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夜の子供達
双影離別
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短剣の描く銀色の軌跡が鎧に守られたザグフの首へ、肩へ、腹へ、肩へと次々に吸い込まれるように叩き込まれ、その度に銀と紫の入り混じる火花が周囲へと飛び散って、夜空の白いかんばせとザグフの鎧を照らし出す。
風にしかパートナーを務められぬダンサーの如く、夜空の動きはザグフにも追い切れぬ速さと柔らかさ、そして巧さを兼ね備えている。今も夜空が背中から血を流し続けていると、誰も信じられまい。
「こいつで二十回目っと!」
腰を落として足に溜めた力を解放した夜空の刺突が、ザグフの兜のスリットに吸い込まれるように突きだされ、その寸前で見えない壁があるかのように弾き返されてしまう。その反動で夜空の姿勢が乱れた。
ザグフはその隙を見逃さずに、右蜻蛉の構えから渾身の振り下ろしを夜空の左頸部に叩き込んだ。ザグフの膂力と魔剣アズエランの魔力ならば夜空の身体を両断するばかりか、無数の肉片へと粉砕してのける。
「砕け散れ!」
「その程度じゃあ、やられてはやれんな!」
間一髪で飛びのいて避けた夜空の身体から、砕いたルビーのように赤い血の飛沫が舞い散る。ユハによる背中の刺し傷からの流血と、アズエランの剣風により擦り下ろされたように傷つけられた彼の左首筋から溢れた血だ。
ダンピールの再生能力により背中の傷は閉じつつあるが、流れた血の量と失った体力はザグフとの戦いに於いては軽視できない痛手となってしまった。
「怪我人相手に防戦一方だな、子爵。鎧がなかったらとっくにあの世行きだぜ」
出血の喪失感と苦痛を微塵も感じさせず、余裕と自信で造られた笑みを浮かべる夜空に、ザグフは言葉ではなく刃で返した。
ザグフは宝物庫の軋む音が聞こえるかのような圧力と共に、夜空へ果敢に切りかかる。夜を迎えて万全へと至ったバンパイアの脚力は、彼我の距離を瞬く間にないものとした。
柄を握る指から切っ先に到るまで必殺の意思がみなぎり、アズエランの刃は青い炎のような輝きを放つ。
「幻惑の光か。ささやかだが斬り合いの最中にやられると厄介なもんだな」
アズエランの刃が放つ幻惑の輝きを、夜空は咄嗟に視線を伏せて直視を避けた。当然、ザグフの姿が視界から消えるが、それを夜空は伏せた視界に映るザグフの足だけで全体の動きを予想し、アズエランが風を切る音とザグフの殺気から絶え間ない連続攻撃を捌き続ける。
夜空の操る短剣は、武器の格を考えれば一合刃を噛み合わせただけで砕ける筈だが、それがこうもアズエランを相手に切り結んでいられるのは、ひとえに夜空の力量による。
こと剣技に於いては夜空の方がザグフより数等上の実力者であった。
下顎から額までを縦に割りに来たアズエランの刃にするりと、そう蛇が巻きつくかのように柔らかな動きで短剣の刃が絡みつき、斬撃はあらぬ方向へと転じた虚しく空を斬った。
柔の動きを見せた次の瞬間には、まさに剛の一撃。夜空に両手で握られた短剣が彼の体重と突き出した腕の力、床を踏みこんだ足の力、それらを腰や肩を始めとした体の全部位から短剣を通してザグフの左胸に叩き込まれる。
咄嗟に足を踏ん張ったザグフの身体が呆気なく後ろへと吹き飛び、壁に高速で激突するまでコンマ一秒のところでザグフが動いた。
くるりと回転して壁に両足で激突――着地すると、今度はザグフが自身を砲弾へと変えて夜空へと跳躍したのである。
音の十数倍にも達する速度で迫るバンパイアに、夜空は避ける素振りもなく、右大上段に構えた短剣を至極あっさりと、慣れ切った日常の挨拶のように自然体で振り下ろす。
紫色の砲弾と化したザグフが渾身の力で突き出したアズエランは、夜空の左胸を貫いた。避けた動作すら見えぬ夜空が残した残像の胸を、だ。
一瞬にも満たぬ交差の間に、夜空の振り下ろしの一撃は左脇をすり抜けるザグフの左首筋を捕えていた。
短剣の刃は確かにザグフの首を捕えたが、やはり目に見えない壁でもあるように鎧の表面からその先へは通らない。例えナマクラであろうと、妖刀名剣の切れ味を発揮する夜空の力量でも断てぬ鎧の守りに、夜空はかすかに目を細めた。
「刃に衝撃も通さねえか。だが、何時まで耐えられるよ、子爵!」
夜空の斬撃を受けて、跳躍のベクトルを真横から真下へと強引に変えられたザグフの身体が床へと家屋の崩壊を思わせる轟音を出しながら叩きつけられる。魔法による保護の行き届いた床に罅は入らなかったが、反動で浮き上がるザグフの顔面を夜空の左足が蹴りあげた。
強制的に上半身を仰け反らされたザグフの身体は無防備に空中に浮かびあがり、そこに一撃、二撃、三撃、四撃……夜空の斬撃がザグフの左胸を狙い澄まして何度も重ねられる。
「がっ!?」
数えて十二回目の斬撃がザグフの左胸を斬りつけた時、ようやくザグフは爪先を床につける事が出来た。むろん、だからといってそれだけで夜空が圧倒的優位を握った状況を覆せるわけではない。ザグフの取った行動は、戦場が彼の所有物であるという優位性を活かすものだった。
「ダンピール風情が!」
もう一撃叩き込まんと右腕を引いていた夜空とザグフの間に、突如として床から天井までを塞ぐ棚が生じて壁となった。
棚には一面に大ぶりの宝石をあしらった装飾品に黄金の皿や水瓶、艶やかな漆器等がずらりと並べられている。これまで宝物庫の亜空間に収納されていた棚の一つを、ザグフが咄嗟に思念で呼び出して、障害物として用いたのだ。
「家のお宝自慢ってか、余裕があるねえ、子爵」
もちろん、本気でそう思っているわけではない。盗人対策に隠していた宝物を使ってまで、夜空と距離を取ろうとしたザグフをあざ笑う夜空の台詞である。
夜空の言葉に兜の中で、ザグフはギリギリと噛み砕かんばかりに歯を噛み締める。夜空との初対面時に、このダンピールが尋常ならざる者だと理解していたつもりが、ここまでの強者だったとは。
今も隠されていた棚が夜空の左右から、前後から、更には上下からも出現して彼を轢殺ないしは閉じ込めようとザグフの意思のままに出現し続ける。
「我が一族の家宝に囲まれて死ね。おれの寝首を掻こうと目論んだ慮外者には、過ぎたる死に様だ。死んで迷わず冥府に落ちるがいい」
「強がった言い方をしやがる。見栄を張らにゃならんのが貴族とはいえ、この状況では苦笑を誘うだけだぜ、子爵。それとおれは言わなかったか? こいつの破片を館に施された術を乗っ取るのに使ったってな」
夜空が気取った仕草で左手を挙げると、それまで夜空に殺到していた棚の動きが停止して、そればかりかザグフへと至る道を邪魔しないように動き出すではないか。
さしものザグフが言葉を失う中、夜空はザグフの動揺をこの上なく楽しみながら、ゆるゆると足を進めて行く。
「……ばかな、どのような触媒を用いたとしても、一部だけとはいえ我が館の機能をこうも簡単に掌握できるものか。貴様、貴様は一体何をしたというのだ!?」
「はっはっはっはぁ、分かりやすく動揺してくれてありがとうよ。そういう反応がおれとしては嬉しくってしょうがねえ。相手がバンパイアである限り、有利に働くモンをおれが持っているからさ」
「なに?」
「種明かしの前に一つ聞くが、ああ、いや、おれの推測を勝手にしゃべるとするぜ。あんたとのこれまでの戦いからして、その鎧もバンパイアの神器の類だな?
始祖に授けられた六つの神器以外にもあるとは驚きだが、始祖に授けられなかった欠陥品か、正式採用には到らなかった失敗作かね。どこでそんなものを手に入れたのか知らないが、それがあんたの強気の理由だろう。だがまあ、いい加減、その鎧の壊し方も分かってきた」
「それこそ、それこそ世迷言だ。貴様の言う通り我が鎧バルバダインはかつて神器の一つとされた鎧。神の鍛えたる鎧をバンパイアですらない貴様がどうして壊せる!?」
「この状況でもまだダンピールって馬鹿にするかよ。あんたのダンピール軽視は筋金入りだな。なに、恥を晒すようだがよ、おれと夜月の奴は母ちゃんから“貴方達は二人そろってようやく半人前です”なんて評価されていてな。
だからコレも母ちゃんとおれらの分って事で半分に分けた上で、おれと夜空とで四分の一ずつしか渡して貰えなかったのさ。情けない話だろ?」
夜空の右手に握られた短剣に周囲から赤い粒子がまとわりつき始め、見る間に銀の刃が赤く塗り替えられてゆく。ユハの胸に突き立てられたままの長剣から失われていた、残り三分の一が、今、形を変えて短剣に集められているのだと、ザグフにも理解できた。
「四分の一の更に三分の一だから、十二分の一。ここまで分割すると流石に神器モドキ相手でも厳しいかもしれんが、そこはおれの技量で補うとしよう。さあて、あんたの不死も終わりを迎える頃合いだぜ、子爵!」
刃は赤く変わり更に短剣から小剣へと規格を変えていた。小剣を手に夜空が戦闘を始めてから最速の踏み込みをし、夜空の言葉に我知らず戦慄していたザグフへと迫る!
「馬鹿な、貴様のその口ぶりでは、まるで……!」
ザグフの身体は迫りくる美しい滅びに抗うように、咄嗟にアズエランの刃を盾のようにかざした。伝来の家宝が少しでも自分を滅びから遠ざけてくれるようにと、ザグフは無意識に縋ってすらいただろう。
彼の願いに応じようと、アズエランは赤い小剣をかろうじて受け止める。ただし、それは百分の一秒にも満たないわずかな時間の事。
赤く変わった小剣の刃はアズエランのサファイア色の刃に大きな亀裂が走り、砕け散るのと同時に小剣の切っ先はザグフの鎧――バルバダインの左胸部の装甲を貫き、その背中側へと突き抜ける。
「ああ、アアあアあア!? こ、れ、は。こノ刃は、貴様がドウじて、ゴれを持っデイる!? そんな、これは、コレは」
「流石に体を貫かれればコレがなんなのか、分かるだろう? だったらさっさとくたばりな。それが始祖と創造神への礼儀ってもんだぜ。コレで滅ぼされるってのは、そういう事だ」
心臓を貫いた小剣の刃を捻じり、夜空は無慈悲に告げる。しかし、不意に夜空の顔に訝しげな色が浮かぶ。小剣の刃を通じて彼に返ってきた手応えが、奇妙だったのだ。
「こいつは……」
「知らぬ、貴様らの言う始祖ナド、あの方ヲ切り捨テテ始祖を選ンダ創造神も、滅びてしまえ!!」
「ザグフ、鎧に食われたか!」
バンパイアであれば決して口にしない始祖と創造神への呪詛と共に、ザグフあるいはバルバダインは砕けたアズエランに過剰な魔力と憎悪を注ぎ込んでいた。まだ握られていた柄と残っていた刃がどす黒く染まり、それは荒れ狂う嵐の如き闇となって炸裂した。
渦巻く闇の中から夜空が飛び出し、体のあちこちに煙のような闇をまとわりつかせたまま、夜空は床に転がり落ちた。
起き上った彼の身体にはアズエランの破片がいくつも突き刺さり、たらたらと血が流れ出している。
「ザグフの野郎、もう少し根性をみせやがれってんだ。おれが術式の乗っ取りを止めたんで、乗っ取り返すかどうか迷ったな。挙句に迷った隙の所為で心臓を一突きで、鎧に食われるとはな」
薄れつつある闇を見ればザグフの姿はなく、逃走の一手を選んだのは明白だった。追うかどうか夜空は考えたが、一瞬で切り上げた。ここには彼の片割れ――認めるのは嫌だが――と言うべき弟が来ている。
夜月も夜空と同じく赤い長剣を持っている以上、あのバルバダインとかいう鎧と遭遇せずには済むまい。それに狙った獲物を逃す奴でもない。
夜空は右手の赤い小剣を見た。
「おれと夜月の野郎をここに導いた目的は、これで果たせたかい?」
もちろん、応える声はない。夜空は視線を宝物庫の入り口で仰向けに転がるユハと、彼女の心臓に自分が突き立てた赤い長剣を見た。
「それにしても、今回はしんどいな」
傷が再生するのに合わせて、夜空の身体からアズエランの破片が零れ落ちる。それが尽きた頃に、夜空はユハの傍らで膝を突いた。夜空の為に作り出され、夜空の手で心臓を貫かれた女の傍らに。
*
がしゃりがしゃり、と音と縁なきバンパイアからすれば不作法極まりない音が廊下に響いている。
鎧の部位同士がぶつかりあって奏でる不快な音は、ザグフを食らったバルバダインが発生源だ。宝物庫を脱出したバルバダインは、不意に遭遇した怨敵への憎悪を募らせながら、一歩、また一歩と館の外へ続く隠し通路を探し求めていた。
「ヴァルキュリオス、ジークライナス、グロースグリア……忌まわしいアレらめ。次こそは必ず破壊してやる」
それはザグフの声のようでいてザグフの声ではなかった。バルバダインが吸収したザグフの声帯を模して、呪詛の言葉を発しているのだ。夜空によって貫かれた胸の傷は塞がってこそいるが、放たれる狂気じみた圧力は衰えを迎えている。
ザグフを食べて滋養と変えたとはいえ、夜空の度重なる攻撃によって加えられた負荷と消耗を補うには、まだまだ足りない。
「もっと、もっとだ。血を、死を、苦痛を、恐怖を食わなければ、あの方に相応しい鎧には戻れぬ。始祖の血脈を全て根絶して、月の女神と夜の神の不明を証明しなければ……」
「随分とバンパイアらしからぬ言葉を吐いているな?」
「ぬうッ!」
がしゃりと再び音を立てて、バルバダインの足が止まる。四方を灰色の石材に囲まれた廊下の向こうに、あの赤い長剣を手に持つ夜月の姿があった。バルバダインの目――があるかどうかは不明だが、意識は夜月の手にある長剣へと集中していた。
「貴様、貴様もそれを持つか。始祖とされた者へ与えられた神器を。おのれ、始祖に呪いあれ! バンパイアの創造主たる二柱の神に、六神器を鍛造せし鍛冶神に災いあれ!!」
バルバダインの言葉に応じたのは夜月ではなく、長剣であった。まるでバルバダインの呪詛に怒りを覚えたかのように赤い刃が光を発して明滅したのだ。あるいはそれは長剣が夜月に対して、何かを伝えている表現だったのかもしれない。
「ふむ……そうか。始祖六家の内、五家と六神器がこの大陸から失われた反動、とでも言うべきか」
自然に垂らされていた長剣の切っ先がゆるゆると動き、夜月は正眼の構えを取った。廊下の燭台に照らされる赤い刃を、バルバダインは怨嗟と共に睨みつける。
武器となるアズエランを失い、着用者たるザグフを食ったいま、深い紫色の全身鎧の武器も動かす意思も鎧自身であった。
「あの方を差し置いて始祖とされたバンパイアの血を継ぐ者も、我らを差し置いて神器とされた貴様らも、全て壊す。全て砕く。全て殺す。全て滅ぼす。創造主は間違えたのだ。
バンパイアの始祖をあの方ではなくアレとした事も、我らではなく貴様らを神器とした事も。あの方を失敗作とした事も何もかも!」
「ならば始祖と創造主、そして六神器だけを呪え。関わりの無い者を、それもバンパイアですらない者にまで累を及ぼさぬ事だ。そんな事も分からぬのなら、貴様は本当に失敗作だ」
「ぬかせええ!!」
ザグフが操っていた時よりもさらに速く、鋭く、バルバダインが身を屈めながら床を蹴った。全身に纏う凶悪な魔力と憎悪、バルバダイン自身の持つ高い霊格が合わさり、鎧の周囲には高密度の力が渦巻く一種の力場が形成されている。
並の聖剣や魔剣程度では、斬撃を打ちこんだ瞬間に刃が砕けよう。固く握りしめられたバルバダインの右拳が、唸りをあげて夜月の顔面に叩き込まれた。拳を受けたのが縦一文字に構えられた長剣でなければ、夜月の体は挽肉に変わっていただろう。
「この剣が憎いか。おれに流れる血が憎いか」
刃の向こうから静かに問いかけてくる夜月に、全身から赤黒い光を湯気のように立ち昇らせるバルバダインの兜が映る。
「答えなければ分からんか、その程度の事がぁ!」
長剣に抑えられた右腕を引き戻し、バルバダインの左足が閃光の速さで夜月の股間を目掛けて振り上げられた。当たれば睾丸が潰れるどころか、そのまま体を真っ二つにする一撃を、夜月の左手の打ちおろしが迎え撃ち、分厚い鉄の門を大槌で叩いたような轟音が発する。
「お前達は取り残されたものだ。創造主から慈悲として眠りを与えられたものだ。この世の全てはいずれ消えゆく定め。ならばせめてそのまま眠り続けていれば、安らかでいられただろう」
嘲りもない。憐れみもない。ただただ、そうだっただろうという事実だけを告げる夜月の言葉に、後方に飛び退いていたバルバダインはこれまでの絶叫に近い口調から一転し、冷めきった声を出した。
「否、断じて否だ。我らは安らぎを求めぬ。我らは我らの存在を時の流れの彼方に忘却されるのを認めぬ。我らはあの方と共にあった栄光の時を決して忘れぬ。神々が忘れようとも」
「神々は何故お前達を封じた? 滅ぼさずに眠りに就かせた? おれ達に葬らせる為か?」
この時、夜月の瞳はバルバダインではなく、自らの手の内にある長剣を見ていた。長剣は答えない。先程までの光の明滅も止んでおり、ただ一振りの剣として夜月の手の中にある。
「あるいはお前も知らぬ事か」
夜月は右下段に長剣の切っ先を向けたまま、左手でコートのポケットからあのペンダントを取り出した。虚ろなる無垢とダスタが呼んだ、バルバダインの同胞であろうペンダントだ。
夜月はそれを自分とバルバダインの中間地点に放った。縦に割られたダイヤモンドのペンダントを見て、バルバダインが初めて憎悪以外の感情の籠る声を出す。
「ああ、同胞よ。先に逝ったか。再びあの方と見える事なく。無念であったろう。悔しかったろう。お前の嘆きを我が晴らそう、今、ここで!」
そして再び、バルバダインが床を蹴った。今度はまっすぐに夜月へと向かうのではなく、床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、目まぐるしく軌道を変えながらの突進だ。
夜月は不動。迎え撃つ構えである。天井を蹴ったバルバダインの右足の横薙ぎが、夜月の首を狙って襲い掛かる。これを一筋の閃光と化した長剣の刃が弾き返し、紫電を散らすが如き刺突となってバルバダインの喉元へと襲い掛かる。
不完全だった夜空の小剣にさえ貫かれた以上、口惜しいがバルバダインは自身を貫かれてしまうのを認めざるを得なかった。
もはやバルバダインに“中身”はない。鎧そのものを跡形もなく砕かれぬ限り行動に支障はないが、夜空と夜月の持つ長剣は数少ない例外の一つだ。あれによる破壊はバルバダインに大いに効果がある。
「恨めしや、憎らしや、神器共!」
長剣は左右から伸びたバルバダインの掌によって挟まれて、切っ先が鎧に届くまで後一センチの地点で止められていた。
真剣白刃取り――と夜月の脳裏に言葉がよぎったが、それは長剣が赤い霧に変わるのと同時に消え去った。バルバダインの両手から逃れた長剣は、再び夜空の手の中で形を成す。
バンパイアには自分の身体を霧状に変えられる者がいるが、夜月の長剣にもバンパイアさながらの機能があるらしかった。
「形なき器……やはり、貴様らはっ」
改めて夜月と彼の手の中にある長剣の正体を認め、バルバダインは衰えていた筈の魔力を爆発的に増大させて、全力の右拳を夜月の胸を目掛けて放つ。
夜月の狙いはその放たれた右拳だった。弓につがわれた矢の如く右腕を大きく引き絞り、殺意と憎悪に塗れたバルバダインの右腕に長剣が放たれる。紫の彗星と赤い流星の衝突を思わせる交差は、夜月に軍配が上がった。
握り込まれた拳から肩の付け根までを長剣が貫き、切っ先が肩から飛び出している。刃はバルバダインの中身ががらんどうである事を夜月に伝えた。
「おのれ、ヴァルき……!!」
再び憎悪の叫びがバルバダインから発せられるよりも早く、長剣は夜月の全力をもって右に振られた。持てる力の全てを夜月と彼の長剣の破壊に振り絞っていた為に、バルバダインの肉体は長剣を阻む術を持たず、これまでの堅牢さが嘘のように長剣に胸部と左肩を横断されるのを許してしまった。
「ぎ、ギギギぎぃい……!?」
わずかに右肩の一部でのみ両断された肉体を繋ぐバルバダインは、虫の鳴き声に似た声を零しながら一歩、また一歩と後ろへとさがり続ける。
「なぜ、何故だ。ドウシテ、我らガ失敗作の烙印を押されなければナラナイのです。創造主よ、あの方と我らと、始祖とこやつらとでいったい何が違うと……言うの、か」
夜月は答えない。だが、彼の長剣は答えた。バルバダインや虚ろなる無垢は彼ないしは彼女にとって、身内にも等しい存在と言えなくもないのだから。
再び赤い光を纏って明滅を繰り返す長剣がどのような言葉をバルバダインへと投げかけたのか、それはいまだ正統な所有者ではない夜月にはおぼろげにしか分からない。
「は、はは、ははは、我らでは未来が作れぬ、だと? は、ははははは、なんだそれは、そんな、そんな事で我らを失敗作だと、欠陥品としたのか、はははははははははは!!!」
バルバダインの哄笑を受けて、長剣が強く輝いた。
「お前なりの慈悲か。よかろう」
バルバダインの虚ろな笑みが響き渡る廊下を、薄い影が走った。仰け反って笑うバルバダインの頭上に夜月が跳躍し、コートの裾を蝙蝠の翼の如く広げた影から赤い一閃がバルバダインの兜の頭頂から股間までを薙ぐ。
「お、オオ、おおお、姫、姫、我らの姫よ……」
「姫、か」
姫と呼ばれる者がバルバダイン達の主人であるのは間違いないだろう。真っ二つにされたバルバダインが仰向けに倒れ込み、見る間にひび割れて砂状にまで砕け散るのを見届けてから、夜月は長剣をしまい、背後に忍び寄っていた気配に声をかけた。
「バルバダインも虚ろなる無垢も、元は姫とやらの為の品か」
警備の魔獣や残りのバンパイアの兵士達を片付け終えたダスタが、廊下の向こうから姿を見せていた。ダスタは神妙な顔つきで廊下に転がるバルバダインと夜月の背を見ている。
「始祖六家に伝わる古文書の一つに、我らの始祖より以前に創造神達の生み出した存在達について記されています。その中で始祖より一つ前に生み出されたモノが、“姫”と呼ばれる存在です。
始祖が生み出されるまでは、その姫こそがバンパイアの原型となるべき存在とされておりました。しかし、始祖が生み出され、始祖こそ成功品としてバンパイアを生みだす事が決められると、姫は己の為に作り出された神器を手に創造神達に反旗を翻したのです。
始祖は創造神達の支援を受けつつ、姫を封じ、姫の神器共々封じる事でその力を証明して我らの祖となられた。ザグフらの一派がどこで知ったのか、その封印を破り、神器を持ち出したのです」
「姫は蘇っているのか?」
「確証はありませんが、おそらくはまだかと。姫には最も厳重に封印が施されておりました。それに反逆者共も姫の封印を破る事は躊躇しているでしょう。姫の神器で国家転覆を成せるのならばそれでよし。成せぬ時にこそ姫を蘇らせ、新たな支配体制を築こうと企むものと推察しています」
「ペンダントと鎧で二つ。姫の神器とやらは後いくつだ?」
「バンパイア六神器と同じく六つ。貴方様によって二つが破壊されましたから、残りは四つです」
「他に残っていなければよいがな」
「……どちらへ? ザグフが滅びた以上、この館も主人の後を追って滅びましょう。お早く、御退出を」
もはや夜月への溢れ出る敬意を隠さぬダスタへ、夜月は言葉短く答えた。
「不肖の兄の始末が残っている」
ひゅ、とダスタの息を飲む音が聞こえた。今や夜月の素性をほぼ確信しているダスタからすれば、兄弟の殺し合いは何としても防がなければならない事態となっている。忠誠を誓った女王への背信になりかねないが、場合によっては自らの生命を賭して争いを止める決意を、ダスタは瞬時に固めた。
バルバダインの歩いてきた方角へと向かって進み、いくつかの角を夜月は迷いなく進む方向を選んで、あっという間に宝物庫へと到着した。
宝物庫の入り口には、仰向けに倒れ伏すユハの頬を右手の甲で優しく撫でる夜空の姿があった。ユハの口が震えながら動いて、言葉を発している。その光景を見て夜月が足を止めた。
「夜空、様……わたし」
「どうした?」
「本当は刺したくなかったのです。けれど、体が勝手に動いてしまって、ごめんなさい」
「分かっているって。ユハがそうするように作られているのを分かっていたのに、ザグフに喧嘩を売ったおれが迂闊だった。ユハには悪い事をしたな。それにおれもユハを刺した。それでお相子だって思っておきな。負い目は感じなくていい」
「ふふ、お気遣い、ありがとうございます。ああ、では、これ以上は謝りませんよ?」
「そうしときな。ザグフの奴も片付けたし、君を不忠と責める奴はいないしな」
「困りました。私、ザグフ様にお造り頂いたのに、夜空様の無事の方がずぅっと嬉しいのです」
「そうか、それは男冥利に尽きるな」
これまでどこか皮肉の色を交える事の多かった夜空が、幼い子供のような笑みを浮かべたのを、ユハは見る事が叶わなかった。
「ああ、私、とても……」
「……」
ユハが口を閉じた。それでも夜空は彼女の傍らに膝を着いて、決して立ち上がろうとはしない。その代わり、視線も向けぬまま兄は弟に問うた。
「バルバダインとかいう鎧は片付けたな?」
「ああ。あれの同類が後四つあるそうだ」
「ふうん。六神器に対応してんのかね」
「どちらかといえば、六神器がアレらに対応していると考えるべきだろう」
「け、過去の面倒臭え遺物が今になって迷惑をかけてきやがるか。時の流れに大人しく埋没する潔さってもんを知らないらしい」
「それには同意しよう。館が崩れるぞ。脱出するのならば早くしろ」
ダスタは兄弟のやり取りをはらはらと見守っていたが、どうやら殺し合いを始めるわけではないらしい事に、大いに安堵していた。
「はん、安心しな。母ちゃんと父ちゃんにおれが死んだって報告をさせるつもりはねえからよ。ま、あの村でやり合った時はお互い本気で殺すつもりだったけどな」
「知られたら兄弟喧嘩の範疇を越えていると、拳骨くらいはもらうかもしれん」
「やだねえ、母ちゃんも父ちゃんも馬鹿力だから。めちゃくちゃ痛え位には加減してくれるけどよ」
やれやれ、と夜空は膝を着いたまま両肩を竦める。今までの殺伐とした二人は何だったのか、という位に穏やかなやり取りだ。 まあ、ジュウオ村では本気でお互い殺し合うつもりだったらしいが、それを指摘してもそれで死ぬようならそれまで、位は言いそうで、ダスタは口を噤む他ない。
夜月はユハを一瞥して兄にこう尋ねた。
「それで、彼女はどうするつもりだ。ザグフの手の者が作り出したホムンクルスである以上、ザグフが滅んだ今となっては、お前が手を下さなかったとしても、館と同じよう自壊術式が作動してすぐに亡くなっていただろう」
「それ位、おれにも分かっているよ。だから、コイツでユハを刺したんじゃねえか。そっちの追手ちゃんも察している様子だが、コイツは本来形を持たない。所有者の思い描く通りに形を変える無形の器物だ。
それだけなら他にも似たような品はあるだろう。だがコイツの毛色の違うところは、形の無いものや概念にも変化できるところさ。例えば重力、例えば炎、例えば空気、そう例えば命とかな」
にっと笑う夜空がユハの心臓を貫く長剣に手を掛けると、見る間に長剣はユハの身体の中へと沈んでゆく。先程まで赤い小剣となしていた部分も同じくユハの身体へと吸い込まれてゆくのを見て、夜月はこの青年には珍しく呆れたように溜息を零した。ただ、夜空への嫌悪はまるでない事の方が、ずっと珍しいことだったろう。
「彼女にそこまでするのか。……ふむ、一目惚れか」
からかうような弟の言葉に、兄はふてくされた調子で言い返した。照れ隠しかもしれない。
「うるせっ」
ダスタが目を丸くして驚いたのは、言うまでもなかった。
*
夜の帳が地平線の彼方から届いた太陽の手で開かれ始めた頃、ジュウオ村の村境で警備に当たっていたニックは、森の向こうから姿を見せた夜月とダスタ、更には夜空と目隠しを取ったユハの姿に、最初は緊張していた目元を緩めて、次にんん? と困惑した調子で動かした。
見たところ、全員怪我はない。夜空と夜月の着用している衣服はある程度は自動で再生する特殊な繊維で出来ているし、ユハの服も夜空が痕の残らぬように突いたから、傷一つ残ってはいない。
「君か、無事でなによりだ。カズノさんの首から吸血の傷跡は消えたよ。ザグフは滅ぼせたんだな」
「ああ。奴の家臣も片付けた。もう奴らの脅威はない」
「それで、お兄さんとあちらの女性はいったいどういうわけなんだ?」
半日近く前まではザグフの側に立っていた二人の姿があれば、当然の疑問だろう。
「なに、ザグフの横の繋がりの調査と寝首を掻く為に奴の懐に潜り込んでいたってだけの話さ。ユハは、まあ、おれの協力者と思っといてくれ」
よくもまあ、いけしゃあしゃあと――このように、夜空の言い分を耳にして夜月とダスタは思ったに違いない。
夜空の言葉に、ニックをしばし考え込む素振りをみせたが、彼らの顔を見てそれもあるか、と納得したようだった。
「他の誰が言っても簡単には信用できないが、君らに限っては例外だな」
ニックが困ったように笑うのを見て、夜空がこれまで抱えていた疑問を解き明かすように口を開いた。
「これまで貴方はずっとおれに便宜を図ってくれていたな。昔、バンパイアに世話になったからと教えてくれたが、どんなバンパイアだった?」
これには夜空ばかりでなくダスタも興味があるのか、明らかに耳を澄ました態度になる。ユハだけは話の流れが掴めていないから、自分の右手を夜空の左手と繋いだままきょとんとしている。
「そうだなあ、おれがまだこれ位小さな頃の話さ。おれの故郷の辺りでアンデッドが異常に出現する事件があって、おれは家族と一緒に村を捨てざるをえなかったんだが、その途中でおれは皆とはぐれてしまって、危うい所を助けてくれたのがそのバンパイアの女性だ。
一緒に居たのは短い時間だったが、今でも夢に見るくらい強烈な記憶だったよ。まあ、その女性の顔だけは綺麗過ぎてはっきりとは思いだせないんだけどな。そこは君らとそっくりだ。
この帽子は別れ際に彼女が餞別としてくれたものだ。それ以来、彼女に恥ずかしくないよう生きてきたが、今回ばっかりは自分の未熟さを痛感したよ」
そう告げて、ニックは恥じらうように黒帽子の鍔を摘まんで下げる。だからニックには見えなかった。夜空と夜月がそろって嬉しそうに微笑んだのを。
「そうか。おれ達はこのままここを去る。バンパイアの血を引く者が長居しては迷惑だろう」
「それは……そんな事はない、と言えないのが辛い所だ」
「そう感じてくれる誰かが居るだけで十分だ。ではニック、達者でな。ニーゾ達にもよろしく伝えておいてくれ」
「ああ、名残惜しいが、ふふ、あの人も今の君みたいに風のように去って行ったっけ」
夜月を筆頭に背を向けるのを見て、ニックは少しだけ寂寥を交えて見送ろうとした。夜月がふと思いついたように零した呟きは、その隙を突くような不意打ちだった。
「母は時折、貴方の話をおれ達に聞かせてくれた。貴方との出会いは、母にとってもかけがえのないものだった」
噛み締めるように夜空の残した言葉を胸に刻み終えた時、ニックの口元にはこれまでの自分を誇るような笑みが浮かびあがっていた。
*
ニックに別れの言葉を告げて、ジュウオ村から離れた四人は朱塗りの大地の方向へと続く街道の岐路で一旦足を止めていた。道は西に三つ、東に二つ、南北に一つずつ伸びている。既に陽は上り、バンパイアとその血を引く者達にとっては過酷な時刻となっている。
ダスタは徐々にアシュへと変わりつつあり、夜空はいつの間にかザグフの館から調達していた黒い帽子を被っていた。なんともはや、手癖の悪い事だ。
「さあて、これからどうしますかね」
そう呟いた夜空の顔を、赤い長剣を生命として与えられた際に、視力を得た瞳にしっかりと映して、ユハが答えた。
「私は、どこまでも夜空様にお伴いたします」
「ん。そう言ってくれると嬉しいね」
にっかりと笑う夜空にユハもつられて明るい笑みを浮かべる。二人に文句を言うつもりは夜月にはなかったが、彼ら以外にもこの場に居た三人から異論が上がった。
「貴方がこれからどうするのか、指図はしないけれど、就職先を潰されたあたし達への補償はしてもらいたいわね?」
声の主は誰あろうクリキンだ。彼の傍にはぼろ布の塊のようなマサケと葉巻をスパスパとやっているビエマの姿もある。夜空が撒いた長剣の破片によって行動不能に陥っていたという三人だが、全員、五体満足でこの場に姿があった。
「なにおう、おれがお前らの命を惜しんで戦えないようにしていなきゃ、今頃、全員夜月かダスタの手に掛って館もろとも死んでいたところだぞ。お前らは見所があると思ったから、わざわざ余計な手間暇かけて助けてやったんだ。文句を言われる筋合いはねえやい」
「そりゃ命は拾ったけど、給料日前だったのよ。普段から貯蓄しているあたしはともかく、ビエマなんて無一文に等しいんだから。マサケはそれなりに忠誠心があったから、ちょっと頭を抱えちゃっているし」
「なにも考えがないわけじゃねえよ。ほら、お前らの新しい就職先への紹介状と路銀だ。お前らの能力なら最初から結構な待遇になる。ただ業務内容の希望はきちんと伝えおけよ。荒事はもうごめんだってんなら、ちゃんと意向を組んでくれる相手だから」
言うや否や、夜空はコートの内側から封筒を三つと、これまたザグフの宝物庫からかっぱらっておいた宝石や貴金属を入れた一抱えもある袋を、クリキン、マサケ、ビエマの三人に順番に手渡した。
「あら、アフターケアを考えていたなんて意外だわ」
「そうかい。紹介先は海を渡った北の大陸のアークレスト王国、そのベルンって領地だ。こっからは随分遠いが、まあ、お前らみたいな特殊な技の持ち主でもわりかし平穏にやっていけるところだ。強制ではないが、一度行ってみる価値はあるぜ」
「ふうん、あたしはこの話に乗ろうと思うけれど、ビエマとマサケはどうするのかしら?」
ビエマは葉巻をピコピコ上下させてから答えた。
「おれもお前みたいに金払いの良さで仕えていた口だからな。それに子爵のお仲間から狙われないとも限らん。身の安全の為にもここいらを離れるのが賢い選択だろう」
「なるほど、貴方らしい。マサケは? 素直には従えなくても、かたき討ちを考える程、忠誠を誓っていたわけでもないでしょう。確か困窮する一族を助ける為に働いていたんでしょう。いっそのこと、一族毎この大陸を離れたら? なんならあたしの貯蓄と路銀を少しなら分けてあげるわよ」
クリキンの厚意からの助言に、マサケは夜空から手渡された路銀の入った袋の中身を見た。思わずマサケの身体が硬直する位に、煌びやかな宝石と金銀の輝きがぎっしりと詰まっている。
「うーむ、うう~~む、背に腹は代えられんが……」
「ま、好きになさいな。追手さんも見逃してくださるのだし、少なくともこの場を離れるのだけはすぐにしなさい。それじゃ、ハンサムさん達、あたしはこれで失礼するわよ」
クリキンとビエマはさっさとこの場を離れ、東にある港町を目指して歩き始め、しばし間を置いてからマサケもそれに続く。三人が離れるのを待ち、アシュが夜空と夜月に一度だけ深々と頭を下げた。
虚ろなる無垢とバルバダインの残骸は、どちらもアシュに預けられている。ザグフともう一人の造反者が討たれた事実を報告する為、一度、母国へ戻るのだという。
「この度は並々ならぬ御助力を賜り、感謝の念に堪えません。姉共々、改めて御礼申し上げます」
「そういう堅苦しいのは要らんぜ。そうそう、おれも夜月も、それと母ちゃんもこっちに必要以上に干渉するつもりはねえ。元々は墓参りと観光目的できたんだからよ。降りかかる火の粉は払うが、君らの内政問題にまで足を踏み込むつもりはない」
「おれ達の事を報告するのは構わんが、君達にとってもおれ達の存在は表に出ない方が都合が良かろう。君達はもう必要のない時代に辿り着いているのだから」
「……しかし、それでも私達は貴方様達を求めてしまうでしょう。理屈で分かっていても、心はそう簡単に納得してはくれません。それでは、私はこれにて。これ以上話していると、姉が拗ねてしまいそうですので」
そうしてアシュもこの場を去って行った。夜月と夜空というバンパイアにとって、とてつもない素性を持つ存在をしらされて、彼女らの母国はどう動くのか。
「余計なちょっかいをかけられたら、斬って捨てるだけだわな。じゃあな、弟。墓参りと観光を忘れるんじゃねえぞ。行くぞ、ユハ」
「はい、夜空様。それでは夜月様、失礼いたします」
「ああ」
夜空とユハはアシュの向かっていった街道とは別の西へ向かう街道を進み始める。
始祖の前に存在していた試作品の“姫”と彼女の為の神器、それを解き放った反逆のバンパイア達。この大陸を訪れる前には想像もしていなかった事態が、彼ら双子の兄弟に襲い掛かってきた。これでは先祖の墓参りと観光という当初の目的は、到底果たせまい。
さしもの夜月も兄程楽観的に構えては……
「しかし、あいつはいつまで彼女と手を繋いでいるつもりだ? まさか、次の村か町に着くまでか?」
……案外、余裕があるらしかった。
「次に会う時には義姉上と呼ぶべきかもしれんな」
どこか楽しげに呟いて、夜月は夜空達ともアシュとも違う西へと続く街道を進み始める。
彼に流れる血が、彼の持つ長剣がある限り、この朱塗りの大地と呼ばれたバンパイアの世界で決して平穏を与えはしないだろう。
夜月自身それを知りながらも、その歩みに恐れはなかった。
地平線の彼方から昇り始めた太陽が、長く長く、彼の薄い影を地上へと伸ばしてゆく。血の香る風と死を覆う夜の闇、生者と死者と問わず照らす月の光が一層濃く、強い世界へとダンピールは恐れずに進むのだった。
風にしかパートナーを務められぬダンサーの如く、夜空の動きはザグフにも追い切れぬ速さと柔らかさ、そして巧さを兼ね備えている。今も夜空が背中から血を流し続けていると、誰も信じられまい。
「こいつで二十回目っと!」
腰を落として足に溜めた力を解放した夜空の刺突が、ザグフの兜のスリットに吸い込まれるように突きだされ、その寸前で見えない壁があるかのように弾き返されてしまう。その反動で夜空の姿勢が乱れた。
ザグフはその隙を見逃さずに、右蜻蛉の構えから渾身の振り下ろしを夜空の左頸部に叩き込んだ。ザグフの膂力と魔剣アズエランの魔力ならば夜空の身体を両断するばかりか、無数の肉片へと粉砕してのける。
「砕け散れ!」
「その程度じゃあ、やられてはやれんな!」
間一髪で飛びのいて避けた夜空の身体から、砕いたルビーのように赤い血の飛沫が舞い散る。ユハによる背中の刺し傷からの流血と、アズエランの剣風により擦り下ろされたように傷つけられた彼の左首筋から溢れた血だ。
ダンピールの再生能力により背中の傷は閉じつつあるが、流れた血の量と失った体力はザグフとの戦いに於いては軽視できない痛手となってしまった。
「怪我人相手に防戦一方だな、子爵。鎧がなかったらとっくにあの世行きだぜ」
出血の喪失感と苦痛を微塵も感じさせず、余裕と自信で造られた笑みを浮かべる夜空に、ザグフは言葉ではなく刃で返した。
ザグフは宝物庫の軋む音が聞こえるかのような圧力と共に、夜空へ果敢に切りかかる。夜を迎えて万全へと至ったバンパイアの脚力は、彼我の距離を瞬く間にないものとした。
柄を握る指から切っ先に到るまで必殺の意思がみなぎり、アズエランの刃は青い炎のような輝きを放つ。
「幻惑の光か。ささやかだが斬り合いの最中にやられると厄介なもんだな」
アズエランの刃が放つ幻惑の輝きを、夜空は咄嗟に視線を伏せて直視を避けた。当然、ザグフの姿が視界から消えるが、それを夜空は伏せた視界に映るザグフの足だけで全体の動きを予想し、アズエランが風を切る音とザグフの殺気から絶え間ない連続攻撃を捌き続ける。
夜空の操る短剣は、武器の格を考えれば一合刃を噛み合わせただけで砕ける筈だが、それがこうもアズエランを相手に切り結んでいられるのは、ひとえに夜空の力量による。
こと剣技に於いては夜空の方がザグフより数等上の実力者であった。
下顎から額までを縦に割りに来たアズエランの刃にするりと、そう蛇が巻きつくかのように柔らかな動きで短剣の刃が絡みつき、斬撃はあらぬ方向へと転じた虚しく空を斬った。
柔の動きを見せた次の瞬間には、まさに剛の一撃。夜空に両手で握られた短剣が彼の体重と突き出した腕の力、床を踏みこんだ足の力、それらを腰や肩を始めとした体の全部位から短剣を通してザグフの左胸に叩き込まれる。
咄嗟に足を踏ん張ったザグフの身体が呆気なく後ろへと吹き飛び、壁に高速で激突するまでコンマ一秒のところでザグフが動いた。
くるりと回転して壁に両足で激突――着地すると、今度はザグフが自身を砲弾へと変えて夜空へと跳躍したのである。
音の十数倍にも達する速度で迫るバンパイアに、夜空は避ける素振りもなく、右大上段に構えた短剣を至極あっさりと、慣れ切った日常の挨拶のように自然体で振り下ろす。
紫色の砲弾と化したザグフが渾身の力で突き出したアズエランは、夜空の左胸を貫いた。避けた動作すら見えぬ夜空が残した残像の胸を、だ。
一瞬にも満たぬ交差の間に、夜空の振り下ろしの一撃は左脇をすり抜けるザグフの左首筋を捕えていた。
短剣の刃は確かにザグフの首を捕えたが、やはり目に見えない壁でもあるように鎧の表面からその先へは通らない。例えナマクラであろうと、妖刀名剣の切れ味を発揮する夜空の力量でも断てぬ鎧の守りに、夜空はかすかに目を細めた。
「刃に衝撃も通さねえか。だが、何時まで耐えられるよ、子爵!」
夜空の斬撃を受けて、跳躍のベクトルを真横から真下へと強引に変えられたザグフの身体が床へと家屋の崩壊を思わせる轟音を出しながら叩きつけられる。魔法による保護の行き届いた床に罅は入らなかったが、反動で浮き上がるザグフの顔面を夜空の左足が蹴りあげた。
強制的に上半身を仰け反らされたザグフの身体は無防備に空中に浮かびあがり、そこに一撃、二撃、三撃、四撃……夜空の斬撃がザグフの左胸を狙い澄まして何度も重ねられる。
「がっ!?」
数えて十二回目の斬撃がザグフの左胸を斬りつけた時、ようやくザグフは爪先を床につける事が出来た。むろん、だからといってそれだけで夜空が圧倒的優位を握った状況を覆せるわけではない。ザグフの取った行動は、戦場が彼の所有物であるという優位性を活かすものだった。
「ダンピール風情が!」
もう一撃叩き込まんと右腕を引いていた夜空とザグフの間に、突如として床から天井までを塞ぐ棚が生じて壁となった。
棚には一面に大ぶりの宝石をあしらった装飾品に黄金の皿や水瓶、艶やかな漆器等がずらりと並べられている。これまで宝物庫の亜空間に収納されていた棚の一つを、ザグフが咄嗟に思念で呼び出して、障害物として用いたのだ。
「家のお宝自慢ってか、余裕があるねえ、子爵」
もちろん、本気でそう思っているわけではない。盗人対策に隠していた宝物を使ってまで、夜空と距離を取ろうとしたザグフをあざ笑う夜空の台詞である。
夜空の言葉に兜の中で、ザグフはギリギリと噛み砕かんばかりに歯を噛み締める。夜空との初対面時に、このダンピールが尋常ならざる者だと理解していたつもりが、ここまでの強者だったとは。
今も隠されていた棚が夜空の左右から、前後から、更には上下からも出現して彼を轢殺ないしは閉じ込めようとザグフの意思のままに出現し続ける。
「我が一族の家宝に囲まれて死ね。おれの寝首を掻こうと目論んだ慮外者には、過ぎたる死に様だ。死んで迷わず冥府に落ちるがいい」
「強がった言い方をしやがる。見栄を張らにゃならんのが貴族とはいえ、この状況では苦笑を誘うだけだぜ、子爵。それとおれは言わなかったか? こいつの破片を館に施された術を乗っ取るのに使ったってな」
夜空が気取った仕草で左手を挙げると、それまで夜空に殺到していた棚の動きが停止して、そればかりかザグフへと至る道を邪魔しないように動き出すではないか。
さしものザグフが言葉を失う中、夜空はザグフの動揺をこの上なく楽しみながら、ゆるゆると足を進めて行く。
「……ばかな、どのような触媒を用いたとしても、一部だけとはいえ我が館の機能をこうも簡単に掌握できるものか。貴様、貴様は一体何をしたというのだ!?」
「はっはっはっはぁ、分かりやすく動揺してくれてありがとうよ。そういう反応がおれとしては嬉しくってしょうがねえ。相手がバンパイアである限り、有利に働くモンをおれが持っているからさ」
「なに?」
「種明かしの前に一つ聞くが、ああ、いや、おれの推測を勝手にしゃべるとするぜ。あんたとのこれまでの戦いからして、その鎧もバンパイアの神器の類だな?
始祖に授けられた六つの神器以外にもあるとは驚きだが、始祖に授けられなかった欠陥品か、正式採用には到らなかった失敗作かね。どこでそんなものを手に入れたのか知らないが、それがあんたの強気の理由だろう。だがまあ、いい加減、その鎧の壊し方も分かってきた」
「それこそ、それこそ世迷言だ。貴様の言う通り我が鎧バルバダインはかつて神器の一つとされた鎧。神の鍛えたる鎧をバンパイアですらない貴様がどうして壊せる!?」
「この状況でもまだダンピールって馬鹿にするかよ。あんたのダンピール軽視は筋金入りだな。なに、恥を晒すようだがよ、おれと夜月の奴は母ちゃんから“貴方達は二人そろってようやく半人前です”なんて評価されていてな。
だからコレも母ちゃんとおれらの分って事で半分に分けた上で、おれと夜空とで四分の一ずつしか渡して貰えなかったのさ。情けない話だろ?」
夜空の右手に握られた短剣に周囲から赤い粒子がまとわりつき始め、見る間に銀の刃が赤く塗り替えられてゆく。ユハの胸に突き立てられたままの長剣から失われていた、残り三分の一が、今、形を変えて短剣に集められているのだと、ザグフにも理解できた。
「四分の一の更に三分の一だから、十二分の一。ここまで分割すると流石に神器モドキ相手でも厳しいかもしれんが、そこはおれの技量で補うとしよう。さあて、あんたの不死も終わりを迎える頃合いだぜ、子爵!」
刃は赤く変わり更に短剣から小剣へと規格を変えていた。小剣を手に夜空が戦闘を始めてから最速の踏み込みをし、夜空の言葉に我知らず戦慄していたザグフへと迫る!
「馬鹿な、貴様のその口ぶりでは、まるで……!」
ザグフの身体は迫りくる美しい滅びに抗うように、咄嗟にアズエランの刃を盾のようにかざした。伝来の家宝が少しでも自分を滅びから遠ざけてくれるようにと、ザグフは無意識に縋ってすらいただろう。
彼の願いに応じようと、アズエランは赤い小剣をかろうじて受け止める。ただし、それは百分の一秒にも満たないわずかな時間の事。
赤く変わった小剣の刃はアズエランのサファイア色の刃に大きな亀裂が走り、砕け散るのと同時に小剣の切っ先はザグフの鎧――バルバダインの左胸部の装甲を貫き、その背中側へと突き抜ける。
「ああ、アアあアあア!? こ、れ、は。こノ刃は、貴様がドウじて、ゴれを持っデイる!? そんな、これは、コレは」
「流石に体を貫かれればコレがなんなのか、分かるだろう? だったらさっさとくたばりな。それが始祖と創造神への礼儀ってもんだぜ。コレで滅ぼされるってのは、そういう事だ」
心臓を貫いた小剣の刃を捻じり、夜空は無慈悲に告げる。しかし、不意に夜空の顔に訝しげな色が浮かぶ。小剣の刃を通じて彼に返ってきた手応えが、奇妙だったのだ。
「こいつは……」
「知らぬ、貴様らの言う始祖ナド、あの方ヲ切り捨テテ始祖を選ンダ創造神も、滅びてしまえ!!」
「ザグフ、鎧に食われたか!」
バンパイアであれば決して口にしない始祖と創造神への呪詛と共に、ザグフあるいはバルバダインは砕けたアズエランに過剰な魔力と憎悪を注ぎ込んでいた。まだ握られていた柄と残っていた刃がどす黒く染まり、それは荒れ狂う嵐の如き闇となって炸裂した。
渦巻く闇の中から夜空が飛び出し、体のあちこちに煙のような闇をまとわりつかせたまま、夜空は床に転がり落ちた。
起き上った彼の身体にはアズエランの破片がいくつも突き刺さり、たらたらと血が流れ出している。
「ザグフの野郎、もう少し根性をみせやがれってんだ。おれが術式の乗っ取りを止めたんで、乗っ取り返すかどうか迷ったな。挙句に迷った隙の所為で心臓を一突きで、鎧に食われるとはな」
薄れつつある闇を見ればザグフの姿はなく、逃走の一手を選んだのは明白だった。追うかどうか夜空は考えたが、一瞬で切り上げた。ここには彼の片割れ――認めるのは嫌だが――と言うべき弟が来ている。
夜月も夜空と同じく赤い長剣を持っている以上、あのバルバダインとかいう鎧と遭遇せずには済むまい。それに狙った獲物を逃す奴でもない。
夜空は右手の赤い小剣を見た。
「おれと夜月の野郎をここに導いた目的は、これで果たせたかい?」
もちろん、応える声はない。夜空は視線を宝物庫の入り口で仰向けに転がるユハと、彼女の心臓に自分が突き立てた赤い長剣を見た。
「それにしても、今回はしんどいな」
傷が再生するのに合わせて、夜空の身体からアズエランの破片が零れ落ちる。それが尽きた頃に、夜空はユハの傍らで膝を突いた。夜空の為に作り出され、夜空の手で心臓を貫かれた女の傍らに。
*
がしゃりがしゃり、と音と縁なきバンパイアからすれば不作法極まりない音が廊下に響いている。
鎧の部位同士がぶつかりあって奏でる不快な音は、ザグフを食らったバルバダインが発生源だ。宝物庫を脱出したバルバダインは、不意に遭遇した怨敵への憎悪を募らせながら、一歩、また一歩と館の外へ続く隠し通路を探し求めていた。
「ヴァルキュリオス、ジークライナス、グロースグリア……忌まわしいアレらめ。次こそは必ず破壊してやる」
それはザグフの声のようでいてザグフの声ではなかった。バルバダインが吸収したザグフの声帯を模して、呪詛の言葉を発しているのだ。夜空によって貫かれた胸の傷は塞がってこそいるが、放たれる狂気じみた圧力は衰えを迎えている。
ザグフを食べて滋養と変えたとはいえ、夜空の度重なる攻撃によって加えられた負荷と消耗を補うには、まだまだ足りない。
「もっと、もっとだ。血を、死を、苦痛を、恐怖を食わなければ、あの方に相応しい鎧には戻れぬ。始祖の血脈を全て根絶して、月の女神と夜の神の不明を証明しなければ……」
「随分とバンパイアらしからぬ言葉を吐いているな?」
「ぬうッ!」
がしゃりと再び音を立てて、バルバダインの足が止まる。四方を灰色の石材に囲まれた廊下の向こうに、あの赤い長剣を手に持つ夜月の姿があった。バルバダインの目――があるかどうかは不明だが、意識は夜月の手にある長剣へと集中していた。
「貴様、貴様もそれを持つか。始祖とされた者へ与えられた神器を。おのれ、始祖に呪いあれ! バンパイアの創造主たる二柱の神に、六神器を鍛造せし鍛冶神に災いあれ!!」
バルバダインの言葉に応じたのは夜月ではなく、長剣であった。まるでバルバダインの呪詛に怒りを覚えたかのように赤い刃が光を発して明滅したのだ。あるいはそれは長剣が夜月に対して、何かを伝えている表現だったのかもしれない。
「ふむ……そうか。始祖六家の内、五家と六神器がこの大陸から失われた反動、とでも言うべきか」
自然に垂らされていた長剣の切っ先がゆるゆると動き、夜月は正眼の構えを取った。廊下の燭台に照らされる赤い刃を、バルバダインは怨嗟と共に睨みつける。
武器となるアズエランを失い、着用者たるザグフを食ったいま、深い紫色の全身鎧の武器も動かす意思も鎧自身であった。
「あの方を差し置いて始祖とされたバンパイアの血を継ぐ者も、我らを差し置いて神器とされた貴様らも、全て壊す。全て砕く。全て殺す。全て滅ぼす。創造主は間違えたのだ。
バンパイアの始祖をあの方ではなくアレとした事も、我らではなく貴様らを神器とした事も。あの方を失敗作とした事も何もかも!」
「ならば始祖と創造主、そして六神器だけを呪え。関わりの無い者を、それもバンパイアですらない者にまで累を及ぼさぬ事だ。そんな事も分からぬのなら、貴様は本当に失敗作だ」
「ぬかせええ!!」
ザグフが操っていた時よりもさらに速く、鋭く、バルバダインが身を屈めながら床を蹴った。全身に纏う凶悪な魔力と憎悪、バルバダイン自身の持つ高い霊格が合わさり、鎧の周囲には高密度の力が渦巻く一種の力場が形成されている。
並の聖剣や魔剣程度では、斬撃を打ちこんだ瞬間に刃が砕けよう。固く握りしめられたバルバダインの右拳が、唸りをあげて夜月の顔面に叩き込まれた。拳を受けたのが縦一文字に構えられた長剣でなければ、夜月の体は挽肉に変わっていただろう。
「この剣が憎いか。おれに流れる血が憎いか」
刃の向こうから静かに問いかけてくる夜月に、全身から赤黒い光を湯気のように立ち昇らせるバルバダインの兜が映る。
「答えなければ分からんか、その程度の事がぁ!」
長剣に抑えられた右腕を引き戻し、バルバダインの左足が閃光の速さで夜月の股間を目掛けて振り上げられた。当たれば睾丸が潰れるどころか、そのまま体を真っ二つにする一撃を、夜月の左手の打ちおろしが迎え撃ち、分厚い鉄の門を大槌で叩いたような轟音が発する。
「お前達は取り残されたものだ。創造主から慈悲として眠りを与えられたものだ。この世の全てはいずれ消えゆく定め。ならばせめてそのまま眠り続けていれば、安らかでいられただろう」
嘲りもない。憐れみもない。ただただ、そうだっただろうという事実だけを告げる夜月の言葉に、後方に飛び退いていたバルバダインはこれまでの絶叫に近い口調から一転し、冷めきった声を出した。
「否、断じて否だ。我らは安らぎを求めぬ。我らは我らの存在を時の流れの彼方に忘却されるのを認めぬ。我らはあの方と共にあった栄光の時を決して忘れぬ。神々が忘れようとも」
「神々は何故お前達を封じた? 滅ぼさずに眠りに就かせた? おれ達に葬らせる為か?」
この時、夜月の瞳はバルバダインではなく、自らの手の内にある長剣を見ていた。長剣は答えない。先程までの光の明滅も止んでおり、ただ一振りの剣として夜月の手の中にある。
「あるいはお前も知らぬ事か」
夜月は右下段に長剣の切っ先を向けたまま、左手でコートのポケットからあのペンダントを取り出した。虚ろなる無垢とダスタが呼んだ、バルバダインの同胞であろうペンダントだ。
夜月はそれを自分とバルバダインの中間地点に放った。縦に割られたダイヤモンドのペンダントを見て、バルバダインが初めて憎悪以外の感情の籠る声を出す。
「ああ、同胞よ。先に逝ったか。再びあの方と見える事なく。無念であったろう。悔しかったろう。お前の嘆きを我が晴らそう、今、ここで!」
そして再び、バルバダインが床を蹴った。今度はまっすぐに夜月へと向かうのではなく、床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、目まぐるしく軌道を変えながらの突進だ。
夜月は不動。迎え撃つ構えである。天井を蹴ったバルバダインの右足の横薙ぎが、夜月の首を狙って襲い掛かる。これを一筋の閃光と化した長剣の刃が弾き返し、紫電を散らすが如き刺突となってバルバダインの喉元へと襲い掛かる。
不完全だった夜空の小剣にさえ貫かれた以上、口惜しいがバルバダインは自身を貫かれてしまうのを認めざるを得なかった。
もはやバルバダインに“中身”はない。鎧そのものを跡形もなく砕かれぬ限り行動に支障はないが、夜空と夜月の持つ長剣は数少ない例外の一つだ。あれによる破壊はバルバダインに大いに効果がある。
「恨めしや、憎らしや、神器共!」
長剣は左右から伸びたバルバダインの掌によって挟まれて、切っ先が鎧に届くまで後一センチの地点で止められていた。
真剣白刃取り――と夜月の脳裏に言葉がよぎったが、それは長剣が赤い霧に変わるのと同時に消え去った。バルバダインの両手から逃れた長剣は、再び夜空の手の中で形を成す。
バンパイアには自分の身体を霧状に変えられる者がいるが、夜月の長剣にもバンパイアさながらの機能があるらしかった。
「形なき器……やはり、貴様らはっ」
改めて夜月と彼の手の中にある長剣の正体を認め、バルバダインは衰えていた筈の魔力を爆発的に増大させて、全力の右拳を夜月の胸を目掛けて放つ。
夜月の狙いはその放たれた右拳だった。弓につがわれた矢の如く右腕を大きく引き絞り、殺意と憎悪に塗れたバルバダインの右腕に長剣が放たれる。紫の彗星と赤い流星の衝突を思わせる交差は、夜月に軍配が上がった。
握り込まれた拳から肩の付け根までを長剣が貫き、切っ先が肩から飛び出している。刃はバルバダインの中身ががらんどうである事を夜月に伝えた。
「おのれ、ヴァルき……!!」
再び憎悪の叫びがバルバダインから発せられるよりも早く、長剣は夜月の全力をもって右に振られた。持てる力の全てを夜月と彼の長剣の破壊に振り絞っていた為に、バルバダインの肉体は長剣を阻む術を持たず、これまでの堅牢さが嘘のように長剣に胸部と左肩を横断されるのを許してしまった。
「ぎ、ギギギぎぃい……!?」
わずかに右肩の一部でのみ両断された肉体を繋ぐバルバダインは、虫の鳴き声に似た声を零しながら一歩、また一歩と後ろへとさがり続ける。
「なぜ、何故だ。ドウシテ、我らガ失敗作の烙印を押されなければナラナイのです。創造主よ、あの方と我らと、始祖とこやつらとでいったい何が違うと……言うの、か」
夜月は答えない。だが、彼の長剣は答えた。バルバダインや虚ろなる無垢は彼ないしは彼女にとって、身内にも等しい存在と言えなくもないのだから。
再び赤い光を纏って明滅を繰り返す長剣がどのような言葉をバルバダインへと投げかけたのか、それはいまだ正統な所有者ではない夜月にはおぼろげにしか分からない。
「は、はは、ははは、我らでは未来が作れぬ、だと? は、ははははは、なんだそれは、そんな、そんな事で我らを失敗作だと、欠陥品としたのか、はははははははははは!!!」
バルバダインの哄笑を受けて、長剣が強く輝いた。
「お前なりの慈悲か。よかろう」
バルバダインの虚ろな笑みが響き渡る廊下を、薄い影が走った。仰け反って笑うバルバダインの頭上に夜月が跳躍し、コートの裾を蝙蝠の翼の如く広げた影から赤い一閃がバルバダインの兜の頭頂から股間までを薙ぐ。
「お、オオ、おおお、姫、姫、我らの姫よ……」
「姫、か」
姫と呼ばれる者がバルバダイン達の主人であるのは間違いないだろう。真っ二つにされたバルバダインが仰向けに倒れ込み、見る間にひび割れて砂状にまで砕け散るのを見届けてから、夜月は長剣をしまい、背後に忍び寄っていた気配に声をかけた。
「バルバダインも虚ろなる無垢も、元は姫とやらの為の品か」
警備の魔獣や残りのバンパイアの兵士達を片付け終えたダスタが、廊下の向こうから姿を見せていた。ダスタは神妙な顔つきで廊下に転がるバルバダインと夜月の背を見ている。
「始祖六家に伝わる古文書の一つに、我らの始祖より以前に創造神達の生み出した存在達について記されています。その中で始祖より一つ前に生み出されたモノが、“姫”と呼ばれる存在です。
始祖が生み出されるまでは、その姫こそがバンパイアの原型となるべき存在とされておりました。しかし、始祖が生み出され、始祖こそ成功品としてバンパイアを生みだす事が決められると、姫は己の為に作り出された神器を手に創造神達に反旗を翻したのです。
始祖は創造神達の支援を受けつつ、姫を封じ、姫の神器共々封じる事でその力を証明して我らの祖となられた。ザグフらの一派がどこで知ったのか、その封印を破り、神器を持ち出したのです」
「姫は蘇っているのか?」
「確証はありませんが、おそらくはまだかと。姫には最も厳重に封印が施されておりました。それに反逆者共も姫の封印を破る事は躊躇しているでしょう。姫の神器で国家転覆を成せるのならばそれでよし。成せぬ時にこそ姫を蘇らせ、新たな支配体制を築こうと企むものと推察しています」
「ペンダントと鎧で二つ。姫の神器とやらは後いくつだ?」
「バンパイア六神器と同じく六つ。貴方様によって二つが破壊されましたから、残りは四つです」
「他に残っていなければよいがな」
「……どちらへ? ザグフが滅びた以上、この館も主人の後を追って滅びましょう。お早く、御退出を」
もはや夜月への溢れ出る敬意を隠さぬダスタへ、夜月は言葉短く答えた。
「不肖の兄の始末が残っている」
ひゅ、とダスタの息を飲む音が聞こえた。今や夜月の素性をほぼ確信しているダスタからすれば、兄弟の殺し合いは何としても防がなければならない事態となっている。忠誠を誓った女王への背信になりかねないが、場合によっては自らの生命を賭して争いを止める決意を、ダスタは瞬時に固めた。
バルバダインの歩いてきた方角へと向かって進み、いくつかの角を夜月は迷いなく進む方向を選んで、あっという間に宝物庫へと到着した。
宝物庫の入り口には、仰向けに倒れ伏すユハの頬を右手の甲で優しく撫でる夜空の姿があった。ユハの口が震えながら動いて、言葉を発している。その光景を見て夜月が足を止めた。
「夜空、様……わたし」
「どうした?」
「本当は刺したくなかったのです。けれど、体が勝手に動いてしまって、ごめんなさい」
「分かっているって。ユハがそうするように作られているのを分かっていたのに、ザグフに喧嘩を売ったおれが迂闊だった。ユハには悪い事をしたな。それにおれもユハを刺した。それでお相子だって思っておきな。負い目は感じなくていい」
「ふふ、お気遣い、ありがとうございます。ああ、では、これ以上は謝りませんよ?」
「そうしときな。ザグフの奴も片付けたし、君を不忠と責める奴はいないしな」
「困りました。私、ザグフ様にお造り頂いたのに、夜空様の無事の方がずぅっと嬉しいのです」
「そうか、それは男冥利に尽きるな」
これまでどこか皮肉の色を交える事の多かった夜空が、幼い子供のような笑みを浮かべたのを、ユハは見る事が叶わなかった。
「ああ、私、とても……」
「……」
ユハが口を閉じた。それでも夜空は彼女の傍らに膝を着いて、決して立ち上がろうとはしない。その代わり、視線も向けぬまま兄は弟に問うた。
「バルバダインとかいう鎧は片付けたな?」
「ああ。あれの同類が後四つあるそうだ」
「ふうん。六神器に対応してんのかね」
「どちらかといえば、六神器がアレらに対応していると考えるべきだろう」
「け、過去の面倒臭え遺物が今になって迷惑をかけてきやがるか。時の流れに大人しく埋没する潔さってもんを知らないらしい」
「それには同意しよう。館が崩れるぞ。脱出するのならば早くしろ」
ダスタは兄弟のやり取りをはらはらと見守っていたが、どうやら殺し合いを始めるわけではないらしい事に、大いに安堵していた。
「はん、安心しな。母ちゃんと父ちゃんにおれが死んだって報告をさせるつもりはねえからよ。ま、あの村でやり合った時はお互い本気で殺すつもりだったけどな」
「知られたら兄弟喧嘩の範疇を越えていると、拳骨くらいはもらうかもしれん」
「やだねえ、母ちゃんも父ちゃんも馬鹿力だから。めちゃくちゃ痛え位には加減してくれるけどよ」
やれやれ、と夜空は膝を着いたまま両肩を竦める。今までの殺伐とした二人は何だったのか、という位に穏やかなやり取りだ。 まあ、ジュウオ村では本気でお互い殺し合うつもりだったらしいが、それを指摘してもそれで死ぬようならそれまで、位は言いそうで、ダスタは口を噤む他ない。
夜月はユハを一瞥して兄にこう尋ねた。
「それで、彼女はどうするつもりだ。ザグフの手の者が作り出したホムンクルスである以上、ザグフが滅んだ今となっては、お前が手を下さなかったとしても、館と同じよう自壊術式が作動してすぐに亡くなっていただろう」
「それ位、おれにも分かっているよ。だから、コイツでユハを刺したんじゃねえか。そっちの追手ちゃんも察している様子だが、コイツは本来形を持たない。所有者の思い描く通りに形を変える無形の器物だ。
それだけなら他にも似たような品はあるだろう。だがコイツの毛色の違うところは、形の無いものや概念にも変化できるところさ。例えば重力、例えば炎、例えば空気、そう例えば命とかな」
にっと笑う夜空がユハの心臓を貫く長剣に手を掛けると、見る間に長剣はユハの身体の中へと沈んでゆく。先程まで赤い小剣となしていた部分も同じくユハの身体へと吸い込まれてゆくのを見て、夜月はこの青年には珍しく呆れたように溜息を零した。ただ、夜空への嫌悪はまるでない事の方が、ずっと珍しいことだったろう。
「彼女にそこまでするのか。……ふむ、一目惚れか」
からかうような弟の言葉に、兄はふてくされた調子で言い返した。照れ隠しかもしれない。
「うるせっ」
ダスタが目を丸くして驚いたのは、言うまでもなかった。
*
夜の帳が地平線の彼方から届いた太陽の手で開かれ始めた頃、ジュウオ村の村境で警備に当たっていたニックは、森の向こうから姿を見せた夜月とダスタ、更には夜空と目隠しを取ったユハの姿に、最初は緊張していた目元を緩めて、次にんん? と困惑した調子で動かした。
見たところ、全員怪我はない。夜空と夜月の着用している衣服はある程度は自動で再生する特殊な繊維で出来ているし、ユハの服も夜空が痕の残らぬように突いたから、傷一つ残ってはいない。
「君か、無事でなによりだ。カズノさんの首から吸血の傷跡は消えたよ。ザグフは滅ぼせたんだな」
「ああ。奴の家臣も片付けた。もう奴らの脅威はない」
「それで、お兄さんとあちらの女性はいったいどういうわけなんだ?」
半日近く前まではザグフの側に立っていた二人の姿があれば、当然の疑問だろう。
「なに、ザグフの横の繋がりの調査と寝首を掻く為に奴の懐に潜り込んでいたってだけの話さ。ユハは、まあ、おれの協力者と思っといてくれ」
よくもまあ、いけしゃあしゃあと――このように、夜空の言い分を耳にして夜月とダスタは思ったに違いない。
夜空の言葉に、ニックをしばし考え込む素振りをみせたが、彼らの顔を見てそれもあるか、と納得したようだった。
「他の誰が言っても簡単には信用できないが、君らに限っては例外だな」
ニックが困ったように笑うのを見て、夜空がこれまで抱えていた疑問を解き明かすように口を開いた。
「これまで貴方はずっとおれに便宜を図ってくれていたな。昔、バンパイアに世話になったからと教えてくれたが、どんなバンパイアだった?」
これには夜空ばかりでなくダスタも興味があるのか、明らかに耳を澄ました態度になる。ユハだけは話の流れが掴めていないから、自分の右手を夜空の左手と繋いだままきょとんとしている。
「そうだなあ、おれがまだこれ位小さな頃の話さ。おれの故郷の辺りでアンデッドが異常に出現する事件があって、おれは家族と一緒に村を捨てざるをえなかったんだが、その途中でおれは皆とはぐれてしまって、危うい所を助けてくれたのがそのバンパイアの女性だ。
一緒に居たのは短い時間だったが、今でも夢に見るくらい強烈な記憶だったよ。まあ、その女性の顔だけは綺麗過ぎてはっきりとは思いだせないんだけどな。そこは君らとそっくりだ。
この帽子は別れ際に彼女が餞別としてくれたものだ。それ以来、彼女に恥ずかしくないよう生きてきたが、今回ばっかりは自分の未熟さを痛感したよ」
そう告げて、ニックは恥じらうように黒帽子の鍔を摘まんで下げる。だからニックには見えなかった。夜空と夜月がそろって嬉しそうに微笑んだのを。
「そうか。おれ達はこのままここを去る。バンパイアの血を引く者が長居しては迷惑だろう」
「それは……そんな事はない、と言えないのが辛い所だ」
「そう感じてくれる誰かが居るだけで十分だ。ではニック、達者でな。ニーゾ達にもよろしく伝えておいてくれ」
「ああ、名残惜しいが、ふふ、あの人も今の君みたいに風のように去って行ったっけ」
夜月を筆頭に背を向けるのを見て、ニックは少しだけ寂寥を交えて見送ろうとした。夜月がふと思いついたように零した呟きは、その隙を突くような不意打ちだった。
「母は時折、貴方の話をおれ達に聞かせてくれた。貴方との出会いは、母にとってもかけがえのないものだった」
噛み締めるように夜空の残した言葉を胸に刻み終えた時、ニックの口元にはこれまでの自分を誇るような笑みが浮かびあがっていた。
*
ニックに別れの言葉を告げて、ジュウオ村から離れた四人は朱塗りの大地の方向へと続く街道の岐路で一旦足を止めていた。道は西に三つ、東に二つ、南北に一つずつ伸びている。既に陽は上り、バンパイアとその血を引く者達にとっては過酷な時刻となっている。
ダスタは徐々にアシュへと変わりつつあり、夜空はいつの間にかザグフの館から調達していた黒い帽子を被っていた。なんともはや、手癖の悪い事だ。
「さあて、これからどうしますかね」
そう呟いた夜空の顔を、赤い長剣を生命として与えられた際に、視力を得た瞳にしっかりと映して、ユハが答えた。
「私は、どこまでも夜空様にお伴いたします」
「ん。そう言ってくれると嬉しいね」
にっかりと笑う夜空にユハもつられて明るい笑みを浮かべる。二人に文句を言うつもりは夜月にはなかったが、彼ら以外にもこの場に居た三人から異論が上がった。
「貴方がこれからどうするのか、指図はしないけれど、就職先を潰されたあたし達への補償はしてもらいたいわね?」
声の主は誰あろうクリキンだ。彼の傍にはぼろ布の塊のようなマサケと葉巻をスパスパとやっているビエマの姿もある。夜空が撒いた長剣の破片によって行動不能に陥っていたという三人だが、全員、五体満足でこの場に姿があった。
「なにおう、おれがお前らの命を惜しんで戦えないようにしていなきゃ、今頃、全員夜月かダスタの手に掛って館もろとも死んでいたところだぞ。お前らは見所があると思ったから、わざわざ余計な手間暇かけて助けてやったんだ。文句を言われる筋合いはねえやい」
「そりゃ命は拾ったけど、給料日前だったのよ。普段から貯蓄しているあたしはともかく、ビエマなんて無一文に等しいんだから。マサケはそれなりに忠誠心があったから、ちょっと頭を抱えちゃっているし」
「なにも考えがないわけじゃねえよ。ほら、お前らの新しい就職先への紹介状と路銀だ。お前らの能力なら最初から結構な待遇になる。ただ業務内容の希望はきちんと伝えおけよ。荒事はもうごめんだってんなら、ちゃんと意向を組んでくれる相手だから」
言うや否や、夜空はコートの内側から封筒を三つと、これまたザグフの宝物庫からかっぱらっておいた宝石や貴金属を入れた一抱えもある袋を、クリキン、マサケ、ビエマの三人に順番に手渡した。
「あら、アフターケアを考えていたなんて意外だわ」
「そうかい。紹介先は海を渡った北の大陸のアークレスト王国、そのベルンって領地だ。こっからは随分遠いが、まあ、お前らみたいな特殊な技の持ち主でもわりかし平穏にやっていけるところだ。強制ではないが、一度行ってみる価値はあるぜ」
「ふうん、あたしはこの話に乗ろうと思うけれど、ビエマとマサケはどうするのかしら?」
ビエマは葉巻をピコピコ上下させてから答えた。
「おれもお前みたいに金払いの良さで仕えていた口だからな。それに子爵のお仲間から狙われないとも限らん。身の安全の為にもここいらを離れるのが賢い選択だろう」
「なるほど、貴方らしい。マサケは? 素直には従えなくても、かたき討ちを考える程、忠誠を誓っていたわけでもないでしょう。確か困窮する一族を助ける為に働いていたんでしょう。いっそのこと、一族毎この大陸を離れたら? なんならあたしの貯蓄と路銀を少しなら分けてあげるわよ」
クリキンの厚意からの助言に、マサケは夜空から手渡された路銀の入った袋の中身を見た。思わずマサケの身体が硬直する位に、煌びやかな宝石と金銀の輝きがぎっしりと詰まっている。
「うーむ、うう~~む、背に腹は代えられんが……」
「ま、好きになさいな。追手さんも見逃してくださるのだし、少なくともこの場を離れるのだけはすぐにしなさい。それじゃ、ハンサムさん達、あたしはこれで失礼するわよ」
クリキンとビエマはさっさとこの場を離れ、東にある港町を目指して歩き始め、しばし間を置いてからマサケもそれに続く。三人が離れるのを待ち、アシュが夜空と夜月に一度だけ深々と頭を下げた。
虚ろなる無垢とバルバダインの残骸は、どちらもアシュに預けられている。ザグフともう一人の造反者が討たれた事実を報告する為、一度、母国へ戻るのだという。
「この度は並々ならぬ御助力を賜り、感謝の念に堪えません。姉共々、改めて御礼申し上げます」
「そういう堅苦しいのは要らんぜ。そうそう、おれも夜月も、それと母ちゃんもこっちに必要以上に干渉するつもりはねえ。元々は墓参りと観光目的できたんだからよ。降りかかる火の粉は払うが、君らの内政問題にまで足を踏み込むつもりはない」
「おれ達の事を報告するのは構わんが、君達にとってもおれ達の存在は表に出ない方が都合が良かろう。君達はもう必要のない時代に辿り着いているのだから」
「……しかし、それでも私達は貴方様達を求めてしまうでしょう。理屈で分かっていても、心はそう簡単に納得してはくれません。それでは、私はこれにて。これ以上話していると、姉が拗ねてしまいそうですので」
そうしてアシュもこの場を去って行った。夜月と夜空というバンパイアにとって、とてつもない素性を持つ存在をしらされて、彼女らの母国はどう動くのか。
「余計なちょっかいをかけられたら、斬って捨てるだけだわな。じゃあな、弟。墓参りと観光を忘れるんじゃねえぞ。行くぞ、ユハ」
「はい、夜空様。それでは夜月様、失礼いたします」
「ああ」
夜空とユハはアシュの向かっていった街道とは別の西へ向かう街道を進み始める。
始祖の前に存在していた試作品の“姫”と彼女の為の神器、それを解き放った反逆のバンパイア達。この大陸を訪れる前には想像もしていなかった事態が、彼ら双子の兄弟に襲い掛かってきた。これでは先祖の墓参りと観光という当初の目的は、到底果たせまい。
さしもの夜月も兄程楽観的に構えては……
「しかし、あいつはいつまで彼女と手を繋いでいるつもりだ? まさか、次の村か町に着くまでか?」
……案外、余裕があるらしかった。
「次に会う時には義姉上と呼ぶべきかもしれんな」
どこか楽しげに呟いて、夜月は夜空達ともアシュとも違う西へと続く街道を進み始める。
彼に流れる血が、彼の持つ長剣がある限り、この朱塗りの大地と呼ばれたバンパイアの世界で決して平穏を与えはしないだろう。
夜月自身それを知りながらも、その歩みに恐れはなかった。
地平線の彼方から昇り始めた太陽が、長く長く、彼の薄い影を地上へと伸ばしてゆく。血の香る風と死を覆う夜の闇、生者と死者と問わず照らす月の光が一層濃く、強い世界へとダンピールは恐れずに進むのだった。
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