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魔血女王
血を吸う鬼
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タンブル・ウィードが、後から追いついて来たガランドとニックを伴い、避難民達と合流した時、真っ先に近寄って来たのはガランドの同僚らしき騎士と神官、そして傭兵風の少女だった。
最も戦士に向いていそうな筋骨逞しい巨漢は、知識神の一柱の神官である事を示す額飾りを身につけ、分厚い筋肉の鎧の上には神官衣を纏い、手には巨牛も一撃で打ち殺せそうな鉄の棍棒を持っている。
他にもガランドと同じ年頃の、黒髪を後ろに流しやや目尻の垂れた眼付きがいささか軟弱な印象を与える騎士がいて、こちらはガランドと同様の装備に身を固めている。
軟弱な印象に反して鎧や盾に走る大小無数の傷や使いこみ具合などから、襲い来るゾンビー達も含めこれまでに数多くの戦闘を経験してきた事が窺い知れる。
最後の三人目が紅一点の少女だが、こちらは身に着けている装備の汚れや傷の具合から見て、騎士というよりも冒険者や傭兵の類と見えた。
性別による身体能力の差から、多くの女戦士や女騎士はタンブル・ウィードやクリスティーナのような例外を除けば、俊敏性と手数によって相手を打倒する事を主眼に置く戦い方を身につける。
この少女もその例に漏れず、防具は金属製の鎧よりも軽量だが防御性能に不安の残る札状の革を何枚も重ねた革鎧を纏い、関節の動きの邪魔にならない箇所に薄い金属の板を縫いこんでいる程度だ。
武器も傭兵が好んで用いる戦闘用帯には小ぶりなダガーやナイフ、投擲用の剣といった軽量の品を差して、極力軽装になるよう装備を整えている。
少女の容貌はと言えば、良く陽に焼けて褐色に染まった四肢はそれぞれの付け根から露わとなっており、小さな傷があちらこちらに刻まれている。
魔法具の中には所有者の危機に応じて自動で防御障壁や結界を展開する品や、恒常的に所有者の肉体を強化する品もあるが、一般に値が張るとされるそう言った品を少女が持っている様子は無い。
数で襲ってくる事の多いアンデッドを相手とするには心許ない軽装だが、細身の肉体に秘められた瞬発力と野性の獣じみた勘の良さでこれまで渡り合ってきたのだろう、とタンブル・ウィードは一目で見抜いた。
既に愛馬から降りていたタンブル・ウィードと、避難民から離れて近づいてきた三人とは十歩の距離を置いて対峙した。
ガランドとニックの姿を認めた巨漢はすぐさま破顔して両者の無事を喜び、心の素直さと善良さとがよく見て取れた。
一方で騎士と少女は、尋常ならざる姿と雰囲気を放つ魔馬を従えるタンブル・ウィードに少なからぬ警戒の意識を向けている。
なおこの三人がタンブル・ウィードの超絶の美貌を目の当たりにしても明瞭な意識を維持しているのは、タンブル・ウィードが鍔の広い帽子を目深に被り直して顔を隠していたからである。
それでも覗く目や鼻の線、帽子から零れ落ちる髪の美しさだけでも意識を奪うのに十分だが、この場合、ガランドとニックの無事な姿にまず注目が集まったのとタンブル・ウィードへの警戒の意識が強く出ていた為、超越した美の衝撃に打ちのめされずに済んだのだ。
ガランドが同僚の無事に喜びの笑みを浮かべながら口を開いた。
タンブル・ウィードの存在が彼らに警戒の意識を抱かせるのは十分に予測できた事であったから、まずはこの心強い味方を弁護しなければなるまい。
「ラアク神官、アルニ、ミルラ、全員無事か? 村の皆は?」
巨漢の知識神の神官がラアク、垂れ目の騎士がアルニ、小柄な少女がミルラという名前のようだ。
気安い声のかけ方とそこに込められた親しみから、ガランドにとっては顔馴染みの面々らしく、今回の異常事態が発生する以前からの古い知り合いなのであろう。
タンブル・ウィードが足を止めて見守っている間に、ガランドがニックを伴って三人と各々の事情の説明と情報交換を始めた。
タンブル・ウィードの人間離れした聴力は彼らの会話を余さず聴き取っていたが、やはりタンブル・ウィードの素性の怪しさが彼らの中で問題となっているようだ。
実際、ガランドとニックも窮地を救われただけでタンブル・ウィードの素性を聞いているわけではないから、ラアク達を説き伏せるだけの材料を持っていない様子だった。
彼らにとって悩ましいのは、タンブル・ウィードはともすれば演技をしているアンデッド側の存在かもしれないという危険性はあるが、さりとて瞬く間にゾンビー達を殲滅せしめた戦闘能力は咽喉から手が出るほど欲しいのも事実と言う事だ。
ニックは子供の純粋さでタンブル・ウィードの心の清廉なる事を見抜き、更にその卓越した剣技を目の当たりにした事で、物語の英雄に対する憧憬めいた感情も抱いている為、既に絶大なる信頼を寄せている。
ニックは積極的にタンブル・ウィードの助力を得るべきだ、と拙い弁舌を振るっているが、ガランドも同僚達の指摘通りにタンブル・ウィードの得体の知れなさは否定が出来ず、ニックに積極的な援護を出来ずにいる。
「ガランド、彼女の腕の凄まじさは目の当たりにした所だけれど、やはりあまりにも怪しい所が多すぎやしないかな。
ゲルドーラまで連れて行って良いものか怪しい所だし、素性を保証できないのはやはり痛い」
そうガランドに問いかけるのは、垂れ目のアルニだ。
ガランドと同じく近隣一帯を領地とする男爵に仕える下級騎士の出で、ガランドとはゲルドーラの騎士団に見習いとして所属していた頃からの付き合いである。
確かに女性に対する手の早さと口の上手さは印象を裏切らないが、同期の中でも剣と槍の腕が立ち、さらに会計や経理など金勘定にも明るい知恵者だ。
これで生まれが違えば男爵の側近にもなれたかもしれない。こんな人材を埋もれさせるとは勿体ない、とガランドは常日頃思っている。
「しかしだな、本人の言う所では冒険者だと言うし、報酬さえ約束すればおれ達の味方となってくれる……と思う。
むざむざ手離すには惜しい。正直に言って彼女一人でおれ五百人分くらいの働きは期待できるぞ」
「それはそうかもしれないけれど、内側からあたしらを始末するつもりかもって危険性を考えたら、アルニの意見がもっともでしょ。それにゲルドーラには明後日の昼には着けるわ。
それまでならなんとかなるんじゃないの? 追手の死体共はさっき全部片付いたみたいだし」
ガランドへ厳しい意見を口にするのはミルラだ。
元はニックと同じ村の生まれで農家の三女であったが、村での暮らしを嫌い五年前に村を出た家出娘だ。
村の皆が娼婦に身をやつしたか既に死んだものと思っていた所に、十日前にひょっこり顔を見せてそのままゾンビー達の襲撃と言う事態に巻き込まれている。
村に帰ってきた時期とゾンビー達の襲撃の時期があまりにも近かった為、一時疑われもしたが今に至るまでの苛烈な戦いで信用を無事得ている。
「ミルラ、それはいささか軽率な考えですよ。安らかな眠りを妨げられた方々は広く姿を見せ、近隣の村々を襲っているようです。
ゲルドーラに着くまで、常に襲撃の危険はあると考えて備えるべきなのです。
それを考えれば、確かにガランド殿の言われる通りあの御婦人の御助力は欠くべからざるものかと」
最後に魔法使いや学者に信者の多い知識神の一柱ライブラの神官ラアクが、超重量の筋肉の鎧を纏った体格には似合わぬ落ち着き払った顔で自分の意見を口にする。
基本的に知識神は地上の種族に未知を解き明かし、教養を深め、それを他者にも広めて行く事を信者に説き、信者で無い者にも知識を伝える事を推奨する。
ラアクはその教えに従って、この地方の農村部に簡単な文字の読み書きや計算などを伝える為に派遣された神官達の一人だ。
布教というよりも勉強を教える事そのものを楽しみ、好いているラアクは、村の子供達のみに留まらず大人達からも慕われており、篤い信頼を寄せられている。
「神官さんにそう言われると一気にあたしの形勢不利よねえ。じゃ、話を変えて当の根無し草さんはどう思っているのよ。
ガランドとニックをあたしらの所に連れて来るって約束はもう果たし終えたでしょ。ここから先は約束に含まれていないものね」
タンブル・ウィードは自分の素性の怪しさは良く理解しており、アルニやミルラが好き勝手言うのにも眉一つ動かさず、機嫌を損ねる事もなく、黙って四人の会話を聞く事に専念していた。
ミルラが視線を自分に転じた事に気付き、タンブル・ウィードは意図的に俯かせていた顔を上げて、こちらへと視線を集中させる四人を見つめ返す。
タンブル・ウィードのどんな生き物の身体に流れる血よりも赤く、妖艶な瞳がガランド達の姿を映すと、途端に四人の表情が溶け崩れた。
むろん比喩なのだが本当に表情筋がひとつ残らず崩壊してしまったかのように、ラアク、アルニ、ミルラ、更には既に見た事のあるガランドに至るまでがタンブル・ウィードの美貌に心を奪われたのである。
闇を纏うかのような黒の衣装に身を包んだ不審人物は、これまで、そしてこれからも彼らが見る事は無いと断じる事が出来るほどに美しい存在だったのだ。
これまでタンブル・ウィードが顔を伏せていた事と、その処遇について論議していた為にちらっとでも顔を見ていなかったから、一時的な心神喪失状態に陥るのを免れていた彼らも、遂にタンブル・ウィードの美貌の洗礼を浴びたのである。
ラアク達が正気を取り戻し、話が通じるようになるまで待つと随分と掛りそうだったので、タンブル・ウィードは自分から口を開く事にした。
タンブル・ウィードが居れば百万の軍勢に襲われてもなんら問題は無いが、それでもいつ次の襲撃があるか分からない以上、時間を浪費するのは得策では無かった。
「確かにそちらのお嬢さんの言う通り、ニックと騎士ガランドと交わした約束は既に果たしたものと考えています」
このタンブル・ウィードの発言に最も悲壮な表情を浮かべたのはニックであった。今にも泣き出しそうな顔をするニックを見て、タンブル・ウィードがかすかに美眉を寄せる。
幼い少年にこの様な顔をさせた事に対する罪悪感の棘が、タンブル・ウィードの心に突き刺さったのだ。
そんなタンブル・ウィードの心情とは別に、ほう、という魂が抜ける様な恍惚の溜息が四つ連続する。
その容姿を構成するあらゆる要素が天上の美を司る神が吟味し抜いた、と言われても納得する他ないタンブル・ウィードの美貌は、眉をかすかに寄せるという行為だけでもまた新たな美の形となり、ガランド達に激烈な感動を与えたのだった。
ガランド達の反応にいちいち付き合ってはまた話を進めるのに時間が掛るから、タンブル・ウィードは彼らに構わずに言葉を紡ぎ続ける。
「確かに約束は果たしましたが、元々ゲルドーラは立ち寄る予定でした。ここで出会ったのも何かの縁と言う物でしょう。
あなた方の許しさえあればこのまま同道させていただきたく思います」
無論、これは方便である。タンブル・ウィードの旅の目的地はここよりも更に西の先に存在する、いや、存在したとある滅びた国だ。
この大陸の地理を把握しているタンブル・ウィードの記憶によれば、ゲルドーラはタンブル・ウィードの目的地とは反対の方向にある。
わざわざ遠回りをする事になるのだが、ニックを見捨てておく事の出来ないタンブル・ウィードは、このように迂遠な言い回しをしたのである。
ニックはタンブル・ウィードの言葉を額面通りに受け取り、この美しく強い旅人が共に来てくれる事を素直に喜んで、泣きだしそうになっていた顔がたちまち明るい笑みにとって代わられる。
「私を信用できないのは分かりますが、使えるものは何でも使うべき事態でしょう。
それにたまたま行く先が同じである以上、同道を断ったとしても少し離れた所で私の姿を見かける事になるだけでしょうしね」
要は同道を断られたとしても勝手についてゆく、とタンブル・ウィードは言っているわけだ。これではアルニやミルラがどう反対意見を口にした所で意味が無い。
どうしてもタンブル・ウィードが信用できず、一緒に行動するのを拒むのならば力ずくで排除するしかないのだが、それが無理な事はつい先ほどの戦闘で思い知らされたばかりである。
「参ったね。こりゃ意外と強引な御婦人だったらしい。後ろを気にしながらゲルドーラへと進むのと、裏切りに怯えつつ懐に招き入れるのとどちらがマシかな、ミルラ」
まだ芯がふやふやになっているアルニの言葉に、やはり呂律の怪しいミルラが答えた。
二人ともタンブル・ウィードの美貌にやられた後遺症で、露出している肌は全て赤く火照っている。
タンブル・ウィードの美貌を一目見ただけでも生命どころか魂さえも捧げたい、と痛烈に願う者も多い中、アルニとミルラはこの程度で済んでいるのだから大した胆力だと称賛すべきだろう。
「あ、怪しい真似をしたら後ろからでもこれでブスリと行くわよ?」
そう言ってミルラは、本人としては凄んだつもりで蕩けかけの瞳でタンブル・ウィードを睨む。
少女の両手は腰に差したダートの短い柄に添えられている。いざとなったら口にした通り、これでブスリ、というわけだ。
飛んでいる蜂さえも捕捉し貫く正確無比な投擲技術がミルラの最大の武器であり、同時に今回のようなゾンビー相手だと甚だ心許ない事を、誰よりもミルラ自身が理解している。
それを考えれば尋常ならざる剣技のみならず不可思議な武具を持ち、魔法さえも扱うと言うタンブル・ウィードの存在は、まるで神の与えたもうた慈悲の如くだが、だからこそ都合が良すぎて今一つ信用できないのだ。
ミルラが自分の無礼な発言にタンブル・ウィードが長剣を抜きやしないかと戦々恐々となって、心穏やかではいられなくなっている一方、タンブル・ウィードはミルラの脅しなどどこ吹く風と言わんばかりに実にあっさりとした答えを返した。
「どうぞご自由に」
結局、タンブル・ウィードの助力を得るに越した事は無いと結論が出て、タンブル・ウィードは旅の傭兵で今回の事態に際し急遽雇い入れた、という体裁が整えられる事となった。
一旦荷車や足を止めていた避難民達も、ガランドとアルニが再び出発の合図を告げると疲弊した身体に鞭を打って立ち上がり、生への活路を求めてゲルドーラへと足を動かし始める。
タンブル・ウィードは五十余名ほどの避難民の中を、ニックに案内されて彼の祖母を探して歩いていた。
ごく平凡な農民であった避難民達は、スレイプニルの異常な巨躯と六本足にまず目を引かれて驚き、続いてスレイプニルの手綱を引いて歩むタンブル・ウィードに気付き、鍔の広い帽子と月明かりの下に覗く美貌を見ると魂が抜けたような顔になって行く。
幸いだったのはそれでも避難民の足が止まらなかった事だろう。
ニックの祖母は家族の牽いている荷馬車の上に腰を降ろしていた。
腰痛持ちで杖が無ければ歩くのもままならず、ゲルドーラへの強行軍に徒歩ではとてもではついて行けないからだろう。
荷馬車は二頭の驢馬がけん引し、手綱はニックの両親が握っていて、周囲にはニックの兄弟達がそれぞれ荷物を背負って家族で固まって歩いていた。
ニックの無事な姿は拳骨を含めた歓迎をもって迎えられたが、タンブル・ウィードの姿は先の四人同様の反応を引き起こした。
ニックは家族の異常事態に関しては取り合わず、荷台に腰を降ろした祖母に話しかける。
薄茶色の裾はほつればかりで、継ぎ接ぎだらけのストールを纏い、皺塗れの老婆は無事な孫の姿に心から安堵して温顔に笑みを浮かべた。
「ばあちゃん、遅くなってごめんよ。これ、前にばあちゃんに教えて貰ったヨッツウ草だよ。これを飲めば腰の痛いのも治るんだろ」
「はいよ、ありがとうよ、ニック。ばあちゃんの為にありがとうよ。でもニック、一人で森に出かけたのは良くないよ。例えばあちゃんの為でも危ない事はしないでおくれな。
旅人さん、あんたがニックを助けてくれたのかい? こんなしわくちゃの婆にはお礼のしようもないけれど、ありがとうよ」
ニックがズボンのポケットに突っこんでいた青い斑点を散らした黄色い草の束を取り出し、老婆はそれを受け取って笑みはそのままに孫を窘めた。
怒っている風では無く、それ以上に悲しげな響きである事が、ニックに深い反省を促している。怒るよりも悲しんでいる方がニックには効果的なようだ。
タンブル・ウィードは帽子を取り、軽く一礼して老婆に答えた。
「爺婆への礼儀はわきまえているようだね。最近の若いのにはあまりいないけれど、感心だよ」
タンブル・ウィードは荷馬車と並んで歩きながら、村の薬師であり口伝の語り部であると言うニックの老婆に尋ねた。
「いくつか聞かせて貰いたい事があるのです」
「おやまあ、コンゴウウグイスの鳴き声みたいに綺麗で透き通った声だねえ。
はいはい、それでこんなしわくちゃのお婆ちゃんに聞きたい事ってのはなんだい。夜の風みたいに冷たくて気持ちの良い旅人さん」
タンブル・ウィードの口元にうっすらとした笑みが浮かび上がる。ニックの祖母が、語り部と言う肩書きに相応しい詩人である事が面白かったらしい。
「あなた方の村やその近隣に昔話でも構いませんから、神官や魔法使い、あるいは巫女や僧侶の逸話が残ってはおりませんか?」
タンブル・ウィードがこう尋ねたのは、下位のアンデッド達を支配するより高位のアンデッドには、たまさか位階の高い魔法使いや破戒僧、堕落した大神官が変じた個体であるケースが存在する為だ。
有名な所では、バンパイアと並び不死者の王と呼称されるリッチと言う主物質界と星幽界に跨って存在するアンデッドが相当する。
リッチは人間であった頃の精神や記憶を残したままであるから、積極的に人間と敵対行動を取る事は珍しいし、生まれ故郷を人知れず守護しているリッチの話なども世界には存在している。
とはいえリッチのほとんどは自ら望んで生者から不死者へと変わった者達が占め、不死者に成る事を是とする精神の主であるから、まっとうな人格の主とは言い難いのも事実。
リッチとなる理由の多くはより高次の魔法事象を観測する為の霊的位階の向上、不老不死の獲得、魔力の増大などであり、自らの探究心のままに無関係の人間に災いを齎す事もあるだろう。
タンブル・ウィードは今回のゾンビーの跋扈を、そういった好奇心や探究心を暴走させたリッチの仕業ではないか、と踏んだのである。
だからタンブル・ウィードは、ニックの祖母にリッチとなり得る可能性のある神官や魔法使いの事を尋ねたわけだ。
「そうだねえ、あたしが語り部として知っている話は色々あるけれど、旅人さんの希望に沿う話はどれくらいあるかねえ」
「どうぞごゆるりとお話し下さい。敵が来るまでは時に余裕がありましょう」
「つまり何時忙しくなってもおかしくないってことだねえ。老い先短いあたしらはいいけれど、ニック達には酷な話だよ」
「真に」
孫子に降りかかった災難に悲嘆の色を隠さない老婆に、タンブル・ウィードは心の底から同意した。
タンブル・ウィードがニックの祖母から話を聞き終えた時、一旦離れようとしたのだが、ニックにこれまでの旅路での話を請われて共に進む事となった。
タンブル・ウィードが合流する前に、野営はこの先にある川を越えた先で行う事と決まっており、避難民達は多少の無茶をしながら先を急いだのだが、彼らの前に待ち受けていたのは雨など何日も降っていないにも拘らず轟々と音を立てて流れる濁流であった。
近隣の人々の水源となっているラーム河の支流のひとつであるこの川には、古くから木製の橋が掛けられていたのだが、川幅から溢れだすほど水かさを増した濁流に流されてしまったようだ。
茶色い流れを目の当たりにし、避難民を先導するガランドやアルニ、ラアク、ミルラが集まって相談を始めている所に、スレイプニルを伴ってタンブル・ウィードが顔を見せた。
「どうするか結論は出ましたか」
タンブル・ウィードの声は、議論に没頭していたガランド達の意識をあっさりと引き寄せた。
それまでこれからの道行きに不安を募らせていたガランド達は、突如神の声を聞き逃すまいと耳を傾けていた信者に早変わりしたように、タンブル・ウィードを振り返った。
「タンブル・ウィードか。いや、結論はいまだしだ」
最もタンブル・ウィードに対する耐性のあるガランドが、肩をすくめながら答えるとアルニとミルラはぎょっとした表情を浮かべる。
彼らはまだこの妖美という言葉の結晶の如き旅人に耐性が出来ていないのだ。
ラアクはと言えばタンブル・ウィードの顔は見ず、一心不乱に知識神の教義を唱えて精神集中を行っていた。嵐の海のように乱れる自身の心の平静を取り戻そうとしているらしい。
「こ、ここから迂回して別の橋を目指すと、今の調子じゃ一日は余計にかかっちゃうわけよ。そうなったら襲撃される可能性が増すでしょ」
「ならばこのまま水量が戻るのを待つかと言う意見も出たが、どう考えてもこの水量はおかしい。
タンブル・ウィード、これは魔法の仕業だと思うのだが君には分かるか?」
アルニの問いにタンブル・ウィードはまっすぐに茶色い水しぶきを上げる川縁に歩み寄り、長剣を抜き放つとその切っ先を地面を削りながら流れる川面に差し込んだ。
おそらくアレで調べているのだろう、とガランド達が見守る中、タンブル・ウィードは四秒ほどで長剣を引きもどして鞘に納める。
次にこの黒の旅人が口にする言葉を聞き逃すまいと、四人の耳はかつてないほど澄まされていた。
「水の精霊の力が異様に狂っています。まず間違いなく人為的な魔法によるものでしょう。
今回の事態を引き起こした者は、誰も生きて返すつもりは無いと考えた方が良さそうですよ。おそらく川を迂回した先にも、そして川の中にも何かがいます」
タンブル・ウィードが長剣を川面に差し込んだだけで、一体どんな調べ方をしたのかガランド達には皆目見当もつかなかったが、タンブル・ウィードの言葉に嘘が無いと言う事だけは根拠なしに信じられた。
それはタンブル・ウィードがその美貌とは別に常に纏っている、この世の如何なる王侯貴族も及ばぬのでは、と思わせる威厳と風格のなさしめる所業であったかもしれない。
「そいつは……どうするか。この分じゃ別の橋も全部落とされていると考えた方が良さそうだ。
となると架橋しなきゃならんが、材料は近くの森から調達するにせよ何日かかるか分からんぞ」
ガランドの言葉はタンブル・ウィードを除く全員の心境を代弁するものだった。
敵は川を増水させてみせた相手である。タンブル・ウィードの言うように当然の如く周囲に伏兵を用意していてもなんらおかしくはない。
ならばと架橋作業に勤しんでも、その間に周囲の伏兵やゾンビー達が集まって襲ってくるのは火を見るよりも明らかだ。
如何に一騎当千のタンブル・ウィードが居てくれるとはいえ、所詮は孤剣一振り。五十名あまりの村人を守るには人手が絶望的に不足している。
四人の心ばかりでなく顔色にも絶望の影が射しこみ始めた時、黙していたタンブル・ウィードが動きを見せた。
その場にしゃがみ込んで地面に触れると自身の魔力を走らせ、周囲に黒と赤の入り混じった光が波紋のように広がり、命を得たかのようにもごもごと動き始めたのである。
ぎょっとしたガランド達が慌てて腰の武器に手を伸ばして一歩二歩引き下がるが、タンブル・ウィードはそれに取り合わずに魔力を流し込み続けた。
見る間に土は動きだし始めて、ガランド達の見ている間に濁流をまたがって向こう岸へと伸びて行く。
これがタンブル・ウィードの仕業と分かってはいても、彼らは誰何の声を出す事も出来ずにいた。
彼らの目の前で行われつつあるのは、何十人もの人間を動員し、専用の道具を用意して何日もかけて行われるべき事業――架橋に他ならなかった。
ガランド達だけでなく、やや距離を置いてこちらの様子を伺っていた避難民達も驚きで言葉も出ない中、月夜に行われた土の架橋は瞬く間に終わりを迎えて、アーチを描く茶色い橋が濁流の上に掛けられたのであった。
幅員はゆうに十メートルを越え、長さは三十メートルといった所か。村人達が通過するのに十分な広さがあり、問題は彼らの重量にこの橋が耐えられるかどうかだ。
詠唱一つ唱えずに土に干渉して架橋して見せたタンブル・ウィードは、顔色一つ変えてはおらず消耗した様子はわずかもない。
この場に魔法に明るい者は居なかったが、魔法使いがこの場に居たならばタンブル・ウィードの恐ろしく高度な魔法術式と、莫大な魔力量に顔色を白いものに変えた事だろう。
「あなた方はここで暫くお待ちなさい」
立ち上がったタンブル・ウィードがさっそうと橋へと歩んで行くのに、数瞬の間を置いてから気付いたガランドが咄嗟に黒い背に声をかけた。
「ま、待て、タンブル・ウィード。なにをするつもりだ? それともなにかあるのか?」
「川の中にも何か居る、と言った筈ですよ、騎士ガランド」
タンブル・ウィードは橋の中央で足を止め、右手にいつの間にか長剣を握っていた。ガランドをはじめ、ラアクもアルニもミルラもいつ鞘から抜いたのか分からぬ早業であった。
ガランド達は武器こそ抜いたものの、タンブル・ウィードを援護すべく駆け寄る事が出来ずにいた。
それほどまでにタンブル・ウィードの細い身体から立ち昇る闘気が凄まじかった事と、ただ長剣を握るその姿だけで自分達が助けになどなりはしないと理解させられた為である。
濁流の轟々と流れる音の中に異なる水音が混じった事を、タンブル・ウィードの耳だけが聴き取り、茶色い激しい流れの中に黒い影がいくつも浮かんでは沈み始めている事も、やはりタンブル・ウィードの瞳だけが見抜いていた。
ガランド達が息を飲んで見守る中、タンブル・ウィードが一向に隙を見せぬ事に焦れたのか、濁流に潜む影達の方から仕掛けて来た。
月の光が暴き立てたのは、茶色い水の滴を滴らせながら飛ぶ異形の姿であった。
元はこの河に棲息する全長三メートルの人食いの大魚であったと思しいソレらは、やはりゾンビーであるらしく、鱗や肉が削げ落ちて骨が覗き、目玉を失って虚ろな洞が覗いている。
大きく開かれた口にだけは硝子片のように鋭い牙が生え並び、また胴体には本来ある筈のない人間の腕が生えて短剣や曲刀などを握っている。
避難民達と合流する際にタンブル・ウィードが倒した奇妙な兄弟ゾンビー同様、手を加えられた特殊なゾンビーのようだ。
橋の上に立つタンブル・ウィードを前後から挟み込み、肉食魚のゾンビーが合わせて十四匹が腐肉の弾丸と化して襲い掛かる。
腐った肉と牙とが群れて襲い掛かるタンブル・ウィードを中心に、月光のカーテンを斬り裂く月の輪が橋の上に描かれた。
タイミングも速度もばらばらに跳びかかって来る肉食魚達を、はたしてどう刃を振るったのかは分からぬが、ただの一振りで尽く両断したタンブル・ウィードの長剣の軌跡である。
長剣の斬撃の鋭さもさることながらそれを振るうタンブル・ウィードの膂力も相まって、腐った肉食魚達は斬られるのと同時に空中ではじけ飛び、ばらばらに砕け散って濁流に飲まれてゆく。
濁流の中に潜んでいた肉食魚共を始末し終えても、タンブル・ウィードの視線は変わらず濁流へと注がれ、長剣が鞘に戻される事は無かった。
まだ何か居るのだ、とガランド達が介入できぬまま見守っていると、上流の方の濁流がごぼりと山のように盛り上がり、巨人の如き巨体のゾンビーが姿を見せる。
四方に零れ落ちる濁った水の中から姿を見せたのは、ついいましがたタンブル・ウィードが屠ったばかりの肉食魚を何十匹も鎧のように纏った腐りかけの巨大魚だ。
全身の肉が青黒く変色してひどい腐臭を放っており、その巨体に齧りつくように先程の肉食魚が埋もれている。
中心となっている巨大魚は全長二十メートルを越すのだが、その平べったい顔にある歯列が剥き出しの口が動いて言葉を紡ぐのには、タンブル・ウィードもかすかに驚きを見せた。
喋るごとに全身から茶色と青と赤とが入り混じった汚水をばしゃばしゃと零しながら、巨大魚はタンブル・ウィードを正面から睨む。
タンブル・ウィードの美貌を目にして精神に異常が生じていない所を見るに、白く濁った瞳は一メートルほどもあったが視力はほとんどないのだろう。
「よくも我が眷属を屠ってクレタな。名も知らぬチイサキ者ヨ」
「なるほど中心となっているのは海魔か。相当に年経た個体の様だが、屍霊魔術に捕らわれているようではたかが知れている」
タンブル・ウィードの淡々とした呟きが怒りの琴線を掻き鳴らし、死せる海魔は全身を震わせて更に大量の汚水を辺り一帯にぶちまけた。
例えネクロマンシーの秘術で操られる屍に落ちぶれたとはいえ、海の邪神の眷属たる海魔の矜持が、タンブル・ウィードの言葉を許せなかったらしい。
「戯けが。我はマッガラン。光差し込まぬ暗き水、水死人の悲嘆蟠る海の闇、穢れを寝床にする魔の者。死せる我を蘇らセシ今の主の意向ニヨリ貴様らをココデ皆殺死にスル」
それまで汚水を撒き散らしていたマッガランと名乗った海魔のゾンビーを中心に、濁流が急速に渦を巻いて吸い込まれてゆく。
下流へ向けて流れていた水も流れに逆らってマッガランへと吸い込まれてゆき、ぶくぶくと内側からマッガランの身体が風船のように際限なく膨らむ。
当然マッガランの行動が終わるまで待つほど、タンブル・ウィードは悠長ではない。
既に水位が五分の一にまで減っている川の上を、即興で作った土の橋を蹴って跳び上がる。
跳躍したタンブル・ウィードの目の前には、咽喉の辺りにある浮袋をパンパンに膨らませたマッガランの滑稽ともとれる姿があった。
「遅ゾイワ、たわゲめえ!」
ひどく濁って聴き取り辛い声でマッガランが叫び、鰓から霧のような茶色いしぶきを上げつつ、体内に吸い込んだ濁流を糸のように細く圧縮して牙の隙間から数十本吐き出す。
細く束ねられ高速で放出される水は刃さながらの鋭さを獲得し、マッガランの吐きだした水の刃は厚さ五メートルの鉄板もチーズのように斬り裂く切れ味を備えていた。
タンブル・ウィードの全身を穴だらけにし、しかる後数十個のパーツに斬断する水の刃を、タンブル・ウィードは跳躍の最中に空中を蹴って大きく軌道変更して回避して見せた。
足場となるものの存在しない空中で、空中そのものを蹴って回避すると言う尋常ならざる体技をもって水の刃を交わしたタンブル・ウィードは、振りあげた長剣を振り下ろす。
天から地へと落ちる銀の剣光はマッガランの右目を横断し、そのまま刃の届かぬ筈の下半身にまで届いて縦一文字にマッガランの右半身を斬る。
だが斬り口から血が流れる事は無かった。それも既に腐るか全て抜け落ちるかしたのだろう。
重力の鎖に巻きつかれて落下を始めたタンブル・ウィードに、マッガランの身体に埋もれていた肉食魚達が剥離するや、その白い肌に腐汁でぬらつく牙で肉を毟り取ろうと跳びかかってゆく。
タンブル・ウィードと肉食魚の弾丸との間に、無数の銀の軌跡が折り重なるように描かれる。
神速と言う言葉でも遅く感じられるほどのタンブル・ウィードの剣撃は尽く肉食魚を左右に両断し、前後に輪切りにもして底の見えた川へと落として行く。
タンブル・ウィードが肉食魚の群れを迎撃する間に、マッガランはあろうことか川の水を全て体内に吸いこんでいたのである。
水龍がその霊験によって無から水を生じさせる事が出来るように、海魔たるマッガランも体積以上に水を取り込む事をはじめ、水に関する何らかの異能を有しているのだろう。
「GGIIIYAAAAAAA!!!」
並大抵の人間ならそのまま精神を打ちのめされる叫びと共に、マッガランの口からこれまで吸い込んだ川の水が直径一メートルほどに圧縮され、音を越える速さでタンブル・ウィードへと放出された。
マッガランの身体に満ちる毒素や死せる海魔の魔力も含んだ水鉄砲は、直撃すれば例え竜種であろうとその身を守る堅牢な鱗を撃ち抜かれて、身体に巨大な穴を開けるだろう。
迫り来る汚水に対し、タンブル・ウィードは長剣を眼前に縦に構えるやそのまま再び空中を蹴って汚水へと自ら踊り込んだ。
誰が見ても自ら命を散らすが如き自殺行為は、しかし、タンブル・ウィードの長剣に汚水が触れる端から真っ二つに割れ、無数の飛沫へと散った瞬間に間違いである事が証明された。
マッガランの放った超高圧超音速の汚水流は、タンブル・ウィードを押し返す事はおろか跳躍を阻む事さえ出来なかったのである。
汚水の流れからタンブル・ウィードが飛び出して、驚愕に目を見張るマッガランの頭上からマントを月下に飛ぶ蝙蝠の翼の如く広げて打ち下ろし、降り注ぐ月光と共に腐った海魔の額へと手に持つ長剣を深々と突き立てた。
マッガランの巨体を考えれば、すでにその脳も腐っている事もあって到底致命の一撃とは成り得ぬ筈が、はたしてタンブル・ウィードの技量によってか、マッガランは声にならぬ絶叫を上げて全身から汚水を垂れ流し、ばらばらと腐肉が剥がれおちて行く。
「ゴゴゴおおがあああ、なん、だと。死から蘇ッタ我が肉体ガナゼただの一撃で崩壊ズルノダあああ。貴様、ザマハ人間ではなナイな!?」
そしてマッガランは見た。失った視力ではなく濁り切った魂の持つ霊的知覚によって、赤く赤くそして時折虹色に煌めくタンブル・ウィードの魂の輝きを!
「おまえ、お前はバン、パイア、か!? ダガ何故、その力ヲ、古きリュウシュのぢからを持ッデいる……ノダアアアア…………主よ、我がヌジヨ、我ニ今一度のいノヂ、命を!!」
断末魔の叫びを挙げたマッガランの肉体は、再び訪れた死によってぼろぼろと崩れ落ち、ぶちまけられる汚水に乗って跡形も無く下流へと流されてゆく。
骨だけになったマッガランの額をタンブル・ウィードが蹴った瞬間、最後まで残っていた頭蓋骨もさらさらと細かな砂状に崩れ落ち、橋に降り立ったタンブル・ウィードの左右を風に乗って流れていった。
長剣を鞘へ納めたタンブル・ウィードはガランド達を振り返り、そして恐怖に彩られた彼らの瞳を見た。
ガランド達にも聞こえたのだ。マッガランがタンブル・ウィードをバンパイアと呼んだのが。命のみならず魂と肉体を変容させる恐るべき血を吸う鬼、それがバンパイア。
ガランド達の瞳はバンパイアと言う種族に対する恐怖がありありと浮かんでおり、タンブル・ウィードの胸にかすかな悲しみと痛みを抱かせるのに十分だった。
タンブル・ウィードの処女の肌から零れた血のような色の唇から、細い息が紡ぎ出された。
それは心を切られるように切なく、落涙が絶え間なく流れ落ちる様な悲しみに満ちていた。
最も戦士に向いていそうな筋骨逞しい巨漢は、知識神の一柱の神官である事を示す額飾りを身につけ、分厚い筋肉の鎧の上には神官衣を纏い、手には巨牛も一撃で打ち殺せそうな鉄の棍棒を持っている。
他にもガランドと同じ年頃の、黒髪を後ろに流しやや目尻の垂れた眼付きがいささか軟弱な印象を与える騎士がいて、こちらはガランドと同様の装備に身を固めている。
軟弱な印象に反して鎧や盾に走る大小無数の傷や使いこみ具合などから、襲い来るゾンビー達も含めこれまでに数多くの戦闘を経験してきた事が窺い知れる。
最後の三人目が紅一点の少女だが、こちらは身に着けている装備の汚れや傷の具合から見て、騎士というよりも冒険者や傭兵の類と見えた。
性別による身体能力の差から、多くの女戦士や女騎士はタンブル・ウィードやクリスティーナのような例外を除けば、俊敏性と手数によって相手を打倒する事を主眼に置く戦い方を身につける。
この少女もその例に漏れず、防具は金属製の鎧よりも軽量だが防御性能に不安の残る札状の革を何枚も重ねた革鎧を纏い、関節の動きの邪魔にならない箇所に薄い金属の板を縫いこんでいる程度だ。
武器も傭兵が好んで用いる戦闘用帯には小ぶりなダガーやナイフ、投擲用の剣といった軽量の品を差して、極力軽装になるよう装備を整えている。
少女の容貌はと言えば、良く陽に焼けて褐色に染まった四肢はそれぞれの付け根から露わとなっており、小さな傷があちらこちらに刻まれている。
魔法具の中には所有者の危機に応じて自動で防御障壁や結界を展開する品や、恒常的に所有者の肉体を強化する品もあるが、一般に値が張るとされるそう言った品を少女が持っている様子は無い。
数で襲ってくる事の多いアンデッドを相手とするには心許ない軽装だが、細身の肉体に秘められた瞬発力と野性の獣じみた勘の良さでこれまで渡り合ってきたのだろう、とタンブル・ウィードは一目で見抜いた。
既に愛馬から降りていたタンブル・ウィードと、避難民から離れて近づいてきた三人とは十歩の距離を置いて対峙した。
ガランドとニックの姿を認めた巨漢はすぐさま破顔して両者の無事を喜び、心の素直さと善良さとがよく見て取れた。
一方で騎士と少女は、尋常ならざる姿と雰囲気を放つ魔馬を従えるタンブル・ウィードに少なからぬ警戒の意識を向けている。
なおこの三人がタンブル・ウィードの超絶の美貌を目の当たりにしても明瞭な意識を維持しているのは、タンブル・ウィードが鍔の広い帽子を目深に被り直して顔を隠していたからである。
それでも覗く目や鼻の線、帽子から零れ落ちる髪の美しさだけでも意識を奪うのに十分だが、この場合、ガランドとニックの無事な姿にまず注目が集まったのとタンブル・ウィードへの警戒の意識が強く出ていた為、超越した美の衝撃に打ちのめされずに済んだのだ。
ガランドが同僚の無事に喜びの笑みを浮かべながら口を開いた。
タンブル・ウィードの存在が彼らに警戒の意識を抱かせるのは十分に予測できた事であったから、まずはこの心強い味方を弁護しなければなるまい。
「ラアク神官、アルニ、ミルラ、全員無事か? 村の皆は?」
巨漢の知識神の神官がラアク、垂れ目の騎士がアルニ、小柄な少女がミルラという名前のようだ。
気安い声のかけ方とそこに込められた親しみから、ガランドにとっては顔馴染みの面々らしく、今回の異常事態が発生する以前からの古い知り合いなのであろう。
タンブル・ウィードが足を止めて見守っている間に、ガランドがニックを伴って三人と各々の事情の説明と情報交換を始めた。
タンブル・ウィードの人間離れした聴力は彼らの会話を余さず聴き取っていたが、やはりタンブル・ウィードの素性の怪しさが彼らの中で問題となっているようだ。
実際、ガランドとニックも窮地を救われただけでタンブル・ウィードの素性を聞いているわけではないから、ラアク達を説き伏せるだけの材料を持っていない様子だった。
彼らにとって悩ましいのは、タンブル・ウィードはともすれば演技をしているアンデッド側の存在かもしれないという危険性はあるが、さりとて瞬く間にゾンビー達を殲滅せしめた戦闘能力は咽喉から手が出るほど欲しいのも事実と言う事だ。
ニックは子供の純粋さでタンブル・ウィードの心の清廉なる事を見抜き、更にその卓越した剣技を目の当たりにした事で、物語の英雄に対する憧憬めいた感情も抱いている為、既に絶大なる信頼を寄せている。
ニックは積極的にタンブル・ウィードの助力を得るべきだ、と拙い弁舌を振るっているが、ガランドも同僚達の指摘通りにタンブル・ウィードの得体の知れなさは否定が出来ず、ニックに積極的な援護を出来ずにいる。
「ガランド、彼女の腕の凄まじさは目の当たりにした所だけれど、やはりあまりにも怪しい所が多すぎやしないかな。
ゲルドーラまで連れて行って良いものか怪しい所だし、素性を保証できないのはやはり痛い」
そうガランドに問いかけるのは、垂れ目のアルニだ。
ガランドと同じく近隣一帯を領地とする男爵に仕える下級騎士の出で、ガランドとはゲルドーラの騎士団に見習いとして所属していた頃からの付き合いである。
確かに女性に対する手の早さと口の上手さは印象を裏切らないが、同期の中でも剣と槍の腕が立ち、さらに会計や経理など金勘定にも明るい知恵者だ。
これで生まれが違えば男爵の側近にもなれたかもしれない。こんな人材を埋もれさせるとは勿体ない、とガランドは常日頃思っている。
「しかしだな、本人の言う所では冒険者だと言うし、報酬さえ約束すればおれ達の味方となってくれる……と思う。
むざむざ手離すには惜しい。正直に言って彼女一人でおれ五百人分くらいの働きは期待できるぞ」
「それはそうかもしれないけれど、内側からあたしらを始末するつもりかもって危険性を考えたら、アルニの意見がもっともでしょ。それにゲルドーラには明後日の昼には着けるわ。
それまでならなんとかなるんじゃないの? 追手の死体共はさっき全部片付いたみたいだし」
ガランドへ厳しい意見を口にするのはミルラだ。
元はニックと同じ村の生まれで農家の三女であったが、村での暮らしを嫌い五年前に村を出た家出娘だ。
村の皆が娼婦に身をやつしたか既に死んだものと思っていた所に、十日前にひょっこり顔を見せてそのままゾンビー達の襲撃と言う事態に巻き込まれている。
村に帰ってきた時期とゾンビー達の襲撃の時期があまりにも近かった為、一時疑われもしたが今に至るまでの苛烈な戦いで信用を無事得ている。
「ミルラ、それはいささか軽率な考えですよ。安らかな眠りを妨げられた方々は広く姿を見せ、近隣の村々を襲っているようです。
ゲルドーラに着くまで、常に襲撃の危険はあると考えて備えるべきなのです。
それを考えれば、確かにガランド殿の言われる通りあの御婦人の御助力は欠くべからざるものかと」
最後に魔法使いや学者に信者の多い知識神の一柱ライブラの神官ラアクが、超重量の筋肉の鎧を纏った体格には似合わぬ落ち着き払った顔で自分の意見を口にする。
基本的に知識神は地上の種族に未知を解き明かし、教養を深め、それを他者にも広めて行く事を信者に説き、信者で無い者にも知識を伝える事を推奨する。
ラアクはその教えに従って、この地方の農村部に簡単な文字の読み書きや計算などを伝える為に派遣された神官達の一人だ。
布教というよりも勉強を教える事そのものを楽しみ、好いているラアクは、村の子供達のみに留まらず大人達からも慕われており、篤い信頼を寄せられている。
「神官さんにそう言われると一気にあたしの形勢不利よねえ。じゃ、話を変えて当の根無し草さんはどう思っているのよ。
ガランドとニックをあたしらの所に連れて来るって約束はもう果たし終えたでしょ。ここから先は約束に含まれていないものね」
タンブル・ウィードは自分の素性の怪しさは良く理解しており、アルニやミルラが好き勝手言うのにも眉一つ動かさず、機嫌を損ねる事もなく、黙って四人の会話を聞く事に専念していた。
ミルラが視線を自分に転じた事に気付き、タンブル・ウィードは意図的に俯かせていた顔を上げて、こちらへと視線を集中させる四人を見つめ返す。
タンブル・ウィードのどんな生き物の身体に流れる血よりも赤く、妖艶な瞳がガランド達の姿を映すと、途端に四人の表情が溶け崩れた。
むろん比喩なのだが本当に表情筋がひとつ残らず崩壊してしまったかのように、ラアク、アルニ、ミルラ、更には既に見た事のあるガランドに至るまでがタンブル・ウィードの美貌に心を奪われたのである。
闇を纏うかのような黒の衣装に身を包んだ不審人物は、これまで、そしてこれからも彼らが見る事は無いと断じる事が出来るほどに美しい存在だったのだ。
これまでタンブル・ウィードが顔を伏せていた事と、その処遇について論議していた為にちらっとでも顔を見ていなかったから、一時的な心神喪失状態に陥るのを免れていた彼らも、遂にタンブル・ウィードの美貌の洗礼を浴びたのである。
ラアク達が正気を取り戻し、話が通じるようになるまで待つと随分と掛りそうだったので、タンブル・ウィードは自分から口を開く事にした。
タンブル・ウィードが居れば百万の軍勢に襲われてもなんら問題は無いが、それでもいつ次の襲撃があるか分からない以上、時間を浪費するのは得策では無かった。
「確かにそちらのお嬢さんの言う通り、ニックと騎士ガランドと交わした約束は既に果たしたものと考えています」
このタンブル・ウィードの発言に最も悲壮な表情を浮かべたのはニックであった。今にも泣き出しそうな顔をするニックを見て、タンブル・ウィードがかすかに美眉を寄せる。
幼い少年にこの様な顔をさせた事に対する罪悪感の棘が、タンブル・ウィードの心に突き刺さったのだ。
そんなタンブル・ウィードの心情とは別に、ほう、という魂が抜ける様な恍惚の溜息が四つ連続する。
その容姿を構成するあらゆる要素が天上の美を司る神が吟味し抜いた、と言われても納得する他ないタンブル・ウィードの美貌は、眉をかすかに寄せるという行為だけでもまた新たな美の形となり、ガランド達に激烈な感動を与えたのだった。
ガランド達の反応にいちいち付き合ってはまた話を進めるのに時間が掛るから、タンブル・ウィードは彼らに構わずに言葉を紡ぎ続ける。
「確かに約束は果たしましたが、元々ゲルドーラは立ち寄る予定でした。ここで出会ったのも何かの縁と言う物でしょう。
あなた方の許しさえあればこのまま同道させていただきたく思います」
無論、これは方便である。タンブル・ウィードの旅の目的地はここよりも更に西の先に存在する、いや、存在したとある滅びた国だ。
この大陸の地理を把握しているタンブル・ウィードの記憶によれば、ゲルドーラはタンブル・ウィードの目的地とは反対の方向にある。
わざわざ遠回りをする事になるのだが、ニックを見捨てておく事の出来ないタンブル・ウィードは、このように迂遠な言い回しをしたのである。
ニックはタンブル・ウィードの言葉を額面通りに受け取り、この美しく強い旅人が共に来てくれる事を素直に喜んで、泣きだしそうになっていた顔がたちまち明るい笑みにとって代わられる。
「私を信用できないのは分かりますが、使えるものは何でも使うべき事態でしょう。
それにたまたま行く先が同じである以上、同道を断ったとしても少し離れた所で私の姿を見かける事になるだけでしょうしね」
要は同道を断られたとしても勝手についてゆく、とタンブル・ウィードは言っているわけだ。これではアルニやミルラがどう反対意見を口にした所で意味が無い。
どうしてもタンブル・ウィードが信用できず、一緒に行動するのを拒むのならば力ずくで排除するしかないのだが、それが無理な事はつい先ほどの戦闘で思い知らされたばかりである。
「参ったね。こりゃ意外と強引な御婦人だったらしい。後ろを気にしながらゲルドーラへと進むのと、裏切りに怯えつつ懐に招き入れるのとどちらがマシかな、ミルラ」
まだ芯がふやふやになっているアルニの言葉に、やはり呂律の怪しいミルラが答えた。
二人ともタンブル・ウィードの美貌にやられた後遺症で、露出している肌は全て赤く火照っている。
タンブル・ウィードの美貌を一目見ただけでも生命どころか魂さえも捧げたい、と痛烈に願う者も多い中、アルニとミルラはこの程度で済んでいるのだから大した胆力だと称賛すべきだろう。
「あ、怪しい真似をしたら後ろからでもこれでブスリと行くわよ?」
そう言ってミルラは、本人としては凄んだつもりで蕩けかけの瞳でタンブル・ウィードを睨む。
少女の両手は腰に差したダートの短い柄に添えられている。いざとなったら口にした通り、これでブスリ、というわけだ。
飛んでいる蜂さえも捕捉し貫く正確無比な投擲技術がミルラの最大の武器であり、同時に今回のようなゾンビー相手だと甚だ心許ない事を、誰よりもミルラ自身が理解している。
それを考えれば尋常ならざる剣技のみならず不可思議な武具を持ち、魔法さえも扱うと言うタンブル・ウィードの存在は、まるで神の与えたもうた慈悲の如くだが、だからこそ都合が良すぎて今一つ信用できないのだ。
ミルラが自分の無礼な発言にタンブル・ウィードが長剣を抜きやしないかと戦々恐々となって、心穏やかではいられなくなっている一方、タンブル・ウィードはミルラの脅しなどどこ吹く風と言わんばかりに実にあっさりとした答えを返した。
「どうぞご自由に」
結局、タンブル・ウィードの助力を得るに越した事は無いと結論が出て、タンブル・ウィードは旅の傭兵で今回の事態に際し急遽雇い入れた、という体裁が整えられる事となった。
一旦荷車や足を止めていた避難民達も、ガランドとアルニが再び出発の合図を告げると疲弊した身体に鞭を打って立ち上がり、生への活路を求めてゲルドーラへと足を動かし始める。
タンブル・ウィードは五十余名ほどの避難民の中を、ニックに案内されて彼の祖母を探して歩いていた。
ごく平凡な農民であった避難民達は、スレイプニルの異常な巨躯と六本足にまず目を引かれて驚き、続いてスレイプニルの手綱を引いて歩むタンブル・ウィードに気付き、鍔の広い帽子と月明かりの下に覗く美貌を見ると魂が抜けたような顔になって行く。
幸いだったのはそれでも避難民の足が止まらなかった事だろう。
ニックの祖母は家族の牽いている荷馬車の上に腰を降ろしていた。
腰痛持ちで杖が無ければ歩くのもままならず、ゲルドーラへの強行軍に徒歩ではとてもではついて行けないからだろう。
荷馬車は二頭の驢馬がけん引し、手綱はニックの両親が握っていて、周囲にはニックの兄弟達がそれぞれ荷物を背負って家族で固まって歩いていた。
ニックの無事な姿は拳骨を含めた歓迎をもって迎えられたが、タンブル・ウィードの姿は先の四人同様の反応を引き起こした。
ニックは家族の異常事態に関しては取り合わず、荷台に腰を降ろした祖母に話しかける。
薄茶色の裾はほつればかりで、継ぎ接ぎだらけのストールを纏い、皺塗れの老婆は無事な孫の姿に心から安堵して温顔に笑みを浮かべた。
「ばあちゃん、遅くなってごめんよ。これ、前にばあちゃんに教えて貰ったヨッツウ草だよ。これを飲めば腰の痛いのも治るんだろ」
「はいよ、ありがとうよ、ニック。ばあちゃんの為にありがとうよ。でもニック、一人で森に出かけたのは良くないよ。例えばあちゃんの為でも危ない事はしないでおくれな。
旅人さん、あんたがニックを助けてくれたのかい? こんなしわくちゃの婆にはお礼のしようもないけれど、ありがとうよ」
ニックがズボンのポケットに突っこんでいた青い斑点を散らした黄色い草の束を取り出し、老婆はそれを受け取って笑みはそのままに孫を窘めた。
怒っている風では無く、それ以上に悲しげな響きである事が、ニックに深い反省を促している。怒るよりも悲しんでいる方がニックには効果的なようだ。
タンブル・ウィードは帽子を取り、軽く一礼して老婆に答えた。
「爺婆への礼儀はわきまえているようだね。最近の若いのにはあまりいないけれど、感心だよ」
タンブル・ウィードは荷馬車と並んで歩きながら、村の薬師であり口伝の語り部であると言うニックの老婆に尋ねた。
「いくつか聞かせて貰いたい事があるのです」
「おやまあ、コンゴウウグイスの鳴き声みたいに綺麗で透き通った声だねえ。
はいはい、それでこんなしわくちゃのお婆ちゃんに聞きたい事ってのはなんだい。夜の風みたいに冷たくて気持ちの良い旅人さん」
タンブル・ウィードの口元にうっすらとした笑みが浮かび上がる。ニックの祖母が、語り部と言う肩書きに相応しい詩人である事が面白かったらしい。
「あなた方の村やその近隣に昔話でも構いませんから、神官や魔法使い、あるいは巫女や僧侶の逸話が残ってはおりませんか?」
タンブル・ウィードがこう尋ねたのは、下位のアンデッド達を支配するより高位のアンデッドには、たまさか位階の高い魔法使いや破戒僧、堕落した大神官が変じた個体であるケースが存在する為だ。
有名な所では、バンパイアと並び不死者の王と呼称されるリッチと言う主物質界と星幽界に跨って存在するアンデッドが相当する。
リッチは人間であった頃の精神や記憶を残したままであるから、積極的に人間と敵対行動を取る事は珍しいし、生まれ故郷を人知れず守護しているリッチの話なども世界には存在している。
とはいえリッチのほとんどは自ら望んで生者から不死者へと変わった者達が占め、不死者に成る事を是とする精神の主であるから、まっとうな人格の主とは言い難いのも事実。
リッチとなる理由の多くはより高次の魔法事象を観測する為の霊的位階の向上、不老不死の獲得、魔力の増大などであり、自らの探究心のままに無関係の人間に災いを齎す事もあるだろう。
タンブル・ウィードは今回のゾンビーの跋扈を、そういった好奇心や探究心を暴走させたリッチの仕業ではないか、と踏んだのである。
だからタンブル・ウィードは、ニックの祖母にリッチとなり得る可能性のある神官や魔法使いの事を尋ねたわけだ。
「そうだねえ、あたしが語り部として知っている話は色々あるけれど、旅人さんの希望に沿う話はどれくらいあるかねえ」
「どうぞごゆるりとお話し下さい。敵が来るまでは時に余裕がありましょう」
「つまり何時忙しくなってもおかしくないってことだねえ。老い先短いあたしらはいいけれど、ニック達には酷な話だよ」
「真に」
孫子に降りかかった災難に悲嘆の色を隠さない老婆に、タンブル・ウィードは心の底から同意した。
タンブル・ウィードがニックの祖母から話を聞き終えた時、一旦離れようとしたのだが、ニックにこれまでの旅路での話を請われて共に進む事となった。
タンブル・ウィードが合流する前に、野営はこの先にある川を越えた先で行う事と決まっており、避難民達は多少の無茶をしながら先を急いだのだが、彼らの前に待ち受けていたのは雨など何日も降っていないにも拘らず轟々と音を立てて流れる濁流であった。
近隣の人々の水源となっているラーム河の支流のひとつであるこの川には、古くから木製の橋が掛けられていたのだが、川幅から溢れだすほど水かさを増した濁流に流されてしまったようだ。
茶色い流れを目の当たりにし、避難民を先導するガランドやアルニ、ラアク、ミルラが集まって相談を始めている所に、スレイプニルを伴ってタンブル・ウィードが顔を見せた。
「どうするか結論は出ましたか」
タンブル・ウィードの声は、議論に没頭していたガランド達の意識をあっさりと引き寄せた。
それまでこれからの道行きに不安を募らせていたガランド達は、突如神の声を聞き逃すまいと耳を傾けていた信者に早変わりしたように、タンブル・ウィードを振り返った。
「タンブル・ウィードか。いや、結論はいまだしだ」
最もタンブル・ウィードに対する耐性のあるガランドが、肩をすくめながら答えるとアルニとミルラはぎょっとした表情を浮かべる。
彼らはまだこの妖美という言葉の結晶の如き旅人に耐性が出来ていないのだ。
ラアクはと言えばタンブル・ウィードの顔は見ず、一心不乱に知識神の教義を唱えて精神集中を行っていた。嵐の海のように乱れる自身の心の平静を取り戻そうとしているらしい。
「こ、ここから迂回して別の橋を目指すと、今の調子じゃ一日は余計にかかっちゃうわけよ。そうなったら襲撃される可能性が増すでしょ」
「ならばこのまま水量が戻るのを待つかと言う意見も出たが、どう考えてもこの水量はおかしい。
タンブル・ウィード、これは魔法の仕業だと思うのだが君には分かるか?」
アルニの問いにタンブル・ウィードはまっすぐに茶色い水しぶきを上げる川縁に歩み寄り、長剣を抜き放つとその切っ先を地面を削りながら流れる川面に差し込んだ。
おそらくアレで調べているのだろう、とガランド達が見守る中、タンブル・ウィードは四秒ほどで長剣を引きもどして鞘に納める。
次にこの黒の旅人が口にする言葉を聞き逃すまいと、四人の耳はかつてないほど澄まされていた。
「水の精霊の力が異様に狂っています。まず間違いなく人為的な魔法によるものでしょう。
今回の事態を引き起こした者は、誰も生きて返すつもりは無いと考えた方が良さそうですよ。おそらく川を迂回した先にも、そして川の中にも何かがいます」
タンブル・ウィードが長剣を川面に差し込んだだけで、一体どんな調べ方をしたのかガランド達には皆目見当もつかなかったが、タンブル・ウィードの言葉に嘘が無いと言う事だけは根拠なしに信じられた。
それはタンブル・ウィードがその美貌とは別に常に纏っている、この世の如何なる王侯貴族も及ばぬのでは、と思わせる威厳と風格のなさしめる所業であったかもしれない。
「そいつは……どうするか。この分じゃ別の橋も全部落とされていると考えた方が良さそうだ。
となると架橋しなきゃならんが、材料は近くの森から調達するにせよ何日かかるか分からんぞ」
ガランドの言葉はタンブル・ウィードを除く全員の心境を代弁するものだった。
敵は川を増水させてみせた相手である。タンブル・ウィードの言うように当然の如く周囲に伏兵を用意していてもなんらおかしくはない。
ならばと架橋作業に勤しんでも、その間に周囲の伏兵やゾンビー達が集まって襲ってくるのは火を見るよりも明らかだ。
如何に一騎当千のタンブル・ウィードが居てくれるとはいえ、所詮は孤剣一振り。五十名あまりの村人を守るには人手が絶望的に不足している。
四人の心ばかりでなく顔色にも絶望の影が射しこみ始めた時、黙していたタンブル・ウィードが動きを見せた。
その場にしゃがみ込んで地面に触れると自身の魔力を走らせ、周囲に黒と赤の入り混じった光が波紋のように広がり、命を得たかのようにもごもごと動き始めたのである。
ぎょっとしたガランド達が慌てて腰の武器に手を伸ばして一歩二歩引き下がるが、タンブル・ウィードはそれに取り合わずに魔力を流し込み続けた。
見る間に土は動きだし始めて、ガランド達の見ている間に濁流をまたがって向こう岸へと伸びて行く。
これがタンブル・ウィードの仕業と分かってはいても、彼らは誰何の声を出す事も出来ずにいた。
彼らの目の前で行われつつあるのは、何十人もの人間を動員し、専用の道具を用意して何日もかけて行われるべき事業――架橋に他ならなかった。
ガランド達だけでなく、やや距離を置いてこちらの様子を伺っていた避難民達も驚きで言葉も出ない中、月夜に行われた土の架橋は瞬く間に終わりを迎えて、アーチを描く茶色い橋が濁流の上に掛けられたのであった。
幅員はゆうに十メートルを越え、長さは三十メートルといった所か。村人達が通過するのに十分な広さがあり、問題は彼らの重量にこの橋が耐えられるかどうかだ。
詠唱一つ唱えずに土に干渉して架橋して見せたタンブル・ウィードは、顔色一つ変えてはおらず消耗した様子はわずかもない。
この場に魔法に明るい者は居なかったが、魔法使いがこの場に居たならばタンブル・ウィードの恐ろしく高度な魔法術式と、莫大な魔力量に顔色を白いものに変えた事だろう。
「あなた方はここで暫くお待ちなさい」
立ち上がったタンブル・ウィードがさっそうと橋へと歩んで行くのに、数瞬の間を置いてから気付いたガランドが咄嗟に黒い背に声をかけた。
「ま、待て、タンブル・ウィード。なにをするつもりだ? それともなにかあるのか?」
「川の中にも何か居る、と言った筈ですよ、騎士ガランド」
タンブル・ウィードは橋の中央で足を止め、右手にいつの間にか長剣を握っていた。ガランドをはじめ、ラアクもアルニもミルラもいつ鞘から抜いたのか分からぬ早業であった。
ガランド達は武器こそ抜いたものの、タンブル・ウィードを援護すべく駆け寄る事が出来ずにいた。
それほどまでにタンブル・ウィードの細い身体から立ち昇る闘気が凄まじかった事と、ただ長剣を握るその姿だけで自分達が助けになどなりはしないと理解させられた為である。
濁流の轟々と流れる音の中に異なる水音が混じった事を、タンブル・ウィードの耳だけが聴き取り、茶色い激しい流れの中に黒い影がいくつも浮かんでは沈み始めている事も、やはりタンブル・ウィードの瞳だけが見抜いていた。
ガランド達が息を飲んで見守る中、タンブル・ウィードが一向に隙を見せぬ事に焦れたのか、濁流に潜む影達の方から仕掛けて来た。
月の光が暴き立てたのは、茶色い水の滴を滴らせながら飛ぶ異形の姿であった。
元はこの河に棲息する全長三メートルの人食いの大魚であったと思しいソレらは、やはりゾンビーであるらしく、鱗や肉が削げ落ちて骨が覗き、目玉を失って虚ろな洞が覗いている。
大きく開かれた口にだけは硝子片のように鋭い牙が生え並び、また胴体には本来ある筈のない人間の腕が生えて短剣や曲刀などを握っている。
避難民達と合流する際にタンブル・ウィードが倒した奇妙な兄弟ゾンビー同様、手を加えられた特殊なゾンビーのようだ。
橋の上に立つタンブル・ウィードを前後から挟み込み、肉食魚のゾンビーが合わせて十四匹が腐肉の弾丸と化して襲い掛かる。
腐った肉と牙とが群れて襲い掛かるタンブル・ウィードを中心に、月光のカーテンを斬り裂く月の輪が橋の上に描かれた。
タイミングも速度もばらばらに跳びかかって来る肉食魚達を、はたしてどう刃を振るったのかは分からぬが、ただの一振りで尽く両断したタンブル・ウィードの長剣の軌跡である。
長剣の斬撃の鋭さもさることながらそれを振るうタンブル・ウィードの膂力も相まって、腐った肉食魚達は斬られるのと同時に空中ではじけ飛び、ばらばらに砕け散って濁流に飲まれてゆく。
濁流の中に潜んでいた肉食魚共を始末し終えても、タンブル・ウィードの視線は変わらず濁流へと注がれ、長剣が鞘に戻される事は無かった。
まだ何か居るのだ、とガランド達が介入できぬまま見守っていると、上流の方の濁流がごぼりと山のように盛り上がり、巨人の如き巨体のゾンビーが姿を見せる。
四方に零れ落ちる濁った水の中から姿を見せたのは、ついいましがたタンブル・ウィードが屠ったばかりの肉食魚を何十匹も鎧のように纏った腐りかけの巨大魚だ。
全身の肉が青黒く変色してひどい腐臭を放っており、その巨体に齧りつくように先程の肉食魚が埋もれている。
中心となっている巨大魚は全長二十メートルを越すのだが、その平べったい顔にある歯列が剥き出しの口が動いて言葉を紡ぐのには、タンブル・ウィードもかすかに驚きを見せた。
喋るごとに全身から茶色と青と赤とが入り混じった汚水をばしゃばしゃと零しながら、巨大魚はタンブル・ウィードを正面から睨む。
タンブル・ウィードの美貌を目にして精神に異常が生じていない所を見るに、白く濁った瞳は一メートルほどもあったが視力はほとんどないのだろう。
「よくも我が眷属を屠ってクレタな。名も知らぬチイサキ者ヨ」
「なるほど中心となっているのは海魔か。相当に年経た個体の様だが、屍霊魔術に捕らわれているようではたかが知れている」
タンブル・ウィードの淡々とした呟きが怒りの琴線を掻き鳴らし、死せる海魔は全身を震わせて更に大量の汚水を辺り一帯にぶちまけた。
例えネクロマンシーの秘術で操られる屍に落ちぶれたとはいえ、海の邪神の眷属たる海魔の矜持が、タンブル・ウィードの言葉を許せなかったらしい。
「戯けが。我はマッガラン。光差し込まぬ暗き水、水死人の悲嘆蟠る海の闇、穢れを寝床にする魔の者。死せる我を蘇らセシ今の主の意向ニヨリ貴様らをココデ皆殺死にスル」
それまで汚水を撒き散らしていたマッガランと名乗った海魔のゾンビーを中心に、濁流が急速に渦を巻いて吸い込まれてゆく。
下流へ向けて流れていた水も流れに逆らってマッガランへと吸い込まれてゆき、ぶくぶくと内側からマッガランの身体が風船のように際限なく膨らむ。
当然マッガランの行動が終わるまで待つほど、タンブル・ウィードは悠長ではない。
既に水位が五分の一にまで減っている川の上を、即興で作った土の橋を蹴って跳び上がる。
跳躍したタンブル・ウィードの目の前には、咽喉の辺りにある浮袋をパンパンに膨らませたマッガランの滑稽ともとれる姿があった。
「遅ゾイワ、たわゲめえ!」
ひどく濁って聴き取り辛い声でマッガランが叫び、鰓から霧のような茶色いしぶきを上げつつ、体内に吸い込んだ濁流を糸のように細く圧縮して牙の隙間から数十本吐き出す。
細く束ねられ高速で放出される水は刃さながらの鋭さを獲得し、マッガランの吐きだした水の刃は厚さ五メートルの鉄板もチーズのように斬り裂く切れ味を備えていた。
タンブル・ウィードの全身を穴だらけにし、しかる後数十個のパーツに斬断する水の刃を、タンブル・ウィードは跳躍の最中に空中を蹴って大きく軌道変更して回避して見せた。
足場となるものの存在しない空中で、空中そのものを蹴って回避すると言う尋常ならざる体技をもって水の刃を交わしたタンブル・ウィードは、振りあげた長剣を振り下ろす。
天から地へと落ちる銀の剣光はマッガランの右目を横断し、そのまま刃の届かぬ筈の下半身にまで届いて縦一文字にマッガランの右半身を斬る。
だが斬り口から血が流れる事は無かった。それも既に腐るか全て抜け落ちるかしたのだろう。
重力の鎖に巻きつかれて落下を始めたタンブル・ウィードに、マッガランの身体に埋もれていた肉食魚達が剥離するや、その白い肌に腐汁でぬらつく牙で肉を毟り取ろうと跳びかかってゆく。
タンブル・ウィードと肉食魚の弾丸との間に、無数の銀の軌跡が折り重なるように描かれる。
神速と言う言葉でも遅く感じられるほどのタンブル・ウィードの剣撃は尽く肉食魚を左右に両断し、前後に輪切りにもして底の見えた川へと落として行く。
タンブル・ウィードが肉食魚の群れを迎撃する間に、マッガランはあろうことか川の水を全て体内に吸いこんでいたのである。
水龍がその霊験によって無から水を生じさせる事が出来るように、海魔たるマッガランも体積以上に水を取り込む事をはじめ、水に関する何らかの異能を有しているのだろう。
「GGIIIYAAAAAAA!!!」
並大抵の人間ならそのまま精神を打ちのめされる叫びと共に、マッガランの口からこれまで吸い込んだ川の水が直径一メートルほどに圧縮され、音を越える速さでタンブル・ウィードへと放出された。
マッガランの身体に満ちる毒素や死せる海魔の魔力も含んだ水鉄砲は、直撃すれば例え竜種であろうとその身を守る堅牢な鱗を撃ち抜かれて、身体に巨大な穴を開けるだろう。
迫り来る汚水に対し、タンブル・ウィードは長剣を眼前に縦に構えるやそのまま再び空中を蹴って汚水へと自ら踊り込んだ。
誰が見ても自ら命を散らすが如き自殺行為は、しかし、タンブル・ウィードの長剣に汚水が触れる端から真っ二つに割れ、無数の飛沫へと散った瞬間に間違いである事が証明された。
マッガランの放った超高圧超音速の汚水流は、タンブル・ウィードを押し返す事はおろか跳躍を阻む事さえ出来なかったのである。
汚水の流れからタンブル・ウィードが飛び出して、驚愕に目を見張るマッガランの頭上からマントを月下に飛ぶ蝙蝠の翼の如く広げて打ち下ろし、降り注ぐ月光と共に腐った海魔の額へと手に持つ長剣を深々と突き立てた。
マッガランの巨体を考えれば、すでにその脳も腐っている事もあって到底致命の一撃とは成り得ぬ筈が、はたしてタンブル・ウィードの技量によってか、マッガランは声にならぬ絶叫を上げて全身から汚水を垂れ流し、ばらばらと腐肉が剥がれおちて行く。
「ゴゴゴおおがあああ、なん、だと。死から蘇ッタ我が肉体ガナゼただの一撃で崩壊ズルノダあああ。貴様、ザマハ人間ではなナイな!?」
そしてマッガランは見た。失った視力ではなく濁り切った魂の持つ霊的知覚によって、赤く赤くそして時折虹色に煌めくタンブル・ウィードの魂の輝きを!
「おまえ、お前はバン、パイア、か!? ダガ何故、その力ヲ、古きリュウシュのぢからを持ッデいる……ノダアアアア…………主よ、我がヌジヨ、我ニ今一度のいノヂ、命を!!」
断末魔の叫びを挙げたマッガランの肉体は、再び訪れた死によってぼろぼろと崩れ落ち、ぶちまけられる汚水に乗って跡形も無く下流へと流されてゆく。
骨だけになったマッガランの額をタンブル・ウィードが蹴った瞬間、最後まで残っていた頭蓋骨もさらさらと細かな砂状に崩れ落ち、橋に降り立ったタンブル・ウィードの左右を風に乗って流れていった。
長剣を鞘へ納めたタンブル・ウィードはガランド達を振り返り、そして恐怖に彩られた彼らの瞳を見た。
ガランド達にも聞こえたのだ。マッガランがタンブル・ウィードをバンパイアと呼んだのが。命のみならず魂と肉体を変容させる恐るべき血を吸う鬼、それがバンパイア。
ガランド達の瞳はバンパイアと言う種族に対する恐怖がありありと浮かんでおり、タンブル・ウィードの胸にかすかな悲しみと痛みを抱かせるのに十分だった。
タンブル・ウィードの処女の肌から零れた血のような色の唇から、細い息が紡ぎ出された。
それは心を切られるように切なく、落涙が絶え間なく流れ落ちる様な悲しみに満ちていた。
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