたものだ。希望者が集うのは一向に構わないのだが、その売り込み方にはいささか悩まされている。
具体例を挙げると、複数の武芸者が屋敷の前で剣やら槍やらを振り回したり、遠くの的に矢を当てたりして実力を誇示しはじめたのだ。
流石にこれには参り、武官に関しては定期的に大会を開いて採用試験代わりにする方向で検討している。
「ドランをはじめ、私達のような特殊な人材の力に依存して領地を回すよりも、〝凡人〟による代替可能な治世の方が、長く繁栄するものですよ。将来の為にここは心を強く持って、毒にならぬ程度に能力を持った人材を集めましょう。とはいえ、平凡な人材だけでは発展性に欠けます。奇人と呼ばれるような突出した才能も一定数は集めないといけませんし……。ふふ、難しいものです」
正直、ドラン達は〝なんでも出来る〟と言っても過言ではないが、それで万事を片付けられるのは今の世代までだ。
このやり方がベルン男爵領における主流となってしまっては、次以降の世代の領地運営は上手くいかなくなってしまう。
もっとも、バンパイアであるドラミナを筆頭に、女性陣はほとんどが長命な種族なので、次世代までの期間は彼女達が自主的に譲らないとかなり長いものになるかもしれないが。
それでも、やはり普遍的な運営体系を構築するべきだというのが、ドラミナの、そしてベルン首脳陣の共通認識である。
「領主としての大先輩の助言、心に刻んで参考にするよ」
そう言ってクリスティーナは、早馬の群れの如く押し寄せる仕事を片付けるべく、新たな書類に目を通す。
冒険者ギルドのベルン支店の開設計画の進捗、各地から次々とやって来る各教団の神官達への対応に、各教団の教会ないしは神殿の建設要請などなど……
ある程度は補佐官であるドランや、会計責任者のシェンナらが処理するとはいえ、最終的な決定はクリスティーナが下さなければならない。
秘書を務めるドラミナも、助言したり仕事の効率化を図ったりはしても、決裁や認可印を押す作業に関しては、クリスティーナの判断に委ねている。
その為に、クリスティーナはドラッドノートを半常態的に実体化させて、仕事の手伝いをお願いし、慣れない〝領主仕事街道〟を爆走中であった。
「カラヴィスタワー入口の交換所と宿泊施設、医院の建設は完了。ええと、各教団の教会の建設要請で、村の中だけでなく塔の方にも希望ね。寄進はするし、土地も用意するが、建設費と資材と人員は用意してもらわねば困るな」
クリスティーナは、執務机の上に積まれている選別済みの書類に目を通し、確認の意味も含めて内容を口に出しながら、吟味を重ねていく。
次に彼女が手に取ったのは、カラヴィスタワーでドランが眷属にした〝ドラグサキュバス〟の代表者、リリことリリエルティエルからの報告書だ。
「リリ達からの人員派遣第一弾の表はこれか。娼館の従業員兼娼館付き神官枠で採用、っと。この他にお針子、料理人、文官、武官、商人としての就労を希望する者も複数? なるべく男性の居ない職場に――いや、男も女も淫魔には同じ話か。淫魔としての本能を抑えてくれると助かるが、そこはドランの眷属と化しているのだから大丈夫……大丈夫だろう、大丈夫だよな?」
クリスティーナが書類を読み終えて、認可するものとしないものを別々の箱に分けながら判断する速度は、老練の領主にも負けない。領主としての経験はなくとも、基礎的な知力と体力が文字通り人間の域を超えているお蔭だ。
窓の外から差し込む陽射しは暖かく、執務室の中で焚かれている香木からは、精神と神経を落ち着かせる淡い香りが立ち昇っている。
眠気覚ましのお茶を口にした直後でも、すぐにうたた寝の誘惑に負けそうな心地よさであるが、脳を全力で稼動させているクリスティーナには、夢の国からの使者も近づけない。
「ふうう、タワー関係はこれで一区切りか。それにしても、冒険者ギルドは動きが速い。ベルン村だけでなく、タワーの方の支部開設をもう打診してくるとは。いや、各教団の本拠地や地方の本部からも人が来ているし、商人達の動きから見ても何かあると踏むのは当然だとドランが言っていたしなあ。こうなると、また会談の予定が増えるのか。あれは必要以上に時間を取られる事が多いのがなあ……」
熟練の商人達は少しでも自分達の利益を増やそうと、あの手この手で弁舌を振るう。
敬虔な聖職者達が相手であっても、その融通の利かなさに難儀する事があるし、クリスティーナとしては、カラヴィスタワーの処理に関して負い目があるのでやりにくい。
ようやく仕事が一段落したところで、実体化したドラッドノートとドラミナが、必要な書類を受け取る為に連れ立って部屋を出た。
一人になったクリスティーナは、ふと窓の外に目を向ける。
使い魔である不死鳥の幼生ニクスは悠々と空を飛び、通りがかった鴉の雌と何か話をしている。多分、口説いているのだろう。
自由気ままな姿が、ひどく羨ましい。
クリスティーナは執務机の近くに置かれた小さなワゴンから、ガラスのティーポットと白磁のカップを手に取り、甘い香りのするフラワーティーを注ぐ。
執務机の上にティーセットが置かれていないのは、中身を零して机の上の書類を濡らさない配慮だ。
口から鼻へと広がる花の香りに、張り詰めていた神経が解れて、クリスティーナは細く息を吐き出しながら椅子に背中を預ける。
「ふう、このままではお尻と椅子がくっついてしまいそうだな。ドラミナさんは今が一番忙しい時期で、人材が揃えばもっと自由に使える時間が増えると言ってくれたけれど、どうなる事やら……。その忙しい時期は、私が思うよりも長くなるかもしれないとも言っていたしなあ……」
ベルン領はもう、放っておいても人や物やお金が集まるようになっている。
しかし、今後の〝暗黒の荒野〟へ向けての開拓事業や、モレス山脈の異種族との交流を踏まえると、座して待っていられる状況ではない。
アークレスト王国各地に埋もれている有能な人材や、生まれてくる時代を間違えて奇人変人扱いされている才人達の発掘も、お金に糸目をつけずに行なっている。
常に新しい仕事が舞い込んでくるばかりでなく、自分達でも仕事を増やしている状況である為、クリスティーナは毎日かなりの時間を机から離れられずに過ごしていた。
「ん~、ん~。別にこの仕事が嫌なわけではないし、不満があるのとも少し違うが、去年のようにドランやセリナ達と一緒に、色んなところに行った時の事をどうしても思い出してしまうな。行く先々で命懸けの戦いに巻き込まれてはいたが、今となっては良い思い出だ。それが無理でも、せめて視察という名目でベルン村の中を毎日見て回るくらいは許されていいと思うなあ」
クリスティーナはカップをワゴンに戻すと、瞼を閉じて座っている椅子をぐるぐると回転させはじめた。
あまり褒められた事ではないが、クリスティーナは行儀の悪いこの行動が、気分転換する時の癖になりつつあった。
もちろん、他の人の目がある時には自重しているが。
「はあ~、それに、いい加減ドランとの関係も進めないと、セリナやディアドラだけじゃなく、ドラミナさんからの視線も時々怖いのが混じるようになっているし……」
ゆっくりと回転椅子を回すクリスティーナの瞼の裏には、ドランのお嫁さん候補達の綺麗な――しかしそれに比例して怖い目をした――顔が浮かぶ。
クリスティーナもそのお嫁さん候補の一人なのだが、彼女だけは他の三名とは異なる事情を抱えているのが問題だった。
アークレスト王国における身分において、ベルン領で最も高い身分にあるのはクリスティーナである。
男爵位を持つ貴族として、クリスティーナがドランと夫婦になる際に〝二番目以降〟では、体裁が悪い。
そんな事を気にするのか、という声が上がるかもしれないが、外聞を考慮しなければ、自ら軋轢や風評被害が生まれかねない。
クリスティーナはもちろん、ドランもセリナもディアドラもドラミナも、全員がベルンの地に骨を埋める覚悟を固めているのだから、決して疎かには出来ない問題なのだ。
さて、ドランがクリスティーナの興したベルン家に婿入りする形になるのは、当事者達の間では合意が取れている。
しかし、婚約した順番では先のドラミナやセリナは、口では気にしていないと言いつつも、心の奥底には大なり小なり引っかかるものがあった。これは心を持つ生き物である以上仕方のない事であろう。
女性陣全員がそれを自覚し、自制出来る理性の持ち主である事と、お互いの心情を察して思いやれる心の余裕を併せ持っていたのが、ドランにとっては大いに救いであった。
「いざ結婚するとなると、アルマディアの父上や母上にも知らせなければならないだろうし、ドランのご家族に改めて挨拶をしないとだが……ううむ、緊張する。緊張するな、緊張するぞ。ああ、ドランに結婚を申し込む言葉も考えないと……というか、いい加減決めないと。流石にこればかりはドラミナさんに頼るわけにはいかないしなぁ」
クリスティーナはぐるぐると椅子を回転させるのをやめて、執務机に肘を突いて両手の指を組む。
「ああもう……ドラン、結婚して」
ポロリと弱音と本音の混ざった言葉が零れ落ちた。
下手に言葉を飾るよりも、率直に頼むのが一番ではないか。知恵熱が出そうなくらいに考えこんだクリスティーナは、これ以上ないほど簡潔に、自分の想いを口にしていた。
問題は、この言葉を面と向かってドランに伝える勇気がないという一点にある。このままではクリスティーナがドランに結婚を申し込むのは、一体いつになるのか。
こればかりは彼女を主と仰ぐドラッドノートも、変なところで勇者セムトと同じ〝ヘタレ〟だな……と、呆れていた。
このように内心でヤキモキしていたドラッドノートは、クリスティーナが椅子を回転させている間に〝彼〟が入室してきたのを、念話で伝えずにあえて主人に黙っておいた。
そして、この判断はドラッドノートの思惑通りの効果を発揮する。
「いいよ」
短い肯定の返事は、クリスティーナの気付かぬうちに執務室に入室していたドランの口から出たものだ。
ドランの手には追加の報告書類の束が握られていて、仕事の用件で足を運んだようだが、彼もまさか仕事の最中に結婚を申し込まれるとは思わなかっただろう。
クリスティーナはドランの声に気付き、電光石火の速さで顔を上げる。
そこには微笑むドランの顔があり、親愛の情を無限に込められた目が向けられていた。
クリスティーナは紡ぐべき言葉を忘れてしばし呆然としてしまう。
「ふむ、それにしても、この状況で結婚を申し込まれるとは……いささか意外だった。でも、ようやくクリスティーナさんが口にしてくれたのだから、素直に受け入れないとな。とても嬉しいよ」
「ち、違――ドラン、いいい、今のは違わないけど、違うというか、あのその……」
珍しくはにかむドランの顔を見ていると、クリスティーナはどうしても今の告白は間違いだったとは告げられなかった。彼女は腰を浮かせてあたふたと怪しげな動きをする事しか出来なくなってしまう。
ドランはその間にクリスティーナへと近づき、机の上に置かれている追加書類用の棚に持ってきた書類を入れた。
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