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結婚??
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「聞きましたわよ」
誰もいないと思って隠れていた庭園の隅にある、樹の茂み。そこで色々と毒づいていたカラエン公爵嫡男、アレスティードはびくりと身体を震わせた。
濃い栗色のつややかな髪に金色の瞳。切れ長の目に濃い睫毛、すっと通った鼻筋に少し厚めの桜色の唇。アレスティードはどこに行ってもその容姿や身分によって騒がれ、慕われ、‥‥まとわりつかれた。
由緒あるカラエン公の嫡子であるという立場からも、どんなにうっとうしいと思っても、うるさく煩わしいと思っても、そういう群がってくる人々を無碍には扱えない立場にあった。だから、心の中で一人一人にとんでもない罵詈雑言を叩きつけながらも、アレスティードはにこやかに和やかに人々に接した。
ただ、どんなに頑張っても婚約者を決める気にならなかった。もう十七歳になる公爵嫡子に婚約者がいないこと自体が異常事態だ。それはアレスティード自身もよくわかっている。
だが、色々な思惑を持って近づいてくる子どもや大人に幼少時から辟易していたアレスティードは、父公爵にどんなに言われても未だに婚約者を選定する気になれなかった。
どうせ弟もいることだし、どうしても婚約しなければならないと言われたらもう爵位を捨ててもいいとさえ思っていた。腕に自信はあるし聖騎士団からも学院卒業後は来てもらえればうれしいという誘いさえ受けている。何ならいっそ貴族籍を捨てて平民になり、魔物狩りでもして暮らしてもいいかなどと考えたりもしていた。
アレスティードは、とにかく貴族というものが大嫌いだったのだ。
口先ばかりで美辞麗句を並べ、貴族の誇りなんぞと嘯くわりには汚いこともすれば平気で人を陥れたりもする。高位貴族として、小さいころからそういうものばかりを見てきたアレスティードが信用できる貴族は父と弟だけだった。
母は弟を生んで間もなくこの世を去っている。身内の近しいところで貴族女性と関わってこなかったアレスティードは、特に貴族の女性が嫌いだった。むやみやたらに着飾って、褒められないとすぐに機嫌を損ねる。扇の向こうではかしましく噂話を繰り広げる。
とにかく、アレスティードは貴族との付き合いが苦痛だった。
だから今日も招待されたパーティーで、自分の果たすべき義務を果たし、顔を引きつらせながら貴族のくだらない話や政治的な駆け引きをうまくいなし、自分に取り入ろうとわらわら近づいてくる貴族女性たちをうまく褒めながら何とか撒いてこの庭園の隅っこまでやってきたのだ。
そこで毒を吐いた。
「ったくなんだあいつら、どいつもこいつも馬鹿みたいな面並べやがって、おべんちゃらと誹謗中傷しか言える口はねえのか!女も女でどいつもこいつも化粧くせえ、その上にくっせえ香水なんぞぶっかけてんじゃねえよ鼻が曲がるだろうが!あいつら全員死ねばいいんだ!」
一気に毒づいて肩を震わせる。以前は家に帰ってから毒づいていたのだが、アレスティードの年齢が上がるにつれ、ストレス具合いが上がっていきもうその場で吐き出さないことには精神が落ち着かないようになってきていた。
だから、パーティーに呼ばれるとその家の庭園の造りを前もって調べさせ、人気のない場所をチェックしてそこで毒づくようにしていたのだ。
これは、アレスティードの精神の健康のためには必要なことだった。
なのに。
「『麗しの公子』様が、随分お口のお悪いこと。私驚きましたわ」
第一声の後そう言いながら茂みの向こうから令嬢が現れた時、アレスティードの心臓はたっぷり十秒は止まった。
なぜ、貴族令嬢がこんなところに、足場もよくないし、会場から遠く離れているのに、いや、それよりも今の悪口雑言を聞かれた、でもごまかしてしまえば。
『‥‥女も女でどいつもこいつも化粧くせえ、その上にくっせえ香水なんぞぶっかけてんじゃねえよ鼻が曲がるだろうが!あいつら全員死ねばいいんだ!』
令嬢は手に持った魔法結晶板からアレスティードの声を再生させて聞かせた。顔面蒼白になったアレスティードを見て、ころころと笑い声をあげた。
「いざという時の備えが、こんな形で役に立つとは思ってもおりませんでした。カラエン公子ともあろうお方が、随分なお口の悪さですわね」
アレスティードはぐっとこぶしを握りしめた。ごまかしようがない上に証拠まで握られている。だが、落ち着き払ったこの令嬢は、何を考えているのだろう。何か目的があるのだろうか。
アレスティードは改めて令嬢を観察した。艶めく黒髪に澄んだ青い瞳。顔立ちは取り立てて美しいという訳ではないがまあまあ見られる顔だ。衣装は派手やかではないが、品のあるシックなグリーンのドレス。生地を見ればそれなりに仕立てのいいものだとわかった。そこそこ高位の貴族かとは思うが、アレスティードの記憶にこの貴族令嬢の顔はなかった。
「‥失礼だが、あなたはどちらのご令嬢か」
「あら、申し訳ございません。私はダロエ侯爵次女のサイ―シャと申します」
そう名のったサイ―シャは優雅にカーテシーを披露した。所作は美しく、確かに侯爵令嬢なのだろうとアレスティードは思った。
「‥それで、私の罵詈雑言の証拠を握ったあなたは、私をどうしたいとお考えなのだ」
思わず低く唸るような声が出る。サイ―シャはそんなアレスティードに全く脅える様子もなく、くすくすと笑った。
「そうですわね、とりあえず私と結婚してくださいませんこと?」
結婚。
‥‥結婚!?
「なぜだ!?‥私の事が好きなのか?!」
今までもしつこく付きまとわれ既成事実を作ろうとされ親子ぐるみで婚約を迫られてきた、というような経験を数多く持つアレスティードは、この女も自分の顔や身分に惹かれたのかと思いそう叫んだ。
ところがばさりと扇を広げて口元を隠したサイ―シャは、おかしそうにくすくすと笑った後言い放った。
「いえ、全然。どちらかと言えば嫌いなタイプです」
アレスティードはあっけにとられた。こんな失礼なことを、面と向かって言われたのは初めてだ。というか、自分に全く好意を持たない女性に触れたの自体が初めてだった。
そこでアレスティードの口から出てきたのは
「へ?」
という間抜けな声だった。サイ―シャはおかしくて仕方がないという風に扇の向こうでひとしきり笑ってから言葉を継いだ。
「あなたご自分が女性にモテて当たり前と思ってらっしゃるでしょう?‥世の中広いんですのよ。世の女性全員があなたに好意を無条件に抱くわけではありません。そして好意を持たない一人が私です」
完全に毒気を抜かれ却って正気になったアレスティードは更に質問を重ねた。
「ではなぜ私と結婚したいのだ?何が目的なんだ?」
サイ―シャは青い瞳をきらめかせた。
「目的はありますけど、あなたにお話しすることではありません。白い結婚で構いませんし、どなたか愛人を持ってくださっても一向に構いません。後継は必要でしょうしね。‥私が欲しいのは、カラエン公子の妻、という身分だけです」
「‥目的も定かでない女を俺の妻としてなど迎え入れられない」
余りと言えば余りの言いように、アレスティードの声は険しくなった。だが相変わらずサイ―シャは怯む様子も見せずにころころと笑う。
「そうですか、では私の手が滑っていつの日か‥‥そうですわねえ、王家主催のパーティーなどでうっかりこの魔法結晶板を起動させてしまうかもしれませんわねえ。‥私ったら粗忽者でよく父にも叱られますの。‥それではカラエン公子、ごきげんよう」
サイ―シャはそう言い捨ててくるりと踵を返し、パーティー会場へ戻るそぶりを見せた。
とんでもない。今、カラエン公爵家は政治的に微妙な立場にいる。現カラエン公である父は現国王の叔父にあたるのだが、現国王が猜疑心の強い若者でカラエン公に簒奪の意思があるのではないかと疑っている状態なのだ。だからこそ、アレスティードや、父フォンティール・カラエンが苦心して翻意無しの態度を貫き全力で恭順の意思を示している最中なのである。
このようなアレスティードの暴言が明らかになれば、最悪公爵家自体がとりつぶしになりかねない。
「待て!‥‥待ってくれ、ダロエ侯爵令嬢」
歩き始めていたサイ―シャはぴたり、と足を止めた。ゆっくりとこちらへ向き直る。アレスティードをまっすぐ見つめるその瞳は、まるで捕食者のようだった。
アレスティードはごくりとつばを飲み込んだ。公爵家、ひいては公爵家に従事する者や領民のためだ。そう自分に言い聞かせて、アレスティードは言った。
「あなたに、結婚を申し込みたい。‥あすにでもご挨拶に伺いたいがいいだろうか?」
サイ―シャはぱあっと顔を明るくして笑った。
「ええ、喜んで。後ほどお手紙をいただけますかしら?それでは失礼致します」
今度こそ、サイ―シャは去っていった。
アレスティードはへなへなとその場に座り込んだ。何という女だ!何が目的かは知らないが、これから家でも気が抜けなくなる。アレスティードは重いものが胸にたまっていくのを感じ、なかなか身体を起こすことができなかった。
自宅に帰り、サイ―シャ・ダロエと婚約したいと父に告げると父は大変喜んだ。父、フォンティールはダロエ侯爵と面識があったらしく「いいお嬢さんだよ、前にお見合いを勧めた時には写真も見ずに断ったのにどういう気の変わりようなんだ?」と訊いてきた。
断った見合い相手でもあったのか。アレスティードは申し込まれた見合い話は全て写真も見ずに断っていたので、全くサイ―シャの顔がわからなかったのだ。
それにしてもパーティーなどでも見かけたことがあまりない。そのことを父に尋ねるとフォンティールは面白そうに笑った。
「少し変わったお嬢さんになるのかな?領地経営や商業活動の方に興味がおありらしくてね。あまり舞踏会やパーティーなどには出てこないご令嬢なんだ。そういうところもアレスには合ってるんじゃないかなと思っていたんだよ」
フォンティールはそう言って美しい顔で笑った。十四歳の弟、アルフィレオも言葉を重ねた。
「とても頭のいい方らしいですよ。イレインが褒めていました、女性であそこまで上位の成績を取る方はいないって」
イレインとはアルフィレオの婚約者である。年がアルフィレオより一つ年上なので、学院に所属している。言われてはじめて、そう言えば上位成績者にダロエという名が入っていたのを思い出した。もちろんアレスティードも上位常連だが、そこまで他の者の成績に興味を持っていなかったので忘れていた。
そのような令嬢が、何を目的に俺と結婚したいのだろうか。結婚した後に何やら恐ろしい企みでもされたらどうやって公爵家を守ればいいのか。
呑気に喜んでいる父と弟が恨めしかった。
その日のうちに正式にダロエ家に伺いたい旨の手紙を届けさせ、翌日にダロエ家に向かった。
侍従のカイザは、ようやく主人が身を固める気になったのだと思い込んでとても喜んでいた。カイザ自身は二十五歳の若者で、主人が結婚するまでは自分も妻帯しない、と常々言っていたので、これでようやく自分も結婚できると思って喜んだのかもしれない。「アレス様よかったですねえ、出会いってどこにでもあるんですねえ」などと嬉し泣きし始めたので、アレスティードの苛々は頂点に達し、ダロエ家に向かう魔法導体車の中で昨日のサイ―シャとのやり取りを全てぶちまけた。
カイザはあっけに取られて最初何も言わなかったが、ダロエ家が近づくにつれ顔を引き締め「アレス様、私はいつでもアレス様の味方ですのでご安心ください」と囁いてきた。
誰もいないと思って隠れていた庭園の隅にある、樹の茂み。そこで色々と毒づいていたカラエン公爵嫡男、アレスティードはびくりと身体を震わせた。
濃い栗色のつややかな髪に金色の瞳。切れ長の目に濃い睫毛、すっと通った鼻筋に少し厚めの桜色の唇。アレスティードはどこに行ってもその容姿や身分によって騒がれ、慕われ、‥‥まとわりつかれた。
由緒あるカラエン公の嫡子であるという立場からも、どんなにうっとうしいと思っても、うるさく煩わしいと思っても、そういう群がってくる人々を無碍には扱えない立場にあった。だから、心の中で一人一人にとんでもない罵詈雑言を叩きつけながらも、アレスティードはにこやかに和やかに人々に接した。
ただ、どんなに頑張っても婚約者を決める気にならなかった。もう十七歳になる公爵嫡子に婚約者がいないこと自体が異常事態だ。それはアレスティード自身もよくわかっている。
だが、色々な思惑を持って近づいてくる子どもや大人に幼少時から辟易していたアレスティードは、父公爵にどんなに言われても未だに婚約者を選定する気になれなかった。
どうせ弟もいることだし、どうしても婚約しなければならないと言われたらもう爵位を捨ててもいいとさえ思っていた。腕に自信はあるし聖騎士団からも学院卒業後は来てもらえればうれしいという誘いさえ受けている。何ならいっそ貴族籍を捨てて平民になり、魔物狩りでもして暮らしてもいいかなどと考えたりもしていた。
アレスティードは、とにかく貴族というものが大嫌いだったのだ。
口先ばかりで美辞麗句を並べ、貴族の誇りなんぞと嘯くわりには汚いこともすれば平気で人を陥れたりもする。高位貴族として、小さいころからそういうものばかりを見てきたアレスティードが信用できる貴族は父と弟だけだった。
母は弟を生んで間もなくこの世を去っている。身内の近しいところで貴族女性と関わってこなかったアレスティードは、特に貴族の女性が嫌いだった。むやみやたらに着飾って、褒められないとすぐに機嫌を損ねる。扇の向こうではかしましく噂話を繰り広げる。
とにかく、アレスティードは貴族との付き合いが苦痛だった。
だから今日も招待されたパーティーで、自分の果たすべき義務を果たし、顔を引きつらせながら貴族のくだらない話や政治的な駆け引きをうまくいなし、自分に取り入ろうとわらわら近づいてくる貴族女性たちをうまく褒めながら何とか撒いてこの庭園の隅っこまでやってきたのだ。
そこで毒を吐いた。
「ったくなんだあいつら、どいつもこいつも馬鹿みたいな面並べやがって、おべんちゃらと誹謗中傷しか言える口はねえのか!女も女でどいつもこいつも化粧くせえ、その上にくっせえ香水なんぞぶっかけてんじゃねえよ鼻が曲がるだろうが!あいつら全員死ねばいいんだ!」
一気に毒づいて肩を震わせる。以前は家に帰ってから毒づいていたのだが、アレスティードの年齢が上がるにつれ、ストレス具合いが上がっていきもうその場で吐き出さないことには精神が落ち着かないようになってきていた。
だから、パーティーに呼ばれるとその家の庭園の造りを前もって調べさせ、人気のない場所をチェックしてそこで毒づくようにしていたのだ。
これは、アレスティードの精神の健康のためには必要なことだった。
なのに。
「『麗しの公子』様が、随分お口のお悪いこと。私驚きましたわ」
第一声の後そう言いながら茂みの向こうから令嬢が現れた時、アレスティードの心臓はたっぷり十秒は止まった。
なぜ、貴族令嬢がこんなところに、足場もよくないし、会場から遠く離れているのに、いや、それよりも今の悪口雑言を聞かれた、でもごまかしてしまえば。
『‥‥女も女でどいつもこいつも化粧くせえ、その上にくっせえ香水なんぞぶっかけてんじゃねえよ鼻が曲がるだろうが!あいつら全員死ねばいいんだ!』
令嬢は手に持った魔法結晶板からアレスティードの声を再生させて聞かせた。顔面蒼白になったアレスティードを見て、ころころと笑い声をあげた。
「いざという時の備えが、こんな形で役に立つとは思ってもおりませんでした。カラエン公子ともあろうお方が、随分なお口の悪さですわね」
アレスティードはぐっとこぶしを握りしめた。ごまかしようがない上に証拠まで握られている。だが、落ち着き払ったこの令嬢は、何を考えているのだろう。何か目的があるのだろうか。
アレスティードは改めて令嬢を観察した。艶めく黒髪に澄んだ青い瞳。顔立ちは取り立てて美しいという訳ではないがまあまあ見られる顔だ。衣装は派手やかではないが、品のあるシックなグリーンのドレス。生地を見ればそれなりに仕立てのいいものだとわかった。そこそこ高位の貴族かとは思うが、アレスティードの記憶にこの貴族令嬢の顔はなかった。
「‥失礼だが、あなたはどちらのご令嬢か」
「あら、申し訳ございません。私はダロエ侯爵次女のサイ―シャと申します」
そう名のったサイ―シャは優雅にカーテシーを披露した。所作は美しく、確かに侯爵令嬢なのだろうとアレスティードは思った。
「‥それで、私の罵詈雑言の証拠を握ったあなたは、私をどうしたいとお考えなのだ」
思わず低く唸るような声が出る。サイ―シャはそんなアレスティードに全く脅える様子もなく、くすくすと笑った。
「そうですわね、とりあえず私と結婚してくださいませんこと?」
結婚。
‥‥結婚!?
「なぜだ!?‥私の事が好きなのか?!」
今までもしつこく付きまとわれ既成事実を作ろうとされ親子ぐるみで婚約を迫られてきた、というような経験を数多く持つアレスティードは、この女も自分の顔や身分に惹かれたのかと思いそう叫んだ。
ところがばさりと扇を広げて口元を隠したサイ―シャは、おかしそうにくすくすと笑った後言い放った。
「いえ、全然。どちらかと言えば嫌いなタイプです」
アレスティードはあっけにとられた。こんな失礼なことを、面と向かって言われたのは初めてだ。というか、自分に全く好意を持たない女性に触れたの自体が初めてだった。
そこでアレスティードの口から出てきたのは
「へ?」
という間抜けな声だった。サイ―シャはおかしくて仕方がないという風に扇の向こうでひとしきり笑ってから言葉を継いだ。
「あなたご自分が女性にモテて当たり前と思ってらっしゃるでしょう?‥世の中広いんですのよ。世の女性全員があなたに好意を無条件に抱くわけではありません。そして好意を持たない一人が私です」
完全に毒気を抜かれ却って正気になったアレスティードは更に質問を重ねた。
「ではなぜ私と結婚したいのだ?何が目的なんだ?」
サイ―シャは青い瞳をきらめかせた。
「目的はありますけど、あなたにお話しすることではありません。白い結婚で構いませんし、どなたか愛人を持ってくださっても一向に構いません。後継は必要でしょうしね。‥私が欲しいのは、カラエン公子の妻、という身分だけです」
「‥目的も定かでない女を俺の妻としてなど迎え入れられない」
余りと言えば余りの言いように、アレスティードの声は険しくなった。だが相変わらずサイ―シャは怯む様子も見せずにころころと笑う。
「そうですか、では私の手が滑っていつの日か‥‥そうですわねえ、王家主催のパーティーなどでうっかりこの魔法結晶板を起動させてしまうかもしれませんわねえ。‥私ったら粗忽者でよく父にも叱られますの。‥それではカラエン公子、ごきげんよう」
サイ―シャはそう言い捨ててくるりと踵を返し、パーティー会場へ戻るそぶりを見せた。
とんでもない。今、カラエン公爵家は政治的に微妙な立場にいる。現カラエン公である父は現国王の叔父にあたるのだが、現国王が猜疑心の強い若者でカラエン公に簒奪の意思があるのではないかと疑っている状態なのだ。だからこそ、アレスティードや、父フォンティール・カラエンが苦心して翻意無しの態度を貫き全力で恭順の意思を示している最中なのである。
このようなアレスティードの暴言が明らかになれば、最悪公爵家自体がとりつぶしになりかねない。
「待て!‥‥待ってくれ、ダロエ侯爵令嬢」
歩き始めていたサイ―シャはぴたり、と足を止めた。ゆっくりとこちらへ向き直る。アレスティードをまっすぐ見つめるその瞳は、まるで捕食者のようだった。
アレスティードはごくりとつばを飲み込んだ。公爵家、ひいては公爵家に従事する者や領民のためだ。そう自分に言い聞かせて、アレスティードは言った。
「あなたに、結婚を申し込みたい。‥あすにでもご挨拶に伺いたいがいいだろうか?」
サイ―シャはぱあっと顔を明るくして笑った。
「ええ、喜んで。後ほどお手紙をいただけますかしら?それでは失礼致します」
今度こそ、サイ―シャは去っていった。
アレスティードはへなへなとその場に座り込んだ。何という女だ!何が目的かは知らないが、これから家でも気が抜けなくなる。アレスティードは重いものが胸にたまっていくのを感じ、なかなか身体を起こすことができなかった。
自宅に帰り、サイ―シャ・ダロエと婚約したいと父に告げると父は大変喜んだ。父、フォンティールはダロエ侯爵と面識があったらしく「いいお嬢さんだよ、前にお見合いを勧めた時には写真も見ずに断ったのにどういう気の変わりようなんだ?」と訊いてきた。
断った見合い相手でもあったのか。アレスティードは申し込まれた見合い話は全て写真も見ずに断っていたので、全くサイ―シャの顔がわからなかったのだ。
それにしてもパーティーなどでも見かけたことがあまりない。そのことを父に尋ねるとフォンティールは面白そうに笑った。
「少し変わったお嬢さんになるのかな?領地経営や商業活動の方に興味がおありらしくてね。あまり舞踏会やパーティーなどには出てこないご令嬢なんだ。そういうところもアレスには合ってるんじゃないかなと思っていたんだよ」
フォンティールはそう言って美しい顔で笑った。十四歳の弟、アルフィレオも言葉を重ねた。
「とても頭のいい方らしいですよ。イレインが褒めていました、女性であそこまで上位の成績を取る方はいないって」
イレインとはアルフィレオの婚約者である。年がアルフィレオより一つ年上なので、学院に所属している。言われてはじめて、そう言えば上位成績者にダロエという名が入っていたのを思い出した。もちろんアレスティードも上位常連だが、そこまで他の者の成績に興味を持っていなかったので忘れていた。
そのような令嬢が、何を目的に俺と結婚したいのだろうか。結婚した後に何やら恐ろしい企みでもされたらどうやって公爵家を守ればいいのか。
呑気に喜んでいる父と弟が恨めしかった。
その日のうちに正式にダロエ家に伺いたい旨の手紙を届けさせ、翌日にダロエ家に向かった。
侍従のカイザは、ようやく主人が身を固める気になったのだと思い込んでとても喜んでいた。カイザ自身は二十五歳の若者で、主人が結婚するまでは自分も妻帯しない、と常々言っていたので、これでようやく自分も結婚できると思って喜んだのかもしれない。「アレス様よかったですねえ、出会いってどこにでもあるんですねえ」などと嬉し泣きし始めたので、アレスティードの苛々は頂点に達し、ダロエ家に向かう魔法導体車の中で昨日のサイ―シャとのやり取りを全てぶちまけた。
カイザはあっけに取られて最初何も言わなかったが、ダロエ家が近づくにつれ顔を引き締め「アレス様、私はいつでもアレス様の味方ですのでご安心ください」と囁いてきた。
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BLのR18ですが、「就職先の公爵当主がおれにやたら執着してくるんですが」というスピンオフも書いています。アレスティードの父公爵、フォンティールと侍従カイザの恋愛騒動です。忌避感のない方、もしよかったら読んでみてください。
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