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夜の子供達
血の館
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「雇用条件か。傭兵でもあるまいにと言いたいが、堅実であるとしておこう」
兜の奥から呆れを交えたザグフの言葉が出て来ても、夜月は特に気にした素振りはなく、またザグフの命令一つで何時でも襲いかかれるように構えているマサケとクリキンも無視して、ザグフに向けて口を開く。
「おれとしちゃ結構真面目な質問だぜ。マサケやクリキンらとは話したが、おれが下に着きたいと思わせる条件を提示できるかどうか、あんたの器量を試しているんだからよ」
からかう語調そのままの夜月の言葉だったが、これは支配者として朱塗りの大地に君臨していたバンパイアにとっては、決して軽んじる事の出来ない矜持と誇りを突く問いであった。
気高きバンパイアの血に他の種族の血が混じった卑しいダンピール相手とはいえ、試された以上、それに答えられなくては支配者としての沽券に関わる。
無論、無礼者と試す行為をした相手を手打ちにするのも、正解の一つだ。だが先程までの激烈な戦いの記憶は鎧越しにもザグフの心身に刻まれていて、たかがダンピールとはいえこれ程の猛者を手放すのはあまりにも惜しい。
――それに、ダンピール風情と蔑もうとも、私の中の何かがこれを放置するなと訴えている。
この場から離れた棺の中で、ザグフは自分でも理解できない夜月への執着心に煽られるように、ノーブルバンパイアとしての示威について真剣に考え込んでいた。
数瞬の思考の末、ザグフはおよそ彼の裁量に於いて最大限と言える条件を提示するのを決めた。彼のこれまでの歴史の中でも、ダンピールを相手に一度たりとて提示した記憶の無い、破格の条件である。
「いいだろう。いかなる富も名誉も及ばぬ、諸人の求むる欲望を。究極の願いの一つをお前に与えようではないか」
「ほー。富も名誉も及ばぬとは大きく出たもんだ。だが、ははん、察しは着いたぜ。バンパイアならそれを与えられる。バンパイアにしかそれは与えられん。確かに世界中の金持ちや王侯貴族が一度は考えるモンだ。究極の願いとはまた聞こえの良い表現だぜ」
「ふ、であろう。バンパイアが他者に与えるものの中で最も価値あるもの。最も恐れられ、そして同じく求められるもの。すなわち、お前をバンパイアへと変え、夜の世界に生きる永遠の命を与えようではないか」
純血のバンパイアから殊のほか嫌われるダンピールを、吸血によってとはいえ完全なバンパイアへと“格上げ”する行為は、朱塗りの大地全土の過去を振り返ってみても、公的な記録にはほとんど例のないものである。
ダンピールでない人類ならばいくらでも例がある事を考えれば、バンパイア達のダンピール嫌いの度合いが分かるというものだ。その観点に立てば、ザグフの提案はバンパイア達から批難されて仕方のない条件である。
「永遠の命ねえ。ところでここにはおれの先輩にあたる二人が居るわけだが、二人に聞かせて良い話なのかね。それとも永遠の命と不老不死ってえのは、二人には約束してねえのかい?」
「ふむ、このマサケとクリキン以外にも配下は居るが、同胞として迎え入れる者は滅多にはいない。それに我が飢えを潤す為に血を吸ったのならばともかく、褒美としてバンパイアにするのならば、相応に心構えを求めたくなる」
「うん? 心構えって部下の方にか?」
「例え口で不老不死を求め、バンパイアの末席に加えて欲しいと縋ろうとも、多くの者達の心の中には体と魂を変えられる恐怖が根付いておる。褒美として与えるべきものを恐れられては、これでは私の気も萎える」
「なるほどね。血を吸った後ならうっとり蕩けた顔になるだろうが、吸われる前とあっちゃ種族を変えられるのに恐怖を抱いたっておかしかねえ。そんな心情の配下に褒美を与えるのは、主君として筋が違うって思うのも道理だわなあ」
夜月とザグフの話し合う間もクリキンとマサケに反応はない。許しなく主君の話に割って入る事はしない、配下の鑑と評せる態度だろう。二人にちらりと視線を送る夜月は、しかし心中でどう評価しているやら。
「して、バンパイアへと至る為に伸ばした我が手、お前は取るか、払うか。どちらだ?」
「不老不死を謳うバンパイアなら、答えを急いちゃいけねえよ。純血のバンパイアには及ばんが、おれはダンピールだ。身体能力も傷の治癒力も並の人間なんざ目じゃねえ。それに寿命の方だって同じ事だ。流石に不老不死とはいかねえけどよ。
なによりだ。おれを含むダンピールは、こうして対策をしなくてもお天道さんの下を歩ける。バンパイアが太陽が空に昇っている間は、意識を覚醒させている事すら至難を極めるってのにな。
万が一棺を暴かれて陽を浴びれば、あんたらは見る間に肌も肉も骨も、全て灰になっちまう。運良く助かったとしても、陽に焼かれた肌はまず二度と治らねえ。それを考えりゃ、ダンピールのままで良いと思うが、何か異論はあるかい?」
異論が無ければ交渉は決裂だ、と自ら雇用条件について問いかけたというのに、夜月は暗に告げて何時でも体の何処かに仕舞った長剣を振るうだろう。
不穏な気配を感じてマサケとクリキンの伏せられていた視線が夜月へと向けられようとした時、夜月の意見を笑い飛ばすようにザグフが答えた。
「なるほど、我らは特別な手段を用いぬ限り太陽の輝く時刻に目を覚ます事も出来ん。ましてや愛しい夜を追い払う忌まわしき朝陽を、世界が我らのものとなる夜を導く落陽を一目見る事も叶わぬ。それは認めねばな。
しかし、お前の体に流れる血の半分がバンパイアである以上、決して否定できぬ事がある。お前が太陽の下にある時、その血は煮え立つがごとく体は高熱に襲われ、その次には血が冷水に変わったかのような寒気に襲われているだろう」
夜月は答えない。なぜなら、バンパイアと違い太陽の下を歩めるダンピールであっても、太陽のある時刻で活動すればザグフの言う通りの症状に襲われ、絶え間ない苦痛と悪寒の嵐に襲われるからだ。
事実、夜月はマサケの仕掛けた銀人と戦っていた時から、今に到るまで凄まじい苦痛と共にある。
「だが、それが夜になればどうだ。体の中のバンパイアの血は活力を増し、お前の体と精神には安らぎが訪れるのではないか。分かる筈だ。
例えバンパイアの血が半分しか流れていなくとも、自分の在るべき世界は夜の世界だと、お前の体と魂は他の誰よりも知っているのだ。バンパイアの血が半分しかなくともそうなのだ。純粋なバンパイアへと変われば、お前に与えられる安らぎと幸福は比較にならん」
「ふーむ、なんでい、ダンピールの弱い所を知っている交渉術を仕掛けてくるもんだ。それを言われるとおれも反論が難しい。お天道さんには背を向けて、お月さんだけを眺める生き方に割り切るのもありだと思えるからなあ」
「ふ、では私の出した雇用条件は満足のゆくものであったか?」
「おう。おれのバンパイアの親は母ちゃんだったが、母ちゃんはおれをバンパイアにはしなかった。血の繋がった親にもバンパイアにして貰えなかった以上、バンパイアになれる機会は滅多にゃ巡ってはこねえだろう。
なら千載一遇のこの好機に手を伸ばすのは、不思議な話じゃなかろう。永遠の命か。確かに限りある生命にとっては究極の願いだわな」
「思いの外、欲望に正直な男だ。交渉が決裂すればマサケとクリキンと共に三人掛かりで滅ぼすところだが、お前ほどの手錬を配下に加えられるとあれば有益な交渉であった。ただし今すぐお前の願いを叶えるわけではない。それは分かろうな?」
「そらまあな。報奨を貰うだけの労働をまだしてねえし、バンパイアに成りあがらせてもらうとなっちゃ、ちょっとやそっとの労働じゃ対価として不十分だろうさ」
肩を竦めて答える夜月に、ザグフは棺の中で物分かりの良い事だとほくそ笑んだ。どうやら交渉が上手くいったようだ、と夜月の背後に位置するマサケとクリキンは心の中で小さく安堵の息を吐く。
ザグフと共に三人掛かりで挑めば、如何に夜月相手でも勝てる自信が二人にはあったが、二人とも死ぬだろうと確信してもいたからだ。ザグフの命令とあれば命を捨てる覚悟はあるが、捨てずに済むのならそれに越した事はない。
「それじゃまあ、今のおれはお試し雇用ってところかねえ。というかおれはそこのマサケっつう影使いに襲われたのがきっかけであんたらと縁を結んだが、あんたらが何を目的に行動しているのかとか、今後の予定はどうなっているのかとか、全く知らんのだが、そこんところはどうなのよ?」
「ろくに知りもせん相手に雇用条件の話し合いを持ちかけるとは、お前は存外世間を知らんのか」
「うるせ。その世間知らずを手錬と褒めたのは何処の誰だよ」
「雇用主に対して生意気な口を聞く労働者だな」
「まだ正規雇用の身分じゃないんでね」
「正規雇用の身分になってもその口の利き方を改めるとは思えんが、まあよい。マサケ、クリキンよ、その者を我が館へと連れて参れ。我らガルドナ家がこの地を訪れた目的と経緯、これからの仕事内容について話をするとしよう」
「はっ」
マサケの短く明瞭な返事を聞き届けると、ザグフの紫色の鎧はそのまま風景に溶けてゆくように消えてしまった。
彼らの拠点である館からこの平原まで、同じように空間を超越して出現し、そして去っていったのだろう。夜月の顔には嘘の無い感心の色が浮かんでいる。
「空間を跳べるか。魔法とも超能力とも違う感じだが、鎧の方の能力か?」
「さてな。それは我らも知らぬ。さて、これで非正規ではあるがお主は我らの同僚となった。まこと、喜ばしき事と思うぞ」
大いに安堵した様子のマサケの言葉を受けて、夜月は職場の先輩達を振り返る。
「本音だと嬉しいね。しかしだ、おれの求める報酬はお聞きの通りだが、二人は何を目当てに仕えているんだい? 先祖代々の忠義か、個人的な恩義か、魅力的な報酬の三択だと思うが」
「それはお主に教える必要の無い事だ。我らの事情よりもザグフ様の御心を知る方がお主にとっては大事だ。ザグフ様の言われる通りに、これよりお主を我らの館へと運ぶ。一応、お主はまだ正式な配下というわけではない。道中、目隠しはさせて貰う」
「ま、道理だな。おれの事が信じられないのか、なんて言える程、長くも深くもない付き合いだしよ。じゃあ、さっさとやってくれ」
「やれやれ、度胸のあるのは間違いないのだが、お主はどうにもふてぶてしさが度を越しておるよ」
顔以外を覆うマサケの黒布がぶわりと風を受けたように膨らむと、黒布の落とす影が爆発的な勢いで夜月の足元まで広がる。影は彼の四方から立ち上がると、繭のように丸まって彼をその内側に閉じ込めた。
「おれの影繭は外部と内部を影で遮る牢獄だが、流石にこの男でも外の様子はうかがえまい……と思うのだがなあ」
満腔の自信を持つ影の技なのだが、相手が夜月となるとマサケは唐突に自信を失くしてしまうらしい。膝を突いた姿勢から立ち上がったクリキンが、マサケに同意する言葉を口にしながら肩を竦める。夜月に短剣を突き立てられ、そして抜かれた肩を。
「影繭の中って、光の入らない暗黒の世界なのでしょう。だったらダンピールにとっては快適な場所にならない? だから貴方も自信を持てないのでしょ」
「まあな。影の中に光を通す技も学んでおかねばならんか。彼が大人しくしてくれるのを信じて、急ぎ館へ行くぞ、クリキン」
「はいはい。それと、貴方は抜け駆けをした言い訳を考えておきなさいよ。私は気にしないけれど、気にする連中もいるのよ」
「分かっておるよ」
マサケは溜息を吐くように答えて、夜月を収納した影繭に近づいて手を置き、自分と纏めて足元の影の中へと沈んでいった。
クリキンもまた腰のバッグから丸めた紙を取り出して、瞬く間に大鷲の形に切り抜く。
マサケは影から影へと移動し、クリキンは紙の大鷲に掴まって彼らの館へと戻った。
影繭の中はクリキンが指摘した通り、陽光を遮る為に夜月にとっては居心地の悪いものではなく、外に出て陽光を浴びる間、全身を襲っていた激痛を感じずに済んでいる。
繭の形状をしている為、内壁によりかかりにくい事この上なかったが、移動時間は十分程だろうか。
影繭の中には一切振動や慣性は伝わらず、移動している感覚はまるでないのだが、夜月にはマサケによって運ばれているかどうかが分かるらしく、彼の口から、お、という一言が漏れたのは、まさしくマサケ達がザグフの館に到着した瞬間であった。
「さて、どんな事情を教えて貰えるのかね」
影繭の内部を満たす暗黒に小さな光が灯り、その光が縦一条に走ると途端に影繭は隣に立っていたマサケの影へと仕舞いこまれた。
夜月が立っているのは館の入り口らしい場所だ。正面に二階へと繋がる大階段を備えたエントランスが広がっている。灰色の石材を積み上げた館は質素な装いで、照明は窪んだ壁の中に油を注いだ皿に火を灯したものという有様だ。
装飾としての胸像や甲冑、花瓶の類も見られない。これがザグフの気質なのか、それともガルドナ子爵家の窮乏ぶりを表すものなのか。後者ならば夜月にとって就職先としては失敗だったかもしれない。
「ご当主の部屋まで案内する。妙なことは考えるなよ?」
「私は部屋に下がらせて貰うわ。紙の補充ときちんとした治療もしないとね。案内は任せるわよ、マサケ」
クリキンはマサケの返事を待たずに、ひらひらと手を振りながらエントランスの左側にある扉の一つへと歩み去って行った。
館の中は静寂の一言に尽きるが、夜月は影繭を解かれた瞬間に、周囲から突き刺さった視線と気配に気付いていた。姿こそ見せていないが、マサケやクリキンのように特異な技を持った者達ならば、それ位の芸当はできるだろう。
「良く言えば質実剛健の造りだな」
悪く言えば、とは言わないようにする配慮が、夜月にはあった。マサケは夜月の感想には構わず、正面の大階段を上がってゆく。
「昼の間、ご当主が姿をお見せになる部屋がある。お前はそこへ連れて行く」
「はいよ。棺のある寝所に連れてゆく間抜けじゃなくて良かったぜ」
バンパイアの眠る棺は、大抵、拠点となる屋敷や城塞の地下の墓所か豪奢な寝室に厳重な守りと共に安置されているのが定番だ。
ザグフが昼の間も意識を保てる貴重な例とはいえ、最後の砦たる棺の外に出て行動まできるとは限らないし、まだ信用されていない夜月と本体を対面させはしまい。
館同様に質素な作りの大階段と廊下を進む間、マサケはほとんど口を開こうとしなかったが、不意に廊下の照明で床に落とされた夜月の影を見て、ポツリと呟いた。
「影が薄いな。やはりダンピールか」
廊下に夜月の影が落ちている。ただし、人間と比べて半分ほどの薄い影が。これがバンパイアなら影すら落ちない。純血のバンパイアにとって、自分の影は一生見る事のないものなのだ。
「今更確かめる事かい? これがなくなるようにして貰う為に、これから頑張ろうってんじゃねえか」
「そうだったな」
「ま、おれのこたぁ、信用しなくっていいぜ。それこそ最後の最後までな。それぐらい用心深くなけりゃ、バンパイアの下でバンパイアにならずに部下をやっていられんだろう」
バンパイア達から身動きの取れない昼の守りを任される特殊な能力の持ち主や超人達がそんな間抜けだったら、むしろこっちがガッカリすると言わんばかりの夜月の発言の後、マサケが足を止めた。
流石にそろそろ堪忍袋の緒が切れたか、と思いきや、案内が終わったから足を止めたようだった。マサケと夜月の前には、これまでの質素な扉とは異なる分厚い黒一色の扉がある。巨大な黒曜石を加工した代物だ。
部屋の主の妖気が扉越しにも廊下へと流出している。骨まで凍らせる妖気は、バンパイアのものに違いない。
「来たか。マサケよ、大義であった。お前は下がるがよい」
「はっ。御用向きとあればいつ何時でもお声掛けくださりませ」
マサケはそのまま廊下に沈むように消えて行った。残された夜月は扉を開いて部屋に足を踏み入れた。部屋の中には照明の類はなく、窓は閉め切られている。
書棚も客人用の長椅子もない。調度品の類も同じだ。執務室でもないようだが、となると基本的にはザグフから配下へと指示を下す為だけの部屋なのだろう。
扉が閉まると光源の無い部屋は暗黒に閉ざされた。バンパイアであるザグフとダンピールの夜月でなければ、眼前に刃を突きつけられても気付けまい。
「鎧姿のままか」
どうやらザグフは例の紫色の鎧のままらしい。
「まだ私の顔を見せる程の働きをしておらぬからな」
「ごもっとも。それで、そろそろガルドナ子爵家の目的と今のところの行動について、教えて貰えるかい」
暗黒の世界の中にあって、夜空に煌々と輝く月の化身の如き青年に、ザグフは零れそうになる感嘆の吐息を憎悪と共に飲み込んだ。夜の空も、月も、星も、それらはバンパイアにとって最大の友であり、彼らの為の世界だ。
それがこの半分しか血を引いていない若者の方にこそ似合う、と思ってしまった自分と夜月への憎悪である。
「かつてこの星におけるバンパイア発祥の地にして支配地域である朱塗りの大地は、始祖より分かたれた六つの血族を頂点として統治されていた。しかし、これも始祖六家の内の一つ、グロースグリア王家によって他の五家が滅ぼされた事で大きく形を変えた。
とはいえグロースグリアの支配は長くは続かず、いずこかの地にて滅びた事が伝わった後には、唯一、生き残っていた始祖六家のジークライナス家の姫が頭角を現し、今では朱塗りの大地を統治しておる。それは知っていたか?」
「風の便りでな。詳しい所までは知らんが、ジークライナスの姫君が激減したバンパイアの個体数の回復と統治体制の再構築に苦労しているのは、容易に想像が着くわな」
「単純な話、我らバンパイアは他種族の血を吸えば数を増やせるが、そうしてなった成り上がりばかりが増えては、種族としての純粋性を損なう危険性も備えている。
どんな窮地に陥ったとしてもいたずらに血を吸って成り上がりを増やすのは、本能の領域で禁忌と認識している以上、地道にバンパイア同士で数を増やす他ないからな。
その点と朱塗りの大地全土が戦場と化した後の統治に苦労している点については、私もかの姫君に同情を禁じ得ん」
夜月におや、と思わせたのはザグフが本気でジークライナスの姫とやらに同情しているのが分かったからだ。身も蓋もない言い方をすれば、負債だらけで首が回らない国家の舵を握るなど、ザグフとしてもご免被る、という心情だろうか。
「その朱塗りの大地から離れた理由は?」
「うむ。今のジークライナスの姫君の他種族との融和を是とした方針に、異論があるのが一つ。今はそうするしかないと分かってはいるが、にしても度が過ぎておるのでな。そして始祖六家に依らぬ統治を布く為に、今はかの地に離れてここまで足を伸ばしたのだ。
近くの村の娘の血を吸ったが、それはバンパイアとしての嗜みといったところかな。これより夜ごと日ごと美しい女達の血を吸い、バンパイアとする価値ある者を我が下に加えて、朱塗りの大地に戻る腹積もりよ」
「ジークライナスのお姫さんも血を吸われる側の他の種族も、何の対策もなしに看過するとは思えんが、自信の源はその鎧か? それとも他に秘策でもあるのか、反体制の組織でもあんのかい?」
「さて、それは言葉を濁しておこう。まだお主を信用も信頼もしておらぬのでな。お主がジークライナスの息の掛った暗殺者という線は、まだ否定しきれてはおらんぞ」
「暗殺者なんて面倒くさい事なんて誰がやるかい。だが、そんな事はおれだって百も承知だ。しばらくはお互いに監視し合う位の関係と距離間でいいだろうさ」
「雇用主に注文をつける労働者か。まったくもって生意気な奴め。あれだけの腕の持ち主でなければ、抉った心臓を太陽に晒しているところだ。
だが良い。お主の部屋は既に用意させてある。部屋の外に世話役を用意した。その者に案内してもらえ。用向きがあれば声をかけるが、それまでは大人しくておくがいい。では下がれ」
ザグフは今度は姿を消さずに夜月に退出を求めて来たのに、夜月は素直に従って暗黒の部屋を後にした。
扉のすぐ傍には、ザグフの言った通り世話役らしい人物が静かに佇んでいた。
襟や袖に瀟洒なレースの飾りのある他は簡素なドレスを、腰の上で青いリボンで留めた女性である。
黒い長髪の上に金糸の刺繍が施された薄いベールを被っているのだが、真珠のような肌と淡い桜色の唇の艶やかさも目を引くが、青い布で目を隠しているのがまず目を引いた。
生まれた時から盲目なのか、またあるいは夜月対策として目隠しをしているのか。
自分の肩くらいの背丈の美女に、夜月は遠慮のない視線を向ける。
誰もが傷つけてはならないと思う無垢な令嬢にも、性別と年齢を問わず万人を惑わす魔性の美女にも、本人の心次第でなれるだろう。
「君が世話役か。ホムンクルス?」
人間ではない。かといってダンピールでもバンパイアでもない世話役の種族を、夜月は一目で見抜いていた。
「はい。ホムンクルスのユハと申します。たった今、お館様のご意向により貴方様のお世話役として生み出されました。なんなりとお申し付けください」
どうやら以前から館の中にいた従者ではなく、夜月を雇うと決めてから即席で作り出したホムンクルスであるらしい。もし本当だったとしたなら、この館の中の設備は夜月が思う以上に充実しているようだ。
「ほう、名前を貰っているのか。魔法生物にはつけない例が多いと聞いていたが、おれの雇用主殿は違うのか。まあいいや。早速で悪いが部屋まで案内してくれるか」
「はい。お任せください」
ユハの答えは気配と同様に静かなものだったが、一つの仕事を任された喜びとやる気に満ちていた。
目隠しをされているが夜月を先導するのに支障はないようで、踵を返して廊下を進みだすユハの背中を、夜月はしげしげと眺めている。音のない動作を良しとするバンパイアの従者として申し分のない動作だ。
夜月の世話役として必要な知識と人格も与えられているのだろうが、生まれてから一時間も経っていないのもあって、内心ではやる事なす事、初体験ばかりで新鮮なのだろうと推測している。
夜月に案内を頼まれたのも、自分が生み出された理由に沿う事が出来て、思わず声が弾む程に喜んでいる。
「生まれて一時間未満の世話役ねえ。おれが子守りする側なんじゃねえの?」
ついポロリと零した夜月の言葉を、ユハは聞き取れなかったようで足を止めて夜月に尋ねた。仕事を任されたのはこの上なく喜ばしいが、夜月の不興を買うのは存在理由を自ら損なう為、ユハにとっては何よりも恐ろしい。
「なにか、仰いましたか?」
「んにゃ、なんでもねえよ。気にしなくていい」
「左様でございますか」
「ところでその目だが、元々見えないように作られたのか? それともおれ対策か?」
ユハは足を止めずに、右手でそっと両目を塞ぐ目隠しの布に触れた。
「私は最初から視力を持っておりません。貴方様のお顔を見ては世話役としての役目に支障が出ると、お館様がお考えになられたからです。
視力がない代わりに触覚、嗅覚、聴覚を中心に諸感覚を鋭敏にして生み出していただきましたから、世話役としての務めを果たすのに不具合はございません。見苦しければ布は外しますが……」
「見苦しかねえさ。お前さんは見ていて嬉しくなる美人さんだからな。ただ、そうだな。どんな瞳をしているのか、興味がある。問題がなければ見せて貰えるかい」
「はい。問題はございません。私の瞳などでよろしければお好きなだけご覧ください」
おそらくザグフと敵対しない限りは夜月に忠実であるように作り出されたホムンクルスの美女は、夜月からの頼みに従って足を止め、彼を振り返ってから両目を覆う目隠しの布を外す。
しゅるり、と布の擦れる音の後で露わになったユハの瞳は焦点を結んでいなかったが、それでも琥珀を思わせる綺麗な色をしている。それをしばし見つめてから、夜月はユハに礼を言った。
「ああ、もう十分だ。ありがとう。うむ、綺麗な瞳をしている。その目でおれだけじゃなくて、世界のいろんな場所の光景や綺麗なものを見て欲しいもんだぜ」
他意のない夜月の言葉を聞いて、ユハは困ったように小首を傾げる。再び目隠しの布を巻いて、こう口にした。
「それは私の役目ではございませんから」
「そうかい。どこまでも子爵様に忠実ってわけね。しかし、視力がないのならその目隠しの布は必要ないんじゃねえの?」
「なんでも様式美との事です」
「ふうん。バンパイアの伝統と様式美好きは昔っからって言うからなあ」
ユハの先導によって案内されたのは、クリキンが姿を消したのと同じ一階の個室だ。
中央には四人掛けの丸テーブルがあり、真っ赤な液体で満たされた壜とグラスが置かれている。壁際には大きめのベッドが配置され、反対側の壁には暖炉と他には空のキャビネットとクローゼットがある程度だ。
灯りは落とされて真っ暗闇に包まれていたが、先に扉を開いたユハが小さく囁いた。
「灯りを」
壁と天井に掛けられている燭台の蝋燭に火が灯り、室内に灯りが満ちる。声に反応する魔法の照明のようだ。
「新入り用の部屋かい?」
「その決まりでございます。働き次第で部屋は変わります。それではコートをお預かりいたします」
「ああ、ありがとう。カーテンを開けても?」
「私がいたします。どうぞおくつろぎになってお待ちください」
ユハは夜月の脱いだコートを手早くクローゼットに仕舞い、カーテンと鎧戸を開いて窓の外の光景を明らかにした。何本もの木々が交差し、木漏れ日を作り出している。奥深い森か山の中だろうか。
夜月は丸テーブルの上に置かれた硝子壜の蓋を開き、匂いを嗅いでいた。すぐに顔を顰めて蓋を戻す。中身は血であった。硝子壜の冷たい感触からして冷凍保存していたものだろう。
「要らん気の回しようだな。ふむ、山ん中にあるのか。ありがとうよ。ここは元々ガルドナ子爵家の別荘かなにかだったのかい?」
「いいえ。お館様が所有されている魔法具に収納し、こちらに来てから土地を均し建てたものでございます」
「元々の持ち家か。愛着があんのかね」
愛着云々に関しては、つい先程生み出されたばかりのユハには答えられない質問だった。その代わりに夜月が手をつけなかった硝子壜を手に取る。
「お気に召しませんでしたか?」
「心遣いはありがたいが、普通の酒かお茶の方が好みだな。まあ、仕事前だ。水がいいな」
「ダンピールですのに?」
「ダンピールですのに、だ」
不思議そうな雰囲気を出したのは一瞬だけで、ユハは硝子壜を手にとって部屋を後にした。一分とかからずに硝子の水差しを手に戻ってきたのは、バンパイアの館ならではの早業であろうか。
「こちらでよろしかったでしょうか」
夜月はユハに礼を言って、すぐさまコップになみなみと水を注いで飲みほした。
「さて、館の中の散策もいいが、仕事に備えて休むとするか。おれは寝るが、君の部屋は用意されているのか」
「いいえ、私は貴方様の世話役であり、お館様からの御命令がない限りにおいて、貴方様の所有物でもあります。物に部屋は必要ありません」
「あ~、そういう扱いね。おれが寝ている間はここで待機か? それとも君も寝るか? ならベッドを譲るぜ。おれは床で十分だ。野営なんて珍しくもなかったんだ。屋根があるだけでも十分だ」
「ベッドを譲られては世話役としての役目が務まりません。それに、私はつい先程生み出されたばかりで、眠気というものはまだまだありません」
なるほど、道理だ、と夜月はユハの言い分を認めた。敗北宣言の代わりに溜息を零して、夜月は再びカーテンと鎧戸を閉めて陽光の侵入を拒否した。
「それもそうか。それならおれの方が遠慮するのを止めよう。おれが寝ている間はそこの椅子で休むか、好きにしていてくれ」
「はい、そのように。御用があればいつでもお呼びください」
「はいよ」
夜月は気の抜けた返事をして、ベッドの上で横になった。彼がまぶたを閉じて眠りに就くのを気配で悟ってから、ユハは夜月に言われた通り椅子に腰かけて休んだ。
夜月が目を覚ますまで、そうして椅子に座り続けるだろう。気配や音で周囲の状況を察する彼女の為に、夜月がわざと気配を発し、足音や物音を立てていたのを知らぬまま。
「お目覚めですか?」
ユハが椅子から動かぬまま夜月に声をかけたのは、彼がベッドに横になってから一時間程、経過した頃である。
「ふむ、お呼びはかかっちゃねえが、自主的に働くところを見せて点数稼ぎをしねえとな。コートを」
「はい」
ユハの手を借りてコートを着込み、夜月はユハの顔を見ながら真摯な声で問いかけた。
「敵が来た。既に館に侵入している。君はここに残れ」
「お供いたします。敵が侵入した以上、館は迎撃体制に移行します。内部は迷宮へと変わり、警護の為のホムンクルスやゴーレム、悪霊が解き放たれます。
館の内部構造を知らない貴方様にとっては、危ういもので満ちております。それに、私もそれなりに戦闘能力を有しております。それでも足手まといと判断されたなら、どうぞその場に私を置いていってください」
「生まれたてなのに強情だな」
それだけ言って、夜月は廊下へと出た。ユハが言った通り、先程通ってきた廊下から大きく様変わりし、空気は冬が訪れたように冷え込み、壁に掛けられた燭台に灯る炎は青白く変わっている。
なにより廊下の端から端までの距離が遥かに長く変わっている。見覚えのない扉や階段、曲がり角が増えていて、もはや別の建物と化しているのが一目で分かる。
ユハも夜月に続いて廊下に出たが、手に何も持っていないままだ。
「子爵が血を吸った村の連中……にここへの侵入は難しいか。となると朱塗りの大地からの追手かね。ユハ、おれから離れるなよ」
「はい」
はっきりと嬉しそうに答えるユハを背後に庇い、夜月は左側に向かって足を進めた。そちらから血の臭いが香ってきたからだ。
警戒している素振りなしに進む夜月に、ユハは戸惑う様子もなく続く。信頼しきっているというよりは、親鳥の後に続く雛鳥を思わせる様子だ。
迎撃体制に移行した事で出現した下り階段の一つを降りてゆくと、その踊り場で壁にもたれかかるクリキンを見つけた。
顔色は白く変わり、左肩から右腰にかけて深く斬られ、真っ赤な血が流れ出ている。
彼以外にもこと切れたホムンクルスや狼や熊型の魔獣が転がっており、ここで侵入者と遭遇して交戦の末、敗れたのだろう。
「はぁい、情けない所を見られちゃったわね」
「そうでもねえさ。相当の手錬が相手だったのは分かる」
「ふう、貴方、意外と気を……遣えるのね。手強い、わよ。追手に選ばれるだけの、強敵」
夜月はコートの内側を漁りながらクリキンに問いを重ねる。せっかく侵入者と戦った本人が目の前にいるのだ。なるべく多く情報を聞き出すつもりなのだ。
ユハはクリキンの血に濡れるのも厭わず、彼の傍に跪いて手を伸ばそうとした。魔法か、薬か、何かしら治癒の手段があるのだろう。だが、それをクリキンが止めた。
「お止しなさい。この怪我では、間に合わない、わ。せっかくの綺麗な手と、ドレスを、無駄な事で汚す必要……は……ないわ」
「クリキン様、そのような事を言わないでください」
「本人が要らねえって言ってんだ。やめときな。それで侵入者はバンパイアか、ダンピールか、それともあんたらみたいな人間種だったか?」
冷酷極まりない夜月の発言に、ユハは悲しげに腕を止め、クリキンはクールねえと死の気配の濃い笑みを浮かべる。
「バンパイア、ね。昼に動いている、から、ダンピールかと、思った、けど、あの気配はバン……パイアよ」
「デイライトウォーカー、陽光の下を歩む例外中の例外か。バンパイア狩りにはダンピール以上の適任者だな。汚れ仕事をやらすにゃ貴重過ぎる気もするが、相応の実力者か」
「新人には荷が重い、かも、しれないけれど……初仕事、よ。精々、お気張りなさい……な」
残っていた生命の最後の一滴までを絞り尽くしたように、クリキンは瞳を閉じて力なくうなだれた。初めて目にする死の瞬間に、ユハは大きく心を乱されながら彼の名を口にする事しか出来ない。
「クリキン様……」
夜月はクリキンの死に何も感じるものはないのか、辺りを見回すと断たれたクリキンの左足を見つけ、無造作にそれを拾うと断面をしげしげと眺める。
「大した切り口だ。腕が良い」
「夜月様、そのような……あの、何をなさっているのですか?」
夜月がクリキンの左膝と左足の切断面をくっつけ、コートから取り出した木製の水筒らしいものの蓋を開いているのに気付き、ユハは堪え切れずに問いかけた。
「ん~? まあ、こいつは町で紙芝居か紙細工でも売っている方が似合っているし、まだ生きているのはこいつだけだからな。都市一つ買っても釣りがくるが、命にゃかえられん」
水筒からとろりとした樹液のような黄金の液体が零れ出し、クリキンの左足、そして肩の切り口に注がれる。最後にクリキンの口に持って行き、二口ほど嚥下するのを見届けてから、夜月は水筒をコートの内側へと戻した。
水筒の蓋が開かれた瞬間、周囲の血臭を吹き飛ばす程、濃密な甘い匂いに陶然としていたユハだったが、クリキンの口から小さな呻き声が聞こえると、ハッとした様子でクリキンを見る。
常人よりも遥かに鋭敏な彼女の耳は、クリキンの心臓が再び力強い鼓動を刻んでいるのを聞きとっていた。
「まあ! それは神々の秘薬かなにかでございますか?」
「世界樹の樹液を色々と加えたり減らしたりして作った傷薬だ。魂が離れていなければ、大概の傷はなんとかなる。ユハ、君はクリキンを診ておけ。回復魔法なり何かしら出来る事があるのだろう? おれは侵入者とやらを追う」
「でも……私は貴方様の世話役なのです」
「せっかく助けた相手に死なれちゃ寝覚めが悪い。おれの為にクリキンの治療と警護をしてくれ。それでも駄目か?」
「それは、とても、とても困る御命令です」
「君にしか頼めん」
これが、ユハにとって止めの一言になった。ユハは観念したように肩の力を抜き、右手の指先をクリキンの首筋に当てて、脈を確かめる。
「分かりました。私がクリキン様のお傍に残ります。でも、他の兵士達が来られたら、貴方様の後を追いますから」
「しょうがねえな。そこはおれが折れるとしよう。さて、狙いはまず子爵。易々と灰にされる相手じゃねえが、追手も只者じゃねえ。初日で無職にならんよう気張るかね」
そう告げる夜月の口元に浮かぶ笑みをユハが見られなかったのは、きっと幸いなことだったろう。
兜の奥から呆れを交えたザグフの言葉が出て来ても、夜月は特に気にした素振りはなく、またザグフの命令一つで何時でも襲いかかれるように構えているマサケとクリキンも無視して、ザグフに向けて口を開く。
「おれとしちゃ結構真面目な質問だぜ。マサケやクリキンらとは話したが、おれが下に着きたいと思わせる条件を提示できるかどうか、あんたの器量を試しているんだからよ」
からかう語調そのままの夜月の言葉だったが、これは支配者として朱塗りの大地に君臨していたバンパイアにとっては、決して軽んじる事の出来ない矜持と誇りを突く問いであった。
気高きバンパイアの血に他の種族の血が混じった卑しいダンピール相手とはいえ、試された以上、それに答えられなくては支配者としての沽券に関わる。
無論、無礼者と試す行為をした相手を手打ちにするのも、正解の一つだ。だが先程までの激烈な戦いの記憶は鎧越しにもザグフの心身に刻まれていて、たかがダンピールとはいえこれ程の猛者を手放すのはあまりにも惜しい。
――それに、ダンピール風情と蔑もうとも、私の中の何かがこれを放置するなと訴えている。
この場から離れた棺の中で、ザグフは自分でも理解できない夜月への執着心に煽られるように、ノーブルバンパイアとしての示威について真剣に考え込んでいた。
数瞬の思考の末、ザグフはおよそ彼の裁量に於いて最大限と言える条件を提示するのを決めた。彼のこれまでの歴史の中でも、ダンピールを相手に一度たりとて提示した記憶の無い、破格の条件である。
「いいだろう。いかなる富も名誉も及ばぬ、諸人の求むる欲望を。究極の願いの一つをお前に与えようではないか」
「ほー。富も名誉も及ばぬとは大きく出たもんだ。だが、ははん、察しは着いたぜ。バンパイアならそれを与えられる。バンパイアにしかそれは与えられん。確かに世界中の金持ちや王侯貴族が一度は考えるモンだ。究極の願いとはまた聞こえの良い表現だぜ」
「ふ、であろう。バンパイアが他者に与えるものの中で最も価値あるもの。最も恐れられ、そして同じく求められるもの。すなわち、お前をバンパイアへと変え、夜の世界に生きる永遠の命を与えようではないか」
純血のバンパイアから殊のほか嫌われるダンピールを、吸血によってとはいえ完全なバンパイアへと“格上げ”する行為は、朱塗りの大地全土の過去を振り返ってみても、公的な記録にはほとんど例のないものである。
ダンピールでない人類ならばいくらでも例がある事を考えれば、バンパイア達のダンピール嫌いの度合いが分かるというものだ。その観点に立てば、ザグフの提案はバンパイア達から批難されて仕方のない条件である。
「永遠の命ねえ。ところでここにはおれの先輩にあたる二人が居るわけだが、二人に聞かせて良い話なのかね。それとも永遠の命と不老不死ってえのは、二人には約束してねえのかい?」
「ふむ、このマサケとクリキン以外にも配下は居るが、同胞として迎え入れる者は滅多にはいない。それに我が飢えを潤す為に血を吸ったのならばともかく、褒美としてバンパイアにするのならば、相応に心構えを求めたくなる」
「うん? 心構えって部下の方にか?」
「例え口で不老不死を求め、バンパイアの末席に加えて欲しいと縋ろうとも、多くの者達の心の中には体と魂を変えられる恐怖が根付いておる。褒美として与えるべきものを恐れられては、これでは私の気も萎える」
「なるほどね。血を吸った後ならうっとり蕩けた顔になるだろうが、吸われる前とあっちゃ種族を変えられるのに恐怖を抱いたっておかしかねえ。そんな心情の配下に褒美を与えるのは、主君として筋が違うって思うのも道理だわなあ」
夜月とザグフの話し合う間もクリキンとマサケに反応はない。許しなく主君の話に割って入る事はしない、配下の鑑と評せる態度だろう。二人にちらりと視線を送る夜月は、しかし心中でどう評価しているやら。
「して、バンパイアへと至る為に伸ばした我が手、お前は取るか、払うか。どちらだ?」
「不老不死を謳うバンパイアなら、答えを急いちゃいけねえよ。純血のバンパイアには及ばんが、おれはダンピールだ。身体能力も傷の治癒力も並の人間なんざ目じゃねえ。それに寿命の方だって同じ事だ。流石に不老不死とはいかねえけどよ。
なによりだ。おれを含むダンピールは、こうして対策をしなくてもお天道さんの下を歩ける。バンパイアが太陽が空に昇っている間は、意識を覚醒させている事すら至難を極めるってのにな。
万が一棺を暴かれて陽を浴びれば、あんたらは見る間に肌も肉も骨も、全て灰になっちまう。運良く助かったとしても、陽に焼かれた肌はまず二度と治らねえ。それを考えりゃ、ダンピールのままで良いと思うが、何か異論はあるかい?」
異論が無ければ交渉は決裂だ、と自ら雇用条件について問いかけたというのに、夜月は暗に告げて何時でも体の何処かに仕舞った長剣を振るうだろう。
不穏な気配を感じてマサケとクリキンの伏せられていた視線が夜月へと向けられようとした時、夜月の意見を笑い飛ばすようにザグフが答えた。
「なるほど、我らは特別な手段を用いぬ限り太陽の輝く時刻に目を覚ます事も出来ん。ましてや愛しい夜を追い払う忌まわしき朝陽を、世界が我らのものとなる夜を導く落陽を一目見る事も叶わぬ。それは認めねばな。
しかし、お前の体に流れる血の半分がバンパイアである以上、決して否定できぬ事がある。お前が太陽の下にある時、その血は煮え立つがごとく体は高熱に襲われ、その次には血が冷水に変わったかのような寒気に襲われているだろう」
夜月は答えない。なぜなら、バンパイアと違い太陽の下を歩めるダンピールであっても、太陽のある時刻で活動すればザグフの言う通りの症状に襲われ、絶え間ない苦痛と悪寒の嵐に襲われるからだ。
事実、夜月はマサケの仕掛けた銀人と戦っていた時から、今に到るまで凄まじい苦痛と共にある。
「だが、それが夜になればどうだ。体の中のバンパイアの血は活力を増し、お前の体と精神には安らぎが訪れるのではないか。分かる筈だ。
例えバンパイアの血が半分しか流れていなくとも、自分の在るべき世界は夜の世界だと、お前の体と魂は他の誰よりも知っているのだ。バンパイアの血が半分しかなくともそうなのだ。純粋なバンパイアへと変われば、お前に与えられる安らぎと幸福は比較にならん」
「ふーむ、なんでい、ダンピールの弱い所を知っている交渉術を仕掛けてくるもんだ。それを言われるとおれも反論が難しい。お天道さんには背を向けて、お月さんだけを眺める生き方に割り切るのもありだと思えるからなあ」
「ふ、では私の出した雇用条件は満足のゆくものであったか?」
「おう。おれのバンパイアの親は母ちゃんだったが、母ちゃんはおれをバンパイアにはしなかった。血の繋がった親にもバンパイアにして貰えなかった以上、バンパイアになれる機会は滅多にゃ巡ってはこねえだろう。
なら千載一遇のこの好機に手を伸ばすのは、不思議な話じゃなかろう。永遠の命か。確かに限りある生命にとっては究極の願いだわな」
「思いの外、欲望に正直な男だ。交渉が決裂すればマサケとクリキンと共に三人掛かりで滅ぼすところだが、お前ほどの手錬を配下に加えられるとあれば有益な交渉であった。ただし今すぐお前の願いを叶えるわけではない。それは分かろうな?」
「そらまあな。報奨を貰うだけの労働をまだしてねえし、バンパイアに成りあがらせてもらうとなっちゃ、ちょっとやそっとの労働じゃ対価として不十分だろうさ」
肩を竦めて答える夜月に、ザグフは棺の中で物分かりの良い事だとほくそ笑んだ。どうやら交渉が上手くいったようだ、と夜月の背後に位置するマサケとクリキンは心の中で小さく安堵の息を吐く。
ザグフと共に三人掛かりで挑めば、如何に夜月相手でも勝てる自信が二人にはあったが、二人とも死ぬだろうと確信してもいたからだ。ザグフの命令とあれば命を捨てる覚悟はあるが、捨てずに済むのならそれに越した事はない。
「それじゃまあ、今のおれはお試し雇用ってところかねえ。というかおれはそこのマサケっつう影使いに襲われたのがきっかけであんたらと縁を結んだが、あんたらが何を目的に行動しているのかとか、今後の予定はどうなっているのかとか、全く知らんのだが、そこんところはどうなのよ?」
「ろくに知りもせん相手に雇用条件の話し合いを持ちかけるとは、お前は存外世間を知らんのか」
「うるせ。その世間知らずを手錬と褒めたのは何処の誰だよ」
「雇用主に対して生意気な口を聞く労働者だな」
「まだ正規雇用の身分じゃないんでね」
「正規雇用の身分になってもその口の利き方を改めるとは思えんが、まあよい。マサケ、クリキンよ、その者を我が館へと連れて参れ。我らガルドナ家がこの地を訪れた目的と経緯、これからの仕事内容について話をするとしよう」
「はっ」
マサケの短く明瞭な返事を聞き届けると、ザグフの紫色の鎧はそのまま風景に溶けてゆくように消えてしまった。
彼らの拠点である館からこの平原まで、同じように空間を超越して出現し、そして去っていったのだろう。夜月の顔には嘘の無い感心の色が浮かんでいる。
「空間を跳べるか。魔法とも超能力とも違う感じだが、鎧の方の能力か?」
「さてな。それは我らも知らぬ。さて、これで非正規ではあるがお主は我らの同僚となった。まこと、喜ばしき事と思うぞ」
大いに安堵した様子のマサケの言葉を受けて、夜月は職場の先輩達を振り返る。
「本音だと嬉しいね。しかしだ、おれの求める報酬はお聞きの通りだが、二人は何を目当てに仕えているんだい? 先祖代々の忠義か、個人的な恩義か、魅力的な報酬の三択だと思うが」
「それはお主に教える必要の無い事だ。我らの事情よりもザグフ様の御心を知る方がお主にとっては大事だ。ザグフ様の言われる通りに、これよりお主を我らの館へと運ぶ。一応、お主はまだ正式な配下というわけではない。道中、目隠しはさせて貰う」
「ま、道理だな。おれの事が信じられないのか、なんて言える程、長くも深くもない付き合いだしよ。じゃあ、さっさとやってくれ」
「やれやれ、度胸のあるのは間違いないのだが、お主はどうにもふてぶてしさが度を越しておるよ」
顔以外を覆うマサケの黒布がぶわりと風を受けたように膨らむと、黒布の落とす影が爆発的な勢いで夜月の足元まで広がる。影は彼の四方から立ち上がると、繭のように丸まって彼をその内側に閉じ込めた。
「おれの影繭は外部と内部を影で遮る牢獄だが、流石にこの男でも外の様子はうかがえまい……と思うのだがなあ」
満腔の自信を持つ影の技なのだが、相手が夜月となるとマサケは唐突に自信を失くしてしまうらしい。膝を突いた姿勢から立ち上がったクリキンが、マサケに同意する言葉を口にしながら肩を竦める。夜月に短剣を突き立てられ、そして抜かれた肩を。
「影繭の中って、光の入らない暗黒の世界なのでしょう。だったらダンピールにとっては快適な場所にならない? だから貴方も自信を持てないのでしょ」
「まあな。影の中に光を通す技も学んでおかねばならんか。彼が大人しくしてくれるのを信じて、急ぎ館へ行くぞ、クリキン」
「はいはい。それと、貴方は抜け駆けをした言い訳を考えておきなさいよ。私は気にしないけれど、気にする連中もいるのよ」
「分かっておるよ」
マサケは溜息を吐くように答えて、夜月を収納した影繭に近づいて手を置き、自分と纏めて足元の影の中へと沈んでいった。
クリキンもまた腰のバッグから丸めた紙を取り出して、瞬く間に大鷲の形に切り抜く。
マサケは影から影へと移動し、クリキンは紙の大鷲に掴まって彼らの館へと戻った。
影繭の中はクリキンが指摘した通り、陽光を遮る為に夜月にとっては居心地の悪いものではなく、外に出て陽光を浴びる間、全身を襲っていた激痛を感じずに済んでいる。
繭の形状をしている為、内壁によりかかりにくい事この上なかったが、移動時間は十分程だろうか。
影繭の中には一切振動や慣性は伝わらず、移動している感覚はまるでないのだが、夜月にはマサケによって運ばれているかどうかが分かるらしく、彼の口から、お、という一言が漏れたのは、まさしくマサケ達がザグフの館に到着した瞬間であった。
「さて、どんな事情を教えて貰えるのかね」
影繭の内部を満たす暗黒に小さな光が灯り、その光が縦一条に走ると途端に影繭は隣に立っていたマサケの影へと仕舞いこまれた。
夜月が立っているのは館の入り口らしい場所だ。正面に二階へと繋がる大階段を備えたエントランスが広がっている。灰色の石材を積み上げた館は質素な装いで、照明は窪んだ壁の中に油を注いだ皿に火を灯したものという有様だ。
装飾としての胸像や甲冑、花瓶の類も見られない。これがザグフの気質なのか、それともガルドナ子爵家の窮乏ぶりを表すものなのか。後者ならば夜月にとって就職先としては失敗だったかもしれない。
「ご当主の部屋まで案内する。妙なことは考えるなよ?」
「私は部屋に下がらせて貰うわ。紙の補充ときちんとした治療もしないとね。案内は任せるわよ、マサケ」
クリキンはマサケの返事を待たずに、ひらひらと手を振りながらエントランスの左側にある扉の一つへと歩み去って行った。
館の中は静寂の一言に尽きるが、夜月は影繭を解かれた瞬間に、周囲から突き刺さった視線と気配に気付いていた。姿こそ見せていないが、マサケやクリキンのように特異な技を持った者達ならば、それ位の芸当はできるだろう。
「良く言えば質実剛健の造りだな」
悪く言えば、とは言わないようにする配慮が、夜月にはあった。マサケは夜月の感想には構わず、正面の大階段を上がってゆく。
「昼の間、ご当主が姿をお見せになる部屋がある。お前はそこへ連れて行く」
「はいよ。棺のある寝所に連れてゆく間抜けじゃなくて良かったぜ」
バンパイアの眠る棺は、大抵、拠点となる屋敷や城塞の地下の墓所か豪奢な寝室に厳重な守りと共に安置されているのが定番だ。
ザグフが昼の間も意識を保てる貴重な例とはいえ、最後の砦たる棺の外に出て行動まできるとは限らないし、まだ信用されていない夜月と本体を対面させはしまい。
館同様に質素な作りの大階段と廊下を進む間、マサケはほとんど口を開こうとしなかったが、不意に廊下の照明で床に落とされた夜月の影を見て、ポツリと呟いた。
「影が薄いな。やはりダンピールか」
廊下に夜月の影が落ちている。ただし、人間と比べて半分ほどの薄い影が。これがバンパイアなら影すら落ちない。純血のバンパイアにとって、自分の影は一生見る事のないものなのだ。
「今更確かめる事かい? これがなくなるようにして貰う為に、これから頑張ろうってんじゃねえか」
「そうだったな」
「ま、おれのこたぁ、信用しなくっていいぜ。それこそ最後の最後までな。それぐらい用心深くなけりゃ、バンパイアの下でバンパイアにならずに部下をやっていられんだろう」
バンパイア達から身動きの取れない昼の守りを任される特殊な能力の持ち主や超人達がそんな間抜けだったら、むしろこっちがガッカリすると言わんばかりの夜月の発言の後、マサケが足を止めた。
流石にそろそろ堪忍袋の緒が切れたか、と思いきや、案内が終わったから足を止めたようだった。マサケと夜月の前には、これまでの質素な扉とは異なる分厚い黒一色の扉がある。巨大な黒曜石を加工した代物だ。
部屋の主の妖気が扉越しにも廊下へと流出している。骨まで凍らせる妖気は、バンパイアのものに違いない。
「来たか。マサケよ、大義であった。お前は下がるがよい」
「はっ。御用向きとあればいつ何時でもお声掛けくださりませ」
マサケはそのまま廊下に沈むように消えて行った。残された夜月は扉を開いて部屋に足を踏み入れた。部屋の中には照明の類はなく、窓は閉め切られている。
書棚も客人用の長椅子もない。調度品の類も同じだ。執務室でもないようだが、となると基本的にはザグフから配下へと指示を下す為だけの部屋なのだろう。
扉が閉まると光源の無い部屋は暗黒に閉ざされた。バンパイアであるザグフとダンピールの夜月でなければ、眼前に刃を突きつけられても気付けまい。
「鎧姿のままか」
どうやらザグフは例の紫色の鎧のままらしい。
「まだ私の顔を見せる程の働きをしておらぬからな」
「ごもっとも。それで、そろそろガルドナ子爵家の目的と今のところの行動について、教えて貰えるかい」
暗黒の世界の中にあって、夜空に煌々と輝く月の化身の如き青年に、ザグフは零れそうになる感嘆の吐息を憎悪と共に飲み込んだ。夜の空も、月も、星も、それらはバンパイアにとって最大の友であり、彼らの為の世界だ。
それがこの半分しか血を引いていない若者の方にこそ似合う、と思ってしまった自分と夜月への憎悪である。
「かつてこの星におけるバンパイア発祥の地にして支配地域である朱塗りの大地は、始祖より分かたれた六つの血族を頂点として統治されていた。しかし、これも始祖六家の内の一つ、グロースグリア王家によって他の五家が滅ぼされた事で大きく形を変えた。
とはいえグロースグリアの支配は長くは続かず、いずこかの地にて滅びた事が伝わった後には、唯一、生き残っていた始祖六家のジークライナス家の姫が頭角を現し、今では朱塗りの大地を統治しておる。それは知っていたか?」
「風の便りでな。詳しい所までは知らんが、ジークライナスの姫君が激減したバンパイアの個体数の回復と統治体制の再構築に苦労しているのは、容易に想像が着くわな」
「単純な話、我らバンパイアは他種族の血を吸えば数を増やせるが、そうしてなった成り上がりばかりが増えては、種族としての純粋性を損なう危険性も備えている。
どんな窮地に陥ったとしてもいたずらに血を吸って成り上がりを増やすのは、本能の領域で禁忌と認識している以上、地道にバンパイア同士で数を増やす他ないからな。
その点と朱塗りの大地全土が戦場と化した後の統治に苦労している点については、私もかの姫君に同情を禁じ得ん」
夜月におや、と思わせたのはザグフが本気でジークライナスの姫とやらに同情しているのが分かったからだ。身も蓋もない言い方をすれば、負債だらけで首が回らない国家の舵を握るなど、ザグフとしてもご免被る、という心情だろうか。
「その朱塗りの大地から離れた理由は?」
「うむ。今のジークライナスの姫君の他種族との融和を是とした方針に、異論があるのが一つ。今はそうするしかないと分かってはいるが、にしても度が過ぎておるのでな。そして始祖六家に依らぬ統治を布く為に、今はかの地に離れてここまで足を伸ばしたのだ。
近くの村の娘の血を吸ったが、それはバンパイアとしての嗜みといったところかな。これより夜ごと日ごと美しい女達の血を吸い、バンパイアとする価値ある者を我が下に加えて、朱塗りの大地に戻る腹積もりよ」
「ジークライナスのお姫さんも血を吸われる側の他の種族も、何の対策もなしに看過するとは思えんが、自信の源はその鎧か? それとも他に秘策でもあるのか、反体制の組織でもあんのかい?」
「さて、それは言葉を濁しておこう。まだお主を信用も信頼もしておらぬのでな。お主がジークライナスの息の掛った暗殺者という線は、まだ否定しきれてはおらんぞ」
「暗殺者なんて面倒くさい事なんて誰がやるかい。だが、そんな事はおれだって百も承知だ。しばらくはお互いに監視し合う位の関係と距離間でいいだろうさ」
「雇用主に注文をつける労働者か。まったくもって生意気な奴め。あれだけの腕の持ち主でなければ、抉った心臓を太陽に晒しているところだ。
だが良い。お主の部屋は既に用意させてある。部屋の外に世話役を用意した。その者に案内してもらえ。用向きがあれば声をかけるが、それまでは大人しくておくがいい。では下がれ」
ザグフは今度は姿を消さずに夜月に退出を求めて来たのに、夜月は素直に従って暗黒の部屋を後にした。
扉のすぐ傍には、ザグフの言った通り世話役らしい人物が静かに佇んでいた。
襟や袖に瀟洒なレースの飾りのある他は簡素なドレスを、腰の上で青いリボンで留めた女性である。
黒い長髪の上に金糸の刺繍が施された薄いベールを被っているのだが、真珠のような肌と淡い桜色の唇の艶やかさも目を引くが、青い布で目を隠しているのがまず目を引いた。
生まれた時から盲目なのか、またあるいは夜月対策として目隠しをしているのか。
自分の肩くらいの背丈の美女に、夜月は遠慮のない視線を向ける。
誰もが傷つけてはならないと思う無垢な令嬢にも、性別と年齢を問わず万人を惑わす魔性の美女にも、本人の心次第でなれるだろう。
「君が世話役か。ホムンクルス?」
人間ではない。かといってダンピールでもバンパイアでもない世話役の種族を、夜月は一目で見抜いていた。
「はい。ホムンクルスのユハと申します。たった今、お館様のご意向により貴方様のお世話役として生み出されました。なんなりとお申し付けください」
どうやら以前から館の中にいた従者ではなく、夜月を雇うと決めてから即席で作り出したホムンクルスであるらしい。もし本当だったとしたなら、この館の中の設備は夜月が思う以上に充実しているようだ。
「ほう、名前を貰っているのか。魔法生物にはつけない例が多いと聞いていたが、おれの雇用主殿は違うのか。まあいいや。早速で悪いが部屋まで案内してくれるか」
「はい。お任せください」
ユハの答えは気配と同様に静かなものだったが、一つの仕事を任された喜びとやる気に満ちていた。
目隠しをされているが夜月を先導するのに支障はないようで、踵を返して廊下を進みだすユハの背中を、夜月はしげしげと眺めている。音のない動作を良しとするバンパイアの従者として申し分のない動作だ。
夜月の世話役として必要な知識と人格も与えられているのだろうが、生まれてから一時間も経っていないのもあって、内心ではやる事なす事、初体験ばかりで新鮮なのだろうと推測している。
夜月に案内を頼まれたのも、自分が生み出された理由に沿う事が出来て、思わず声が弾む程に喜んでいる。
「生まれて一時間未満の世話役ねえ。おれが子守りする側なんじゃねえの?」
ついポロリと零した夜月の言葉を、ユハは聞き取れなかったようで足を止めて夜月に尋ねた。仕事を任されたのはこの上なく喜ばしいが、夜月の不興を買うのは存在理由を自ら損なう為、ユハにとっては何よりも恐ろしい。
「なにか、仰いましたか?」
「んにゃ、なんでもねえよ。気にしなくていい」
「左様でございますか」
「ところでその目だが、元々見えないように作られたのか? それともおれ対策か?」
ユハは足を止めずに、右手でそっと両目を塞ぐ目隠しの布に触れた。
「私は最初から視力を持っておりません。貴方様のお顔を見ては世話役としての役目に支障が出ると、お館様がお考えになられたからです。
視力がない代わりに触覚、嗅覚、聴覚を中心に諸感覚を鋭敏にして生み出していただきましたから、世話役としての務めを果たすのに不具合はございません。見苦しければ布は外しますが……」
「見苦しかねえさ。お前さんは見ていて嬉しくなる美人さんだからな。ただ、そうだな。どんな瞳をしているのか、興味がある。問題がなければ見せて貰えるかい」
「はい。問題はございません。私の瞳などでよろしければお好きなだけご覧ください」
おそらくザグフと敵対しない限りは夜月に忠実であるように作り出されたホムンクルスの美女は、夜月からの頼みに従って足を止め、彼を振り返ってから両目を覆う目隠しの布を外す。
しゅるり、と布の擦れる音の後で露わになったユハの瞳は焦点を結んでいなかったが、それでも琥珀を思わせる綺麗な色をしている。それをしばし見つめてから、夜月はユハに礼を言った。
「ああ、もう十分だ。ありがとう。うむ、綺麗な瞳をしている。その目でおれだけじゃなくて、世界のいろんな場所の光景や綺麗なものを見て欲しいもんだぜ」
他意のない夜月の言葉を聞いて、ユハは困ったように小首を傾げる。再び目隠しの布を巻いて、こう口にした。
「それは私の役目ではございませんから」
「そうかい。どこまでも子爵様に忠実ってわけね。しかし、視力がないのならその目隠しの布は必要ないんじゃねえの?」
「なんでも様式美との事です」
「ふうん。バンパイアの伝統と様式美好きは昔っからって言うからなあ」
ユハの先導によって案内されたのは、クリキンが姿を消したのと同じ一階の個室だ。
中央には四人掛けの丸テーブルがあり、真っ赤な液体で満たされた壜とグラスが置かれている。壁際には大きめのベッドが配置され、反対側の壁には暖炉と他には空のキャビネットとクローゼットがある程度だ。
灯りは落とされて真っ暗闇に包まれていたが、先に扉を開いたユハが小さく囁いた。
「灯りを」
壁と天井に掛けられている燭台の蝋燭に火が灯り、室内に灯りが満ちる。声に反応する魔法の照明のようだ。
「新入り用の部屋かい?」
「その決まりでございます。働き次第で部屋は変わります。それではコートをお預かりいたします」
「ああ、ありがとう。カーテンを開けても?」
「私がいたします。どうぞおくつろぎになってお待ちください」
ユハは夜月の脱いだコートを手早くクローゼットに仕舞い、カーテンと鎧戸を開いて窓の外の光景を明らかにした。何本もの木々が交差し、木漏れ日を作り出している。奥深い森か山の中だろうか。
夜月は丸テーブルの上に置かれた硝子壜の蓋を開き、匂いを嗅いでいた。すぐに顔を顰めて蓋を戻す。中身は血であった。硝子壜の冷たい感触からして冷凍保存していたものだろう。
「要らん気の回しようだな。ふむ、山ん中にあるのか。ありがとうよ。ここは元々ガルドナ子爵家の別荘かなにかだったのかい?」
「いいえ。お館様が所有されている魔法具に収納し、こちらに来てから土地を均し建てたものでございます」
「元々の持ち家か。愛着があんのかね」
愛着云々に関しては、つい先程生み出されたばかりのユハには答えられない質問だった。その代わりに夜月が手をつけなかった硝子壜を手に取る。
「お気に召しませんでしたか?」
「心遣いはありがたいが、普通の酒かお茶の方が好みだな。まあ、仕事前だ。水がいいな」
「ダンピールですのに?」
「ダンピールですのに、だ」
不思議そうな雰囲気を出したのは一瞬だけで、ユハは硝子壜を手にとって部屋を後にした。一分とかからずに硝子の水差しを手に戻ってきたのは、バンパイアの館ならではの早業であろうか。
「こちらでよろしかったでしょうか」
夜月はユハに礼を言って、すぐさまコップになみなみと水を注いで飲みほした。
「さて、館の中の散策もいいが、仕事に備えて休むとするか。おれは寝るが、君の部屋は用意されているのか」
「いいえ、私は貴方様の世話役であり、お館様からの御命令がない限りにおいて、貴方様の所有物でもあります。物に部屋は必要ありません」
「あ~、そういう扱いね。おれが寝ている間はここで待機か? それとも君も寝るか? ならベッドを譲るぜ。おれは床で十分だ。野営なんて珍しくもなかったんだ。屋根があるだけでも十分だ」
「ベッドを譲られては世話役としての役目が務まりません。それに、私はつい先程生み出されたばかりで、眠気というものはまだまだありません」
なるほど、道理だ、と夜月はユハの言い分を認めた。敗北宣言の代わりに溜息を零して、夜月は再びカーテンと鎧戸を閉めて陽光の侵入を拒否した。
「それもそうか。それならおれの方が遠慮するのを止めよう。おれが寝ている間はそこの椅子で休むか、好きにしていてくれ」
「はい、そのように。御用があればいつでもお呼びください」
「はいよ」
夜月は気の抜けた返事をして、ベッドの上で横になった。彼がまぶたを閉じて眠りに就くのを気配で悟ってから、ユハは夜月に言われた通り椅子に腰かけて休んだ。
夜月が目を覚ますまで、そうして椅子に座り続けるだろう。気配や音で周囲の状況を察する彼女の為に、夜月がわざと気配を発し、足音や物音を立てていたのを知らぬまま。
「お目覚めですか?」
ユハが椅子から動かぬまま夜月に声をかけたのは、彼がベッドに横になってから一時間程、経過した頃である。
「ふむ、お呼びはかかっちゃねえが、自主的に働くところを見せて点数稼ぎをしねえとな。コートを」
「はい」
ユハの手を借りてコートを着込み、夜月はユハの顔を見ながら真摯な声で問いかけた。
「敵が来た。既に館に侵入している。君はここに残れ」
「お供いたします。敵が侵入した以上、館は迎撃体制に移行します。内部は迷宮へと変わり、警護の為のホムンクルスやゴーレム、悪霊が解き放たれます。
館の内部構造を知らない貴方様にとっては、危ういもので満ちております。それに、私もそれなりに戦闘能力を有しております。それでも足手まといと判断されたなら、どうぞその場に私を置いていってください」
「生まれたてなのに強情だな」
それだけ言って、夜月は廊下へと出た。ユハが言った通り、先程通ってきた廊下から大きく様変わりし、空気は冬が訪れたように冷え込み、壁に掛けられた燭台に灯る炎は青白く変わっている。
なにより廊下の端から端までの距離が遥かに長く変わっている。見覚えのない扉や階段、曲がり角が増えていて、もはや別の建物と化しているのが一目で分かる。
ユハも夜月に続いて廊下に出たが、手に何も持っていないままだ。
「子爵が血を吸った村の連中……にここへの侵入は難しいか。となると朱塗りの大地からの追手かね。ユハ、おれから離れるなよ」
「はい」
はっきりと嬉しそうに答えるユハを背後に庇い、夜月は左側に向かって足を進めた。そちらから血の臭いが香ってきたからだ。
警戒している素振りなしに進む夜月に、ユハは戸惑う様子もなく続く。信頼しきっているというよりは、親鳥の後に続く雛鳥を思わせる様子だ。
迎撃体制に移行した事で出現した下り階段の一つを降りてゆくと、その踊り場で壁にもたれかかるクリキンを見つけた。
顔色は白く変わり、左肩から右腰にかけて深く斬られ、真っ赤な血が流れ出ている。
彼以外にもこと切れたホムンクルスや狼や熊型の魔獣が転がっており、ここで侵入者と遭遇して交戦の末、敗れたのだろう。
「はぁい、情けない所を見られちゃったわね」
「そうでもねえさ。相当の手錬が相手だったのは分かる」
「ふう、貴方、意外と気を……遣えるのね。手強い、わよ。追手に選ばれるだけの、強敵」
夜月はコートの内側を漁りながらクリキンに問いを重ねる。せっかく侵入者と戦った本人が目の前にいるのだ。なるべく多く情報を聞き出すつもりなのだ。
ユハはクリキンの血に濡れるのも厭わず、彼の傍に跪いて手を伸ばそうとした。魔法か、薬か、何かしら治癒の手段があるのだろう。だが、それをクリキンが止めた。
「お止しなさい。この怪我では、間に合わない、わ。せっかくの綺麗な手と、ドレスを、無駄な事で汚す必要……は……ないわ」
「クリキン様、そのような事を言わないでください」
「本人が要らねえって言ってんだ。やめときな。それで侵入者はバンパイアか、ダンピールか、それともあんたらみたいな人間種だったか?」
冷酷極まりない夜月の発言に、ユハは悲しげに腕を止め、クリキンはクールねえと死の気配の濃い笑みを浮かべる。
「バンパイア、ね。昼に動いている、から、ダンピールかと、思った、けど、あの気配はバン……パイアよ」
「デイライトウォーカー、陽光の下を歩む例外中の例外か。バンパイア狩りにはダンピール以上の適任者だな。汚れ仕事をやらすにゃ貴重過ぎる気もするが、相応の実力者か」
「新人には荷が重い、かも、しれないけれど……初仕事、よ。精々、お気張りなさい……な」
残っていた生命の最後の一滴までを絞り尽くしたように、クリキンは瞳を閉じて力なくうなだれた。初めて目にする死の瞬間に、ユハは大きく心を乱されながら彼の名を口にする事しか出来ない。
「クリキン様……」
夜月はクリキンの死に何も感じるものはないのか、辺りを見回すと断たれたクリキンの左足を見つけ、無造作にそれを拾うと断面をしげしげと眺める。
「大した切り口だ。腕が良い」
「夜月様、そのような……あの、何をなさっているのですか?」
夜月がクリキンの左膝と左足の切断面をくっつけ、コートから取り出した木製の水筒らしいものの蓋を開いているのに気付き、ユハは堪え切れずに問いかけた。
「ん~? まあ、こいつは町で紙芝居か紙細工でも売っている方が似合っているし、まだ生きているのはこいつだけだからな。都市一つ買っても釣りがくるが、命にゃかえられん」
水筒からとろりとした樹液のような黄金の液体が零れ出し、クリキンの左足、そして肩の切り口に注がれる。最後にクリキンの口に持って行き、二口ほど嚥下するのを見届けてから、夜月は水筒をコートの内側へと戻した。
水筒の蓋が開かれた瞬間、周囲の血臭を吹き飛ばす程、濃密な甘い匂いに陶然としていたユハだったが、クリキンの口から小さな呻き声が聞こえると、ハッとした様子でクリキンを見る。
常人よりも遥かに鋭敏な彼女の耳は、クリキンの心臓が再び力強い鼓動を刻んでいるのを聞きとっていた。
「まあ! それは神々の秘薬かなにかでございますか?」
「世界樹の樹液を色々と加えたり減らしたりして作った傷薬だ。魂が離れていなければ、大概の傷はなんとかなる。ユハ、君はクリキンを診ておけ。回復魔法なり何かしら出来る事があるのだろう? おれは侵入者とやらを追う」
「でも……私は貴方様の世話役なのです」
「せっかく助けた相手に死なれちゃ寝覚めが悪い。おれの為にクリキンの治療と警護をしてくれ。それでも駄目か?」
「それは、とても、とても困る御命令です」
「君にしか頼めん」
これが、ユハにとって止めの一言になった。ユハは観念したように肩の力を抜き、右手の指先をクリキンの首筋に当てて、脈を確かめる。
「分かりました。私がクリキン様のお傍に残ります。でも、他の兵士達が来られたら、貴方様の後を追いますから」
「しょうがねえな。そこはおれが折れるとしよう。さて、狙いはまず子爵。易々と灰にされる相手じゃねえが、追手も只者じゃねえ。初日で無職にならんよう気張るかね」
そう告げる夜月の口元に浮かぶ笑みをユハが見られなかったのは、きっと幸いなことだったろう。
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